深夜、仕事を終えて自室に入ったセネリオは、はあとため息を吐いた。何故ここにいるのか。ベッドに腰掛けている寝間着姿の少女、ラティは、セネリオの顔を見るとぱっと表情を綻ばせた。
「こんばんは、セネリオ」
「帰ってください」
「あ、ひどいわ」
「女性が夜に男の部屋に入るものではありません」
「それは……その、はしたなかったけれど、でもセネリオは何もしないでしょう」
「まあ、しませんけど。着替えるので出て行くか見ないかしていてください」
「いていいの?」
「用があるのでしょう? どうせ」
「うん、ある」
「はあ……」
大人しく背中を向けたラティに再びため息を吐くと、セネリオはする……と衣擦れの音を立てて寝間着に着替えていった。ラティがそれにきゅっと息を呑んだのを、セネリオは気づいていない。ラティの様々な色をした彼への気持ちに、彼は気づいているのかいないのか、最近彼女への態度が比較的柔らかくなってきていた。それでも、冷えた口調であることは相変わらずなのだが。
テリウス共通語の読み書きを覚えた彼女は、進んで彼の仕事の手伝いをし、セネリオはそれを邪険にせずラティの手をこき使うだけ使っている。この二人はそんな関係であった。
「もういい?」
「はい。ベッドから退いてください」
「床に座らせる気?」
「本当に腹が立つ……もう好きにしてください。それで、何の用ですか」
寝台がかすかに軋む音がした。二人は隣り合って座る。ラティはふうと息を吸うと、セネリオの顔をじっと見た。
「あなたとお話がしたくて来たの」
「は? それだけですか」
「だって、あなたお仕事の時以外無口なんだもの」
「話すことなんてありませんが」
「あら、あるわよ。美味しかった料理のこととか、鍛錬のこととか、なんでもいいから好きなもののこととか、あとはそうね……もうずっと前のことのように感じるけど、デインとクリミアの戦争のこととか」
「……」
「ほら、少しはあるでしょう?」
ふふっ、と自身の唇に指を当てるラティに、セネリオは眉をひそめた。そして、渋々といった調子で口を開く。
「……今日の夕食の鶏肉のミルク煮込みは、美味しかったです」
「えっ」
「何ですか。話せと言ったのはそっちでしょう」
「だ、だって、それ作ったの……私よ」
「……」
しばし無音の時間が流れた。
どうしよう。と互いに思っていた。セネリオは、てっきりオスカーあたりが作ったものだと思っていたのである。ラティは、まさか自分の料理が褒められるなんて、思ってもみなかったのである。
「……。……うれしい、セネリオ。教えてもらってね、がんばってみたのよ」
「……アイクも美味しいと言っていました」
「言ってくれたわ……で、でも、まさかあなたもそう思ってくれているなんて」
「食べられたら何でも良いので」
「あなたはそうかもしれないけれど。でもたった今自分で美味しいって言ってたじゃない」
「別の話をしてください」
「ちょっとセネリオ。……もう」
ラティは呆れたように足をぱたぱたと動かす。次に適した話題を探すように目を泳がせる。その間、セネリオは自然と俯き、自身の爪先を見ていた。軍略のこと以外を話すことは苦手だ。自覚がある。そして、たった今失敗した。……と、彼は思っていた。それでも、自分はラティと話すことは苦痛ではない。彼女の言動はいつもセネリオを腹立たせるけれど、それでも、なぜか、その時間は苦痛ではないのだ。
「ああもう、何も浮かばなくなっちゃった」
「……今日の鍛錬で、ワユにこっ酷く叩かれていたでしょう。あれは、大丈夫だったのですか」
「まあ、見てたの? ていうか、あなたから話題を振ってくれるのね」
「別に何でもいいでしょう。それに、ちょっと通りがかっただけです」
「あのあとね、ふふっ、ズルしちゃった。スリープの杖で眠らせちゃったのよ」
「魔道士が剣士に近距離で勝つのは難しいですから、妥当な判断でしょう。ワユには悪いですが」
「目覚めたワユに、真っ向勝負してよー! って、怒られちゃった」
「無理ですね」
「無理よ」
くすくすといたずらっぽくラティは笑う。セネリオはというと、そっとそんなラティの二の腕を指でなぞっていた。ワユに一撃を喰らった場所だ。笑っていたラティは、笑うのをやめてぴくりと身を震わせる。ラティは、体に触れられるのをひどく怖がる。それをセネリオは知らない。
「なに……?」
「言ったでしょう、大丈夫だったのかと。アザは?」
「あのあと真っ青になったキルロイにすぐライブの杖を使ってもらったから、どこも痛くないわ」
「そうですか」
「……心配してくれてる?」
「あなたは戦力です。無駄に傷を作られては困ります」
「そう、そう……」
「……」
「……もう少しだけ、触ってくれないかしら」
「……は?」
「私たち、きっと話下手なのよ。お話がしたくてあなたの元に来たけど、頭が迷いでいっぱいになっちゃう。……だから、だからね、今してほしいことを言ったの。セネリオ、手を……繋いでくれる?」
「……手、くらいなら」
「ありがとう」
「僕は、それでも……あなたと話すのは、嫌いではありません」
「……私もよ」
「……、……」
「……」
「下手ですね、お互い」
「ふふ、そうね」
つめたい手を、恐る恐る繋ぐ。
細い指と指が絡まる。ほのかな体温が伝わる。ああ、話も苦手だがこれも苦手だ。とお互いに思う。胸と腹のあたりが何だか熱くなって、顔も今、赤くなっているのがわかる。暗闇でよかった、と二人は安堵していた。それでも──
「……離しますか」
「ううん……もう、少しだけ」
「……。はい」
再び、少しの沈黙。そして、ラティの口からかすかに音が漏れる。それは、ミストがよく歌っていた子守唄だった。歌詞の無い、それでも安らかな、心を包み込む歌。
「それは……」
「セネリオ、歌える?」
「ミストが歌っていたので、旋律は覚えてはいますが」
「じゃあ、歌いましょう。話すのが苦手でも、歌えば……一緒の時間を共有できるわ」
「……僕が歌ったことは、皆には言わないでください」
「ふふっ、言うわけないじゃない。私だけの、秘密」
小さな小さなハミングが暗い暗い部屋に響く。すると、暗さを許さないように、月が、窓からすうと二人を照らした。それがなんだか恥ずかしくて、二人は逃げるように互いの目を見つめていた。
「ラティ。もうしばらくここに、いますか」
「いていいの?」
「特別です」
手を繋いだまま、子守唄を歌ったまま、二人はベッドに横たわる。不思議な時間だった。話すことも、触れることも、苦痛であるはずなのに、お互いの存在は心地良いのだ。
この気持ちの、この優しい気持ちの、名前を二人は知っていた。それでも、言ってしまうのがなんだか怖くて、心臓を掴まれてしまいそうで。目をぎゅっと閉じて、朝まで月から逃げた。
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