織音
2026-01-01 15:53:59
2445文字
Public
 

Salut.

「救って、」
循環液の流出が止まらないリーの心臓を押さえる指揮官。破損、流血表現あり。

 穴が、空いていた。そう形容するのが正しいと思えるくらい、堅牢そうな胸部装甲は砕けて欠け落ちていた。
 まるで崩れ落ちた硝子細工のよう。銃声が響いて、異合生物が絶命すると同時に視界の中で崩れた装甲の破片がやけに光を反射しているような気がして、目に刺さって痛くて、鮮やかで。あまりにも現実感がなかった。
「リー……?」
 構造体の体から絶え間なく循環液が流れ出していた。流れ出て、止まらなくて、湖になる。
 崩れ落ちるようにリーの体が倒れて、湖の中で横たわった。何が起こっているのかわからなくて、世界から音が消える。目の前の現実を受け止められないまま自分の浅い呼吸の音だけが鮮明だった。
――し、きか……ん」
 浅くなった呼吸の隙間、聞き慣れた低音がノイズ混じりに聞こえて我に帰る。何一つ理解できないまま現実から遠く隔絶されたようなが消え去って、ようやく目の前の構造体の傍に駆け寄る。発声モジュールが破損しているのか、いや、そんなことはどうでもいい。まだリーが生きている。
「リーフと支援部隊がすぐ来るから。リー、助けるから、まだ――
 助ける、どうやって?
 一目で分かってしまった。人間であれば即死、或いは致命傷だっただろう――いや、構造体であっても致命傷だろう。胸部装甲と心臓を模したモジュールを損傷して、それでもまだ死なないでいるのは『構造体』という体のおかげか。
……か、は……ッ」
 微かな呼吸さえも塗り潰してしまうかのように、喉奥から青が溢れ出た。構造体に呼吸は必要ないと知っているけれど、今は呼吸さえも彼がまだ生きているという証明の一つだ。
…………っ」
 支援部隊の要請を出したのが数分前。構造体の内部構造には詳しくない。人間は全体の血液量の三十パーセントを失えば危険だったはずだが、構造体も同じだろうか。流れ出た循環液の湖、鏡面のように投げ出されたままの彼の手を映している。
 既に循環液の流出量は三十パーセントを超えているだろう。機械の心臓はかろうじて拍動しているものの、正常な心拍からはどう見ても程遠い上に、青色を正しく体に循環させることもできないくらい大きく壊れて、最早意味を成していない。
 僕には治せない。僕には癒せない。僕に……できることは一つもない。しかしせめて、支援部隊が到着するまではどうにかこの鼓動という燈火を絶やさないようにしなければ、確実にリーは助からない。
 あと到着まで何分だ。まずは止血、でも構造体に圧迫止血なんて効くのか?胸部以外からはほとんど循環液が流出していないとはいえ、そもそも胸部からの流出が多すぎる。携帯している構造体用の処置キットではもうどうにもならないだろう。
 それならば、と噛み締めた奥歯が僅かな音を立てた。
「リー、少し触るよ。痛かったら痛覚遮断するから」
 はい、という返事が聞こえるよりも先に震える手でリーの『心臓』を包んで心拍と、心拍とも違う彼の体の震えが手のひらに伝わる。大丈夫、絶対に壊さない。傷付けることもしないから。ただ留めたいだけだ。流れ出る循環液を、なんとか彼の中に留めたいだけ。
 ――初めて直に触れた構造体のそれは、機体の温度と同じ熱を帯びていた。
 同時に触れた循環液も今まで何千回と触れた人間の血液の温度とよく似ていて、まるで本物の心臓を掴んでいるかのような錯覚に陥る。生温い温度だけが妙に鮮明で、肺は充分に酸素で満たされているはずなのに、何かを恐れて酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返していた。
「リー、聞こえてたら返事して。もうすぐ支援部隊もリーフも来るから、あと少し耐えて」
「ッ、は、い……
 まだ意識はある。意識リンクも保っていられている。しかし既に彼の瞳は虚ろで、意識リンクも安定性に欠け始めている。ノイズのように瞬間的な切断と再接続を繰り返して、意識海の状態も最悪に近い。
 ――持ってあと数分。最悪の場合はきっと、と考えたくもない現実が頭の中で確かな輪郭を持って焼き付く。なんとかそれを振り払うよう、僅かに指先に力を込める。
「座標は共有済みだから……生きて、一緒に帰ろう」
 だからまだ、と言葉を紡ぎかけた刹那。まるで蝋燭の火が吹き消されるように、意識の奥で揺らいでいた星明かりが消える。
「リー……?」
…………
 意識リンクが途絶えた。再接続を要請しても返答はない。心臓はまだ拍動しているのに。
「リー、ねぇ」
…………
 まるで最初から、リンクする先が存在していなかったかのように星明かりが灯されていた場所は暗い。呼吸だってまだ僅かに残っているはず、なのに、何故?
「リー……ッ、ねぇ、聞こえてたら返事して……!リー!」
…………
 闇に埋もれた意識海を探しても、何一つ掬い上げることはできなかった。まだ生きているはずなのに、どうして。
「ッ、だめ……リー、まだ……まだ、消えないで」
 機械の心臓が拍動するたびに溢れ出る循環液は、指の隙間をすり抜けていく。生温い命の温度もやがて冷たく、在るべき鼓動は弱くなって。零れ落ち、消えていくようにすべてが失われていく。救いたい。掬いたいのに、救えない。掬えない。
「いやだ、リー」
 もう触れている心臓が拍動しているのかすらわからなかった。失われていく温度に触れる手のひらは次第に同じ温度に染まって。否応なく突きつけられる現実に慟哭は殺される。
「リー」
 お願い、まだ死なないで。まだ消えないで。まだその燈火を絶やさないで。まだ、まだ生きていて、ねぇ。リー。
「おねがい」
 どうか、どうかお願い、お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い――お願い、だから。
「きえないで」
 壊れてしまった『心臓』に縋るように。
……いかないで」
 浅く短い呼吸と現実感の欠けた視界の中、壊れた機械人形の二度と拍動しない心臓を眺めていた。青く濡れた両の手を、そのモジュールから離すこともできないまま。