好きや、嫌い。そういったシンプルな感情だけで世の中回らないことはよく分かっている。けれども自分がこの男に抱く感情というものは、二択で簡単に決まるようなものではなかった。
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腕のなかにひとつの命がある。熱がこもる息づかいを感じ、おなじ間隔でおなじように息を吐いた。
お前みたいな若いやつを、こんなことに付き合わせて、と胸中でつぶやく。口には出さないところが自分の狡さであるけれども、彼は知っているかもしれない。知らないのかも、しれない。自分のように心を読める目を持っていないことは百も承知だが、もし分かっていたとしたらいつでも腕を放せるくらいの力で抱いていなければならない。
せめて縋りつくような、無様な真似はしないで最初から最後まで〝良い医者〟であろうとする内心を――そう、見せていなければならない。
隠すことも曝け出すことも、大人の狡さだろうから。
かたちのいいひたいを眺めながら、そんなどうしようもない考えを巡らせていた。
「後悔したこと、ねぇ」
まぶたの血管が青い。その青さも眺めながらひとりごちた。まつ毛が長いと思い乍ら、そんなとりとめのないことをつぶやいた。
アンチドートの研究員になった理由など、自分勝手なものであるし後悔などという大義名分を振りかざすことはない。ほかの研究員やアンチドートはどうかは分からないが、サカナへの対抗心、敵対心、憎悪などあるものなのだろう。それとも、まっすぐな正義感か。
短い前髪を指先でいじるも男は起きない。それをいいことに、剥き出しのひたいにくちづける。
「俺は、いつも後悔してる」
後悔も積もればチリと同じく山になるものだから――たしかこの国の言葉にそんなことわざがなかったか――、いちいち正さなければならない。その山がいつか雪崩を起こして自らを滅ぼしかねない――のだけれど、簡単にできるような、そういった意味での器用さは残念ながら持ち合わせていなかった。
「……後悔」
自分のものではない声が下から聞こえる。あたたかい色の目がこちらを見上げていた。その瞬間、目を伏せる。いつものくせだった。それでも慶の手はそれを遮るようにほおに触れた。
「してるんですか」
後悔。
繰り返し、十六も下の男に尋ねられる。責めるわけでもなく、ただ、尋ねられた。
「そこそこの人生を送っておけば、そこそこうまくいってたのかもしれないけどな」
今をうまく、つつがなく送れていないのかと問われれば否とも是とも言えない。が、ひとにはそのひとなりの「それなり」というものが存在して、高望みをすれば振り落とされてしまう。まるで、ふるいにかけられるように。
「そのそこそこって、医者になったことも含まれますか」
「いいや。医者になることを選んだ時点で、そこそこじゃなくなった」
「……それもそうですね」
彼が視線を落とすそぶりをみせたので、今度は自分の手で下がろうとするあごを撫でた。
「医者も不器用だな?」
くちびるを歪めて笑ってみせた。目の前の男の白い歯と粘膜色の舌がすこし見えた。
「お医者さんも、人間ですから」
そうして、こんなおとなびたことをいうのだった。
その口に親指をはわせて、「お前もなぁ」と、われながらあまたるい声でささやく。
「いつか抱えきれないくらいの後悔するのか、それとももう、しちまったのか」
「それは……困りましたね」
本当に困ったように、眉をすこしさげる。そうすると年齢よりもすこし幼く見える気がした。
重だるい腕をのろのろと持ち上げて、慶の頭を胸に抱えた。当たり前のように距離がさらに近くなる。
首筋に息がかかる。ことばを繋げるたびに、喉の筋肉が動いた。からだは、まだ熱かった。
「先生の体は冷たいんですね」
「まあな。もう若いって年じゃないから」
指先で、耳をそっとたわむれのようにいじった。そうすると腕に抱えた頭がちいさく身じろぎする。枕に頭を押しつけるしぐさが愛おしいと思った。
ピアスがうす暗い部屋にちらりと輝いたように見えた。
しっかりとした背中の筋肉を手のひらで感じる。ゆっくりと背中を撫でていると呼吸が少しずつ深くなっていった。
規則正しい呼吸音が耳に届いてきたころ、夜はじき明けそうであった。背中を撫でるのをやめ、一度きつく抱きしめた。素肌の感触をおぼえながら、起きたらなにを食べようか考える。冷蔵庫に豆花があった。生姜でもいれて、朝食のデザートにでもしようか。そこまで考えて、ようやくまぶたが重たくなってきた。夜明けまであと2時間といったころのことであった。
同性と抱き合うことも、十六も下の男に触れることも、触れられることも、罪悪感を感じる前に「それ」こそが、生身のままの飛白マルタという男を肯定してくれた証明のようで、少なくとも救われていた。
――医者の前に人間で在って良いと、そう伝えられた気がした。
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