大きな危機を乗り越えた澄輝坪は、復興に向けた慌ただしさの隙間で、この街が守られた喜びが見え隠れしている。まだ警戒心を解かず、それでも元の生活に戻ろうと前を向く住人たちの間をすり抜けながら、悠真は適当観への道を急ぐ。
今回のホロウ災害について、H.A.N.D.の分析結果を雲嶽山へ届けなければならないという話が挙がった時、悠真は真っ先にその役目に立候補した。常にない仕事への真面目な向き合いぶりを見た柳は疑いの眼差しを向けつつ、何か思うところがあったのか「では、お願いします」と報告書を託してくれた。わざわざ書面で報告書を作成しているのは、情報漏洩を恐れてだ。ホロウに関する事象は機密事項として、なるべく人の目に触れない形で残したほうがよい。
不気味な黒い花が咲き乱れ、異様な雰囲気を放っていた通りはすっかり元の景観を取り戻しており、適当観にも正面から入れるようになっている。作戦時は遠方で支援に回っていたのであまり詳しく見ることもできなかったが、ここでアキラたちが必死に戦っていたのだと思うと少しだけ胸が痛む。
(そこに、僕がいればよかったのに)
何かと事件の中心にいがちな彼らのことだ。今回もまた自ら関わって危地に向かったのだろう。雅からその話を聞いた時はさすがに憤りが湧き、何故彼と行かなかったのかと詰め寄ってしまったが、彼女の返答はまるで凪いだ海のように静かだった。
『人は誰しも、成すべき事がある。今回の作戦では、アキラは青溟剣の剣主を支える役割を担った。無論、プロキシ自身の目的があったのは否めないだろうが……彼らの決意を踏みにじる権利は、私にはない』
不甲斐ない、と最後に零した言葉は少しだけ震えていて、悠真の中にあった激情は霧散して行った。それなら自分など、入り込む余地すらないだろう。後方支援に徹したのは己に課せられた役割を果たしたから。それでもなお、歯がゆい気持ちだけが残った。
感傷を振り切って適当観の門をくぐる。外の喧騒に比べると、門の中は静謐という言葉がふさわしいほどに静かだった。ここだけ清涼な空気に守られているように。躊躇いつつも歩を進めると、目の前をたたっと金色の柔らかそうな毛並みを揺らす虎のシリオンが横切った。その人物は悠真に気付くと足を止め、くるりと振り向いた。
「あれっ、もしかして対ホロウ六課の方ですか?」
「あ、はい」
「報告書ですよね? 師匠から聞いてます! 私に預かるようにと言われています」
首から掛けた札を上げて、雲嶽山の修行者であることを示す少女に、悠真はとっさに目を細めた。
「ほんとにここの修行者?」
「あっ、福福がチビだから馬鹿にしてますね! これでもここを取り仕切る程の立場ではあるんですからね!」
えっへん、と胸を張る相手を見て、それでも動かない悠真に、少女は次第におろおろと焦り始める。
「えっ、本当に疑われてるんですか……? えっとえっと、あと何を示せば……!」
服をはたいて何かないかと探る様を内心でにこにこしながら見守っていると、背後から悠真の体をすっぽり覆うほどの影が落ちて、大きな柔らかい手が肩を叩いた。
「うちの姉弟子をからかわんでくれ。共闘作戦時に顔は合わせたはずだがな、対ホロウ六課の浅羽悠真くん」
振り向くと、柔和な笑みを浮かべたパンダのシリオンが後ろから圧をかけてくるのが見えた。に、と悠真は怖じずに口角を上げる。
「いやぁ、すみません。猫のシリオンを見るとつい」
「からかってたんですかぁ!? あと猫じゃなくて、虎です虎!」
喚く少女の手のひらに、はい、と報告書を乗せる。きょとんと目を瞬かせた少女は「ありがとうございます……?」と訝しげにその報告書と悠真を見比べて頭を下げた。やはりからかいがいのある相手だ。
「すまんな、儀玄師匠は出払っていて……雲嶽山の本山に一度戻っている。あまり詳しくは言えないが、うちもいろいろと揉めていてな」
「そっちの事情はそんなに気にならないので大丈夫です。それより……ここ、アキラくんいます?」
その名前を告げると、パンダのシリオンは傍目からもわかるほど声を弾ませた。
「おお、アキラの友達か! 星見さんとも仲が良さそうに話していたからなぁ、なるほど。彼は本当に、顔が広いんだな!」
「ですよねぇ、僕もそう思います」
その交友関係の広さは現在進行系で拡張しているのだが、それに対するもやもやを隠して悠真は笑う。今更なのだ。もはや歩くだけで知り合いが増えているのではとすら疑う。ルミナスクエアを歩いていても、花屋やティーミルクの店の店員から普通に声をかけられる。HIAや治安局にも顔見知りがいる。あまりの幅広さにもはや嫉妬の心も湧いてこないが、まだ広がっていく輪に焦りは覚えてしまう。
「アキラなら部屋にいるぞ。案内しようか?」
「奥ですよね? そっちで聞くから大丈夫です」
じゃ、と彼の横をすり抜けて住居スペースへ向かう。そうか、と少し残念そうに見送るパンダのシリオンを一瞥すると、悠真は少しだけ足を速める。
その視線から外れたあたりで立ち止まり、部屋を探そうと周囲を見回したところで、見慣れた髪の色が目に映った。
「リンちゃん!」
「えっ、悠真?」
くるりと振り向いて驚いた顔をするリンのもとに駆け寄る。訝しげな眼差しを受け流しつつ彼女の前に立ち、にっこりと笑う。
「久しぶりだねぇ」
「そっか、こないだはすれ違っちゃったもんね。こんなところまでどうしたの? 何か用事?」
「用事だったんだけどそれはもう終わって……その、アキラくんいるかなーって」
どうにも妹にそのまま告げるのは恥ずかしくて言葉を濁すと、勘の良い少女はすぐにピンときたように目を細めて口角を上げた。
「用事は口実で、お兄ちゃんが本命だ」
「……はっきり言っちゃうんだもんなぁ」
「あんたの好意、バレバレだもん。お兄ちゃんは全然気付いてないみたいだけど」
鈍いねぇ、とリンが呆れたように息を吐くが、苦笑することしかできない。
片想いだという自覚はある、が。相手からの好意を感じていないわけでもない。まるでこちらをからかうかのような言動をする時もあれば、煽るような台詞を吐くこともある。むしろ相手は悠真の反応を見て楽しんでいるような素振りすら見せる。
あと一歩な気がするのだが、そんな複雑な心境を彼の妹に暴露するわけにもいかず、はは、と誤魔化すことしかできないのだ。
「お兄ちゃんの部屋はあっち。まだ寝てると思うよ。前の作戦の後、わりと疲れてるみたいでね。起きるの遅いんだよね」
指で示された部屋を一瞥すると、悠真はリンに向き直る。
「行ってもいい?」
「私の許可は要らないでしょ。お好きにどうぞ」
やれやれ、と肩を竦めながらリンはどこかに行ってしまう。彼女も何かの用事の途中だったのだろうか。もしくはここでやっているという修行か。
よし、と気合いを入れ直して、アキラの部屋の前に立つ。扉を掴むと、軽い力ですんなりと開いた。不用心だなぁと思いながらなんとなく足音を立てず、衝立の向こう側を覗き込む。
「あ」
思わず声を漏らしてしまった。そこに居たのはアキラ――ではなく、ベッドに眠る彼に手を伸ばそうとする亜麻色の髪のシリオンの女性だ。悠真の声に反応して、ぱっとその手を引っ込めてしまう。
「え、あれ、誰? えーっと……制服からすると対ホロウ特別行動部……の人?」
「そっちこそ……いや、あんた。新しい虚狩りに任命されたっていう」
葉瞬光、と頭の中にその名前を浮かばせる。今回の作戦で、アキラが支え続けたその人。青溟剣の使い手。――記憶を失っていくという代償を受け入れる、強い人。
「その、ワタシはただ、そろそろ起きる時間だよ〜って起こしに来たんだけど……全然起きそうになくて、だから」
「だから直接起こそうとした?」
「あわわ、忘れて! ワタシがここにいたことは忘れて、ねっ?」
取り繕おうとして盛大に失敗している少女は視線を左右に彷徨わせた後、悠真の沈黙に耐えかねたようにばたばたと外に出て行ってしまった。後ろ姿を見送ると、大きな尻尾が慌ただしく左右に揺れていた。明らかに不審者の行動だが、彼女からすると自分も不審者なのでは、と悠真は小さく頬を掻く。外にリンがいるのできっとうまく言ってくれるだろうと説明を他人任せにして、静寂が戻った室内を騒がせないよう、悠真はベッドのそばにゆっくりと歩み寄る。
騒がしさなど気にも留めないとでも言いたげに、アキラはすうすうと眠っている。次第に腹立たしくなってきた。あの様子からして瞬光という少女がアキラに対して並々ならぬ感情を抱いていることは明らかだというのに、ここまで無防備を晒すとは何事か。
どす、とベッドの端に腰掛けて、はぁー、と息を吐く。自分の心が狭すぎるのだろうか。そもそも、付き合ってすらいないのだ。こんな風に嫉妬じみた感情を向けてしまうのはお門違いだとわかってはいても、心というものは厄介だ。自分の思い通りなんてなりはしない。
うう、と呻き声が聞こえて、悠真はそれまでの思考を中断してアキラを見下ろした。眉間に皺を寄せて何かに耐えるように毛布を握りしめている。先ほどの瞬光の光景を思い出しながら、悠真はアキラに手を伸ばす。触れた肌は熱く、じわりと悠真の指先にその熱が入り込んでくる。
「アキラくん……?」
そう、と頬を撫でると、アキラの目が薄く開いた。眉間の皺は変わらず、険しい眼差しのまま眼球が動いて、悠真を捉える。
「……はるまさ?」
弱々しく名前を呼ばれて、悠真はぐっと唇を噛み締めた。頬を撫でる手を少し伸ばして、乱れた銀色の髪に指を埋める。
「頭痛い? うなされてたよ」
「ああ……うん、少し。大丈夫だ」
撫でられる感触が心地よいのか、アキラは悠真の手を払おうとはしない。しばらく無言でその空気に浸っていると、アキラはもぞりと身動ぎをした。手を引っ込めると、彼はゆっくりと起き上がって悠真と目線を合わせた。
「どうして君が、ここに?」
「あ、今?」
「さっきは起きたばかりでぼうっとしていたんだ」
なるほど、と頷いてここに来た経緯を話す。無言で耳を傾けていたアキラは、すべてを聞き終えてからようやく口を開いた。
「そう言えば、君も作戦の時に頑張ってくれていたみたいだね。雅さんに聞いたよ」
「後方支援に徹していただけだよ。あんたとは違う……のは、分かってるんだけど……」
声にするとじわじわと感情が噴き出してくる。どうして自分が彼の隣に立てないのか。どうして自分は、彼が危険な時にそばに居てやれないのか。
「……アキラくん」
「ん?」
「頼むから、僕の知らないところで勝手に死んだりしないで……」
語尾が震えてうまく出てこない。ぐ、と唇を引き結んでから、今自分が抱いているのが嫉妬ではなく、恐怖だということに気付いた。
自分の見知らぬところで彼が危険な目に遭っている。今回だけではない。きっと今までも、だ。
彼らには「始まりの主」という危険かつ未知の存在を追いかけなければならない理由がある。はっきりと聞いたことはないが、それは彼の「先生」にかかわるものらしい。本当はそんな得体の知れないものに近付いて欲しくはない。体のどこかが痛くても、うなされるほど苦しくても、誰かが不安にならないように笑って「大丈夫」と言ってしまう彼なのだ。そのうち黙って消えてしまうのでは、という心が冷える恐怖がわいてくる。
自分の方が先に置いていく身の癖に、傲慢だと思う。それでも、相手には生きて欲しいという想いが自然と溢れてくる。できれば危険のない、安全な場所に居て欲しい。けれどそれは、彼の自由意思を損なうことになる。そしてそれは恐らく、話に聞く葉瞬光の境遇と同じ状況だ。自分の意思などお構いなしに、周りが運命を決めてしまう。安全な場所に閉じ込めてしまう。
その周囲の気持ちの方が痛いほど分かる、などと言うと呆れられるだろうか。
ぎゅ、と自分の手のひらを握り締める。爪が食い込む拳を、そっと彼の手のひらが覆う。
「心配性だな、悠真は」
悠真の不安を笑い飛ばすでも、突き放すでもなく。柔らかくそう呟くと、アキラは悠真の顔に手を伸ばしてきた。その手が悠真の髪をすき、後頭部を撫でてから少しだけ力を込められる。されるがまま顔を近付けると、とん、と額が重なった。
「ほら、僕はここに居るだろう」
「……うん」
息遣いを感じる。熱を感じる。彼の存在を感じる。自分を労わる彼の気持ちを、感じる――
「駄目だなぁ、僕」
苦笑する。彼の進む道の邪魔をしたくないのに、実際はこんなにも心が言うことをきかない。その本人に慰めてもらう始末だ。
「いや、悪い気はしないな」
「ほんとにぃ?」
「ああ。かの六課の浅羽悠真にここまで心配されるなんて、鼻が高いよ」
「その言い方はなんだか、鼻につくなあ」
「そうか、ふふ」
温もりが離れる。穏やかな笑みを浮かべる彼がいつも通りでほっとする。けれど同時に、この笑顔がすれ違った誰かの心を射止めているのかと不貞腐れた気分にもなってしまう。
思わず両手を伸ばして、彼の両頬を挟み込み、少しだけ力を込めた。
「ひゃるまひゃ?」
「っ、はは!」
うまく言葉を紡げないアキラの姿に少しだけ溜飲が下がり、胸のつかえがころりと取れた。むう、と拗ねた顔をしたのでぱっと手を離して、悠真は小さく息を吐く。
「アキラくん、話してほしいな。あんたが今回、どんな冒険をしたのか」
たとえ傍に居られなくても、こうして話を聞くことは出来る。彼が何も言わなくても、寄り添うことができる。それを許されているという自負はある。
アキラはしばらく黙った後、ベッドから抜け出して椅子に腰かけた。さて、と膝の上で手を組み、まるでどこかの名探偵が答え合わせをするかのようにゆっくりと語り始める。今日はもう本部に戻らなくてもいいかな、と柳の顔を一度だけ思い浮かべ、全ての些事を頭の外に放り出して悠真は朗々と響くその声に耳を傾けた。
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