ちゆき
2025-12-30 13:30:28
11894文字
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1年目.きみのて

*pixiv閲覧制限国の方用にpixivから持ってきました
*セバスチャンお誕生日おめでとう!
*牧場主がやって来て一年目の冬、セバスチャンが恋を自覚した日のお話
*Xで12月〜2月(3月?)の10日に開催される生誕祭用タグ「#HAPPY_SEBASTIAN_DAY」にあわせて誕生日にまつわる4部作になります、続きは1月10日に

 小さい頃、夕方を過ぎて暗くなっても線路から戻らない自分を探して母親が迎えに来てくれていた。線路へ行く理由はさまざまだった。たまに落としていく石炭や石を拾いたいだとか豪華な客室のついた列車が見たいだとか、冬には玩具のロゴでラッピングされた貨物車がこの町に停まりやしないかだなんてことを考えながら近づく汽笛の音に心を弾ませたものだ。
 それと同時に誰かが駅にやってこないか、そしてそれが自分を迎えに来てくれるただ一人の人物でありやしないか──たとえあの家を離れることになったとしても。けれどいつだって自分を呼ぶ声は駅のホームではなく駆け上ってきた階段の下から響き、振り返るとなにも知らないご機嫌な母がセビィと手を振っていた。

 今日も誰も来なかった。昨日も明日も明後日も。長く続くトンネルの向こうの外の世界を見たい。ただそれだけなのにどうして、母に手を引かれ帰る家にはいつだって妹とその父親の笑い声が響いていて、自分はそれをただ離れたところから眺めているばかりだった。


***


 冬の九日午後三時、遅めの昼食を取ろうと階上へ向かうと母の店から賑やかな声が聞こえた。ひとつはもちろん母親のものだ。やだもうと馬鹿みたいに笑っていて、きっとおそらく身振り手振りでそうしている姿が目に浮かぶ。そしてもつひとつはこの家の誰ものでもないもの、この一年で大分と聴き馴染んできた女の声だ。しかしどう考えてもその組み合わせは厄介で、身を屈め早足でキッチンへと向かおうとするとどのようにして気づいたのかは知らないがセバスチャン、と自分を呼ぶ母の声がした。
「──ねぇセバスチャン、ちょっと!」
……なに、母さん」
「聞いてよ、この子ったら私のこと子持ちに見えないって」
 顔に出してまでとても渋々向かったはずであるのにまるで気にする様子も見せない母はそんな気が遠くなるほどどうでもいい話で目尻を下げる。ほら見ろ、だから厄介だと思ったんだ。元凶である女へ呆れ調子に視線をやると、彼女はこんにちはとひらひら小さな手を振った。
「そんなわけないだろ、なにかまけてもらおうとしてそう言ってるんじゃないのか?」
「いや本当に、初めてここへ来たときこんなに大きな子どもがいるって聞いてびっくりしたもん……そりゃまぁちょっとおまけしてもらえたら嬉しいけど」
 おまけという言葉につられてカウンターを見ると施設の設計図が広がっている。おそらく牧場施設かなにかの依頼をしに来たのだろう。もじもじと指を弄りながらはにかむその女はこちらの冷ややかな視線に漸く気づいたのかちょっとだけね、と肩を竦めた。尤も母はそんな彼女をかねてから気に入っているようで、今も仕方なのなさそうに微笑みカウンターへ頬杖をついた。
「もう、現金ね……だけど特別にいいわよ、いろいろ依頼も買い物もしてもらったし明日はおめでたい日だしね」
「明日?」
「そう! 明日はね、セバスチャンの誕生日なのよ」
 冬の十日、毎年淡々と繰り返し訪れるその日は二十年と少し前から自分のせいで母の言ったようなそんな称され方をするようになった。町長が毎月せっせと貼り出す町内のカレンダーにもそれは律儀に記載されていて、それでもこの町の殆どの人間は気にも留めていないだろうと思う。わざわざあれこれと考えを巡らすのは母と数少ない友人だけだ。自身にとってもなにも特別ではないその日の話を持ち出されたことに溜息を吐き首を振った。
「やめてくれ、母さん。もうそんな年でもないよ」
「なに言ってるのよ、いくつになったって自分の子どもの誕生日はめでたいものだわ」
「セバスチャン、誕生日なの?」
……別に、だからといってどうということもないさ」
 そう、ただ過ぎていく毎日と変わらない。先も見えず闇雲に周回をさせられるトラックの起点に戻ってくるだけだ。それなのに隣に並ぶ女は先ほどまでの和やかな表情を封じ込め、なにかを考えるように誕生日とだけ呟いていた。


 いつからだろう、夢と期待を膨らませて訪れていた線路でただぼんやりと煙草を蒸すだけになったのは。あの頃にいい思い出があるわけではない、戻りたいわけでもない。ましてやあんな日々を繰り返すのなんかとんでもない話で、ただかつては持っていたはずのものたちすら見失ってしまった自分が虚しかった。
 誰も来ない、けれど誰かが来るかもしれない。もう子どもではないのだからいつでもどこにだって行けるのに、今夜もまたふらふらと雪のちらつく外へ出ては誰にも見つけてもらえないような小さなあかりを灯す。星明かりどころか一夜限りの蛍にもなれやしない、そんな一点の染みのようなあかりを。


 その当日はやはり例年とそう大差のないささやかなものだった。ささやか、朝一番に騒がしい友人が部屋を訪れベッドから引き摺り出されたのがささやかと呼べるならばそうであるのだろう。それから少ししてまた一人昔馴染みの女子がやってきたので三人でゲームに興じたあと、夕食時に差しかかる前には結局祝いに来たのか遊びに来たのかわからない友人達もまたなと笑って山を下って行った。母はあの子達も食べて行けばよかったのにと言ったが、帰っているものをわざわざ追いかける気にもなれずまたいつかと適当に流して終わった。そしてそのまま自分の好物の並んだ食卓を家族と囲み、今漸く一人の時間を取ることのできた自分はいつもの湖のほとりで騒々しかった一日に終わりを告げるよう愛飲する煙草を咥えた。
 そろそろ二十一時になるだろうか、いつもよりも少し遅い時間に出た外は雪がちらつき始めていた。先ほど友人が帰ったときには降っていなかったのでやはり早い時間に帰して正解だったとあのときの選択を心の隅で正当化する。音まで凍りついてしまったような静寂の中フィルターの縮みゆく微かな音までもがじっくりと身に染み渡る、そんな心地よさに瞼を伏せ感じ入っていたところに暗闇の奥から雪を踏む音が聞こえ、それは突然こちらへ向けて速度を早め近づいてきた。
……いた!」
 その足音の主は今春この地へやってきた牧場主、昨日母の店で僅かな時間会話をした女だった。不思議なことに声が聞こえただけでどんな暗闇とはいえ姿形が認識できるもので、鉱山の方からやってきたその影はよかったと安心したように頬を緩ませた。
「なんだ、お前か」
「もう帰っちゃったかと思って急いで来たの、間に合ってよかった」
「間に合う?」
「うん、手出して?」
 彼女はそう言うと自らの鞄から布に包まれたものを取り出したかと思うとその包みを軽やかに解き、素直に差し出したこの掌の上に中身を転がした。少し重みのあるそれは石だろうか、やや丸みを帯びているようだ。しかしこの暗がりではなにかもわからず握って形を確かめていると、彼女がちょっと待ってねと携帯用のランタンを取り出し明かりをつけた。
「セバスチャン、お誕生日おめでとう」
 やわらかな暖色に照らし出されたのは白銀の世界を閉じ込めたように冷たくも美しい鉱石、鉱山の中階層で採掘できる自分の好きな石だった。しかしそれは普段見かけるものや所持しているものよりも大きく、更に形もほぼ完璧に近い雫を模している。まるで作りもののようなその鉱石の真贋を見極めるかのように今一度摘み上げ、そうしてくるくると光に透かすようにしてはその美しさと希少性に感嘆した。
「すごいでしょ、今までのよりもとっても大きくて綺麗で……誕生日プレゼントになるかなって思ったんだけど、だめ?」
「誕生日? 俺の?」
「もちろん! 遅くなったけど今日渡したかったの、おめでとう」
 ランタンを器用に指に引っ掛け軽く拍手をする彼女、このとき間違い探しレベルのそれに気づいたのがすべての始まりだった。明かりが照らし出したのはこの鉱石のみではない。こんな時期、しかも鉱山で採掘作業をしていたであろうにも関わらず手袋を嵌めていない彼女の手が偶然目に入り、これまでの驚きが一瞬ですり替わってしまった。
「おい、それどうしたんだ?」
「え? どれ?」
「手だよ、傷だらけじゃないか」
 そう指摘した彼女の手はいつにも増してぼろぼろだった。煤や土でところどころ黒くなっているのはともかくとして皮が捲れていたり爪も割れて不恰好になっていたり、ぼんやりとした明かりのもとでも擦り傷切り傷が見て取れる。彼女は咄嗟に拳を握ってそれを隠そうとしたがもう遅く、気まずそうに笑っても誤魔化せないというのに。
「いやこれは……
「手袋はどうしたんだ? してなかったのか?」
……破れたりべとべとになったから外しちゃった」
「予備は?」
「ごもっとも」
 途中で予備を持ってきていないことに気づいたけれど戻る時間も惜しくまた店も定休日だったのだと肩を竦める。おどけるように笑みまで浮かべ、ある種開き直った風に振る舞う彼女に未だ手に握ったままの石の重みが増した気がした。
……お前、飯は?」
「ご飯はまだ、帰ったら食べる……
「ならうちに寄って行くといいよ、夕飯の残りが少しある」
 短くなった煙草を携帯灰皿へ押しつけながら母親が冷蔵庫へ詰めていた品々を思い返す。残していても明日つまむくらいだしスープも鍋を空にするには数日はかかってしまう。それに母親のことだから誰かに食べてもらえるのを喜ぶだろう。問題はこんな時間に女子を連れ込むのをひどく揶揄ってくる様子が今から容易に想像できるということくらいで、そのほかについては本当に瑣末なことだった。
「でももうこんな時間だし、迷惑だよ」
「いいから、母さんがサム達も食べると思って多く用意してたんだ。それに手もどうにかした方がいい」
 けれど家の方へと促しても未だに躊躇うばかり、そんな彼女の手からランタンをひったくり有無を言わさず歩き出した。そうすると僅かに間は開いたものの一歩二歩と雪を踏む音が背後から聞こえ、少し駆け足になったかと思うとそれからすぐにごめんねと小さく呟いたのが隣から聞こえた。

***

 おそらく外へ出た自分のためだろうか、店には小さな明かりがついていたが家の中はしんと静まり返っていた。全員自室へ引っ込んだのであれば都合のいい話で、このまま誰も出てこなければいいと土台無理なことを願いながら店のカウンターへ回って救急箱を探す。職業柄よく怪我を作る家族であるので応急品が常備されているのは知っているし、なんならついこの間も母親が指をどうかしたとかで絆創膏を巻いていた。案の定取り出しやすい場所に置かれたそれを手に取り体を起こすと、小動物のようにおどおどと辺りを見渡している彼女と目が合った。
「どうしたんだ?」
「いやだって、こんな時間にお邪魔しちゃっていいのかなって」
「別に言うほど遅い時間じゃないだろ」
「なんかこの町の人みんな早く家に帰るから……
「誰もこんな田舎でやることがないだけだよ、今この時間もどうせ酒場は酔っ払いだらけだしな」
 そもそも母が文句を言うはずはないし異父妹も思いもかけぬ友人の来訪に喜ぶだろう。継父だけは不確定要素だが流石に彼女に向かって悪態は吐かないと信じたい。あとで自分が口煩く小言を言われる分にはどうでもいいからどうか出てきてくれるなと願いながら行くぞと彼女を家の奥へと促した。

 ぱちんとキッチンの明かりをつける。案の定誰もいないそこは水道から漏れる水音ひとつとして立ってはいないが、その代わりに夕食の名残りが香りとしてそこかしこに漂っていた。所狭しと料理の並べられていたテーブルも今は綺麗さっぱりと片づいており、一旦その上に救急箱を置いてから出しっぱなしの鍋の中身を確認する。母の得意なカボチャのスープは今年も例に漏れずたっぷりと作られていて、今ここで二人が食べてもなくなることはないだろう。気がつけば部屋の入り口で立ち尽くしたままの彼女に声をかけた。
「とりあえずそこでいいから手を洗ってくれ」
「うん……
 ここまで来れば諦めもついたのか、彼女はすんなりとその指示に従った。ざあとシンクに水の流れた音を聞きながら自分もスープを小鍋に移す。そういえば彼女はどれくらい食べられるのだろう、好き嫌いはあるのだろうか。冷蔵庫にまだ残った料理もあるからそれも少し出してやろう、そう彼女を振り返ったときだった。
「セバスチャン? 夕飯が足りなかったなら……あら、どうしたのこんな時間に」
 薄暗い廊下からそんな声とともに顔を覗かせたのは母親だった。忙しなかった一日を終え寛いでいたのか結っていた髪を下ろしブランケットに包まって、どうやら自分がキッチンへ来たのを耳聡く聞きつけ現れたらしい。普段は家族以外に見せない女主人の無防備な姿に二重で驚いたのであろう客人はすぐさま手を洗っていた水を止め、濡れた手もそのままに慌てて姿勢をぴんと正した。
……別に、たまたま外で会って飯がまだだって言うから連れてきただけだよ」
「ロビン、こんな時間にごめんなさい」
「気にしないで、また鉱山に行ってたの? ぼろぼろじゃない」
「あ……ちょっと鉱山で探しものしてて、そしたら帰り道でセバスチャンに会ってそれで……
 状況をかいつまんで説明した自分に乗るかのように彼女もまたしどろもどろと言い訳をする。しかしそれはどうぞ怪しんでくださいと言わんばかりで、咄嗟に自分もポケットに手を突っ込み不思議と手に馴染む石を握った。別にやましいことなどひとつもない。ただ偶然湖で鉢合わせて誕生日の贈りものをもらい、夕食もまだだというからお礼も兼ねて連れてきただけだ。それなのに母は彼女と自分とを交互に見遣り最後にこちらへ悪戯な視線を投げかける。
「ふうん?」
……なんだよ」
「いいお誕生日を過ごしているようでなによりと思っただけよ」
 にやついたその表情に思うところは随分あるが彼女が身を小さくしてまで畏まってしまったままなのでそれ以上の反論はやめた。言い返したところでまたおろおろと所在なげにさせてしまうだけだ。ふいと顔を背けた自分に母は肩を竦め、ずり落ちそうになったブランケットを羽織り直した。
「じゃあ私は戻るからセバスチャン、鍋は焦がさないように気をつけるのよ。それと他の料理も出してあげて、残りものだけどよかったら」
「わかってる」
「あの、本当にお気遣いなく……
「いいのよ、遠慮しないで。でも明日は朝一番に牧場に行くから寝坊しちゃだめよ?」
 そう言うと母はおやすみなさいと手を振り静かに戻って行った。そういえば牧場になにか施設を作るのだったか、それが今日のために開始日を先延ばしにしたらしく、夕食時に明日は夜まで戻らないからとそんなことを言っていた気がする。別にこんな一日よりも互いの仕事の方が大事だろうと思うが結局お節介を焼くのは自分も同じことだと思い直し、おずおずとこちらを振り返った彼女へ近くの椅子を指さした。
「そこに座って、まずは手当が先だ」
「これくらい平気なのに……
「そうだとしてもするに越したことはないだろ、一応女子だしな」
 小鍋を火にかけた自分は彼女へ勧めた席の隣に椅子を引っ張ってきて座り、救急箱から消毒液や絆創膏を取り出した。自分も幼い頃は何度となく世話になり、母が怪我をした際には絆創膏を巻いてくれとせがまれることもあった。だからこれくらいは別に造作もなければ特別なことでもなんでもない。しかし未だ席につかない彼女を不思議に思って顔を上げれば彼女は唇を尖らせなにかまごついているようだった。
「どうしたんだ?」
「別になんでも……
「早くしないと鍋が焦げるぞ」
「それはちゃんとかき混ぜてよ!」
「それこそお前次第だよ」
 早くしろともう何度目になるかもわからない催促をすると彼女は渋々ながらも漸く席につく。正面にちょこんと小さく腰掛けた彼女からそっと差し出される小さな手、その指先を掴んで引き寄せひとまず怪我の具合を確認した。
 つい一年前までは暖かい部屋でひたすらモニターに向かい合っていたという彼女も今は受け継いだ牧場にかかりきりで、自分よりもずっと頼りないその手はぼろぼろだった。畑や水仕事でできたのであろうあかぎれは浅いものから深いものまで、もはやそれのない指がないほどだったし古くなった傷もたくさんある。指先で触れた掌の固い感触はきっと道具を振るったときにできたまめだ、滑らかでやわらかいだなんてお世辞にも言えやしない。爪だって欠けたり黒ずんでしまっていたり、自分とはまるでかけ離れたそれを見つめていると居た堪れなくなったのか彼女が苦笑を零した。
……汚いよね、手」
「別に、それだけ真面目に仕事してるってことだろ」
 そんな日々の仕事でできたような傷だけではなく本当についさっきできたような生傷もたくさん見られる。これが採掘をしていてできた傷であればまだしも洞窟に蔓延る生き物に触れていないとも限らないので消毒はした方がよさそうだ。そう判断した自分がまだ真新しい消毒液を容赦なくその手に直接散布すれば、途端に彼女は顔を顰めびくりとその肩を跳ねさせた。
「痛い!」
「仕方ないだろ、我慢してくれ」
「ねぇ、液垂れてるし!」
「アルコールだからすぐ消えてなくなるよ」
「だとしてもせめてガーゼとかでぽんぽんって……
「こんなに傷があったら直接かけた方が早いからな、ほらそっちの手も」
「またぶっかけるでしょ……?」
……痛いのは一瞬さ」
「それが嫌なのに!」
 こんな時間だからと畏っていたのが嘘のように首を振り足をばたつかせて暴れる彼女のもう片方の手を引き、再び傷全体に消毒液を振りかける。しかし痛みが予想できたのであろうこと、またこんな時間であることを思い出したのであろうことから彼女は叫びも罵りもせずただ歯を食い縛って耐えてみせた。その際にとんとんと床を叩いた爪先がこの足を踏んだけれどそれくらいは許してやるとしよう。身悶える彼女をよそに一度席を立ち小鍋を覗くとふつふつと煮立ち始めていたので、それが焦げつかぬようレードルでかき混ぜた。
……おに、あくま」
「本当にそんな漫画みたいなことを言う奴がいるんだな」
「私だってこんなコメディドラマでもやらないような雑な手当て初めて」
「そうだな、コメディじゃなく医療ドラマでならきっと見られるだろうね……ほら続きをやるぞ」
 火を少し弱め気泡が小さくなったのを確認してから席へと戻ると彼女はじとりと疑いの目を投げるが、もう痛いことはしないと吹き出すと警戒心をむき出しにしながらもこちらへそっと手を差し出した。
 岩壁にでも擦ったのか薄く瘡蓋になり始めた擦り傷、なにをどうやってついたのかわからない切り傷、ついでにあかぎれにもひとつひとつに絆創膏を貼った。大きなものにはガーゼを当ててテープで止めて、そうしていくうちに彼女の手はどんどんと肌の見える面積が少なくなってしまい、片方の手の処置を終えた頃には彼女がおかしそうに吹き出した。
「へたくそじゃん」
「うるさいな」
「だってこんなにいっぱい貼られたら指動かないよ」
「仕方ないだろ……ちょっと考えごとをしてただけだ」
「考えごと?」
 ひとしきり笑い切ったのかふうと息を吐きながら首を傾げる彼女、そのガーゼと絆創膏で凸凹と不恰好になった手を解放した自分はまだ未処置の手を取る。きっと利き手なのだろうその掌は転びでもしたのか一面擦り剥いてしまっていて、幸いにも異物はなさそうだったのでワセリンを塗り広げてまた清潔なガーゼを一枚あてた。しかしこの手はそれをテープで止めることもせずそのまま指でやわく押さえつける。血も出ていないその箇所にそうする必要はない。それなのになぜそうしたのか、その理由を説明することのできない自分はただ視線を握った手へと注いだ。
 冬の夜に凍えていた指先は真っ赤になっていた。おそらく水道の水温の方が鉱山よりも温かかったのだ。もしくは無遠慮にぶちまけた消毒液で傷口が疼いているのかもしれない。厚手の作業着もところどころ破れてしまっていて、泥や砂だけではなく粘着質な半液体のものも付着している。汚れを気にした彼女が家に入る前にしつこく叩き落としてはいたけれど間に合わなかったようで、今も落ち着かないように膝が小さく動いた。
 本当になんでもない一日だと思うのだ。期待するのもくだらないし、もはやめでたいなんて年齢でもない。異父妹が形式張ったように声をかけてくる朝から始まり、サムとアビゲイルがわけのわからないものを誕生日プレゼントだと称して持ち寄るものだからいつもどおりに馬鹿をやって遊んで、そして少し豪華になる夕食には毎年なにがあっても母特製のスープが華のように添えられる。町に貼り出されたカレンダーに自分の名前があったって彼等のほかに誰も気にはしない、今年もそんな一日であるはずだった。
 それなのにどうして誰でもないお前が誰よりもぼろぼろになって一人きり音もない鉱山に篭り、こんな怪我などなんてこともないといった顔で笑って俺の目の前に現れたのだろう。なにかを用意したかったというのならなんだってよかったはずだ。こんなに汚れ傷つく理由などどこにもなく、考えても考えてもなにひとつとしてわからない。ポケットにしまった石がずしりと重くなった気がして、なにを言うかも思いつかぬままに口を開こうとしたときだった。
「ねぇ、セバスチャン」
「ん?」
「スープ、焦げてない?」
 その言葉にはっとしてコンロの方を見ると確かにぼこぼこと沸騰している音が聞こえ、少し香ばしいかおりが立ち始めている。慌てて立ち上がり火を止めたが僅かに遅かったようで、底をかき混ぜたレードルには正しく彼女の言うとおりに焦げ目が付着していた。
……悪い、気づかなかった」
「大丈夫、それちょうだい?」
「これを?」
「うん、いい匂いでお腹空いてきちゃった」
「いや、新しく温め直した方が……
「いいの、それがいい」
 彼女はそう言うと席を立ち、隣に並んでこちらを覗き込んだ。さらりと揺れる髪の一本まではっきりと見えるのではないかと思うほど突然飛び込んできた彼女に一瞬心臓が酷く痛み、思わず目を逸らすもそれが更なる戸惑いとなって襲いかかる。ねえとこちらを窺う声にも息を呑む始末で剥がれた焦げの浮くスープに真っ直ぐ視線を落とすしかできなかった。
「どうしたの?」
……別に、わかったから席に戻ってくれ。終わったら準備するから」
「またぐるぐる巻きにするんでしょ? 食べられるかな」
「もうしないよ」
「えぇ、ほんとに?」
 揶揄うようにくすくすと笑う彼女はそう言いながらもそのまま大人しく席へと戻った。早く振り返って続きを、そうしてさっさと食べさせて帰さなければ。しかしこれまで味わったことのないような胸の内の感覚に持っていたレードルを置くことさえもできず、この雑然とした空間に真っ逆さまと溺れていく心地を覚えた。

***

「ごちそうさまでした。美味しかったよ、ありがと」
 手当てのあとに夕食を振る舞いそれから少し話をして時刻は午後十一時を目前に控えた頃、彼女を見送るために再び雪の舞う夜へと降り立った。月明かりは雪雲に隠れたまま零れ落ちることもなく、その代わりに家のあたたかな色をした明かりがうんと背を伸ばす彼女のシルエットをやわらかく浮かび上がらせる。その際に吐き出された白い息は満足の証だろう、振り返った彼女は満面の笑みを見せた。
「礼は母さんに言ってやってくれ、きっと喜ぶよ」
「そうだね……スープ本当に美味しかったな、そのほかのお料理もさ。いいお誕生日だったんだろうね、いいなぁ」
 羨ましいと無邪気に笑う彼女はきっとこんな田舎の上澄みだけを見ている。だからなにも知らない彼女も言葉を詰まらせた自分も誰も悪くはない。ポケットの中に入れたままだった鉱石を取り出せばそれは掌に薄青い影を落とし、一等美しいその輝きは会話が途切れ彼女の視線が牧場へ続く裏道に移ったのを引き止めるようにこの口を開かせた。
「なぁ」
「え?」
「ありがとな」
 あんまり静かな夜だから数歩分の距離が空いているとはいえ間違いなく彼女に届いているはずだ。それでも彼女がきょとんとしているということはまさか自分の口から礼が飛び出すなんて思いもよらなかったということだろうか。これだと雫型をした石を掌ごと差し出すと、漸く合点のいったようにああと彼女は頬を緩ませた。
……さっき言いそびれてたからな。口煩く手当てする前に言わなきゃいけなかったのに、悪かった」
「ううん……私こそ逆に気を遣わせちゃってごめん」
「いや、正直嬉しかったよ。こんなに大きくて綺麗なものは初めて見た、大切にする」
 本来であれば受け取った際に真っ先にそう伝えるべきだったのに、間接的にとはいえ怪我をさせた後ろ暗さからついああだこうだと世話を焼きすぎてしまった。今漸く素直な思いを言葉に乗せ手の中の石を大事に握り締めると、彼女もやっと安心したように微笑んだ。
「来年のハードル上がっちゃったね、どうしよっかな」
「いいよ普通で、本当になんでもない日なんだ」
 早くも今から来年の話をする彼女に苦笑を浮かべる。なんでもない日、そう思えばほんの些細なことで愛されていることを感じられるしなにもなくたって問題はない。妹のようにはなれない自分だからそう繰り返し続けいつしかそれが当たり前になっていた。それこそ悲しいことでもなんでもない。自分を受け入れてくれる場所も人間もなにもかもがただ自分には縁遠いものだっただけ、それなのに。
「お誕生日おめでとう、セバスチャン」
 ぼんやりとした頭に雪を踏む音が届き、それからすぐ石を握り締めたままだったこの手をそっと包むあたたかなものがあった。目を見張ったそこにはぼろぼろになった小さなふたつの手、ゆるゆると顔を上げて彼女を見るとなにをそんなに嬉しいことがあるのかこちらへ微笑んでみせている。鼻と頬を赤くしてにこやかに、ああきっとこの手の中にある石が放っていた光はそっくりそのまま彼女の美しさなのだろう。そう思わせてくれるようなそんな笑顔で。
 彼女はそれ以上なにも言わなかった。綺麗な部分だけを見てなにも知らないと思っていた目はすべてを見通しているように真っ直ぐとこんな自分を見つめ続ける。だからとつい思わず顔を背け伸びた髪で表情を隠そうとしても隠し切れるはずもない。傷だらけで熱を持った掌の触れた箇所から少しずつなにかが溶け出していくような心地を覚え、もうどうしたって抗えないと知った自分は小さく首を振った。
……お前の手、凸凹してるな」
「いやこれセバスチャンがやったんじゃん!」
「さぁな、そうだったか?」
「こんなにぐるぐる巻きにしてくれちゃってさ、これじゃなんにもできないよ」
「でも悪くないよ、いかしてる」
……褒めてるのかな?」
「これ以上ないほどにね」
 肩を竦めてそうおどけてみせるとふと目のあった彼女は吹き出すように笑みを零した。だからつられて笑ってしまったのは仕方がなくて、そうだもう仕方がない。これは恋だ。このどうしようもないやさしさでぼろぼろになったお前の手に、お前自身に恋をした。こんなにも呆気なく、そして当たり前のように。
 未だこの手を包んだままの彼女の手に空いた自分のそれを重ねた。たった今ガーゼや絆創膏で凸凹だと笑ったその手を愛おしく思いながら、しかしそれが気取られないよう優しく引き剥がす。白い息が綿菓子のようにふわりと溶けゆき、ふたりの間に走った沈黙が静寂に置き換わるまでただひたすら互いに見つめ合っていた。
……そろそろ帰った方がいいよ、積もる前に」
……うん、そうしようかな」
 しんしんと降る雪の粒が絆創膏の巻かれた指先に落ち再び凍えさせても今の自分にはそれをあたためる術も権利もない。だからそっと離した。本当はどうにも名残惜しくそのまま握り返して指を絡ませその手を引いて、できることならこの腕の中に閉じ込めてしまいたかったけれど。
 一歩二歩と後退り、次の一歩で爪先の向きを変えた。そんなゆっくりとした足取りで牧場へ続く道へと向かい始めた彼女はその姿が暗闇に飲み込まれるか否かといった瞬間にくるりとこちらを振り返った。どうせなら背中の見えなくなるまで見送っていようと思っていた自分は突然のことにどきりとするも、彼女はその場から少し声を張ってこの名を呼んだ。
「ねぇ、セバスチャン」
「なんだ?」
「会えてよかった、どうか素敵な一年になりますように!」
 
 出会って一年と経っていない他人のためにどうしてこうまでする必要があったのか、その理由を尋ねればおそらくこともなげに答えてくれるだろう。けれどなぜだかそうしたくはなかった。都会のネオンよりも遠くに浮かぶまんまるな月を追いかけながらずっと走っていたい、強いて言えばそんな気分だった。あの手の傷跡は雪が解ける頃にはきっと綺麗になくなっているはずだ。そうしたら以前にした約束を果たそうか、バイクに乗せてやると言ったあの約束を。またねと大きく振られた絆創膏だらけの不恰好な手は今日という日の終わりにやわらかな火を灯した。