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ちゆき
2025-12-30 13:27:06
9903文字
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イタズラなんて言わないよ
*pixiv閲覧制限国の方用にpixivから持ってきました
*『イタズラなんて言わないで』の後日譚
*セバスチャン×女牧場主(ネームレス•容姿設定なし)
*冬のとある一日、スピリットイブのやり直しをするお話
「ねぇ、スピリットイブのやり直ししない?」
それは冬が始まったばかりの金曜日のことだった。いつものように酒場に集まった私達がビリヤード勝負の前にと夕食をとっていたさなか、隣に座っていたアビゲイルが突然嬉々としてそんなことを言い出したものだから自分を含め同じテーブルにいる全員の食事の手が止まる。
「スピリットイブ? なんでまた、というかなにをやり直すんだよ」
「だって! あたし迷路の奥にも行けなかったし全部を楽しめてないわ!」
そう小さな手で拳を握ってまで悔しがるアビゲイルの話しているのはつい先日の秋の終わりの夜のことだ。あの日私達は不気味に飾りつけられたこの谷の迷路の奥で待ち合わせをしていた。誰も来ない場所でともに酒盛りでもしようじゃないかと。もちろん実際は私とセバスチャンが共謀してサムとアビゲイルへイタズラをして驚かせようとした、いわばサプライズのようなものだったのだけれど。
「いや毎年奥まで行ってないだろアビゲイルは
……
」
「なによ、あたしに水鉄砲で水をかけたのも忘れてないからね? サム」
「あれは俺だってやられたんだよこいつらに!」
「だからってあたしにやる必要ないでしょ!」
きゃんきゃんと口の中のものを飛ばし散らす勢いで言い合う二人に最初はだんまりを決め込もうかと思ったが、向かいの席で同じく適当に聞き流しながら煙草に火をつけたセバスチャンと目が合った。よりにもよってスピリットイブの話をしている最中に。つい俯き目を逸らしてしまったのをどう思ったのかは知らないが視界の端にライターを置く男の手が映り込み、それに続いてふと細く息の吐き出されるのが聞こえた。
「やり直しって言うからにはなにかやりたいことでもあるのか? もう迷路もないしな
……
墓場でピクニックでもするつもりか?」
「よく聞いてくれたわねセバスチャン! あのね、みんなでホラー映画でも見ない?」
「ホラー映画?」
「そう、前から気になってた映画のDVDを買ったんだけど一人で見るのはちょっとね
……
」
怖いわけじゃないけど、と付け加えるアビゲイルはその白い人差し指で自らの髪をくるくると弄る。それをまたサムが揶揄うのではないかと思ったが意外にもそうすることはなく、むしろその提案を肯定するように口角を上げゆったりとソファの背もたれへ体を預けた。
「へぇ、悪くないな。セバスチャン達はどうだ?」
「俺も別に構わないよ。お前はどうする?」
「え?」
セバスチャンが咥えていた煙草を口から外し、誰もいない方へと向かって白煙を吐き出す。それは壁に頼りなくぶつかり結局巡り巡ってこちらへ漂ってくるが、その香りに私はまたあの夜のことを思い出してしまった。
聞き返したタイミングでもう一度セバスチャンと視線がぶつかった。彼は不意を突かれ裏返ってしまったこの声を鼻で笑いながらテーブルに頬杖を突く。そうして真っ直ぐ私の目を見つめて煙草の吸い口で自らの唇をとんとんと軽く叩いてみせた。私にだけしか伝わらない、なんとも挑発的な表情で。
「スピリットイブのやり直し」
***
あの日確かにイタズラをしようと言い出したのは私だ。私達の中では狡賢そうなセバスチャンを誘ってサムとアビゲイルの二人を陥れようとした。それがまさかセバスチャンの罠にかかってしまうだなんて誰が想像していただろうか。セバスチャンの定めた標的は二人ではなく私で、しかも寸止めだったとはいえ悪ふざけでは到底済まないようなことをしようとしていただなんて──そう、だから私はあの日から何度も何度も煙草の香りと私に触れた彼の体温ばかりを思い出す。妖しい迷路の奥でともに息を潜め隠れていた秋の終わりの夜、唇を奪われる寸前まで近づいたセバスチャンのことを。
土曜の夜、ちょうど二十時を過ぎた頃に玄関の扉をノックする音があった。ちょうど映画を観るために部屋のセッティングをしていた私がはあいと大きく返事をするとこんばんはと可愛らしい女の子の声がした。ほかにも男の声がひとつふたつと響き本日の待ち人に違いないのを知らせてくれる。ぱたぱたと小走りで向かい開けた扉の先には服に少し雪を積もらせた友人達が立っていた。
「いらっしゃい、遅かったね。雪大丈夫だった?」
「ごめんね、雪は平気だったのよ
……
でもサムがコーラの自販機にお金を詰まらせちゃって」
「悪かったよ
……
でも映画を観るには必需品だろ?」
「まぁ無事に買えたならよかったよ、とりあえず寒いし中に入って?」
冬は牧場の仕事もほとんどない。畑が休眠するために動物の世話を終えればあとはもうチーズなんかの加工品ができあがるのを待ちながら雪かきをする毎日だ。だから今日は皆が来るのを待つ間にその持て余した時間で部屋をスピリットイブ仕様に飾りつけたり料理をするなどした。窓の外は雪だけれど暖かく安全な場所で恐怖の夜を過ごせるように。
「すごいわね
……
雰囲気あるじゃない」
「暇だったから張り切りすぎちゃった」
「だからってジャックオランタンまで作るか普通?」
「やっぱり雰囲気大事じゃん!」
彼等が室内を見渡して呆れか感嘆か、おそらくそのどちらでもあるだろうがそう声を漏らすのも仕方のないことだ。部屋の照明はすべて落とし暖炉とそしていくつかのランタンの仄かな明かりに頼った。もちろんサムが感心したとおりカボチャをくり抜いて作ったものまで、そして壁にはモンスターのステッカーを貼ったりもしてみた。確かに映画を観るだけなのにやりすぎたかとも過ったが、アビゲイルが満足そうにしているのを見て一安心を覚える。
「じゃあご飯の準備してくるね、ちょっと待ってて」
「ありがとう、あたし達はDVDとテーブルの準備をするわ」
「いったんライト点けようか?」
「ううん、大丈夫よ。あたし達みんなセバスチャンのところで慣れてるから」
「俺の部屋はここまで暗くない」
「そうか? あんまり変わらないだろ、なぁアビゲイル」
和気藹々とディスクをデッキにセットしたりローテーブルに飲み物を並べたり、そんな友人達の姿を見てキッチンへと向かう。あらかじめ準備をしておいたのはピザにフライドポテトだ。冬場だしもっと温まるものがよいのではないかと提案したが映画にはこれだろうと男子が言って聞かないものでこうなった。きっとテーブルには小銭を詰まらせてまで購入したコーラも並んでいるはずだ。ピザをオーブンに、ポテトを油の中に入れ終えた私がサム以外の二人に飲み物をどうするか訊ねるべく振り向くと、いつの間にそこにいたのかすぐ後ろにセバスチャンが立っていた。
「びっくりした、どしたの?」
「ごめんな、ちょうど声をかけるところだったんだ
……
なにかやることはあるか?」
手伝うよとセバスチャンがキッチンを見回す。そう広くないこの場所はぱちぱちと油の跳ねる音でいっぱいになっていて、あとは出来上がるまでの数分間を待つだけだ。私はそれならと棚にしまってあった皿とカトラリーを人数分取り出しトレイに載せた。
「これ持ってってもらってもいいかな、あとお料理できたら運ぶの手伝ってもらえると嬉しいかも」
「あぁ、わかった」
そうしてトレイを手渡した瞬間、不意にセバスチャンの指が私の手に触れた。偶然か否かはわからない、いや、きっと偶然だ。それなのに私の体はなんとも大袈裟に反応してしまい、肩を跳ねさせたのと同時にトレイに載せた食器ががちゃんと一際大きな音を立てた。すべてひっくり返して割ってしまう寸前だった焦りも含め、なにより彼のまだ温まりきっていない指先の体温に心臓がひどく痛む。熱くなった頬を隠すように俯きごめんと呟くとセバスチャンが軽く鼻で笑った。
「なぁ、ポテト焦げそうだけど大丈夫か?」
「え?!」
唐突なその指摘に勢いよく後ろを振り向くも油の海を漂うポテトになんの異常も見当たらない。混乱する頭にセバスチャンの吹き出す声が届き、そこで初めて騙されたことに気がついた。
「ねぇ、セバスチャン!」
「嘘だよ、お前は本当にいい反応をするから揶揄いがいがあるね」
「だからって嘘吐くことないでしょ!」
「いいんだよ、なんたって今日はスピリットイブのやり直しだからな」
機嫌よくそう言い放ったセバスチャンは不敵な笑みを残し賑やかなテーブルの方へと踵を返す。
あの日から確かに少し距離が近づいた気がする。しかしそれはセバスチャンがこちらへ大きく一歩を踏み出したのであって、私は立ち止まったままだ。こちらを覗き込んでこようとする彼から目を逸らして俯いて、彼の言うとおりせっかくやり直しの夜なのに。私は一度ポテトをすべて油から掬い上げ、誰にも聞こえないように溜息を吐いた。
***
結論から言うとこのやり直しの夜が大成功だったのかはわからない。それというのもそもそものきっかけはアビゲイルがスピリットイブの夜に迷路で足止めを喰らい余すことなく楽しめなかったためであって、彼女の満足が最重要事項でありなによりも優先されるべきであったためだ。
しかし映画が始まってからのアビゲイルはともにソファでブランケットに包まる私の手を握りそのうち腕にしがみついて、時折こくんと小さく息を呑んでは唇を噛み、挙げ句の果てに目を瞑ったままうとうとと眠ってしまった。ラグの上でピザをだらだらと食べながら映画を鑑賞していた男二人もその様子に気づきそれぞれに苦笑を零した。けれど自分を含め誰一人として彼女を起こすことはせず、ただ静かに二時間ほどの映画を見終えたのだった。
「なんだよ、結局寝たのかアビゲイルは」
「オカルト好きだから逆にちょっと怖くなったんじゃないかな」
アビゲイルの持ってきたホラー映画は悪魔に取り憑かれた少女を救うといった内容のものだった。その映画自体は古いもので、そのうちに新作が公開されるから一作目を観たかったのだと言う。ただそんな彼女は映画が終わったあとも起きることはなく、今は私の肩に寄りかかりすうすうと寝息を立てていた。
「たまに夜の墓場にいたりするくせにな、自分も取り憑かれたらどうしようってとこか」
「
……
そんなものかな、俺にはわからないけど」
「おい、どこか行くのか? セバスチャン」
「外、煙草吸ってくるよ」
どうせまだ起きないだろうと言いセバスチャンが徐に立ち上がる。それにより再び時間が動き出したような気がして横を通り過ぎていく彼を見上げたが、セバスチャンはこちらへ一瞥をくれることもなくポケットを弄りながらそのまま外へと出て行った。アビゲイルは扉の閉まる音にも目を覚ます気配はない。ブランケットを彼女の体にそっとかけ直しているとサムがなあと私へ呼びかけた。
「なに?」
「あいつ、上着持って行ってないぜ」
「ほんとだ」
「持って行った方がいいんじゃないか? いくら風邪を引いたことがないって自負するようなやつでも冬の夜だからな」
そのサムの視線の先を追えば閉ざされた玄関の扉に行き着いて、そういえば彼等を迎えたときに雪が降っていたのを思い出す。セバスチャンの上着は確かにポールハンガーにかけられたまま、そのほかになにか持ち出した様子もない。けれど私はサムの言葉に首を振った。
「サムが持って行ってあげてよ、私動けないし」
「俺が?」
「だって動いたらアビゲイルが起きちゃう」
「大丈夫さ、起きたら起きたでいい。俺が見てる」
こちらを振り返ったサムが私からアビゲイルをそっと引き剥がした。その際にううんとアビゲイルが小さく唸ったが目を覚ますほどではなく、サムはそのまま慣れた手つきでソファへうまく体を預けさせる。ついたった今し方まで温もりをわけてくれていた頭はころんと背もたれへと転がり、私はサムの思惑どおり晴れて自由の身となった。
「ほらな、平気だろ?」
「うん
……
」
「じゃああとは頼んだぜ、セバスチャンが生まれて初めての風邪を引かないようにな」
バイクに乗る彼らしいというべきか、そのシンプルなレザージャケットは私の腕に重くのしかかった。よろしくなと見送ってくれた友人の期待も込められているからなおのことだ。開ける扉も心なしかいつもよりも重厚であるように思えた。音を立てないようにする必要はないと言えばなかったのだけれどそれでも息を潜めてしまう自分がいて、そっと顔を出し見渡した濃紺の牧場内、思いの外家から離れていない場所で星屑ほどの小さな灯りを見つけた。
「そんなとこにいるの?」
「
……
なんだ、お前か」
「その辺彷徨いてるのかと思った」
「慣れない場所を歩いて畑とか牧場の施設をうっかり壊したらよくないからね、大人しくしてるよ」
「今は畑もないし大丈夫
……
でもあるとしたら池に落ちちゃうくらい?」
「弁償よりもそっちの方が困るな」
セバスチャンはそう苦笑混じりに白煙を細く吐き出す。それは舞い降る雪をふわりと包み、彼等の行く末を見守ることなく宙に溶けて消えていった。その白い靄には彼の吐いた息の分もあるのだろうかとそこまで考えて私は外へ出た理由を思い返し、腕に引っ提げていた上着をセバスチャンへと差し出した。
「そうだセバスチャン、上着持ってきたよ」
「いらないよ、これを吸ったら戻る」
「風邪引くよ?」
「引かないし引いたこともないね」
しかし案の定というべきかセバスチャンは受け取ろうとすらせず再び煙草を咥える。冬が近づいてきた頃から別に寒くないだとか慣れているから平気だとかそんなことを言っていたし、ただ煙草を吸う間なら着るはずもなさそうだ。いずれにしてもこれ以上の問答は無用のようで、そのまま上着を預かることにした。
「
……
じゃあそれまでわたしもここにいてもいい?」
「構わないよ
……
というかここはお前の牧場だしな。だったらそれもお前が着るといいよ」
「え? でも
……
」
「本当に別に寒くないんだ。部屋が暖かかったからかな」
セバスチャンはあまりそういうことを好まない人だと思っていた。なんならこうして他人が私物を触ることも、だからそれを纏っていいまで言われるなんて思ってもみなかった。私が突然のことに固まっていると早くと顎で急かされて、それでもじっとセバスチャンを窺うと彼はもう一度いいよと頷いた。
そうしてそっと袖を通したそのジャケットはやはり自分にはぶかぶかとしていたものの、革は柔らかく着心地のよいものだった。優しい重さで私を包み、外気に奪われ始めた熱を閉じ込める。羽織った際にふわりと漂ったのは彼の匂い、あの日初めて間近に感じたあの香りと同じもの。その煙草を吸い終わって部屋に戻り、アビゲイルが起きていたらあなたは帰ってしまうのだろうか。私は袖口から僅かに覗く自らの指先をじっと見つめ、それをそのままセバスチャンへと伸ばし袖をつんと小さく引っ張った。
「
……
ねぇ、今日はスピリットイブのやり直しだよ?」
「なんだ? またあいつらにイタズラでもするつもりか?」
「ううん、今日は別の人」
声は少し震えていただろうか、それでも真っ直ぐ彼の目を見つめて告げたその言葉に彼もまたこちらへ視線を返す。他所へ向けて煙を吐きながらも目は逸らさないセバスチャンに息の詰まる思いだ。なにを考えているのだろうと思うとすっと足から凍りついていく心地だ。それを感じたのかセバスチャンは鼻で笑うようにしながら煙草の先端に溜まる灰をとんと落とした。
「
……
へぇ、ちなみにそいつに手を出したらもうただじゃ済まないのはわかってるのか?」
「うん、知ってる」
「わかってて来たんだな?」
「
……
うん」
いつになく低く落ち着いた声に彼の袖を握ったままの指に力が入る。これを離せないのが答えなのにセバスチャンはまだなにかを探るようにこちらを見ている。その視線に緊張しながらも頷くと、一拍の間を置きセバスチャンが大きく溜息を吐いて首を振った。
「生憎だがな、イタズラは最初に宣言したら意味がないんだ。だからお前のこれは無効だよ」
「なんで! ずるい!」
「ずるくない、ほら部屋に戻るぞ」
そう言うとセバスチャンはどこからともなく取り出した携帯灰皿に短くなった煙草を押しつける。それによってこの張り詰めていた空気もその小さな入れ物に片づけられてしまったかのように、呼び止めることもできないままセバスチャンは家の方へと歩き出してしまった。サムとアビゲイルが偶然与えてくれたチャンスもこれでおしまいだ。これでも自分なりに頑張ってみたつもりだったけれどやっぱりイタズラだなんて言って誤魔化さなければよかった。そうセバスチャンのあとを追いとぼとぼと俯き歩いていると、ちょうど玄関先の階段で立ち止まっていたセバスチャンにぶつかった。
「あ、ごめん
……
」
思いもよらぬ衝撃に顔を上げるとなぜかこちらを向いていたセバスチャンが両手で私の頬を包む。その指先の冷たさに息を呑んだのも束の間、なんの抵抗をする間もなくこの唇の端にやわらかなものが微かに触れた。本当にぎりぎり、このまま重なってしまってもおかしくないほどの距離に知らない感触。それは一瞬間のぬくもりを残して名残惜しそうに離れていき、そっと瞼を開いたセバスチャンの瞳がこんなに間近で私を捉えた。
「
……
言っただろ、イタズラだと思われたままなのは不本意だってな」
「へ
……
いやあの、今キス
……
」
「口じゃないからセーフだろ、俺はそれでもよかったけど」
体を起こしたセバスチャンは満足そうに笑いながらたった今唇で触れた場所を親指でなぞる。私のように太陽の下で土を弄ったりもしない、白く怪我のひとつもないその指。けれどそんな見た目にはわからない無骨な触れ心地に知らない男を見た気がしてつい体を強張らせてしまった。そしてそれは確かに伝わってしまったようで、セバスチャンの掌はそのまま頬を滑り私の髪を指でひと梳きしたあと、くしゃくしゃと思い切り乱すようにして頭を撫で散らかした。
「
……
ごめんな。つい調子に乗りすぎたよ」
「え? セバスチャン
……
」
「はやく戻ろう、冷えてきた」
そう目を逸らして踵を返そうとするセバスチャンの手を掴んだのは咄嗟のことだった。大きな上着でもたついても目一杯に指を伸ばし音が鳴るほどに強く、彼が驚いて目を見開くのも気にせずに。今日はスピリットイブのやり直しとして覚悟を決めて迎えた夜なのだ、もうその背中を追うだけなんてしたくない。氷のように冷え切ってしまっている彼の大きな手を取った私はひとつ息を吐き出したあと、もう一度セバスチャンを真剣に見上げた。
「
……
あの、気持ちを伝えるためにこの谷だと花束がいるって聞いた」
「あぁ
……
一応はそうかな」
「お店で売ってるのも聞いた
……
でも私、買いたくなくて」
「いいよ、無理強いしたかったわけじゃないんだ。俺がそうしたかっただけだよ。だからこの間のも今のも忘れてもらって──」
「違う、そうじゃなくて!」
セバスチャンの言葉を遮り首を振った私はこの両手で彼の手を包んだ。つい一週間ほど前まで私達は友人だった。私はこの町に来てそう経ってもおらず、人見知りで他人の苦手な彼の心を自分なんかがどうして動かしたのかはわからない。けれどもしもあの夜のあの瞬間に戻れるのなら私はきっと瞼を伏せているだろう。そんな確信めいた感情が彼の手を握る力を強くして、包んだそれを祈るように自らの口元へ寄せた。
「そうじゃなくて、春が来たら
……
春が来たら、セバスチャンがびっくりするくらいのを自分で作るから
……
だから、それまで待っててくれる?」
情けなく震える声をもって今一度見上げたセバスチャンはきょとんとその目を丸くして、その後意味を理解したであろう頃にふと笑みを零した。安堵が滲み漏れるその表情に私も漸く肩の力を抜くことができたのに、今度はセバスチャンが手を握り返してくるものだから結局私の心臓はひどく痛んだままだ。この両の手から抜け出し互いの掌の温度を確かめ合うように指を絡ませたセバスチャンは期待の滲んだ目を細めて微笑んだ。
「
……
お手柔らかにお願いしたいね。そういうのは初めてなんだ」
「あんまり期待しないで
……
」
「するよ、今度は俺だけを驚かせるつもりなんだろ? あいつらじゃなくて」
「今度はイタズラじゃないし!」
戯けたその口ぶりについ大きな声を出してしまった私の唇へ彼の人差し指がそっと当てられる。静かにと言わんばかりに、しかし咎める意図のないことはその甘やかな笑みからも見てとれた。本当についこの間までは友人だったはずなのにこんな表情を見せるだなんてずるい。結局またなにも言えなくなってしまった私をセバスチャンが抱き締めた。ぎこちなく、あの夜ふざけて私を抱き寄せたことなど忘れてしまったかのような優しい強さで。
「
……
そうだな。そのときはもうイタズラなんて言わないよ」
***
それから一週間後の週末、いつものように私達はサルーンの遊戯室に集まっていた。夕食のあと男子はビリヤードを女子はソファでお喋りを、毎日忙しなく町中を駆け回る私の唯一の憩いの時間だ。飲み物を注文してくると言ったサムとセバスチャンを見送り今一度ソファへ深く座り直した私をアビゲイルがねえと可愛らしく覗き込んできた。
「なに?」
「あの日どうだった?」
「あの日?」
「だから、あの日セバスチャンとどうだったの? うまくいった?」
突然の問いかけにぽかんと首を傾げているとアビゲイルはスピリットイブのやり直し、と意地の悪い笑みを浮かべる。それらの言葉をすべて繋げ、とあるひとつの仮説に達した私は座り直した意味もなく思い切り立ち上がった。
「どういうこと?! 起きてたの?!」
「起きてたもなにもそういう話だったのよ」
つまりアビゲイルの話はこうだ。あの夜のことは仕組まれたことだった。セバスチャンはどうせどこかのタイミングで煙草を吸いに行くからそのときに二人にさせようとサムとともに企んでいたらしい。そこにまんまとセバスチャンが外へ向かい、その千載一遇のチャンスにサムが私を追い出したというわけだ。そんな話はもちろん初耳でしかなくくらくらと眩暈のする思いに頭を抱えた。
「
……
ちなみにどこから?」
「そんなのもう全部、誘ったときからよ。あの映画もずっと前から持ってるし何回も観てる。だからつい寝ちゃったけど
……
でも終わった頃には起きてたわ」
「なにそれ
……
」
「だって迷路から出てきたあなた達、なにかあったって一目瞭然だったもん。でもなにも変わらないし
……
だからサムと一緒に二人にやり返してやろうってね」
そうくるくると魔法のステッキのように人差し指を振ってみせるアビゲイルに私は脱力しソファへへたり込む。二人はたとえば窓から覗き見たりそんなことはしていないと言っているが、憶測に憶測を繰り広げ楽しんでいたのは間違いない。はあと吐いても吐き切らない溜息を零し一層背中を丸めて項垂れた。
「どう? イタズラされる気分は」
「イタズラなの? これ」
「もちろん」
にこにこと屈託のない笑顔でアビゲイルが頷く。その頃ちょうど店の方からサムとセバスチャンが戻ってきた。その手には四人分のグラスを持って、こっちのテーブルに置いておくぞと声をかけてくれたサムにアビゲイルがありがとうと手を振る。それはいつもどおりの夜、けれど違うことがたったひとつだけ。体を起こした私は両手で口元を覆い隠した。
「
……
残念だけどもうイタズラはやめにしたの」
「ふうん
……
つまり?」
偶然だろうか、こちらを向いたセバスチャンと目が合った。先ほどアビゲイルがサムへそうしたように手を振ることもなく、ただただじとりと睨めつけるような格好となった可愛げのない私へ僅かに口角を上げるのが見える。幸いにもそれを友人達は見ていなかったものの、この調子ではすぐにだって彼等の期待に応えてしまうことになるだろう。けれどもうじきに隠す必要も誤魔化す理由もなくなるはずで、そのどちらが早いかはきっと私次第だ。
「これから先はなにがあってもそれが本当だってこと」
ねえ、今年の秋の終わりはなにをしようか。私だってもうイタズラなんて言わないよ。友人と談笑する後ろ姿を眺めながらこっそり指先で触れた唇の端、あのぬくもりと煙草の香りに思いを馳せるかのようにそっとこの瞼を伏せた。
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