新体制に向けたあれこれの話し合いと、念には念をってことで重ねた健康診断をようやく終えて、アルカディアの新生はつつがなく進んでいる。
病室を抜け出したことについては医者からこっぴどく叱られたものだが、どうにか退院まで漕ぎ着けることもできた。
二度と帰れないと思っていた自宅で、今日も猫たちと平和に暮らせている。新しい日常の始まりを感じられるようになった今、真っ先にやるべきことと言えば……
「きったねぇな! どうなってんだこの部屋!」
「あ、あはは……いやぁ面目ない……」
……レザラの部屋を掃除することだった。
一連の騒動で放置した自宅が大変なことになっている、手伝ってほしい、とレザラから連絡が飛んできたのは今朝のことだ。俺と違って長期入院したわけでもないくせに、何で家が大変なことになるんだと呆れながら向かった先で、俺はのこのこ出向いたことを後悔させられていた。
床には脱ぎ散らかした衣服。机にはインスタント食品の空き容器。掃除機もかけられていないであろう部屋の空気は淀んでいる。レザラの生活能力の無さは嫌と言うほど思い知らされていたが、ここまで酷い状態になっている部屋を見るのは初めてだった。
「信じらんねぇ……暮らせてんのかこんな部屋で……」
「ほぼ寝に帰るようなものだったからなぁ……片付けるつもりはあったんだけど、つい後回しに……」
俺を呼びつけた部屋の主は、汚部屋の真ん中で肩身が狭そうに縮こまっている。縮んでいる暇があるならゴミ捨てくらいしておいてくれと怒鳴りそうになったが、もしそうしていたら片付け途中の袋で逆に散らかっていたかもしれない。想像できてしまう惨状に怒りを飲み込んだ。
代わりに特大の溜息を吐いて部屋に押し入る。床を占領するくしゃくしゃの服を蹴り飛ばして纏めながら道を作っていった。
「これ全部洗濯物か!? 洗濯機に放り込んどけよ!」
「あ、こっちは洗ったやつ。こっちはこれから洗うやつ」
「どっちも床に置いてんじゃねぇ! せめて洗ったやつ畳め! あーもう皺になってんじゃねぇか! 全部洗い直しだ!」
うわーんとわざとらしい泣き真似をしながら、レザラは次々と衣服を拾い上げていく。指示を受けてようやく動き始めたレザラを横目に、俺は部屋の窓を全て開け放っていった。
吹き込む爽やかな風が、埃っぽい空気を洗い流していく。やっとまともに息ができるようになって、さて次は、と部屋を見回した。洗濯物はレザラにやらせるとして、放置されたゴミの数々を片付けなくてはならない。
ゴミ箱の方を見れば、とっくに容量オーバーした箱の上に、無理やりゴミをさらに乗せた悍ましい塔が立っていた。呆れすぎてもう声も出ない。違法建築にも程がある。
「テメェ……ゴミくらい出しておけよ! 箱溢れてんじゃねぇか!」
洗面所のレザラに向けて怒声を発すると、少し遠くから洗濯機の無駄に明るい音楽が届いた。洗濯が無事に始まったらしい。気まずそうな顔をしたレザラが、恐る恐る洗面所から顔を出した。
「だ、出そうとは思ってたんだよ。思ってたんだけど……気付いたらゴミ出しの日を過ぎてて……それの繰り返しで……」
もじもじと視線を彷徨わせてレザラは弁解しようとする。俺は勝手知ったる棚から空のゴミ袋を取り出して、一枚を奴に投げつけてやった。ひらひらと風に乗るそれを器用にキャッチしたレザラは、俺が指差すゴミ箱を見てがっくりと肩を落とす。耳を垂れさせながら、違法建築物の解体工事に乗り出した。
俺はもう一枚ゴミ袋を取り出して、机の片付けに取り掛かる。栄養補助食品や完全栄養食のパウチが打ち捨てられていた。同じ種類、同じ味の製品ばかり並んでいる。こんなんばっか食って飽きねぇのか、と思いながら片っ端から掴んでゴミ袋に放り込んでいった。
「ったく……何をしたらこんな有様になるんだ」
「何も」
肩をすくめながら呟いた苦言に、驚くほど簡潔な言葉が返ってきた。思わず手を止めて振り返る。先ほどまで言い訳を連ねていたレザラは、俯きながらゴミ袋を見つめていた。
「何もしなかった。一人で家にいると嫌なことばかり考えるから、なるべく外にいるようにした。最低限のことだけこなして、無理やり寝て、起きたら余計なこと考える前に外に出るようにした」
レザラの声に、顔に、何の感情も見えなかった。まるでレザラの姿をした人形が喋っているみたいだ。知ってるはずなのに知らない親友の姿に寒気を感じて、思わず視線を逸らしてしまう。机の上に置かれた空き容器の数々。その中に埋もれるように、睡眠薬の空シートと潰れたアルコール飲料の缶が転がっていることに気付いてしまった。
「何食べても味がしないから何を食べても一緒だし、もう家に誰も来ないから散らかしたって問題なかった。……客観的に見ると酷いものだけど、あの頃のボクは……うん、何とも思えなかったんだよね」
レザラが自嘲するような苦笑いを浮かべた。どこも見ていなかった目が現実に焦点を合わせて、やっと柔らかく細められる。
見知ったその笑顔に、あぁさっきまでの姿もまた、紛れもなくレザラなのだと実感してしまう。人形なんかじゃない。表に出てしまっただけの、知らなかったレザラの一面。
凄惨な部屋の様子は、レザラが過ごした破滅的な生活の名残だ。こいつはこの部屋で、あんな空っぽの顔をして、どんな思いで日々を過ごしていたんだろう。空き容器を掴む手が震えて、握り潰した容器が耳障りな音を立てた。
一つ、二つ、と放置されたゴミを捨てていく。こんなものはもう、ここにあってはいけない。無意識に詰まる呼吸と、熱くなる目の奥を誤魔化すように、乱暴に袋の底へと詰め込んだ。
自暴自棄になってんじゃねぇとか、自分を大切にしろとか、かつての自分なら叱り飛ばせたのかもしれない。だが、こいつがこんなザマになった原因には俺も含まれているんだろう。原因のうち何割が俺なのかは、考えないようにした。
自分の暴走を棚上げしてこいつを責めるのも違う気がするし、慰めるのも違う気がする。どうしようもなくなって、俺はレザラと同じような苦笑いを浮かべることしかできなくなっていた。
「……お前って奴は……本当に……目を離すとすぐ駄目になるな」
「うん、ボクはキミがいないと駄目なんだ」
だから、もう二度と。そう続けようとしたレザラを遮るように、封をしたゴミ袋を突き出す。人が考えないようにしていたことをあっさり言いやがって、こいつめ。
「分かったから。これ外に出してこい」
「……うん」
レザラは小さく頷いて、俺が渡した袋と、自分で詰めた袋の二つを持って外に出ていった。足音が離れたことを確認して、ずるずると床に座り込む。はぁ、と溢した溜息は、自分でも嫌になるくらいか細い。
もし、あの時言葉を止めなかったら何て言われていただろう。もう二度と離れないで、一人にしないで、なんて聞いてしまったら、俺は何て返していただろう。
俺だってお前がいないと駄目だ、もう離れたくない、お前も自分を粗末にしないでくれ、なんて、想像するだけで恥ずかしくてたまらない言葉をうっかり言ってしまっていたかもしれない。危ないところだった。正直に話し合うことの大切さを学んだとはいえ、こっちにだって心の準備とか、段階というものがある。
『ボクはキミがいないと駄目なんだ』
「…………くそっ」
レザラの言葉を思い出すだけで、やたらと心臓の鼓動が喧しい。ぜってぇ今俺の頬熱いんだろうな、確かめたくねぇな。
病室で、レザラの事を何度も考えた。俺が死んだと思って嘆き悲しんでいるかもしれないとも思った。けれど実際は悲しむなんてレベルじゃなくて、後を追ってしまうんじゃないかってくらい悲惨な様子になっていて。
レザラの心情を思うと胸が裂けそうなほど痛む。それと同時に込み上げてくる甘くてドロドロした気持ちにも、いい加減向き合わないといけないんだろう。
なぁレザラ、沢山の袋いっぱいに詰め込んだお前の痛みは、俺のせいだと驕っていいか。この甘ったるいドロドロはお前の傷口からも溢れているんだと、信じていいか。
蹲ったまま頭を抱える俺の耳に、部屋に近づくレザラの足音が届く。つい反射的に立ち上がって、何でもないかのように装ってしまった。こういうのがいけないんだろうなと思いつつ、染み付いた癖を直すにはまだ時間が掛かりそうだ。
部屋に戻ってきたレザラの顔は、随分とすっきりしたものになっていた。俺と目が合うとレザラは落ち着きなく尻尾を揺らす。しばらくして意を決したのか、口を開いた。
「……ヘクトール……あのさ……ボク、ヘクトールの作ったご飯が食べたい。ヘクトールと一緒に出かけたいし、ヘクトールと一緒に試合も見たい。ボクの家に泊まってほしいし、ヘクトールの家にも泊まりたい。それからそれから……」
レザラの口から出るのは堰を切ったように溢れる欲求の数々。何だよお前、ダメダメの空っぽになってたんじゃねぇのかよ。いや、空っぽだった分、急いで埋めたくなっちまったんだろうな。
「分かってる。順番な。部屋片付けたら買い物に行こう。全部やろうぜ、やりたかったこと全部」
まずは、部屋を片付けた後に腹いっぱい飯を食わせてやるところからだ。どうせ冷蔵庫の中も空っぽだろうから、食材も山ほど仕入れないといけないな。何を食べても味がしないなんて、二度と言えねぇようにしてやる。
空っぽになっちまったなら、何度でも俺で埋めればいい。そうして互いに満たされたなら、その時は今度こそ、この甘いドロドロの正体を、二人で確かめられるような気がするんだ。
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