黒竹
2026-01-03 08:23:31
9363文字
Public 魔法少女ノ魔女裁判
 

マ・シェリ

【シェリハン】クリア後ネタバレあり。概ね捏造設定。

 華やかなヘッドドレスと細かな装飾を施された洋装、セットとして誂えられた花弁を模した扇。どこからどう見ても華々しいそれをゲストハウスのベッドに広げ、遠野ハンナは小さく小さくため息をつく。
 帰る日が近い人にゲストハウスを使ってもらおうよ、と言い出したのは誰だったか。
 牢屋敷に囚われていた少女たちは一定の期間をおいて一人ずつ元の家に帰されていったが、地下に収容されていた人数を合わせると、とてもではないがまともに寝起きするスペースなどなかった。医務室は看護が必要な少女たちにあてがい、結果、比較的健康なハンナたち【最後の】魔女候補たちは広間や空き部屋で雑魚寝する羽目になっていた。もちろん数人から文句は出たが、レイアが説得してくれたおかげで大きな混乱もなく事態は落ち着いている。
 とはいえ、納得していることと睡眠の質はイコールになるわけではない。硬い床で何日も寝ていてはさすがに身体へ影響もしてくる。それを見かねて誰かが言いだしたのだ、最後の日はゲストハウスでゆっくり寝てもらおう、と。ゲストハウスにはふかふかのベッドが備えられていて、牢屋敷とも離れているから心の傷を負った少女がうなされる声も聞こえない。誰も不満は口にしていなかったが、夜な夜な聞こえてくる苦しげな呻きが平気なわけでもなかった。
 あら、いいじゃないの。宝生マーゴが最初に賛同した。彼女はここを離れないことを選んでいた。そんな彼女が最初に賛成したから、誰も反対しなかった。それを狙っていたのかどうかは怪しいところだが……
 そうして、しばらくしたら遠野ハンナにその順番がやってきて、彼女は真ん中の水精ウンディーネの間で一晩過ごすことになった。
「どうしました、ハンナさん?」
 背後から聞こえた問いかけにハンナは答えない。ただぼんやりとドレスを見ていた。この牢屋敷に夜着などないが、ハンナはすでに返却された己の洋服を身に着けていた。ここに連れてこられた日に着ていたものだ。ベッド上に広げられたドレスとは比べ物にならない、みすぼらしい着古しだった。
 こちらはまだ支給されたシャツとジャケットを身にまとったままの橘シェリーが、「ふぅむ」と芝居がかった仕草で顎に手を当てる。むむんとひとつ唸り、どこからか取り出したルーペをかざして片目をつぶった。
「もしや、このお洋服にまだ解明されていない暗号が? はたまた、これからハンナさんはこのドレスに壮大なトリックを仕掛けるつもりですかね?」
「んなわけねーですわ」
 じっとりと半眼でねめつけてやるが、シェリーはどこ吹く風で下手な口笛を吹いている。もちろん、彼女の所作はすべて冗談だ。いつだって冗談みたいな言動しかしないので分かりにくいが、一応、本気かどうかの区別はつくようになっていた。
……これ、持っていけないんですわよね」
「そうですね。なんだか色々と機密事項があるようで、牢屋敷のものは何一つ持ち帰ってはいけないとゴクチョーさんも言ってましたし」
 代わりに、元々自分たちが持っていた物はすべて返してもらえる。といっても、ハンナが携えていたものなんてほとんどなくて、戻ってきたのは衣服くらいなものだったけれど。
「帰り道でお腹が空いた時のために、りんごくらいは持たせてほしいものですよね」
「いらねーですわよそんなの……
「ハンナさんはビュッフェのほうがお好きでした?」
「あんなもの二度と口にしたくねーですわ!」
 ドロドロだったりぐちゃぐちゃだったり黒かったり赤かったりした謎の物体を思い出して顔色をなくすハンナ。魔女候補にストレスを与えるための食事だったのだから、その必要がなくなった今は食生活が改善されても良いのだが、保管されていた食料がすべて同じような状態だったので結局はあのよく分からないものを食べ続ける羽目になった。閉じ込められていた少女たちの回復が遅いのはあれのせいもあるんじゃないかと疑っているハンナだ。
 口の中に味が蘇ってしまって思わずえづくハンナを眺めながら、シェリーはきょとんと首を傾げる。
「ではハンナさんは、ここからなんでもいいから持ち帰りたいわけではなく、このドレスを引き取りたいわけですね」
「最初からそういう話をしてますわよ」
 こういうところが【妖精さん】などと言われる所以ゆえんなんだろうとは思うものの、ハンナは特に不快感を覚えてはいない。
 全体的に花を模した意匠のドレスを見下ろして、ハンナは再度小さなため息をつく。
「だって、きれいじゃありませんか」
「みなさんの服、かなり凝ってますよね。レイアさんなんて舞台の王子さまのようですし。それぞれに似合っているというか。ハンナさんもよくお似合いですよ」
 私もなかなかの名探偵スタイルですが。鼻高々で自身の衣装を見せつけてくるシェリーにハンナは呆れ顔を隠さない。その呆れが今のシェリーの態度に対するものなのか、もう少し前の彼女の発言によるものなのかは定かでなかった。
……別に、持って帰らせてもらったところで、着られるわけじゃないのは分かってますの」
 どれだけきらびやかで相応しくなくても身につけるしかなかったこことは違って。
 『これしかないから、これを着ろと言われたから仕方なく』なんて言い訳をしなくてもいいこことは違うから。
 あの家で、たった一人で華やかなドレスを身にまとったところで、なんになろう。
 けれど、それでも。
 きれいなのだ、これは。
 シェリーはまたルーペを取り出してドレスを検分し始めた。何をしているんだろう。事件も事故も起きていない。調べたところで意味はないのに。
「うーん、一度ほどいて服の中に隠すにしても、布が多すぎてハンナさんの体格では難しいですね」
「なに窃盗の計画を練ってやがりますのあなた!?」
 探偵が聞いて呆れる発言だった。
「袖の部分だけなら身体に巻き付けて隠せそうですよ! これはシェリーちゃんの頭脳が冴え渡った名案!」
「意味ねーですわ!」
「ボトルに詰めて海に流してみますか! いつか漂着するかもしれません!」
「たとえうまくいっても何年かかりますの!?」
 くだらない提案ばかりするシェリーに全力で打ち返していたら、興奮のためか息が上がってきた。何度も肩で息をするうちに頭が冷えて、すべてが馬鹿馬鹿しくなってくる。シェリーの名案ならぬ迷案も、己の卑俗な願望も。
「もういいですわ。こんなの、家にあっても邪魔なだけですし」
「まあでも、もったいない気持ちはわかりますよ。ハンナさん、よくお似合いでしたし」
……さっきも聞きましたわ」
 わけも分からず連れ去られて、こんな牢屋敷に閉じ込められたのに、このドレスを見た時だけは心が弾んだ。洗濯のし過ぎで擦り切れた質素な洋服ではなく、たっぷりとした布地の、刺繍が贅沢に施されたドレス。一生でこんなものを着られる日が来るなんて思っていなかった。
 だからそういう、それだけの未練でしかないのだ、きっと。
 似合ってたから。
 相応しくないのに、【私】に似合ってたから、それは。
 そう、隣の彼女も言ってくれたから。
 シェリーはゲストハウスのひとつしかないベッドにぼふんと飛び乗って、腰を弾ませながらにっこりと笑った。
「まあまあ、ここから持ち帰ることはできませんが、それしか方法がないわけではありませんよ」
「え?」
「この名探偵シェリーちゃんにおまかせを」
 親指を立ててウィンクしてくるシェリー。何度も見た仕草ではあるが、あまりそのポーズをした時に活躍していた記憶がない。むしろよくエマやヒロに言い負かされていたような。
 信用ならない目つきで見つめているハンナの表情には頓着しないまま、シェリーは立てていた親指で自分の顔を指し示し、自信満々に言ってのけた。
「私が必ず、ハンナさんにドレスをお届けします。もちろんここのじゃないですよ。私もどうせそのうち元の家に戻りますから。いっちょそれよりもっとハンナさんに似合う一着を調達してきます!」
……え?」
「どんなのがいいですか? 色は? 赤でも青でも緑でもなんでもござれですよ! いっそ黒っていうのもシックでいいかもですね」
「な、なに言ってますの? 別に、あなたにそんなことしてもらう義理は……
 ない。ないのだ。
 みんなずっと友達でいようね、などと青臭い約束をしたのは確かだが、だからってそんなことまでするほどのことじゃない。また会おうという再会の言葉であって、未練を、どうにかしてもらおうだなんて。
 思ってない。思ってなんか、いない。
「だってハンナさん」
 シェリーは相変わらずの何を考えているか読み取れない、【妖精さん】の顔で笑っている。
「ドレスがないとさみしいんでしょう?」
 それなら、私はあなたにドレスを贈ります。
 雨が降ったら傘を差します、そんなのと同じくらいに当たり前に、橘シェリーは遠野ハンナに宣言した。
 シェリーが腰を下ろしたベッドにはまだ、きらびやかなドレスが広がっている。シェリーの糊の効いたシャツは彼女の視線のように真っ直ぐだった。
 ハンナは自身の着ている上着を無意識に握っていた。くたくたの、洗濯をしすぎてよれた服の生地。それはいかにも頼りない。
 橘シェリーは痛みを忘れた。だからハンナの感傷もきっと共感はしていない。ハンナが感じている傷を、シェリーは想像するしかない。
 想像するしかないから、たぶん頑張って想像して、どうしたらいいか考えてくれて、こうしたらいいのかな、と、おずおずと手を差し出した。
 それはまったく見当違いだったけれど、ハンナはその手を跳ね除ける高潔さを持っていなかった。お嬢様じゃなかったから。
 【施し】を、お互いに正しくないと感じているのに差し出すしかなかったし受け取るしかなかった。
 それでも橘シェリーのそれはまだマシだったのかもしれない。彼女の【分からない】は蓮見レイアの【分からない】とは違っていたから。彼女は分からないことを分かっているから、遠野ハンナは彼女の手を取ることができた。
「思い出してください。私があなたをさみしくしたことありました?」
 それは経験していない記憶。佐伯ミリアの魔法が暴走したせいで共有された、なかったことになった二人の思い出だ。
 さみしくないように逃げて、さみしくないように殺して、さみしくないように死んで、さみしくないようにそばに行った。
 今だって。今だってそうだった。先にひとりで帰ってしまうことを──他の子を置き去りにしてしまうことを心苦しく思っていたハンナのために、シェリーはついてきてくれた。「ハンナさんだけずるいです! 私もふかふかのベッドで寝たーい!」なんておどけながら無理やりついてきて、それでハンナも「しょうがねーですわね」なんて憎まれ口を叩くことができた。今まで他の誰が帰る時も、彼女はそんな我儘を言わなかったのに。
 シェリーが手を伸ばしてドレスを抱え上げる。大事そうなその手つきの理由を、ハンナは考えないことにする。
「これもとっても素敵ですけど。きっともっと素敵なのがありますよ。世界は広いですからね」
 塀に囲まれたこの島よりずっと世界は広くて、どれだけ広くても、もしかしたら彼女なら見つけてくれるのかもしれない。
……白が嫌いなの」
「なるほど、では白以外の色がいいですか?」
 シェリーの言葉にハンナが首を振る。
 白は嫌いだった。一番嫌な思い出の中の色だったから。一番嫌な、【ひとりの思い出】が脳裏をよぎる。
 二階堂ヒロの魔法は彼女がここに来た日の朝までしか戻っていない。それより前の出来事は【なかったこと】になっていない。
 真っ白な地面と、抱きしめた冷たい身体と、同じくらい冷えていた自分の身体と、たったひとりの──さみしさ。
「白がいい。白がいいの」
 泣きじゃくりたい気持ちを抑え、それだけ告げる。
 願いでもなく、命令でもなく、それは、子供じみたおねだりだった。
 彼女が新しい真っ白をくれたら、さみしくなくなる気がした。
 自分の罪を忘れたいわけではない。なかったことになんてならないし、帰ったところで妹はいない。ただそれを抱えて生きるには遠野ハンナは弱すぎて、誰かに支えて貰わないと、地に足もつけられない。
 浮足立って、不安で、どうしようもない。
 シェリーは微笑んで小さく頷く。
「はい」
 丁寧に畳んだドレスをチェストにそっと置いて、その仕草はまるで、これはここに置いていきましょうねとハンナに伝えているようだった。
「約束します。必ずあなたに真っ白なドレスを贈ります。もうご存知だと思いますが、私はあなたとの約束を破ったことも、お願いを聞かなかったこともないんです」
……完全犯罪」
「おっとそうでした。てへ☆」
 舌を出して頭を小突く真似をするシェリーに、ハンナは気の抜けた笑みで「しょうがねーですわね」とこぼす。
「まあ、あれは相手が悪すぎましたわ」
 シェリーの隣に腰かけて彼女の肩にもたれかかった。
「あの件だけは見逃してあげますわ。それにあなた……わたくしと二人だけの約束は、全部叶えてますもの」
 魔女になりたくないという願いを二度も叶えてくれた彼女。魔女の殺人衝動よりももっとたちが悪い、自己中心的で傲慢な欲求を、怒りもせずに受け止めてくれた。
 殺してくれて、死んでくれた。記憶を共有した今、あんなことがあったなら恨まれてもおかしくないのに、彼女は何も変わらず笑っている。
 どうしてだろう。
 ──どうしてなのかしら。
「名探偵たる者、依頼人の頼みを叶えるのが最重要事項ですから」
 その言葉は、答えなんだろうか。
「なら、名探偵さんに新しい依頼ですわ」
「なんでしょう?」
 頼りがいのある細い肩に頭を乗せたまま、ふぅとかすかに吐息をつく。
「わたくしが帰るまでずっとそばにいて」
「承りました」
 ベッドは大きくて、少女がふたり並んで眠るくらいはわけもない。
 ジャケットを脱いでシャツだけになったシェリーの隣に横たわり、彼女の頭を抱えるように引き寄せる。
 ハンナの胸元でシェリーはきょとんと目を丸くした。
「あれ? 私が抱っこされるほうなんですか?」
「なんか文句ありますの」
「体格差的に私がハンナさんを抱っこしたほうが自然ではないでしょうか」
「いいから大人しくしやがれですわ」
 くしゃくしゃとシェリーの髪をかき混ぜて黙らせ、ランプの明かりを落とす。
 ほんの小さな赤ん坊で死んでしまった妹とは似ても似つかない感触だった。
 お姉ちゃんなんだから。魔法のようにその言葉を口の中で繰り返す。
 【私】はお姉ちゃんなんだから、泣いたりなんかしないの。
 せっかくシェリーがさみしくないようにそばにいてくれるのに、ここで泣いてしまったら台無しだと思った。だから彼女をあえて小さな子ども扱いして、気丈に振る舞うことで涙を抑え込んだ。
 ゲストハウスのベッドは信じられないくらいふかふかで、抱きくるんだシェリーの身体は温かった。
 雪が積もる硬い地面と、冷たくなってしまった身体とは正反対だった。幸せで幸せで、天にも昇るようだった。
 そんな魔法みたいな夜だった。



 薄っぺらい布団は冬には床の冷たさを半分くらいしか遮ってくれず、ぶるりと震える身体をなんとか温めようと背を丸めて布団を首まで引き上げる。これではあの牢屋敷の地下室と大差ない……というのはさすがに言い過ぎだが。なによりあの時とは同じ部屋でともに過ごす相手が違う。
 腕枕なんていう不自然極まりない体勢でもぐっすり寝ている彼女の顔を眺め、起きない程度に頬をつまむ。
……ドレス、いつになったらくれるんですの」
 自信満々に依頼を受けた名探偵は、空っぽの両手を悪びれもせず晒してハンナに会いに来て、そのままその空っぽの両手でハンナを抱えて連れ去ってしまった。本当に何を考えているか分からない。神童だって二十歳すぎればただの人になれるというのに、妖精さんは何年経っても人になる気配がない。それに付き合ってしまった己も大概ではある自覚も持っているけれど。
 糊の効いたシャツではなく、ふわふわしたパジャマに包まれた腕に頭を乗せたまま、ハンナは深々とため息をつく。
 二人の城には狭すぎる部屋と薄い布団と脱ぎ散らかしたバイト先の制服と部屋の隅にまとめられた仕事道具。すっかり見慣れたそれらに囲まれた生活が嫌なわけではないが、なんだかあのゲストハウスで思い描いていた光景とギャップがありすぎる。
 白は塗り替えられないままだ。あの雪の日の景色のまま。
「わたくしとの約束は必ず叶えるとかでけー口叩いてやがったのは、どこのどちら様だったかしら」
 ふざけていると取られかねない適当なお嬢様言葉は、すでに日常では使わなくなっていた。彼女といる時だけ、ふたりの時だけあの頃を懐かしむように口調が戻る。
 むにむにとシェリーの唇をひねりながら自身の唇を尖らせる。
……ずっと待ってるんですのよ」
 ずっとそばにいてくれるのに、それだけがさみしい。
「もう少々お待ち下さい。こちらも色々と準備がありまして」
 いつの間にかシェリーが薄目を開けてこちらを見ていた。シェリーの唇をタコのようにして遊んでいた手を離し、気まずさからやや目をそらす。
「起きてるなら起きてるって言いやがれですわ」
「あれだけイタズラされたら誰でも起きますって」
 指先でハンナの頬に落ちた髪を払いながらわざとらしいあくびをするシェリー。ハンナの首に敷き込まれている左腕は動く気配がない。痺れているのだろう。一晩下敷きになっていたのだから無理もない。
 シェリーが布団の中で伸びをしたり軽く首を捻ったりして身体をほぐす。狭いから致し方ないとはいえ、毎日こんなにくっついて寝ていたら身体中が凝りもするだろう。一応、女性にしても小柄な部類に入るので、もうちょっとくらい離れても布団の範囲には収まると思うのだけれど、彼女は「寒いんですよぅ」と口を尖らせ聞く耳を持たない。
 ハンナを解放し、自由になった腕を支えにしてうつ伏せになったシェリーは、まだ寝ぼけているらしい眼差しをどこへともなく向けている。
「どうもですね、私はまた魔法が使えるようになったかもしれなくて」
「え……ええ!?」
 突然の告白に思わずがばりと起き上がる。「う、嘘でしょ!? だって大魔女の魔女因子は全部消えたはずじゃ……!」慌てふためいてシェリーに詰め寄ると、彼女は目を白黒させながら両手でハンナを抑えてきた。
「落ち着いて話を聞いて下さい。この魔法に大魔女は関係ありません」
……どういうことですの?」
「こういうことですねー」
 シェリーが後ろ手に何かを探り、自身の私物が積まれているあたりから何かを見つけ出して引っ張り出した。ハンナはまだ何がなんだか分からない。分からないのはいつものことだが、これはいつにも増して意味不明だった。
 彼女が引っ張り出したのは小さな箱だった。手の中に収まる程度で、ビロード張りであり、上部が蓋になっていて引き上げて開けるタイプらしい。
…………えぇ……
 いや、まさか。
 嫌な予感しかしなくて思わず居住まいを正す。
 シェリーは寝起きのボサボサ頭のまま、よれたパジャマを直しもせずに起き上がり、布団の上で正座しているハンナに小箱を差し出した。
「魔法には儀式が必要なようでして。こちらがその媒体になります」
 パカリと、シェリーが両手で箱を開ける。
 中から現れたのは、小さいけれどキラキラする石がついた指輪だった。
……シェリーさん」
「はい」
「どんな魔法か、聞いてもいいかしら」
「もちろんです」
 相変わらず自信満々に、シェリーはにっこり笑って言ってのけた。
「私の魔法は、【ハンナさんを二度とさみしくしない】です」
…………
 キラキラする石の向こうで、寝起きで顔も洗っていないシェリーが笑っている。
「実はこれを用意するために、貯めておいたバイト代が吹っ飛びまして。なので、ドレスの方はもう少々お待ちいただけると」
…………
「──ハンナさん?」
 そうなのだ。【妖精さん】はいつまで経っても人になんかなりはしないのだ。分かっていた。分かっていたはずなのに。
 そしてこちらも、お嬢様になんてなれやしないのだ。広い部屋で天蓋ベッドに横たわり、高級フルーツを優雅に食べるような生活なんて望むべくもない。
 分かっていた。分かっていたとも。
 だからって。
「──告白より先にプロポーズしてんじゃねえですわー!!」
 ちゃぶ台があったら力のかぎりひっくり返していただろう勢いで怒鳴りつける。「そうでしたか、すみません。ハンナさん好きです」「おっせえ上に軽いですわー!!」ロマンもデリカシーもないシェリーの首根っこを捕まえて激しく揺さぶるが、心身ともに彼女はまったくダメージを受けていなかった。
 ハンナの剣幕に、シェリーは軽く眉根を寄せて「困ったな」という顔をした。
「えーじゃあ、これいらないです? 返品できるかなあ……
「い、ら、な、い、とはっ、言ってませんわっ!」
 慌てて彼女の手首ごと引っ掴む。だってそれはキラキラしていて、きっと自分の手にぴったりで、あの日着ていたドレスより似合う。
 なにより、儀式とか媒体とか、そういうことじゃなくて。
「っ、シェリーさんがわたくしのために選んでくれたのに、いらないわけないじゃありませんの……っ」
 本当のお嬢様にはなれない遠野ハンナだけれど、彼女の【本物】にならきっとなれる。
 本物、の。
 ぎゅっと握っていた手首を離して、自身の手を差し出した。
……ん」
 なんて言ったらいいか分からなくて、いつもの妙なお嬢様言葉も出てこない。
 それでもシェリーは朗らかな表情のまま、しずしずとハンナの手を取ってくれた。
「ああ、やっぱりお似合いですね」
 小箱を脇に置き、シェリーが指輪を嵌めてくれる。
……ありがとう」
「どういたしまして」
「ドレスは無期限で待ってさしあげます。ありがたく思いなさい」
「いやー、助かります」
「ばか」
 堪らなくなってシェリーに飛びついた。浮遊の魔法を使えないハンナは無様に落ちて、怪力の魔法を使えないシェリーは勢いづいた身体を支えきれずに後ろに倒れ込んだ。
 ハンナを捕まえたままのシェリーがくすくす笑う。
「幸せになりましょうね、私たち」
「望むところですわ」
 布団を二人分敷けないくらい狭い部屋で、パジャマ姿で、髪に櫛も通していなくて、お金持ちでもなくて、選ばれてなんかいなくて、物語で見たような【特別】はなにもなかったけれど。
 たぶん幸せになるためのなにもかもがここにあった。
 怖いものは何もなかった。
 なにせ橘シェリーは、遠野ハンナとの二人だけの約束を破ったことがなかったので。