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きなこ湯
2026-01-03 01:31:19
4772文字
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折れた歩幅
カネブラ、ヒロインの体調不良を理由に倫理道徳の箍が外れるトキシンの話。
捏造ヒロインLost End前日談みたいな内容です。時系列は3rd後。トキシンの善性が負けています。ヨル視点。
何でも許せる人向けです。
いっそ、誰にも見つからない場所に閉じ込めておけたらいいのに。重い息を吐いて項垂れた実弟の後頭部を見下ろして、ヨルはため息を呑み込んだ。弱音を吐きたいのはこちらの方だが、それで目の前にいるトキシンと同じ土俵に立つのであれば、舌を噛みきって自分の血でも飲んだ方がマシだと本気で思った。他の兄弟がどうしているかまでは知らないが、少なくともヨルはしばらく輸血パックの苦くて鉄臭い血液しか口にしていない。なけなしの矜持であり、決して優しさなどではなかった。
ヨルたちが死に物狂いで守り通した人間は、全員にとって代えのきかない唯一無二だった。渦中の人に向けるそれぞれの感情には多少の色の違いがあっただろうけれど、全員が我先に“自分を選べ”と手を挙げたのは、少なくない執着が理由にあっただろう。はじめての聴衆。自分たちの音楽にEROSIONという名前を付けた人間。逃避と反抗で始めたロックに、新しい価値を与えた人間。
ヨルは彼女に恋をしていた。暢気に笑う顔が好きだった。愚鈍ではないがどこか警戒心に欠けるところが、かつての幼い自分が失った無垢さの表れであるように見えた。そう在ることを前向きに受け入れたわけではないが、ヴァンパイアを殺すための道具に成り下がったことは動かしようのない事実だ。けれど彼女が曇りなく自分に笑いかけてくれるたび、ヨルは自分の中にある善性を少しだけ信じることができた。彼女とともに過ごす時間は心が安らいだ。
彼女の笑顔が好きだった。どうしようもなく恋をしていた。好きだったから、手放したのだ。
彼女が選んだのは、ヨルではなくトキシンだった。
彼女がトキシンを選んだ時、他の兄弟たちの間では少なくない動揺があった。それは長らく彼女がトキシンに対し明確に“嫌い”と否定的な姿勢を貫いていたこと、また傍目にもトキシンが異様な趣味を持つ男だったからだ。トキシンの中でどんな経緯があったか知らないが、いつの間にかトキシンは彼女に片思いを募らせ「俺の運命」と迫るようになっていた。好意を向けられて嬉しい
――
なんて思う余地もないだろうほど、一方的に熱を上げていた。部外者からして異様だったのだから、本人からすれば恐怖ですらあっただろう。
ゆえに、ほとんど全員がトキシンはないだろうと思っていた。トキシンが選ばれて驚かなかったのは、それこそ思い込みの激しい本人とヨルくらいだろう。
ヨルが驚かなかったのは、トキシンを見上げて楽しそうに目を細める彼女の笑顔を知っていたからだ。たしかにトキシンの片思いは彼女にとって恐怖の対象だっただろう。しかし、トキシンは執着心と下心を隠さなかった。「お前の綺麗な手を噛みたい」と縋り、「お前の血が飲みたい」と躊躇いなく強請ってみせた。問題は、彼女がずいぶん順応性の高い人間だったことだ。トキシンの異様な部分が隠されなかったからこそ、彼女はトキシンの御し方を覚えた。恐怖に慣れ、諦めを覚え
――
妥協と愛着になった。
「どうしてトキシンなんだ」と、一度ヨルが訊ねた時、彼女は気恥ずかしそうに笑って答えた。
――
トキシンの自分勝手なところすら可愛く見えたから、きっと惚れた弱みなのだろうと。
きっと、あの時「それは勘違いだ」と強く言い含めておけばよかった。
それでもヨルが食い下がらなかったのは、やはり捨てられない彼女への恋心があったからだった。自分を選ばなかった見る目のない可愛い女に、少しくらいは痛い目を見ればいいと、そんな嫉妬と劣情があったからだ。
それがやがてこんな未来に繋がると知っていたなら、ヨルはその場に居る全員を殴ってでも止めていただろう。
彼女の足を折ったんだと、トキシンは淡々とした声で言った。
丸一日部屋から出てこない彼女を案じて、ヨルはまた体調を崩したのかと思っていた。食べやすいものでも作ってやろうと部屋の外から声をかけて、ようやく違和感の正体に気付く。彼女の部屋から、彼女の居る気配がしない。ヨルの鋭い嗅覚が指し示したのはトキシンの部屋だった。
乱暴にドアを叩いて出てきたのはトキシンだった。扉の隙間から彼女の様子は見えない
――
ものの、血の匂いはあまりしない。ただ、トキシンの据わった目にぞっとした。とうとうやらかした、と嫌な予感が現実に起きたことを確信した。
前々から、トキシンには不安定なところがあった。思い込みが激しく、自己本位で、執着心が強い。理想家で、自分の思い通りにならないことがあると落ち着くまで物にやつ当たりをしてとことん暴れ回る悪癖がある。それでも一定の倫理道徳は持ち合わせており、トキシンの中でも“暴力”は悪に振り分けられている。そうする必要のない、感情に因る暴力や脅しは本人の感性を根拠にして好まない。一方で、トキシンの中で“そうするべきだ”と判断が下されたものに対して、トキシンは一切悪びれない。本気で悪いことではないと思っているからだ。
「だって
……
あいつのことが好きだから。彼女のいない世界なんて、何の意味もないのに」
――
あの女はアンタのものでもなんでもねぇだろ。喉元まで正論がせり上がり、しかし言葉の形をなさない。彼女は彼女のものだ。そう正論で言って聞くほど、目の前にいる男は素直な形をしていない。
惚れた弱みだ、と彼女は困ったように笑った。トキシンの不器用なところも、自分勝手なわがままも、どうしてか可愛く見えるのだと。ある程度トキシンの御し方を覚え、ある時まではその手綱を握っていた。トキシンに自分を貶めようとする悪意がないことを知り、執着心を見逃した。あるいは、それすら酷いことにはならないと思っていたのかもしれない。ちょっとくらい拗らせたトキシンだって、きっと話せばわかるだろうと。
どうしてこんなことをしたんだと訊ねたヨルに、トキシンは静かな声で応えた。
「だって、好きなんだ。ずっと一緒にいたい。でも
……
俺の言うこと、ぜんぜん聞かないから」
ヨルやトキシンがヴァンパイアを殺すために造られたキメラであるように、彼女もまた人工物ホムンクルスだった。ホムンクルスの耐用年数はそう長くない。言わんや、不死の魔族をベースとして生み出されたキメラとは比べ物にならない。
島から帰ってきた後、彼女の身体に現れる不調は少しずつ頻度を増した。その理由をよく理解していたのは、生前のファーターと最も親しかったトキシンだった。
彼女が体調を崩すたび、トキシンは明らかに不安定になった。片時も傍にいたいと訴え、ヨルに頭を下げてまで料理を練習し始めたうちは、まだ微笑ましかった。ヨルからすれば不味い粥を食わされる彼女が哀れだったが、もともと味覚異常があったおかげか、普通に看病を受け入れていた。ヨルからすれば癪でしかないが、当人が幸せそうにしているなら口を挟む余地はない。
しかし、彼女の不調は静養で治る類いのものではなかった。兄弟全員が打てる策を考えた。自分が選ばれなかったとて、彼女を大事に思う心は共通していた。五人の司令塔であるネィトを筆頭に、全員ができることはないかと知恵を絞っていた。
「人魚の肉を食べると、人間は不老不死になるんだって」
どうやら日本にはそんな伝説があるらしいよと、ある日トキシンは冗談とも本気ともつかない声で言った。もともと幻想に惹かれる質があり、ほとんどは冗談だろうと受け流した。
「でも、俺たちみたいなのがいるんだから、人魚だっていてもおかしくないよね」
そう続けて呟いた時点で、きっとトキシンの箍は外れていた。
結局、最初にトキシンが選んだのは人魚にはならなかった。
「だって、簡単には見つかりそうになかったから」
トキシンの右腕には包帯が巻かれていた。
「でも、やっぱり俺じゃダメみたいだ。俺だって、簡単には死なない自信あったんだけどな」
ヨルが問い詰めるまでもなく、トキシンは事の経緯をあっけらかんと打ち明けた。ヴァンパイアの血を仕入れる人間に訊ねたのだと。ヨルたちキメラのヴァンパイア狩りはあくまでファーターの私欲による命令だったが、ヴァンパイアハンターは人間のコミュニティとしても存在する。キメラが生命維持として必要とするヴァンパイアの輸血パックは、そういう手合いから仕入れていた。だから人魚の肉を食べさせたい人がいるのだと素直に相談し、そんな希少なものが出回っている話は聞かないと答えられたらしい。失意に肩を落としたトキシンを憐れんだのか、不死の化け物であれば自分たちもそうなのでは、と付け加えられたアドバイスが、トキシンの背中を押してしまった。
「やっぱり本物の人魚を探すべきなのかな。量の問題かもしれないから、しばらくは俺で続けてみるけど、そろそろ他の方法も考えないと。そういえば
……
ファーターは、彼女を作るのに魔族を使わなかったんだって。アーデルハイトは人間だから。だから、もしかしたら
……
材料は同じ方がいいのかもしれない」
愛する人と共に生きたい。そのためならどんなことでもできる。願いそのものは純粋な形をしているが、手段を選ばなくなったトキシンの姿は、アーデルハイトを求めたあの男の姿とよく似ていた。
「アンタ
……
馬鹿だろ」
絶句の後、どうにか声を絞り出してそう言うと、トキシンはただ困ったように笑った。
「そうかな。でも、ヨルだって気持ちはわかってくれるだろ?」
どうやら彼女は、トキシンの暴走に気が付いたらしい。
きっとトキシンの行いは間違っていると正論を言ったのだろう。自分たちを前にあまり物怖じしない、強気な人間だった。だからこそトキシンに躊躇いなく拒絶をつきつけることができたし、異常性に慣れてしまった。トキシンの執着心を見誤った。話せばわかると思い、かつてと同じように拒絶して
――
トキシンの中で「仕方がない」のラインを踏み越えた。
「いっそ、誰にも見つからない場所に閉じ込めておけたらいいのに。そうすれば彼女は逃げられないし、諦めてくれるかも。足
……
腫れてすごく痛そうなんだ。きっと、あの怪我が治る頃にはあいつも思い直してくれるだろうと思うけど
……
」
トキシンは重い息を吐いて項垂れた。どうやら、抵抗の際に相当罵られたらしい。逃がすまいと足を折ったはいいものの、彼女の言葉に傷付く心は持ち合わせていたようだ。
「
――
俺だって、こんなことしたくない。でも
……
でも」
でも、正しさを選んで彼女を失う方が耐えがたい。
悲鳴のような嗚咽をどこか遠くに聞きながら、ヨルは黙って項垂れる弟を見下ろした。あらゆる文句や罵倒が喉元に迫り、握る拳に力が入って震える。トキシンの行いはどうしようもなく間違っていると叫ぶ怒りと、それでも心の冷たいところに刺さって抜けない棘があった。
――
「ヨルだって気持ちはわかってくれるだろ?」
どうあれ血の繋がった兄弟だった。
この行いが間違っているという自覚と、こんなこと彼女は望まないだろうと思う愛で蓋をした奥底に、どんな手を使ってでも彼女を留めておきたい恋心と残酷で暴力的な性分が居座っている。トキシンが何に苦しんでいるか痛いほどわかるからこそ、ヨルはその顔を殴り飛ばすことができなかった。
どうしようもなく恋をしていた。好きだったから手放した。嫉妬を理由に、トキシンの異常性を忠告しなかった。それに
――
彼女が他の男の隣で歩幅を合わせるくらいなら、いっそ。そんな浅ましく暴力的な想像を、一度たりとも抱かなかったとは言えない。
涙に濡れて揺れる弟の目が、縋るようにヨルを見上げる。自分と同じ青い瞳は、迷子の子どものような色をしていた。
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