史加
2026-01-01 15:01:55
5225文字
Public 原神(鍾タル)
 

恋とは一方的なものでしょう

鍾タル/鍾離の誕生日を祝うタルタリヤの話




 吐く息の濁る冷えた空の下だというのに、港の片隅に開かれているその屋台は繁盛しているようだった。
 提供されている品は、熱燗に甘酒、ホットワイン、軽くつまめる揚げ饅頭、ほかの露店で売られているものよりふた回りほど小さいモラミートなど、身体の温まる飲み物と小腹を満たす軽食だ。船員や荷運び屋など、日々身体を酷使する者たちが仕事を終えたあとにふらっと立ち寄って、軽く自身を労ってから家に帰るのに適している。年末の繁忙期に揉まれた彼らの憩いの場として賑わうのは何もおかしいことではない。
 ただ、立地や時期を考えると、長時間居座るのには向いていない店だろう。どちらかと立ち飲みをメインとするその店の、数席だけ設けられたカウンター席のひとつを占領する男の背を見つけ、そこまで思考を巡らせて、タルタリヤはため息をついた。白く可視化される寒さに、防寒着のひとつも身につけていない男の背がちぐはぐに映って、なんとも言えない気持ちになった。
 火を扱う屋台のカウンター席は多少暖かいのかもしれないが、何時間も座って飲むには向いていないだろう。だいたいこんな年の瀬に、路傍の屋台でひとり時間をつぶしていること自体が想定外で、わかりやすく誘われているようにしか思えない。普段の男の狡猾さを考えれば、あえて隙を見せることで気を引いて、相手になにか頼みごとをするつもりでいてもなんらおかしくないのだ。
 そういうことをするやつだとわかっている。だから見なかったことにするのがおそらく正解で、けれど、それだと面白みがない。なにより、そうしたくないと心の奥のやわいところで記号を持たない己が思っている。
 自分の心に馬鹿正直になったところで愚かでしかない。そうわかっていながら、タルタリヤは屋台へと歩き出した。空いている貴重なカウンター席をひとつ埋めて、ほかの客に渡す分だろう、モラミートと点心を包んでいる店主へと声をかける。
「すみません、それと同じやつひとつと、ホットワインで」
「モラミートとホットワインね。ちょい待っててくれな、出来たてを提供するのがウチの売りなもんで」
「大丈夫。急いでないしゆっくりでいいよ」
 人の良い笑みを浮かべて応じると、料理を包み終えた店主は注文を待っていたほかの客に品を渡し、それからまた狭い屋台の中で材料を取り出して調理を始めた。
 品の受け取りを待つ客は最後だったようで、店主は小鍋にワインと薄く輪切りにしたオレンジ、シナモンスティック、はちみつを入れて火にかけながら、肉の餡を小麦の生地で包んで丸く整形する。無駄のない、洗練された動きだ。今まで目にしたことのない屋台だったが、どこかの有名な料理店で長年働いていた人間が個人で店でも出すことにしたのだろうか。
 いずれにせよタルタリヤの隣に座る男が、味や質を疑う必要はないことを示している。興味深い話があれば聞かせてくれるだろう。そんなことを思いながら、緩やかに口を開いた。
「こんなところでひとりで飲んでいるなんて珍しいじゃないか」
 ひゅう、と吹き抜ける風が背中を冷たく撫でていく。カウンターを隔ててすぐそこで火を扱っているから正面はほんのりと暖かいが、やはり長居するような場所ではない。菜単に書かれている酒もそこまで度数の高くないものばかりで、身体をしっかりと温めたり、酒に強い人間が酔ったりするのは難しそうだ。ちらりと隣の男の手元を見ると、タルタリヤが頼んだものと同じホットワインの入っているグラスだけがある。
「てっきり色んな人から食事に誘われて、琉璃亭あたりで飲んでいるものだと思っていたよ」
「祝いの席なら日中に設けてもらったぞ。香菱や堂主が企画してくれてな」
「なるほど、若い子たちが主体だからお酒がなかったわけだ。けど、ほかにもお誘いはあったんだろう?」
「ああ。あと半刻ほどで約束の時間になる」
 懐中時計を取り出して今の時間を確かめた男に、タルタリヤはそうかい、とだけ言って口を閉ざした。
「待たせたね。熱いうちに楽しんでってくれ」
 沈黙が質量を帯びるよりも先に店主が注文の品をタルタリヤの前に並べる。出来立てのモラミートとホットワインから立ちのぼる白い湯気と、焼けた小麦と肉のにおい、そしてワインの香りが食欲を刺激した。
 まずはモラミートを手で掴み、包み紙をはがしてかぶりつく。外はカリッと香ばしく、中はもちもちとしていて小麦のほのかな甘みを感じられる生地と、その中に贅沢に包み込まれている甘じょっぱい肉の餡の相性は最高だ。ほかの店で売られているものよりサイズが小さいのもあって、三口ほどであっという間に胃袋に収まってしまう。
 流れるようにワインの入ったグラスに手を伸ばして一口飲むと、オレンジと葡萄のフルーティーな香りが鼻腔を見たし、まろやかな味わいのワインが喉を滑り落ちて臓腑をじんわりと温める。赤ワイン特有の、舌の根に残る渋みを一切感じさせないそれは、ワインに馴染みのない璃月人でも飲みやすい一品だろう。やはり男の見立てに間違いはない。
……少しだけ、困っていることがある」
 街のざわめきの中でも不思議と耳に届く声がそんな言葉を紡いだのは、タルタリヤがグラスを半分ほど開けた頃だった。
 男の手元にあるグラスはすでに空になっている。一体いつからここにいたのか、整った鼻筋は赤く染まっており、冬風にさらされている背中は冷え切っていそうだ。
「へえ、珍しいね。鍾離先生ともあろうお方が困り事だなんて。一体何に困っているのかな。言っておくけど、モラはもう出してあげないよ」
 グラスの中のワインを回し、その華やかな香りを楽しみながらタルタリヤは応える。
 別にこの男が多少散財をしたところでタルタリヤの懐が痛むことなどありはしないのだが、なんとなくはぐらかしてからかいたい気分だった。
 男は卓上へと視線を落とす。言うべきか、言わぬべきか、迷うように黄金のひとみが揺れた。
「モラには困っていない。ただ、約束の店に向かいたくないと、そう思っていてな」
「ふうん。気に入らないやつでもいるのかい?」
「いいや。酒宴に誘ってくれたのは気の合う友人だ。だが……
「まさかとは思うけど、うっかりここで飲み過ぎた?」
「そうではない」
「なら、月菜中心の店を指定されたとか?」
「違う」
 じと、とどこか恨みがましく黄金がタルタリヤを見つめているのか、真横からの視線が頬に突き刺さる。この程度意地悪でもなんでもないだろうに、ずいぶんと凡人らしくなったものだ。
 空はすっかり日が沈み、深い藍色に染まり出している。もう少しからかってやりたい気持ちもあるが、残された時間を考えるとそれだけで終わらせてしまってはもったいない。ふはっとタルタリヤは笑って、それからきちんと男と目を合わせた。
「そんな恨めしそうに見ないでくれよ。悪かったって。誕生日おめでとう、鍾離先生。ここに来るのが精一杯で、プレゼントは用意出来ていないんだ。ごめん」
 祝いの言葉と謝辞を述べながら、もう三回目か、と胸の中で呟く。
 一年の締めくくりであるこの日が男の、鍾離の誕生日であると知ったのは三年前のことだ。
 璃月での任を終えたタルタリヤは多忙で、ファデュイ執行官として各国へと派遣される日々を送っている。ゆえに異国で出来た知人の誕生日を直接祝うのはなかなか難しい。それでも鍾離の誕生日だけは毎年璃月へ立ち寄って、きちんと祝いの言葉を伝えるようにしている。それは単に、タルタリヤがそうしたいからしていることだった。
 パーティーも、豪華な料理も、高価なプレゼントも、きっと鍾離を知り彼を友人として大切にしている人々や、彼の旧友である仙人たちが用意するだろう。もちろんタルタリヤにだって、時間があればプレゼントくらい用意してやりたい気持ちはあるけれど、何よりも大切なことは自らの口で「おめでとう」のひとことを直接伝えることだと思っている。タルタリヤにはもう忠誠を誓っているかみさまがいて、鍾離はただのひとりの友人、あるいは友人とも知人とも呼べないけれど大切なひとに過ぎないからだ。
 鍾離をかみさまとして愛したことのない人間からの祝福は、凡人として生まれ落ちたばかりの彼にとって貴重で、必要なものだろう。そうであってほしい。いや、本当はそうじゃなかったとしてもタルタリヤがただ伝えたいだけなのだけれど、そんな本心なんてものは鍾離が知る必要なんてない。自分たちの関係に名前を付けないことを、とっくの昔に決め合っているのだから。
 ひゅう、と音を立てて風が吹き抜けた。提灯の淡い橙の光に照らし出された鍾離の横顔に、寂しそうな微笑みが浮かぶ。
……もう発ってしまうのか」
 タルタリヤはワインを飲み干して、カウンターの上にグラスを置いた。それが答えだった。
「次はもう少し暖かい場所で待っていてくれ。先生は身体が丈夫なのかもしれないけど、それでもこんなところで長時間座ったままじゃあ風邪をひいてしまうよ」
「風邪をひいたら見舞いに来てくれるか」
……俺は、せっかくなら元気そうに笑ってる先生に会いたいな」
……そうか」
 元々面倒なところのある男だが、ますます面倒なことを言うようになったものだと思う。けれどそうやってわがままをこぼす姿を可愛いと思ってしまうのだから、タルタリヤのほうが面倒な男だろう。
 鍾離は懐中時計を見る。丁寧に磨き上げられていて曇りひとつない銀のそれが、提灯の光を反射してきらりと光った。ちくたくと刻まれる時がふたりのために待ってくれることはない。
「公子殿」
 時計をしまった鍾離が、タルタリヤを呼ぶ。
「会いに来てくれてうれしかった。風邪をひかないよう、暖かくして帰ってくれ」
 先ほどまで駄々をこねていたのが嘘のように穏やかで、やわらかな声音だった。
 寂しがってみせたり、きっぱり諦めてみせたり、忙しない男だ。きっとそれがタルタリヤの胸の奥をどれだけかき乱すのかをわかっていてやっている。青年の心のやわいところをめちゃくちゃにして、自分の手元へ落ちてくるように、そういうずるい振る舞いをしている。
 鍾離とはそういう男だと、タルタリヤはこの三年ほどでよく理解した。否、理解した気になっているだけで、まだ本当はその百分の一もわかっていないのかもしれない。けれど、鍾離がそういうずるいおとなの振る舞いをして、人間くさく執着する相手は自分だけだろうという自惚れが揺らぐこともない。
 はあ、と大きなため息をついて、タルタリヤは席を立つ。鍾離が財布を取り出そうと懐を探るより先にふたり分のモラを店主に支払って、それから自身の首に巻いていたマフラーをほどいた。
「先生」
 呼んで、こちらを向いた鍾離にマフラーを巻いてやる。
「夜中に取りに行くから」
 ――寂しいからってあっちこっち飲み歩いて朝帰りなんてしないでくれよ。
 そんなささやかなわがままを託して、踵を返す。
 鍾離を見つけた時点で、今晩発つ予定だった船のチケットをキャンセルすることに決めた。だから夜が更けきるまでに明日の昼に発つ船のチケットを手配し直して、身なりを整えないといけない。
「公子殿」
 足早に去ろうとするタルタリヤを、鍾離の声が引き止める。
……あまり俺を困らせないでくれ。本当に、行きたくなくなってしまった」
 焦れたような声は甘く熱をはらんでいる。おそらく振り返ったら、今すぐにでもタルタリヤを連れて帰りたくてしかたないといった顔をしている鍾離がいるのだろう。
 タルタリヤがこうして馬鹿正直に鍾離を祝ってやりたくて、わざわざ時間を作ってまで璃月に会いに来たのだから、鍾離もただ素直にしていてくれればいいのに。ずるいことをしようとするからいけないのだ。
 たまらずタルタリヤは噴き出して笑った。かわいくてしかたないなと思ったし、明日の昼に船に乗るときは覚悟をしておかないといけないとも思った。揺れが腰に響くあの特有の痛みは、どれほど鍛えている身であってもある程度身構えておかないと耐えがたい。かといってそれ以上時間を引き延ばすことも出来ないし、鍾離を抱きしめてやるのに手を抜くような真似もしたくないので。
「また後でね」
 ひらりと手を振り、タルタリヤはなんでもないふうを装って港へ向かう。
 ワインの味がかすかに残るだけの口が寂しい。冬の夜は基本的には長いが、熱に溺れるそのときだけは雪が溶けるように一瞬で過ぎ去ってしまうだろう。
 別にタルタリヤの健気さもひたむきさも、鍾離とは質の異なる寂しさも、きちんと知ってもらいたいとは思わない。丁重に扱えなどとも思わない。
 青年が鍾離にあげられるものなんてこれくらいしかないから、与えている。ただそれだけだ。