やまだ
2026-01-01 23:17:38
1499文字
Public 羅小黑戦記
 

No title

春の師弟 映画無印時代

「師父! これは?」
「石楠花」
「これは?」
「躑躅」
「これは?」
「それも躑躅だ。色が違うだけ」
「ふうん。じゃあ、これ?」
「芍薬」
「これと、こっちは?」
「虎の尾と銀露梅。……よく見つけたな」
「師父すごい! なんでも知ってるね!」
「たまたまだ。以前、龍遊で話をした妖精がいただろう? 彼女に教わったことがある」
「あー。なるほどね」
 鞠のように跳ね歩く子どもから舌ったらずに呼びかけられる師父、の二語は、春を迎えた山野に雪解け水が染み入るようなやわらかさで无限へ届く。妖精といえど生まれたて、話を聞けばいまだ齢十にも満たないような小黑だ。
 ひとならざる力を持とうが、魂は無垢でいとけなかった。飢えた腹を満たすがごとくに、次々と未知に食らいついては味見をしたがるので、小黑につられて无限の世界も彩りを変えるようなのだった。独りであればただ通過するためだけのものだった山道が、小黑とともに歩けば素朴な花園にすらなる。
 甘やかな香りを放つ花々で、いつのまにか小黑のふくふくした両手はいっぱいだ。
「小黑」
「なに?」
「花を。少し持とう」
 満面の笑みの童子が花を抱える姿は微笑ましく佳いものだが、まだ手足の短い小黑が花に夢中になるあまり石や木の根に躓きそうになるのがどうにも危なっかしい。
 せめて片手ぶんを受け取るつもりで手を差しのべたところ、しかし小黑はなぜだかにやりとした。
「いいよ持たなくて。でもさ、ねねねね、師父。ちょっとしゃがんで」
……どうした?」
 早く早くと急かされながら膝を抱えると、小黑にごく近い目線になる。紅潮するあまり林檎のようにつやつやする頬の上で、小黑の瞳は期待に満ちて眩しいほど輝いていた。
「へへ。師父のこと、かっこよくしてあげる!」
 龍遊で出会った妖精から花を一輪もらったのだ。
 そのとき小黑は无限の肩で猫の姿をとっていたから、咥えた花をそのまますぐ横にあった无限の耳元へすっと差しこんだ。あれを思い出したに違いない。
「じっとしててね」
 あのころはまだ、こんな未来があるとは思いもしていなかった。
 これから先も无限ひとりで歩きつづけるはずだった道に小さな足跡が増え、隣に並んでいる。ひたむきに向けられる信頼は无限の世界を明瞭にした。
 溜め息すら、今は笑みを含む。
「では、頼む」
「うん!」
 まるい指がせっせの无限の髪に触れるたび、花の香りが強くなる。少しずつ重く、そして絡まっていく毛束の感触に微笑んで、僅かに目を伏せた。
 あまりに得難いものを前に、瞼を濡らしてしまいそうだったのだ。
 こんな日々が掌中にあることをまだ信じきれない。いっそおそろしくさえあった。一般的な人間が脳裏に描く平穏と遠く離れるようになってかなりの時が経つ。
「師父?」
 甘えきった声に救われているのは无限のほうだ。
「師父、痛い? ぼく変に引っ張っちゃった?」
「そんなことはないよ」
 でも、とまごつく様子の子どもを抱き寄せる。すぐにくたりと体重を預けてくれる小黑の、雪のような髪に春の花のひとひらが落ちた。
「山を越えたら町がある。そこで少し休憩しよう」
「町があるの? 早く言ってよ! 師父の髪ほどかなきゃ」
「どうして? 必要ない」
 花の香りを久しぶりに知覚した。ぬるんだ空気や若い緑に意識を留めたのが何年ぶりかを思い出せるはずもない。今、が、新鮮な更新を続ける感覚がかけがえなかった。
 こみ上げるあたたかさに従うまま、無邪気な子どもへ微笑みかける。
「格好よくしてくれたんだろう、小黑?」
 春は无限の胸の内にも咲いている。