ちゆき
2025-12-30 13:22:40
15725文字
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きみがくれたもの

今日は一緒に掃除を手伝ってほしいな、そしてもうひとつお願いがあるの。


*pixiv閲覧制限国の方用にpixivから持ってきました
*結婚後のある一日のお話

*セバスチャン視点


 まだ焦点の合わない目を瞬かせながらサイドテーブルの時計を確認すれば時刻は朝の八時になろうかというところだった。あの地下室で自堕落な生活を送っていた頃とは違って牧場の朝は早い。いつもより二時間も三時間も遅い目覚めであるこれはもう完全に寝坊だ。
 昨夜はついサムと遅くまで遊んでしまって、そこから少し散歩をして戻ったためだろうとぼんやりとする頭でどうでもいい原因を探る。まだ眠いしもう少し寝ていたいけれど隣にあったはずのぬくもりはとうに冷めてしまっているから流石にそういうわけにもいかない。朝からやらかしてしまったとそんな思いで溜息を吐きつつ、人一人分広くなって久しいだろうベッドを降りた。

「おはよう、今日はセバスチャンお寝坊さんだね」
 そのまま開き切らない目を擦りながらキッチンへ向かうと、数時間前まで隣で眠っていたはずの愛しいその人がちょうどコーヒーを二つ用意していた。寝坊を咎めるでもなく、ちょうど今窓から差し込む陽の光のような明るさでそう声をかけてくれる。
「あぁ、すまない……
「全然大丈夫だよ、おはよ!」
 そう嬉しそうににこにこと手を広げているので寝ぼけ眼でその腕の中へと向かい一度ぎゅっと抱き締める。これは彼女と結婚してからの毎朝の習慣だ。あたたかくやわらかいその抱き心地に少し安心を覚える。そう目を閉じていると彼女が顔を上げる気配があった。それにうっすら目を開ければ今度は逆に彼女が目を閉じていて、ん、と可愛らしく顔を差し出している。同じく朝一番のルーティンとなっているキスのおねだりだ。いつものように顎に指をかけ、なにも考えずに唇を重ねようとしたときだった。
「あらもう朝から仲良しねぇ」
 この家には自分と彼女の二人しかいないはずなのに突然傍からかけられたその声に思い切り彼女を引き剥がした。その声の主はよく知っている——生まれたときからついこの間まで毎日毎日聞いていた、母親のものだ。目が覚めるどころかさっと一気に血の気の引く思いで振り返って見たそこには、案の定と言うべきかソファからこちらに手を振っている母親がいた。
「なんで母さんがいるんだよ!」
「おはよう、元気そうね!」
「今日はロビンが来てくれたよ! びっくりした?」
「びっくりとかじゃなくてなんでって聞いてるんだ!」
 そう慌てふためくまま大声を出す自分とは裏腹に彼女はもう、と唇を尖らせながらいたって落ち着いてぴんと立てた人差し指をくるくる振ってみせた。
「鳥小屋の床にね、ちょっと穴が空いてるから直してってお願いしたの」
「穴? そんなの言ってくれれば俺だって……
「まあまあいいじゃない、とりあえずコーヒーでも飲みなよ」
 ほらどうぞと半ば強引に渡されたカップに続く言葉を失い、そのまま近くの椅子に座った。そして彼女はもうひとつ淹れたばかりのコーヒーを母親の元へ持っていく。彼女が用意した分はそれで終わりだ。キッチンに戻った彼女は自分の分は用意せずにコーヒーメーカーを片付け始めてしまった。
「お前は?」
「え?」
「コーヒー、淹れようか?」
「ううん、ありがとう」
 いつもなら喜んで食い気味に淹れてくれと尻尾を振る勢いなのに今日は珍しいものだ。母親が来ているから大人しくすましているつもりなのだろうか、一瞬はそう思ったけれどこいつに限ってそんなことはないかと考え直す。そんなこちらの頭の中など知らずに彼女はもう一度こちらを振り返った。
「ねぇ、ご飯食べる?」
「いや、もう少ししたら食べるよ」
 最近は自分が朝食を作っていたので彼女の作ったものを食べたい気持ちは充分すぎるほどにあるが、寝不足で起きたばかりの体に朝食は考えるのもやや辛く、ありがとうとだけ伝えて首を振る。すると静かにコーヒーを飲んでいた母親がソファから立ち上がりこちらへと寄ってきた。
「セバスチャン、あなたちゃんと早起きして朝食も食べるようになったのね」
……まぁ一応、こいつが早起きなのに俺だけ寝てるのもな」
「とか言って、最近はずっと私より早起きだったもんね」
「へぇ、やるじゃない!」
 そう騒ぎ出す二人を見てこの間に挟まれるのはなんだか苦手だとマグカップへ口をつける。嫌とまではいかないけれど結託されると面倒で、二人の姦しい口撃に自分の発言などいつもことごとく潰されるのだ、今日も朝からこんな調子かと思うと胃のもたれる思いでしかない。鳥小屋でもなんでもいいからとにかく早くここを離れてほしい、そう思ったのを読み取ったかのように母親はよし、とコーヒーを一気に飲み干した。
「じゃあ行ってくるよ、早く終わったらその他の小屋も点検しておくね」
「ありがとう、お昼食べるよね? ご飯できたら呼びに行くね」
「あらいいの? ならお呼ばれしちゃおうかな」
 昼食ができたら、その言葉に今日は出て行かないのかとまた珍しく思う。いつもならもうすでに海に山にと駆け回っている時間であるというのに。もちろん悪い気はしないが少しばかり気になり彼女を窺うも、穏やかな笑顔を浮かべるその表情からはなにも読み取れなかった。
 そうして行ってきますと忙しなく家をあとにした母親を見送って静かな部屋にふたりきり、こちらが声をかける前に彼女がねぇ、とこの服の裾を引く。
「今日はお掃除手伝ってよ」
「掃除?」
「うん、二階のお掃除」
 二階、それは結婚を決めたときに部屋を広げてもらおうと彼女が母親に依頼をしてできたものだ。その頃は特に用途も思いつかずただ作ってもらっただけで、ベビーベッドをおまけして子供部屋にしてあげようかなんて揶揄う母親にまだ早いと顔を真っ赤にして断っていたのを思い出す。
 結局いつでも好きに壁紙や床を張り替えられるようシンプルな木目調で整えられたその部屋は今、物置にもならずただなにもない広い空間があるばかりだ。彼女の不在時には椅子なんかを引っ張り出し部屋の真ん中で本を読んだりして寛いでいた。そんな自分だけの秘密基地のような場所はそのついでに掃除をするだけで、確かに若干埃っぽくもある。窓も暫く開けていないし汚れも拭っていないはずだ。床だって最後に磨いたのはいつだろう。そんなところを今日は掃除すると言う。仕事もないしたまにはそんな日もいいかもしれない、断る理由もないし俺はわかったと頷いた。

***

 二人分のカップを片し、薄暗い階段を登る。まだ真新しいはずの床板が僅かに軋み、柔らかな木の音が静かな空間に響いた。彼女は先に部屋へ向かったはずなのに物音ひとつしやしない。またなにか企んでいるのだろうかとこちらも息を潜めなるべく足音を立てないように階段をひとつずつゆっくりと踏んだ。
 そうして覗き込んだ部屋は真っ暗だった。そういえば先日の嵐の日に雨戸を閉めたままだったか、そんな部屋の真ん中に彼女は座り込んでいるようだ。こちらに背を向け、得体の知れない大きな塊を目の前に置いてそれと向かい合っている。電気もつけずなにか話しかけているようだ、か細く彼女の声が聞こえた。その内容はまるでわからないけれど声の質もトーンも穏やかで心地よく、また暗闇のせいでどこか不気味でもあった。
——なぁ、なんだそれ」
「わぁ?!」
 背後から突然かけられた声に彼女がびくりと肩を跳ねさせた。暗がりの中でもよくわかるほど驚きを見せたそんな姿がおかしくて、ついにやける口元を隠し切らないまま部屋へと足を踏み入れた。
「セバスチャン?! 死ぬかと思った!」
「そうだろ? 俺はいつもそんな感じでお前に脅かされてるんだ」
「えぇ……私はもっとマイルドだよ」
「マイルドな奴は部屋にスライムなんか放たないよ」
「あれはだって孵化に成功したから見せたかったんだもん……
 いつだったかばたばたと家中をひっくり返すような大きな音で目が覚めた朝、ただごとではないと慌てて向かったリビングで小さなスライムと格闘する彼女がいた。少し前に自分がスライムを育てようと相談したのが悪かった、彼女はそれを真剣に考え牧場の隅で孵化させたスライムを見せようと連れてきてしまったのだ。当然のように部屋はべたべたとしたゼリーまみれとなり、なんとか彼女が捕まえて牧場の隅の怪しげな施設へ戻すまでも戻してからも大変だったのを思い出す。あのときどろどろになった服や家具がどうなったかを覚えていなさそうな不満気な彼女の言葉を背に、暗闇を作っていた雨戸をがたがたと力を込めて開けた。つい目を細めてしまうほどの眩い朝日が差し込み、室内を振り返るとその光に照らされた細かな埃がきらきらと輝いている。これはこのまま換気をしておいた方がよさそうだ。そう小さな輝きを追う視界に見慣れないものが飛び込んできた。
「それよりさ、そのでかいのはなんなんだ?」
「これ? くまだよ。ぬいぐるみ」
 見ればわかると言いかけた言葉を飲み込んで彼女のそばにしゃがみ込んだ。そうした自分と同じくらいの高さになるそれは間抜けな顔で宙を見ている。こんな大きなものをどこにしまい込んでいたのか、かわいいでしょ、なんて笑うお前の方が可愛いなんて言ったらどんな反応をするのだろう。
「これから掃除するってのに引っ張り出してきたのか?」
「いいじゃん、せっかく広いんだから」
「いいけど掃除してからにしようぜ、でないとそいつがモップになるからな」
「それはやだ!」
 そう首を振る彼女はすぐさま立ち上がりそいつを抱き抱えると、小走りで隣の部屋へと移動した。あのぬいぐるみはよくわからないものがたくさん詰められた収納ボックスで暮らしていたようだ。それをどうして出してきたのかはわからないが掃除の終わったあとならこの秘密基地に住まわせてやってもいいかもしれない。
「掃除機とモップと布巾持ってきたよ」
「あぁ、ありがとう」
 暫くしてがちゃがちゃと無機質な音を立てながら彼女が戻ってきた。重いだろうから一度に持ってこなくてもいいのに、そんな彼女が両腕いっぱいに抱えたものの中からモップと掃除機を受け取った。
「じゃあ私窓とか壁とか拭いてるね」
「わかった」
 モップで簡単に床を拭いたあと掃除機を手に取る。どこで覚えたのかは忘れたが、こうするのがいいのだと母親か誰かが言っていた気がする。だから今この部屋にはただ掃除機の音と風が外の木々を揺らす音だけが響いていた。自分がここに引っ越してきたときに新調したこの掃除機は軽量かつ静音仕様だ。高くないかと彼女は最後まで悩んでいたが、わりといい買い物だったと思う。片手で持ち運べるしなるべくは静かな方がペットや疲れた彼女にも優しいだろう。今も鼻歌を歌いながら窓硝子を綺麗に磨き上げる彼女の邪魔をすることもない。
「今日はご機嫌だな」
「そう? まぁ休日みたいなものだからね」
「そういや珍しいよな、出かけないなんて」
「たまにはいいかなって」
 彼女はよし、と呟いて乾拭き用の布巾に持ち替えるとこちらも向かずにそう言う。ただその声音はどこか浮ついていてやはり機嫌はいいようだ。俺はそれにそうかとだけ返し、部屋の隅まで辿り着いた掃除機を今来た方へ折り返した。無駄に広い部屋に再び僅かな電動音と彼女の鼻歌だけが響く。そんな時間が暫く続いたあと、彼女がぽつりと口を開いた。
……ねぇ、もし私が暫く家にいるかもって言ったらさ」
「え?」
「なんでもない!」
 思わず掃除機の電源を落として彼女の方へ向き直ると、彼女はこちらを見ることなく大きく首を振った。聞こえなくて聞き返したのではない。耳を疑ったのだ。彼女がこの町に来てから大人しくしているのを見たことがないし、結婚したあとも朝から晩までずっとこの谷中を駆け回っているのに、暫く家にいる姿が想像できない。ただそれだけだったのに自分の言葉も拭き取ってしまうように忙しなく動く小さな手につい口元が緩んでしまって、一向にこちらを振り向こうとしない彼女の背に声をかけた。
……嬉しいよ」
……なにが?」
「お前が家にいたら」
 その言葉におずおずと彼女が振り向いたから掃除機を壁に立てかけ、おいでと腕を広げてみせる。するとどこか緊張した面持ちだった彼女はにやけるのを我慢するように唇をきゅっと結び、布巾を置いてこの腕の中に飛び込んできた。
「ほんとに? ひとりがいいとか言わない?」
「言わないよ……掃除も洗濯も楽になるしな」
「なにそれ!」
 顰めっ面でこちらを見上げる彼女があんまり可愛くて堪えられず、嘘だよと笑ってみせれば彼女は小さく頭突きをしてきて、そんな悪戯ばかりの頭を捕まえしっかりと抱き締めた。
「ひとりよりもふたりがよかったから結婚したんだ、いてくれないと困る」
 そう髪を撫でると彼女は恥ずかしそうに頷いたあとこちらへ向かって顔を上げ、ん、と目を閉じた。少し戯けたようなその仕草にそういえば先ほどは邪魔が入ったのだと思い返す。だからその頬を両手でそっと包み、小さな埃が陽の光にちらちらと光りやわらかな風がそれを攫っていく中、自分達は本日初めてのキスをした。

 二人でひととおりこの部屋の掃除を終えたあと、彼女がなんでもいいから飾り付けをしてみたいと言うので以前なにかのフェスティバルの際に買った少し大きめのラグを出してみた。部屋の真ん中に敷いたそれは二人で座っても広く、寝転がってみても充分に余裕があった。
 あたたかくなった風がこの部屋の空気をあっという間に入れ替えてしまって、あんなに埃っぽくなっていたこの場所には土と太陽の匂いが広がっている。そう、今隣で同じように寝転がる彼女に似た香りだ。俺がその名前を呼んで頬に触れると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「すっきりして気持ちいいね」
「そうだな、久々にやり切った気分だよ」
「まだ早いよ、ここしか掃除してないのに」
「他の部屋はまた今度でもいいだろ」
「んん……
 その頬を親指で軽く撫ぜると彼女は小さな欠伸を零してその目を擦る。そうしてうとうととするようにやがてその瞼を閉じてしまった。
……眠くなったか?」
「ん……頑張ったからね」
「昼までにはまだ時間もあるし寝ればいい」
 そう彼女の背中に腕を回しぽんぽんと軽く叩くと、彼女は目を閉じたままこちらへ寄ってきてこの胸に顔を埋めた。抱きつく腕の程よい重みも子どものようなあたたかさも小さな呼吸音もすべてが心地よく、つい自分も欠伸を噛み殺す。
……お昼までに起きられるかな」
「大丈夫さ、母さんはきっと作業に夢中になって昼にも気づかないはずだ」
「いやそれ逆にだめじゃん」
 もう、と彼女が力なく笑う。それはもう限界の近そうな声で、暫く髪を撫でているとそのうちに静かな寝息が聞こえ始めてきた。心底安心しきった顔で、彼女はどんな夢を見るのだろう。開け放たれた窓から吹き込んでくる爽やかな風の音と腕の中の彼女の存在に身を任せ、自分もそっと目を伏せた。

***

 胸元でもぞもぞとなにかの動く感触がして、それに意識を引き戻される。二、三度瞬かせた瞼に見慣れない風景が飛び込んでくる。そうだ、二階のなにもない部屋を掃除してそのまま寝てしまったのだ。床に転がっていた手を動かし、腕の中で身じろぐそれに触れた。
「あ、起きた?」
 腕の中のそれ——愛しい彼女はもうすでに起きていたようで、こちらを見上げてにこりと笑った。こんなに明るい家の中で彼女を見るのがなんだか新鮮で、堪らず強く抱き締める。そもそもあまり寝てもいないしこのまま彼女のそばでもうひと眠りしてしまいかった。
「ん……もう少し」
「だめだよ、ご飯作らないと」
「今何時だ?」
「わかんないけどお腹すいた」
 そう甘えるように額を押しつけてくるのが愛おしく、ついなんでも聞いてやりたくなってしまう。きっともう少しだけこうしていたいのだと強請れば仕方ないなあなんて笑って抱きついてくれるのだろうけれど、また母親に乗り込んでこられても困るし彼女を解放して体を起こした。
「手伝うよ」
「ほんと? サラダ作ってほしいな、好きなの使っていいよ」
「わかった、メインは?」
「ミートソースのスパゲッティにしようかな」
 チーズもたっぷり乗せようねと彼女は笑って立ち上がる。ただその瞬間立ちくらみだろうか、少しバランスを崩したので咄嗟に腕を伸ばして肩を支えた。
「おい、大丈夫か?」
……ごめん、寝惚けてるみたい」
「それならいいが、怪我はするなよ」
「ありがとう、元気だから大丈夫だよ」
 いつも快活な彼女のそんな姿を見たのは初めてで、今もまだ少し心臓が痛い。なのに彼女はこちらの気も知らず下に行こうとこの手を引き歩き出した。

 階下で確認した時刻はまだ十一時も半ばに差し掛かった頃で、結果丁度よい時刻に目を覚ましたようだ。昨日のうちに彼女が収穫した野菜達を三人分、小さなボウルに盛りつける。その隣では彼女がまたご機嫌に鍋をかき混ぜていて、今度の鼻歌の選曲は以前にサム達とやっていたバンドの曲だろうか、やめろと言っても好きなんだもんとにこにこするばかりだ。
「またライブやってほしいなぁ、サムにお願いしてみようかな」
「もういいだろ、暫く練習もなにもしてないし」
「格好よかったのに、この人わたしの彼氏だからねって言いたかったもん」
……もうできるなら母さん呼んでくるぞ」
「お願いしようかな、今は可愛くて素敵な旦那様に」
 そう揶揄うように覗き込んでくる彼女からふいと視線を逸らす。そうしてみせると彼女は満足そうに微笑んでからまた鼻歌に戻り、鍋から作りたてのソースをフライパンに移し始めた。今なら母親を呼び戻すのにタイミングもよさそうだ。決してばつが悪くて逃げ出すわけではない。サラダをテーブルに並べるついでにそのまま家をあとにした。

——母さん、昼飯」
 鳥小屋の修理をすると言って訪れていた母親の姿はすでにそこにはなく、二つ目の厩舎を訪ねてようやく見つけることができた。窓の付近の木板を修繕しているのだろうか、すらりと立つ母の背中は変わらず頼もしいものだと思う。もちろんそんなことを伝える気はなく数回壁をノックすれば母親はようやくくるりとこちらを振り返った。
「ちょうど終わったところよ、ありがとう」
「昼はスパゲッティだってさ」
「いいわね! 誰かの作ったご飯を食べられるなんて楽しみ」
 がたがたと忙しなく工具や資材を片付けこちらへと駆け寄ってくる。自分が家を離れてもそんな調子は変わりのないようだ。手の塞がった母親から資材を預かり厩舎の扉を開けた。
 放牧している動物達の間を縫って元来た道を戻る。少し伸びた牧草に足を取られそうになるので母親を振り返るが、自分よりもなんてことはない様子でついてきていた。自分ももう少しこの人を手伝っていればもっとあいつの役に立てたのだろうかなんて詮無いことを考えながら囲いのゲートを開ける。たったそれだけのことにもありがとうと母が言うので、今度はその手の工具箱も取り上げた。
「あなたは元気でやってるの? ここの暮らしには慣れた?」
……まぁ最近は地下室よりもいいと思うよ」
「可愛くないこと言っちゃって、地下室がいいって言い出したのはセビィなのに」
「知らない、忘れたよ」
 家までの僅かな道を母親とゆっくり歩く。こんな時間は久しぶりで、いつもはそう感じない道も少しだけ長く感じた。たまに顔は見せに帰っているし気まずいわけでもないけれど二人の間には沈黙が走り、自分達の足音と工具箱の中身が揺れる音がよく聞こえる。そんな折、母親が小さく笑った。
……少し日に焼けたかしら」
「え?」
 その言葉にふと隣を見ると母親が目を細めてこちらを見上げている。日に焼けたとは自分のことだろうか、突然のことに目を丸くしていると母はその笑みを深くして頷いた。
「顔色もよくなった」
……そうかな」
「えぇ。でも手荒れはきちんとケアした方がいいわよ、あんまりかさついてると手を繋いでもらえなくなっちゃうかも」
「余計なお世話だよ」
 くすくすと笑いながら受けた指摘にきまりが悪く、それでも気になってふと手を見れば確かに少し荒れ始めていた。日焼けも言われてみれば服との境目の色が違ったかもしれない。顔色はよくわからないけれど、健康そうだと言いたいなら以前よりもしっかりと眠り食べているとは思う。
……よく見てるね」
「なにが?」
「手、言われるまで気づかなかった。そのほかのことも」
 かさついた手を隠すように固く握りそう淡々と驚きを伝えると、母は先ほどの自分と同じようにきょとんとしたあと、至極当然のように笑った。
「あなたも親になったらわかるわよ」

***

 家に戻るとちょうど彼女が三人分の食事を並べているところで、キッチンでは小鍋の煮立つ音がする。朝に作ったというスープを温め直しているようだった。
「おかえりなさい」
「悪い、遅くなった」
「ううん、ありがとね。ロビンも本当にありがとう」
「ほかの小屋も気になるところは直しちゃった、あとで一緒に見に行ってもらえるかしら?」
 もちろんだと彼女は頷きコンロの火を消すと、母親を洗面所へと案内する。自分もシンクで簡単に手を洗い流して彼女のあとを引き継ぐべく、鍋の様子を見てからスープボウルに移していく。収穫したばかりの野菜が散りばめられたそれをテーブルへ並べた頃に二人は奥から戻ってきた。
「あれ、スープ準備してくれたの? ごめんね、ありがとう」
「いや、ほかにやることはあるか?」
「大丈夫! ほら冷めちゃうし食べよ?」
 ロビンもどうぞと椅子を引いて母を席に促す。昼の色に変わった日光が差し込む明るい部屋で自分の家族がいて、にこやかに笑い合っている。それはこれまでに想像したこともないほど穏やかな光景だ。実家にいたときの家族関係なんて希薄なものだったし自分はいないようなものだった。それがまさかこんな日常を手に入れるだなんてきっと幼い頃の自分に話したって信じないだろう。そんな風に立ち尽くす俺をどうしたのかと彼女が覗き込んできて、なんでもないと首を振り自分も席についた。
 彼女の作る料理が好きだ。たまに藻や苔でスープを作っただとかなんの肉か聞かなければよかったと後悔するようなもので刺身やステーキを作っただとかその創作力を存分に見せつけてくれることもあるけれど、まともに作るものはどれもやさしい味がする。どんな味つけをしているのか気になりたまに一緒にキッチンに立ってみてもそのやさしさの謎は一向に掴めない。それでも思い返せば母の作るものと似ているような気がして、一度母へ彼女に料理を教えたことがあるのかと訊いてみたけれど、あなたは大切にされているのねと嬉しそうに笑うだけだった。
 そんなことを思い出しながらサラダに手をかけようとすると、それを見ていたのだろう彼女がドレッシングを渡してくれた。
「はい」
「あぁ……ありがとう」
 酒場の店主からレシピを教えてもらったという彼女お気に入りのドレッシングは母親にも好評のようで、美味しいと今も褒めちぎっている。それを受け取り礼を述べると、彼女はふとこの手元を見てあ、と声を上げた。
「セバスチャン、手荒れてきちゃったね。あとでハンドクリーム貸してあげる」
 それはちょうど先ほど母と交わしていた会話そのままで、驚き言葉を失う自分と噴き出す母に彼女は困惑した様子で二人を交互に窺った。
「え? なに、どしたの?」
……母さんみたいなこと言うなよ」
「そうなの?」
「さっきそんな話をしてたのよ」
 ああおかしいと満足そうに笑う母親に黙ってほしくてじろりと睨んでもどこ吹く風だ。仕方なく溜息を吐きもう一度自分の掌を見て、一目でわかるほどそんなに酷いものだろうかと首を傾げた。
「前とそんなに変わらないと思うがな」
「そんなことないよ、でも荒れてるじゃなくて似てきたって言うのかな?」
 ほら、と彼女が見せる掌はきっと同年代の女子のそれより怪我も多く固くなっているのだろう。けれど自分にとっては母や妹の手と同じようになにかを生み出すもので、気の利いたことの言えない自分が辞書から言葉を引っ張り出すなら尊いの一言が適切だと思う。だから自分と同じだなんてとてもそうは思えないが、もし彼女にはそう見えていて、これが選んだこの道で得たもののひとつだというなら少しは変わることができたのかもしれない。
……あんまり変な匂いのしないやつなら貸してくれ」
「うん、あとで塗ってあげるね」
「自分で塗るからいい」
 遠慮しないでいいのにだなんて悪戯に笑う彼女は母親がいるから揶揄っているのだ。そんな魂胆などお見通しだとふいと顔を背けると、咀嚼を終えた母が大袈裟に息を吐いた。
「本当に仲がいいわね、ディメトリウスもセビィくらい手伝ってくれたらいいのに」
「あんな奴の話なんか聞きたくないね」
「まぁセバスチャンは果物買ってきてってお願いしてもトマトは買ってこないかな……?」
「あんなのわざとだろ、絶対に母さんを怒らせたかっただけだ」
 以前母親が果物を買ってきてくれとあの男に頼んだらトマトを買ってきたとかで大喧嘩したことがあった。いくら植物学的に正しくたって地下にいた自分にも届くほどの大声で怒鳴っていた母は間違っていないし普通の感覚だと思う。思い出すだけでも苛立ちを覚えるあのやり取りに顔を顰めると、彼女は腕を伸ばしこの頬を人差し指で突いた。
「ほらほらそんな顔しないで、あとで果物切ってあげるから」
「別に俺は……
「いいわね、私も手伝うわ!」
「じゃあ動物小屋見たあとに果物取りに行こう、みんなで好きなの選んでおやつにしようよ」
 昼食も食べ切らないうちにおやつの話だなんて彼女らしいというべきか。今ちょうど庭の木にたくさん実がなっているのだと身振り手振りで母に話していて、結局苛立ちもその笑顔に連れ去られてどこかへ消えてしまった。


 結婚してから変わったことはいくらでもある。自分が慣れない早起きをして、なんなら彼女よりも早く、そんな時間でコーヒーを淹れたり朝食を作ったりだってする。たまに設備の手入れや動物にも餌や水をやったり、畑にまで立ち入って、すべて彼女の見様見真似だけれどそうしたいと思うようになった。部屋の掃除も得意かと言われるとなんとも言えないが、日もすっかり落ちてからぼろぼろで帰ってくる彼女が少しでも安らげるような場所であればいいと思っている。煙草もやめて、ひとりきりの散歩はまだやめられないけれど、こうなった今はこれ以上の生活なんて想像もできなかった。


「ロビン、本当にありがとう! 新築みたいに綺麗だよ!」
 昼食のあと、自分達三人は母親の手掛けた仕事を確認しに小屋を訪れていた。母は彼女の依頼した鶏小屋の床の穴はもちろん、隙間の空いた壁や腐食しかけた部分などいろいろなところを修繕したという。自分だってできると朝は言ったもののやはり長年それを生業としてきた母親には敵わない。すべての確認を終え小屋を出ると、彼女はとても満足そうに母の手を握った。
「そう言ってもらえて嬉しいわ、あなたからの依頼はやり甲斐があって好きよ」
「私の気づかないところまで見てくれて嬉しいし助かる……
 そうして柵の外へ出たとき、彼女が突然言葉に詰まった。気分でも悪くなったのか口元を抑え吐き気を堪えるようにして、様子がおかしいのはこれで今日二度目だ。万が一にも倒れてしまわぬよう咄嗟にその体を支えた。
「おい、大丈夫か?」
……ごめん、ちょっと匂いにやられたみたい」
「匂い? 動物の?」
 匂いなんて変わらないしいつものことなのにどうしたのだろう。そういえば昼食前も立ちくらみを起こしていた。まさか本当に体調でも悪いのか、だとすると彼女がもし暫く自分が家にいたらだなんて零していたのもなにか重篤な問題があったのではないか——そんな不安が顔に出ていたのか、彼女は俺を窺うと小屋周りを囲う柵に背中を預け、口元に笑みを湛えたまま観念したように大きく息を吐いた。
……ロビンにもうひとつお願いがあって、いい?」
「私に? もちろんいいけど……
「壁紙と床、張り替えてほしくて。二階の」
 どうして今あんななにもない部屋の話など始めたのだろうか、部屋を明るく可愛くしたいのだと少し青い顔で笑う彼女になぁ、と声をかけた。
「それよりお前、今は体調悪いんじゃないか?」
「そうね、その話はまた今度でも大丈夫よ」
「違うの、大丈夫。本当に病気とかそんなんじゃなくて……それにセバスチャンにもお願いがあるんだけど」
「俺に?」
 彼女はいつになく穏やかな表情で頷いた。このタイミングでお願いだなんて、しかし彼女はなんでもないのだと言う。それでも芽生えた不安を拭えずにいると、彼女がこちらに向き直りこの手を優しく握った。
「ほんとはこれもロビンにお願いした方がいいのかもしれないけど、セバスチャンがいいなって」
……なんだ?」
 手を握る力が一瞬強くなった。彼女の視線がわかりやすいほどに彷徨く。開きかけた口を閉じ息を呑んで、それでも彼女の言葉を待つしかできない。時間にすればきっと一分にも満たないはずなのに日が暮れてしまう感覚に陥って、自分がその小さな手を握り返したとき、彼女は漸くあのねと零した。
……ベビーベッド」
「え?」
「ベビーベッド、一緒に作ってほしいな」
 それはかつて彼女が自らいらないと言ったものだ。それをどうして今になって、いや、そもそも二階の部屋だって掃除をして改装までしたいだなんて突然なぜそんなことをよりによって今、その体調を心配しているときに——彼女は俯きがちにしていた視線を上目遣いにして恐々と返事を待っている。その様子を見ていた母親が突然驚いたように大声を上げ、そのせいでせっかくまとまりそうだった頭の中がまたスパゲッティの如くとっ散らかった。
 二階を綺麗に整えてぬいぐるみを引っ張り出し、ベビーベッドを作る。暫く家にいたらどうすると尋ねてきた意味、その体調不良。今朝から浮かれっぱなしだった彼女の笑顔に今はずっと落ち着かない彼女の瞳。それの示す答えを必死で手繰り寄せながら、俺は詰まる喉を震わせた。
「いいけど、前にいらないって……
……セバスチャン、あなたなに言ってるの?! 必要になったってことでしょ、そうよね?!」
 母がやや興奮気味にそう俺の肩を強く叩くと、彼女はなにも言わずにっこりと大きく笑ってピースサインをした。そう、それはたとえば俺に悪戯をして驚いたかと訊いてくるときと同じ表情で——
 その意味をはっきりと理解した瞬間、自分が意識するよりも早く手を伸ばし彼女を強く抱き締めていた。朝は躊躇ったけれどもう母親の前だとかそんな小さなことはどうだっていい。こうでもしないとこの身に余るほどの幸せを言葉にはできなくて、腕の力を更に強めると彼女は苦笑しながらこの背に腕を回した。
「一昨日流石におかしいなと思ってハーヴィー先生に診てもらったの。そしたら赤ちゃん、いるんだって」
「そんな大事なこと、なんでもっと早く言わないんだよ……!」
「いやその、なんて言えば……驚いてくれるかなって思って」
 ごめんねと甘えるようにこちらへ頬を寄せながら彼女が笑う。謝るのはこちらの方で、きっと昨日も自分が遊びに行ってしまったから話す機会がなかったのだ。そもそも自分が家族というものにいい印象がないのを知っているのもあって言い出しにくかったのかもしれない。
 違うよ、お前は特別なんだ。なにもかもがどうしようもないほど愛おしいんだよ。今こそそう伝えたいのに胸がつかえてなにもなにも伝えられない。そんな思いで少し低い位置にある彼女の頭にキスをしてその肩口に顔を埋めた。
……作るよ」
「え?」
「作る、母さんほどうまくも綺麗にも作れないけど……丈夫で子どもにも気に入ってもらえるようなものを作るよ」
……うん」
「ちゃんと掃除もする、あの大きなぬいぐるみがモップにならないようにな」
「それは私もやる、ごめんね今まで」
「動物の世話も畑も俺がやるから、お前は家にいてくれ。必要なものがあるなら俺が全部集めてくるから」
「ありがとう……でも一緒にやろうよ」
 彼女が何度か背中を軽く叩き、少し体を離して今度はこの頬を両手で包んだ。その指先はひんやりとしていたが、彼女の触れる箇所がやわらかな熱を持つ。思えば他人のぬくもりを教えてくれたのは彼女が初めてだった。そして今隣で母親がおめでとうと声を震わせ目尻を拭っているのを見て、出会ったときからずっと彼女が与えてくれていた様々なものの大きさを漸く知ったような、そんな気がした。
「嬉しいこともしんどいことも、セバスチャンと一緒がいいから結婚したんだよ」
 彼女の幸せそうな笑顔に僅かに視界が滲み、それを隠すように瞼を伏せる。そうしてそのあたたかさに導かれるまま本日二度目のキスをした。

***

 ある晴れた日の午後、ひと段落ついた仕事の手を止め明るくなった階段を登る。一段一段静かに、時折床板を軋ませながら向かうのは二階の一室だ。
 あれから数ヶ月経ち、殺風景だったその部屋は母の当初の思惑どおり子供部屋へと姿を変えた。床も壁紙も二人でああでもないこうでもないと話し合い、どんな性別でも長く使えそうなものにした。一緒に作ろうと言っていたベビーベッドも二人でなんとか形にはできたと思う。一緒に木材を選びデザインを考えて、詰まったところは職人である母親に教えを乞いながら、まだ見ぬ我が子を想って彼女とともに組み上げた。それは子供部屋の片隅で今か今かと主を待っていて、そしてそこが最近の彼女のお気に入りの場所だ。
「なぁ、果物取ってきたけど——
 そこまで言いかけてはたと止まる。階段を登り切って立ち入ったその部屋、ベビーベッドの陰から転がった小さなクッションと脚が覗いていて、それは声をかけても動く様子もない。
……またそこで寝てるのか」
 彼女はここ最近牧場の仕事を終えたあと、ベビーベッドのそばで昼寝をする。柔らかなクッションをいくつも並べ、本を読んだり子どものための小物を作ったりしながらやがて寝落ちてしまう。やめろと言ってもきかないので見かねて厚手のラグと彼女一人ならすっぽりと包まるほどのブランケットを用意し、彼女は今日も穏やかに眠りについていた。
「まぁ今日は天気もいいし、眠くもなるか」
 しゃがみ込んで覗いた彼女はいつものようにお気に入りのクッションに体を預け、とても満足そうな表情で静かに寝息を立てている。その傍らには作りかけのぬいぐるみが置かれていて、そんな光景に目を細めた。
 ずっとあの地下室で生きていくのだと思っていた。変わり映えのない日々に文句を言いながら、自分に与えられたものの中だけでずっと。お前がこの谷に来てこの手を取り愛し愛されるということを教えてくれなければこんな幸せを知らずに生きていくしかなかったのだ、そう思うとどれだけ愛していると伝えたって足りやしない。
……お前に会えてよかった」
 あたたかさに赤らんだその頬に触れたいけれど起こすのも忍びなく、もう少し眺めていたくとも仕事が完全に片づいたわけでもないため出直すべく立ち上がろうとしたときだった。
——私も!」
 ぱちりと目を開けた彼女に気づくよりも早く、突然伸びてきた腕がこの首に絡みつく。それだけならまだよかったのに勢いよく飛びついてくるものだからその場に尻餅をついてしまって、それでもなんとか衝撃の少ないように彼女の体を受け止めると、彼女は少し体を離して嬉しそうに微笑んだ。
……起きてたのか?!」
「起きてたよ、びっくりした?」
「危ないだろ、なにかあったらどうするんだ?!」
「セバスチャンがいるからなにがあっても大丈夫!」
「そういう問題じゃ……
 本当にいろいろな意味で心臓に悪い、そう呆れてみせたところで彼女はご機嫌に笑うばかりだ。今も首に回した腕をそのままにこの頬へキスをしておはようなんて呑気に言うものだから、先ほどは触れるのを躊躇ったその頬に手を伸ばした。
……お前みたいに元気な子どもだったら」
「ん?」
「いや……俺の胃が保たなそうだなって思ってさ」
「絶対賑やかになるね」
「賑やかどころの騒ぎじゃないだろうな」
 わかってるのかと頬を指で軽く摘むと、彼女は摘めないようにそれを膨らませた。するとその思惑どおりに指が滑ってしまって、こんなくだらないことにもどうだと得意気な表情を見せる。そんなお前を見ているとふとした瞬間につい考えてしまうのだ、まだ少し先の未来を。
……でも、それでもお前に似てほしいと思ってる」
「ほんとに? うるさいとか言わない?」
「言わないよ——俺はお前のいるこの毎日が好きなんだ」
 そう、これまでの生活がすべてひっくり返って二度と戻らなくてもお前のいる毎日がいいと思ったからここにいる。そしてお前にそっくりな子どもなら、きっとおよそ一般的に語られるような家族を知らない自分を普通の、どこにでもいるような幸せな父親にしてくれるのではないかと馬鹿みたいに信じている。
 伸ばしたままの掌で彼女の頬をそっと包むと、彼女は瞼を伏せて擦り寄るようにその頭を預けてきた。
「私だってセバスチャンに似てほしいなって思ってる……って、多分みんなこんな話するんだろうね」
「そうかもな」
「幸せってことなのかな、ついこんなこと言っちゃうのもさ」
 しかたないよね、なんてこの掌の中で照れながらその顔を綻ばせる。その触り心地のよい肌をまた少し荒れ始めた親指の腹で撫でると、彼女は気恥ずかしさを誤魔化すようにこの手を掴み取った。
「ね、幸せついでに果物食べたい! なに取ってきたの?」
「なんだよ、そこから起きてたのか?」
「寝てるなんて言ってないでしょ……でもその前に」
 ん、と彼女が目を閉じて顔をこちらに向ける。お前にもらった様々なものの分だけのキスを送ればお前はなんと言うのだろう。いい加減にしろと怒るだろうか、それとも日が暮れると呆れて笑ってくれるだろうか。
 だからひとつその唇に触れるだけのキスをして、続けてもうひとつ、今度は頭を引き寄せその髪に口付けた。一瞬きょとんとしたような彼女はその意味に気づいたのかすぐにぱっと表情を綻ばせ、次の瞬間にはこの頭を抱き抱えるように胸の中に閉じ込める。そうして大切そうに頬擦りをしたあとにくれたキスは同じくふたつ、私とこの子から愛を込めてと彼女は笑ってそう言った。