夕暮れ時からの慌ただしさを楽しめるようになって、幾分か経つ。丸いちゃぶ台と、畳のへこみに合わせて置かれた子供用の椅子が一脚。自分で炊いた白米の温かな匂い。そして、目の前にいる幼い弟との会話。
「にいちゃん、きょうのハンバーグいつものよりおいしい!」
「それはきっとおみゃあが頑張って肉を練ってくれたからじゃ。自分で作ると格別じゃろ?」
「うん!」
先割れスプーンを使うヒマリの手はまだ覚束ないので、手伝ってやりながら食事を進める。一方でヒデオは子供用の箸を使って夢中でハンバーグを頬張っている。この様子だとおかわりをせがんできそうだ。余ったハンバーグは自分の朝食に回そうと思っていたがやめておこう。何か簡単なものを作ってから家を出るか、それともギルドで食べてから家に戻るか。頭の片隅で二択を選ぶ前に、黙々と食べていたヒマリがふりかけご飯の最後の一口を飲み込んだ。まだ食べる量が少ない妹は一番に食べ終わることが多い。保育園からの帰宅後すぐに風呂に入れたから、寝かせる支度はほぼ完了している。が、今日の最後の砦はなかなか険しそうだ。
「ごちそうさまじゃな、ヒマリ。さあ、今度は歯磨きせんと」
「んー……やー……」
眠たそうに首をぶんぶん振るヒマリ。保育園のママさんに聞いたところによると、寝る前の歯磨きが親子のバトルになることもしばしばだとか。ヒマリは癇癪を起こすようなことはないが、眠いときには口を真一文字に結んでしまう。こうなると大人しく磨かせてはくれない。
「おーい、まだねんねしちゃダメじゃよー」
「にいちゃん、おれヒマリのハブラシとってくる!」
ヒデオは食べかけのハンバーグを前に立ち上がり、パタパタと部屋を飛び出した。ひとまずヒマリを膝の上に転がしてみれば、眠いときの幼子特有の体温が太腿から伝わってくる。寝てしまわないように身体を揺らしてみるが、効果は薄そうだ。無理に口を開けさせようとすればぐずって余計に時間がかかるし、かと言ってこのまま寝かせるわけにもいかない。さてどうしたものか。今にも瞼が閉じそうと思われた時、意気揚々とヒデオが戻ってきた。
「ヒマリ、ヴァモネさんもみがいてくれるって!」
「……? あ、かもしゃん!」
うとうとしていたヒマリの目がぱぁと見開かれる。ヒデオの左手に握られていたのはヴァモネさんのぬいぐるみ。ヒマリの顔と同じくらいのサイズで、帽子と嘴のあたりが少しひしゃげているのはご愛敬だ。先輩退治人のヴァモネさんは子供人気ダントツ。このぬいぐるみはこの間本人から貰った新作グッズで、特にヒマリは保育園に持っていきたがるほど気に入っている。寝室に転がっていたのをヒデオが持ってきてくれたようだ。ちょっかいを出すこともあるけれど、その分ヒデオは妹の笑顔を引き出すことが世界一上手い。
「ありがとな、流石『ちっちゃいにいちゃん』じゃ」
誇らしそうに胸を張るヒデオから小さな歯ブラシを受け取る。ヒデオは俺の右側に座って、ヴァモネさんのぬいぐるみを楽しげに動かしはじめた。
「ほら、あーんしてヒマリ」
「……そうじゃ、いいこにしてたらヴァモネさんのおうた歌うぞー?」
そう提案してみれば、素直に妹の口が開いた。何度も聴かされすっかり覚えてしまったテーマソングを口ずさむと、ヒデオがヴァモネさんのぬいぐるみをダンスさせるように動かす。ヒマリの空色の瞳がぬいぐるみを追っている隙に、歯磨き粉を付けていないブラシで上の奥歯から順に磨いていく。優しく小刻みに、溝の細かい部分にポイントを絞って手早く。もうすっかり慣れたものだ。力加減が分からず苦労したころが懐かしい。
「えらいぞー、ヒマリ。あとちょっとで終わりだからな。いー」
「いー」
小さな前歯を磨きながらチェックし、異変が無いか確認。昨日と変わらず白く並んだ歯に一安心する。妹には虫歯で痛い思いをしてほしくない。できれば歯が欠けることもありませんように。今のヒマリと同じくらいの歳にヒデオは転んで歯を折って大騒ぎしたからなぁ。あれは我が家でもちょっとした事件だった。そんな刹那の思い出に浸りつつも、無事にミッション完了だ。
「よくできました。さ、うがいしような。……ヒデオ、おみゃあは夕飯食べててくれ。ついでに寝かしてくる」
「わかった! はいヒマリ、ヴァモネさん」
ヒデオからぬいぐるみを受け取ったヒマリは、再び眠気に包まれていく。そっと抱きかかえた妹の身体はくったりと力が抜けて重たいが、それがなんとも愛おしい。
「ねえにいちゃん、ハンバーグまだある?」
「もちろんあるぞ、あっためてやるからサラダもちゃんと食べて待っとれ」
「……がんばる」
野菜たちと格闘する弟に微笑み、部屋を後にする。ギルドに行くまであと二時間少々。兄としての仕事は、まだまだこれからだ。
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