夜明 奈央
2025-12-31 07:02:14
6805文字
Public 久々綾
 

久々綾(女体化) 大事なのは相性

女性経験ゼロの久々知が婚活で綾部♀と出会う話
2025年12月30日初出

「残念ですが、前回のお見合いの方からはお断りのご連絡がありました」
 電話の着信画面を見た瞬間、久々知にはなんとなくこの言葉の予想ができていた。
 相手は結婚相談所で久々知を担当している相談員。ここ1年程の間、仕事以外で最も頻繁に連絡を取っている相手だ。もう何回目かわからないくらいに繰り返されたやり取り。それでもやっぱり「自分じゃダメだ」と言われるのは少なからずがっかりしてしまう。

 順風満帆とまではいかないまでも、久々知はそれなりに満足できる人生を送ってきた。仕事も順調で友人にも恵まれ、趣味も楽しい。それでも三十路を目前にして、そろそろ結婚でも、という考えに至るのは極々普通の考えだと思う。けれど20代後半になっても彼女いない歴=年齢どころか母以外の女性とほとんど話をしたこともない久々知にとって、それは難関大受験よりも熾烈な就活争いよりも遥かに大きな課題であった。
 自慢じゃないが、久々知の人生に女性の影が存在したことはなかった。中高は一貫の男子校、進学先の工学部に所属する女子は全体の1割以下。サークルは自分で作った豆腐研究会で、メンバーは事実上久々知ひとりだった。
 つまり青春時代にびっくりする程女性との関わりが存在しなかった。あれはあれで充実した日々だったので後悔はないが、世の中の一般男性と比べて圧倒的に女性経験が少ないまま就職してしまった。そして今は某メーカーのエンジニア。同じ部署には見渡す限り男性しかいない。それなりに大きな会社なので他部署にも目を向ければ女性もいるがほとんど関わりはなく、最低限の仕事の話しかしたことはない。
 そんな久々知が自然な出会いで結婚するのは絶望的だ。だから結婚したいと思った久々知が最初にやったことは、結婚相談所に登録することだった。その判断はおそらく間違っていない。平均より高い年収とおそらく中の上程度はある(と自分では思っている)容姿により、登録してからは捌ききれない程のお見合い申し込みが殺到した。こちらから気になった相手に申し込みをして、断られたこともない。
 それでも――
「やっぱりそうですか、予想はしてました」
「また豆腐の話ですか」
「はい、すみません」
「私のアドバイスは実践してくれていますか?」
「はい、お相手のことを質問するんでしたよね。途中まではそうしてたんですけど、向こうから趣味を聞かれて、その、うっかり……
「趣味は定番の質問ですからね。結婚生活に関わることですからもちろん話していただいて構いません。ただ、何度も申し上げているように『一方的に』話すのは困ります」
「そうですよね。いえ、わかってるんです。わかってるんですけど、緊張すると頭が真っ白になってしまって……
「もう少し女性との会話に慣れていただく必要がありそうですね」
 いくらプロにだってできることとできないことが存在する。女性を前にすると緊張で碌に話もできない久々知を結婚させるのは、いくらプロにだって不可能だった。
「経験値が足りないだけです。まずは女性と話をすることに慣れましょう」
 相談員の方は親身になってアドバイスをくれた。それに従って見合いを続けるうちに、久々知も女性相手にどうにか話をするくらいはできるようになった。しかし緊張しなくなったわけではなく、今度は一方的に豆腐トークを繰り広げて振られてしまう。こうなっては進歩したのか後退したのかわからない。
「明日もお見合いの予定ですが、くれぐれも気をつけてくださいね。緊張したら深呼吸です。頑張ってください」
 相談員の方は一向に改善しない久々知を見放すこともせず、優しい言葉を掛けてくれる。
 それからいくらか事務的なやり取りをして電話を切り、はあ、と重い溜め息を吐いた。

 結婚相談所に登録したのは、昨年の冬が終わる頃だった。それから毎週のように成果が出ないお見合いを繰り返し、気付けばまた次の冬がやってきていた。やっぱり自分には結婚なんて無理なのかも。婚活を始めてから幾度となく繰り返した諦念が久々知を襲う。今時結婚しなくたって生きていける。自分としては十分頑張ったはずだ。もう、疲れた。
 先程相談員に明日のお見合いについて言われたばかりだが、名前を確認しておくことさえ億劫だった。

× × ×

 翌日、約束の20分前に待ち合わせの場所に到着してから、久々知はようやく相手の名前を確認した。
 相談所から渡されたプロフィールによれば、お相手の名前は綾部さん。久々知の1つ歳下だった。
 手元のスマートホンで時間を潰しながら時折周囲を見回し、綾部さんが来ていないかを確認する。待ち合わせ場所に指定した駅の広場には、友達やカップル、家族連れが楽しそうに行き交っていた。
 婚活で結婚しようと思っている以上、街で見かける仲良しカップルのようになるのは難しいかもしれないと覚悟していた。それでも仲良く家族で出掛けるくらいのことはできると思っていたのだが、久々知には高望みだったということか。
 約束の時間まで残り5分となったところで、綾部さんが現れた。プロフィール写真で見かけたのと同じ顔なのでおそらく間違いない。就活生みたいな真っ黒のパンツスーツを着用していた。久々知も相談員の勧めでスーツを着用しているが、綾部さんのような格好は婚活としては随分珍しい。ビジネスのような格好は休日の往来ではどうしたって多少目立つので、しばらくきょろきょろと周囲を見回していた綾部さんも、すぐに久々知に気がついて近づいてきた。
「すみません、久々知さん、ですか……?」
「あ、はい。久々知です」
「はじめまして、綾部です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 お互いにぺこりと頭を下げ、予約していた近くのカフェに移動した。ややぎこちない会話をしながら注文を済ませ、探り探りの雑談を繰り広げる。しばらく話をしているうちにわかったことは、どうやら綾部さんは婚活にあまりやる気がないらしいことだった。
「親が結構お固めで、結婚しろってうるさいんですよね。あんまり結婚に興味はないんですけど、絶対したくないって程でもないので、まあいい人いたらしてもいいかなって。急だったので、服もスーツって言われたら就活の時のしかなくて」
 なるほどと納得する。就活生みたいな、と評したスーツはまさしく就活の時のものだったらしい。やる気がないからか変に気負うようなこともないようで、そのくだけた感じが久々知の口をいくらか軽くした。
 おそらく綾部さんとも交際に進むことはないだろう。婚活にやる気がない上におそらくお見合いも初めて。まずは様子見といったところで、あえて交際に進む理由はない。お見合いの数だけは多い久々知には何度か経験がある。こういう相手からは振られても自分がダメだったわけではないのだと思えるし、今日のお見合いは比較的心労とは無縁で終われそうなことにただただほっとする。
「あ、すみません、こっちばっかり話しちゃってますね。久々知さんはなにか趣味とかあるんですか?」
 綾部さんから、急に思い出したみたいに婚活定番トークが繰り出される。実際今思い出したのだろう。
「きゅ、急ですね」
「一応婚活ですのでそれくらいは聞いておくべきかと」
「その、豆腐作りを少々……
 相談員から厳しく釘を刺されている話題だ。遠慮がちに答える久々知に綾部さんはきょとりと目を瞬かせる。
「豆腐? 作るんですか? 大豆から?」
「はい。そうですね。食べるのも好きなんですけど、自分で作るようになってそっちにもハマってしまって……
「へぇ……まず豆腐ってどうやって作るのかよく知らないんですけど」
「それはですね……

 はっと気がついた時には、綾部さんは退屈そうにグラスの氷をからころとストローで弄んでいた。氷はすっかり溶け、グラスの半分以下に減っている。
 またやってしまった。豆腐作りなんて、大抵の相手にとって未知の話題だ。話を広げるためにいくらか質問してくれるのは常である。けれど程々のところでやめなければならない。わかっているのに、いつも話し始めると止まらなくなってしまう。
「すみません、つまらないですよね」
 久々知は突然我に返ってしょぼんと萎れた。けれど綾部さんはぱちくりと目を瞬かせていたかと思えば、にっこりと微笑む。
「え、そんなことないですよ。好きなことがあるのっていいことですよね」
 社交辞令だろうとわかっていても、そう言ってもらえたのは久々知にとって救いだった。


 夜までには相談員から今日の成果を尋ねる電話が掛かってくるはずだった。今日のお見合いもどうせお断りされるだろうし、そうしたら退会を告げよう。そう決意して電話を待っていた。
「久々知さん、今日は豆腐の話、我慢できたんですね! おめでとうございます。今日のお相手の方、仮交際希望だそうです!」
「は?」
 あまりの驚きについぞんざいな言葉が口をついて出た。慌てて自分の記憶を反芻してみるが、間違いなく豆腐の話はした。今までの経験上、確実に振られる展開だった。正確には振られなかったお見合いの経験がない。
「良かったですね! あ、久々知さんの方はどうでしたか? 仮交際は二股OKなので、絶対アウトというのでなければ経験を積むという意味で交際に進んだ方がいいと思いますが」
「え、えっと……
 既に嫌なこととして抹消しかけていた記憶を辿る。綾部さん。化粧っ気はないが雰囲気がどこか可愛らしい子だった。あんまり率先して活動する気はないようで、久々知の話を楽しんでいたようにも見えなかった。見えないだけだったのだろうか。「好きなことがあるのっていいことですよね」というあれは、社交辞令ではなかったのか?
「いいんでしょうか……
「もちろん、お相手のご希望ですから! 仮交際の後は真剣交際に進むか再度お尋ねしますので、今はそんなに深く考えずに軽い気持ちで決めちゃって大丈夫ですよ!」
「で、では、お願いします……
「はい、承知いたしました! 後程連絡先をお送りしますので、綾部さんと直接やり取りしてください」
 信じられない気持ちで電話を切った。初めての成果に、相談員の方も嬉しそうだ。とりあえず綾部さんとの仮交際が終わるまでは在籍しようと決めた。

× × ×

 2回目のデートは、ランチに決まった。余計なことを言わないよう、メニューに豆腐がないことはリサーチ済みだ。相談員には雰囲気が良さそうなら近くの公園を散歩するようにも勧められている。「念の為言っておきますが、手を繋いだりはまだ早いですからね!」と忠告されたが、そもそも会話すらままならない久々知にそんな大胆なことができるわけない。完全に要らぬ心配だ。
 待ち合わせに現れた綾部さんは、前回とは違ってカジュアルな私服だった。可愛らしいスカートを履いていて、綾部さんの雰囲気によく似合っている。冬だから露出は少ないはずなのに、何故だか目のやり場に困る。
「すみません、お待たせしちゃいましたか」
「い、いえ」
 こういう時、何か一言くらい褒めた方がいいのだろうか。久々知が迷っている間に、綾部さんはさっさと話を進めてしまう。
「お店、予約してるんですよね。ちょっと早いですけど移動しますか?」
「そ、そそそ、そうですね」
「緊張してます?」
「はい……
「わかります。こういうの、なんだか照れ臭いですよね」
 えへへ、と照れ笑いする綾部さんは久々知より歳下のはずだったが、少なくとも久々知よりは対男性経験は上のようだった。現実には久々知より異性との会話経験が少ない人間を探す方が難しいだろうが。
「久々知さんって、お豆腐好きなんですよね?」
「えっはい。そうですけど」
「今日行くお店、調べたらお豆腐なさそうだったんですけど、良かったんですか?」
 移動しながら、綾部さんが久々知の方を覗き込んでくる。その仕草にどきりと心臓が跳ねて、咄嗟に目を逸らした。他意はなさそうだったが、突然の上目遣いは女性経験マイナスの久々知には刺激が強すぎる。最低限自分のことを嫌っていない女性が隣を歩いているという事実だけで舞い上がっているくらいなのだ。
「えーっと、その」
 途端に頭の中が真っ白になって、直前まで何の話をしていたのかわからなくなってしまう。
「確か食べるのもお好きなんですよね?」
 綾部さんが会話を繋いでくれて、そうだ、豆腐の話だったと思い出す。
「あ、はい。そうですね」
「ですよね? 実はこだわりが強くてお気に入りのお店以外では食べないとか?」
「いや、その、俺は豆腐の話を始めると止まらなくなってしまうので……
 言いながら、自分がまた豆腐の話をしてしまっていることに気づく。適度に。程々に。話しすぎない。事前に相談員に言われたアドバイスを必死で反芻する。
「ああ、確かに。豆腐の話してる時こっちの話なんて聞いてなさそうでしたもんね。あれじゃ振られそうです」
 綾部さんがうんうんと納得したみたいに頷いている。
「あの、その通りで、俺は緊張するといつも豆腐の話をしすぎて振られるんですけど、綾部さんはなんで、その……?」
 ストレートに「俺を選んでくれたんです?」と尋ねる勇気はなかった。選んでもらえたことを、今でも半分夢みたいに思っている。
「面白そうだったからですかね? 結婚相談所なんて表面上だけ取り繕った腹の探り合いかと思ってたんですけど、そうじゃない人もいるんだと思って。あと単純に好きな物の話をする久々知さんが楽しそうだったので」
 にこっと笑う綾部さんの顔が輝いて見えて、思わずその手を握った。綾部さんがきょとりと不思議そうに首を傾げる。幸いなことに手を振り払われることはなかった。
「綾部さん、俺と結婚を前提にお付き合いを」
「え、はい。もちろんそのつもりですけど」
 婚活なので。
 付け加えられた言葉に、カーッと頬に熱が集まってくる。そうだった、調子に乗りすぎた。恥ずかしくなって手を離す。ちょうど予約していた店の前に辿り着いたところだったので、きょとんとしている綾部さんを置いて足早に店内へ向かう。
「あ、待ってください」
 綾部さんが後ろを追いかけてくる。自分の醜態に、久々知はデートを放り出して帰ってしまいたい気分だった。優しくアドバイスをくれて応援してくれる相談員の忠告をちっとも守れていない。けれど店の入り口で押し黙っている久々知を綾部さんは気にした風もなく、「予約していた久々知です〜」と店員に声を掛けている。
 案内された席に座ると、綾部さんは何故だかご機嫌だった。久々知にも見えるようにメニューを開き、「これ美味しそう」「こっちもいいな」と独り言のようににこにこコメントを入れている。機嫌を損ねるよりは断然いいのだが、久々知が失礼を働いてしまった直後のはずなので、全く状況が理解できない。相談員おすすめのこのカフェがおしゃれで雰囲気がいいからか?
「綾部さんは、好きな物とか嫌いな物ってあるんですか?」
 いつまでも押し黙っているわけにはいかないので、相談員のアドバイスを思い出してそれらしい話題を捻り出す。なんだか前回もそんな話をしたような気もしないではないが、緊張しすぎてほとんど会話の内容を覚えていないので真偽は定かではない。
「嫌いな物は特に。好きな物はプリン?」
「ああ、プリン美味しいですよね。ここ、確かデザートにプリンもあって、人気らしいですよ」
 仮とはいえ初めて交際に進めた嬉しさで、久々知は事前に下見に来ていた。メニューは全て把握しているつもりだ。綾部さんは久々知の言葉を受けてメニューを最後のページまで捲り、デザートのページを確認する。
「ああ、ほんとですね」
 しかしあまり乗り気ではないようで、代わりに久々知の方を何か言いたげにじーっと見つめてくる。
「な、何でしょう?」
「久々知さんがどういう方かまだよくわかってないんですが、久々知さんにとって豆腐プリンは豆腐ですか?」
「? 純粋な豆腐とは思ってませんが、豆腐と名のつくものなら何でも好きですよ」
「それは良かったです。だったら、デザートはそっちにしましょう。昨日、この近くに豆腐プリンの専門店ができたらしいんです。昨日なので、流石にまだ行ったことないでしょう?」
 ふふふと楽しそうに笑う綾部さんが可愛い以上に、友人や家族にまで鬱陶しがられてばかりの豆腐好きを好意的に受け止められたのが嬉しくて、絶対にこの子と結婚したいと心に硬く誓った。

 相談員に祝福されながら退会するのは、この約半年後のことである。


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