ちゆき
2025-12-30 13:17:20
8753文字
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きみの愛した朝

なんの変哲もない朝なのに今日は綺麗だと思ったんだ

*pixiv閲覧制限国の方用にpixivから持ってきました


*セバスチャン×女牧場主(ネームレス•容姿設定なし)

*セバスチャンがはじめて牧場で朝を迎えるお話
*セバスチャン視点

 朝日の中で目が覚める、地下室に暮らす自分にはずっと縁のないことだと思っていた。それこそこの家を出て行かなければ味わうことのない心地、幾千もの目覚めを昼夜の知れない真っ暗な部屋で迎えてきた自分がそれを望むのは正に自殺行為でしかない。そもそも生活だって不規則で朝日の昇る時間にベッドに潜り込むことも日常茶飯事だ。階上に聴こえる家族の生活音に耳を塞いで。
 どこかへ行きたいのにどこにも行けない自分はこのままそんな日々に埋もれていくそのはずだった、お前がこの部屋に飛び込んでくるまでは。


「待ちなさい、セバスチャン!」
 親の制止を振り切り家を飛び出した午後七時五十分、静まり返った山中に玄関の扉を閉めた音が強く響く。耳に残る不快なそれに歯噛みをし、仄かな明かりの灯る町中へ歩を進めた。
 久方ぶりに継父と言い争いをした。そのきっかけは些細なことだ。母親の頼みごとに今は忙しいのだと応えてやらなかったことへ対し、どうせ地下室に篭り切りなのだからとあの男は溜息混じりに肩を竦めたのだ。いつもなら聞き流せたはずのそんな嫌味もそのあと一番触れられたくない、自分の聖域と呼べる部分にまで伸びてきたものだからつい頭に血が昇ってしまって──いや、自分はなにも悪くはない。だってあいつはいつも自分の大切なものを踏み躙るのだ、まるでこの家にお前など不要だとでも言うように。
 苛立ち紛れに爪先にかかった小石を思い切り蹴り飛ばすと、頼る明かりもなく暗闇に包まれた前方からうわ、と女の声で小さな悲鳴が上がった。
「石……? あれ、セバスチャン?」
 真っ暗がりからこちらを窺うように恐る恐ると姿を見せたのはこの町の外れに住む牧場主の女で自分の恋人だ。彼女はこちらを視認してすぐその表情に安堵を浮かべ、少し空いた間を埋めるように小走りで駆け寄ってきた。
「なんだ、お前か……人がいるなんて思わなかったんだ、ごめんな」
「ううん、それより今から家に行こうと思ってたんだけど……どうしたの?」
……別にどうもしないよ」
「こんな時間にどこ行くの?」
 そう首を傾げる彼女に自分はそうするのが悪手であると知りながら言葉を返すこともせずただ視線を逸らした。この町の中で自分の行くところなどそれこそ酒場か友人の家しかないし彼女もそれを知っているのにだ。
 しかしなにか言い訳をしなければと言葉の詰まる口を開こうとしたとき、ふとこの手を包むやわらかいものがあった。
「ねぇ、このあと暇?」
「このあと?」
「うん。もしご飯がまだなら一緒にどうかな、うちに来ない?」
 彼女は自らの小さな両手でこの手を取り、そうしてにこりと微笑んでみせる。それが見透かされた気遣いであるのは一目瞭然だったが同時に彼女の本心であるのも間違いはなく、なによりその笑顔に一気に毒気を抜かれた自分は力なく頷きその手を握り返した。

 結局来た道を二人で引き返し、先ほど飛び出してきたばかりの家の前で彼女は俺の母親に用があるのだと言った。家に行くつもりだったと言うからてっきり自分に会いに来たのかと思っていたがそうではなかったらしい。ただそんな落胆が見え隠れしていたのか、彼女はセバスチャンの顔も見たかったのだと言って笑った。
 彼女が家に消えたあと、穏やかに灯る明かりを少し離れた場所から眺めていた。手持ち無沙汰に煙草へ火を点け、自分がいなくても変わらないあたたかな光に白煙を吐き出し靄をかける。しかしそうしたところで消えてなくなるわけでもなければ煙の匂いが染みついて自分のものになるわけでもなかった。
 待ちなさいと呼びかけながらも追いかけてくることはない。たとえばこうしたのがマルだったなら、あの甘ったれた妹だったなら二人はどうしたのだろうという考えが頭を過ぎる。こんな狭い町で行くところも限られていて、また構ってほしいだけのあいつがバスに揺られるはずもないのに必死の形相で慌てて追いかけるはずだ。娘だけを溺愛するあの男はともかく母はいつだって自分達二人を平等に愛しているとは言うけれど今のこの状況が答えで、そもそもあいつは家を飛び出すほど家族に対して腹の据えかねたこともなくのうのうと暮らしているのに。
 短くなりきらないまま捨てた煙草を固い靴底で踏みつけたのと同時に玄関の扉が開いた。そこから顔を覗かせきょろきょろと辺りを見渡している彼女にこっちだと声をかけると飛び跳ねるようにしてこちらへやってくる。手を振りながらにこやかに駆けてくるその様子に先ほどまでの考えごとは一瞬で掻き消え、自分は足元の煙草を拾い持っていた携帯灰皿へとしまい込んだ。
「ごめんね、おまたせ」
「いや、平気だよ……母さんはなにか言ってたか?」
「セバスチャンに会わなかったかって言われたからご飯に誘ったよって伝えたよ、大丈夫だった?」
……あぁ。行こうか」
 彼女の手を取り奥にある裏道を指差す。自分の家から牧場を一直線に繋ぐ道。指を絡めて繋いだ手に彼女は一瞬照れたようにまごついたが、それを誤魔化したかったのかどこか上擦った声で頷き、ちぐはぐな速度で明かりのない方へとこの手を引いて歩き出した。

***

 これまでにも何度か彼女の家を訪れたことはあったがこんな風に日が沈んでから立ち入ったのは今回が初めてだった。どうぞと通された室内にぱちりと電灯が灯され、見知った内装が人工的な光に照らし出される。夜ともなれば自分の薄暗い部屋と同じ、しかしそれでもどこか穏やかな雰囲気を醸し出しても見えるのはここに住まう人物の印象のためだろうか。いずれにせよ日中とは違った様子を見せる部屋に立ち尽くしていると彼女が質素なダイニングテーブルの方から手招きをした。
「すぐご飯作るから座って待ってて、飲み物はコーヒーでいいかな」
「ありがとな、いただくよ」
 引っ越してきたときから使っているという木製のテーブル、そこに添えられた一脚の椅子に腰掛ける。真向かいにある同じ形のものより少しだけ新しいこれは自分達が付き合い始めてから用意したのだと以前彼女が気恥ずかしそうに話していた。自分の家以外にできた自分の場所、そこから彼女の背中をぼんやり眺めていると振り返った彼女が突然おかしそうに吹き出した。
「なににやにやしてるの?」
「俺が?」
「うん、明日雨でも降るのかなってくらいにやにやしてる」
 自らの頬を人差し指でちょんと突く彼女につられて自分も顔へと手をやり確かにいつの間にか口元が緩んでいたらしいことに気づく。最近ふとした瞬間に浮かれた自分を自覚することがあるもののよりによって彼女からの指摘は面白くなく、きゅっと唇を結んで首を振った。
「もっとほかに言い方があるだろ」
「にこにこ? それとも嬉しそう?」
……そう見えるのか?」
「見える、よほど私のご飯が楽しみと見たね」
 そう得意気な顔でおどけてみせる彼女はどうぞとこの目の前にマグカップを置いた。浮ついた仕草とは裏腹に静かな響きをもって用意されたそれを自分が礼を述べてから受け取ると、まだ口もつけていないというのに彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。

 彼女はなにも聞かない。料理の最中はもちろんこの食事中も、どうして自分があんな時間に山を下りようとしていたのかなにひとつとして訊ねてはこなかった。この野菜を収穫するときにカラスに襲われたのだとかジャムを作って味見をしたら美味しくて全部食べ尽くしてしまったのだとかただそんなとりとめもないことを繰り返すばかり、いつもどおり楽しそうに笑っている。
 こんな不愉快な夜など慣れたものだ。とっくの昔に成人しているし自分がどうしようと家族はもちろん彼女にも文句を言われる筋合いはない。それに自分自身誰かになにかを聞いてほしい、話したいわけでもなく、友人と待ち合わせてもいない酒場の遊戯室で一人ソファにでも座って煙草を蒸し、気分がよくなった頃に頭上高くの月を見上げながらふらふらと帰る。それだけでよかった。
 それなのにそんな自分よりも落ち着かないように笑顔を張りつけ喋り続ける彼女がどうにもおかしくて、ひと足先に終えた食卓に頬杖を突き悪戯に視線をやった。
……なぁ」
「なに?」
「わかってるんだよな、こんな時間に恋人とはいえ男を家にあげる意味」
 試すような笑顔で問いかけたそれはそんな無邪気な彼女へのちょっとした意地悪のつもりだった。いろいろと思い返しているうちに少しばかり機嫌が悪くなってしまったからというのもあるけれど、それでもすぐに冗談だと撤回しようと思っていた。この問いかけの持つ意味は自分達二人にとってあまりに大きなものだからだ。
 しかしその言葉に顔を真っ赤にして俯いた彼女は自分が嘘だと謝るより早くにあのねと口を開いた。
……ごめん、さっき嘘吐いた」
「嘘?」
 聞き返した言葉に素直に頷く彼女は先ほどまで饒舌に喋っていたことも忘れたように固く目を閉じ、林檎の如く染まった頬を両手で覆う。そうしてひとつ小さな息を零したあと、そっと開いた睫毛の奥の熱い瞳に目の前の情けない男を閉じ込めた。
「本当はロビンにね、今夜はセバスチャンにお泊まりしてもらってもいいかなって、訊いたの」


***


 自分達が心を通わせてからしばらく経つが、彼女に触れるのはこの夜が初めてだった。彼女に問題があるわけではもちろんなく、そのことで時折不安そうにしているのもわかっていながら見て見ぬ振りをし続けた。その肌に触れてしまったが最後、もう二度とあの暗い地下室には戻れなくなりそうでただそれが怖かったのだ。

 自分の部屋には窓がない。あるのは僅かな間接照明とモニターの青白い光のみ、お前を綺麗に照らしてやれるものはなにもない。そんな真っ暗で孤独の詰まった場所へやってきたお前はキャンドルに火を灯すように少しずつ様々なものを与えてくれた。湖に浮かぶ月を眺めて吸った煙草の味を、階段を下りてくる足音に跳ねた心臓の痛みを、いつか遠乗りに行こうとした約束への期待と不安を。遠くにその姿が見えるだけでその日一日中浮かれていられるような心地になって、誰かと話しているのを見かけたときには焦燥感に胸の内が焼けついた。お前に呼ばれた名前は特別なものとなり、その腕に抱き締められて生まれて初めて存在意義を感じた。こんな夜に呼べる名前のあることがどれだけ救いとなっているか、お前はきっと知らないのだろう。
 お前があの部屋の扉を開け放ち俺を連れ出してくれたから、俺は──


 ちらちらと瞼を擽るものがあり、その感覚にゆっくりと目を開ける。二、三度瞬きをした視界には見知らぬ天井、そして細くあたたかな光が舞い込んできた。瞼の裏にまで落ちた妙な感覚はこれかと光の筋を追えば、その正体はカーテンから溢れた朝日のようだ。自分の部屋には絶対に存在しないそれ、そういえば昨晩は恋人の家に泊まったのだったかとぼんやりする頭で思い返しながら徐に体を起こした。
 サイドテーブルの時計はもうすぐ午前六時を迎える頃合いで、彼女はまだ隣で静かに眠っている。普段は六時起きだと言っていたからそろそろ目を覚ますだろうが、昨夜の様子だとまだもう少し先かもしれない。温まり紅の差した頬をそっと手の甲で撫ぜても僅かに身を捩るだけ、そんな彼女に自然と笑みが零れた。
……起こしてほしかったなんて文句を言われるかな」
 顰めっ面をして拗ねるのが目に浮かび、零れた笑みは呆れ笑いに変わる。それでも愛おしいのに変わりはなく、自分が体を起こしたことでずれた上掛けを彼女の体へかけ直した。裸の肩まですっぽりと隠し、もう少し眠っていてほしいと願いを込めて。そうしてふとベッドの傍にあるカーテンのかけられた窓を見た。
 遮光仕様でないそれはよく光を通す。寝過ごさないために敢えてそうしているのだろうか、ベットのシーツもこの肌もすべてをその色にやわらかく染め変えられた。閉じられた布の隙間から差し込む光の中にちらちらと小さな埃が浮かんでいて、まるで雪の結晶のようなそれに指を伸ばすも掴まえられるはずもない。自分はベッドを降り簡単に衣服を纏うとそのまま彼女を起こさぬよう寝室をあとにした。

 この家は自分の薄暗い地下室とは違ってどこも陽の光で満ち溢れていた。いや、そもそも自宅だって裏が切り立った崖になっているから陽が差すのも僅かな時間だし、最後まで明るいのは母の店くらいだ。こんな風に家の中で眩しさに目を細めなければならないなんてまさに非日常そのもので、彼女とは住む世界がまるで違うのだとあらためて思い知らされる。
 いつだったかともに過ごす日々の中で彼女へ一度だけ、自分が牧場に移り住むことを考えてしまうのだと打ち明けたことがあった。馬鹿げているとつけ足してまで語った夢をあのときお前はどんな思いで聞いたのだろう。同じように馬鹿みたいな絵空事だと思っただろうか、それとも──立ち寄ったキッチン、そのテーブルに置いたままだった煙草とライターを回収し、光の溢れる玄関の扉を何気なく開ける。彼女が目を覚ます前に一服をしたかった、ただそれだけの気持ちで。

 しかし扉を開けた先に広がる景色が自分のすべてを一瞬で攫っていった。朝日に眩む目も顰めた顔もみるみるうちに解けていくのがわかるほどのその光景に扉を閉め一歩前へ踏み出せば、どこからともなく吹き抜ける朝の風がひやりと頬を撫でる。足元の細かな砂利がウッドデッキに擦れて立った小さな音を気にも留めず、その風につられて更にもう一歩を踏み出した。
 広大な牧場がしなやかな金色の光に縁取られ、畑の作物に降りた朝露が煌めいている。星明かりよりもずっと眩いそれは明るさに慣れたこの目をも再び眩ませ顔の奥にむず痒さを覚えたけれど、しかし不思議と不快はなかった。少し離れた場所からは鶏や動物達の鳴き声が聞こえる。ひっきりなしに響くそれはきっと飼い主を今か今かと待ち侘びているのだろう、これでは彼女が起きてくるのも時間の問題かもしれない。そんな朝の訪れを告げる可愛らしい声へ彩りを添えるように周りの木々や牧草がさらさらと音を立てて揺れた。その西から東へ風の吹くままその音色の流れる方へ視線をやると、そこには見慣れた町並みが朝焼けの中に浮かび上がっているのが見える。その風景に思わず手に取ったままだった煙草の箱を握り潰したときだった。
「おはよ、起きてたんだね」
 背後で扉の開く音がし、振り返ると彼女が寝ぼけ眼を擦りながら姿を見せた。部屋着を纏い直しただけの恋人は目が合うと照れ臭そうに微笑み、うんと背を伸ばしながらこの隣に並び立つ。どうやら仕事のために出てきたわけではないらしい。それもそうか、初めてともに迎えた朝だというのになにも言わず消えてしまったのは些か不躾だっただろう。居た堪れなさを隠すように潰れた煙草とライターをポケットにしまい込んだ。
「あぁ、ごめんな……眩しくて目が覚めたんだ」
「うそ、カーテンちゃんと閉めてなかったかな。ごめんね」
 それでも彼女はそんな自分に向けて申し訳なさそうにしている。想像していたような文句を言うこともなければ無礼を責めることもなく、もう少し寝ていても構わないとまで付け加えて。しかしそれになにも返さず黙ったきりの自分をどうしたのかと不思議そうに窺う彼女に小さく首を振り、再び町全体を包み込む陽の光へと戻した。
……俺の部屋には窓がないだろ」
「え?」
「だから朝に部屋が明るくなって目が覚めたことなんかない。それこそサムの家や街で泊まりでもしない限りさ、でもそのときもなにも思わなかったんだ。なのに……
 酒場から帰るのが面倒で友人の家に泊めてもらった朝も適当に彷徨いた街で迎えた朝も、自分にとってはなにも特別ではなかった。ただまたくだらない一日が訪れるだけ、そしてそれは昨夜も同じであるはずだった。ああしてお前に会うまでは。
「なのになんでだろうな──今朝はとても綺麗だと思ったんだ」
 まだ誰もいない広場、その空間を青く染まり始めた空へ向かって自由に羽ばたく小鳥。刻一刻と高度を上げる太陽はその色合いをより鮮やかなものとし、古い石畳を一枚一枚丁寧に照らしていく。その様子を眺めていると再びどこからともなく風が吹いて辺りの木の葉から一斉に音が立ち、少しして町中の木々もその青々と茂る葉を騒々しく揺らした。それらの流れる方角、更に遠くを望めば宝石でも散りばめたかのように輝く海が広がっている。こんなものは自分の住む山の上からでもいつだって当たり前に見られる風景なのに、どうして今朝はこんなにも美しい。
 動物や小鳥達の声を聞きながら町並みを見下ろし立ち尽くす自分に彼女がそっと抱きついた。すんと小さく鼻を啜り、それを誤魔化すように笑って。
……ねぇ、セバスチャン」
「なんだ?」
「結婚しようよ」
……同情ならいらないよ」
「違うよ。もう帰したくなくなっちゃったんだもん」
 だってね、と彼女がしがみついたままぐるりと景色を眺める。先ほど自分がそうしたように賑やかしい厩舎を、風に靡く牧草を、朝露の輝く野菜畑や周りの木々、この玄関から見えるすべてを。それから最後に彼女はこんな自分を真っ直ぐと見つめ、この朝の光によく馴染むやわらかな笑みを見せた。
「私も綺麗だと思ったの、セバスチャンのいるこの朝が」
 ずっと、それこそ出会った頃からその瞳にはなにが映っているのだろうといつもいつも考えていた。ここに長く住む自分よりも日々様々なものを見ていて、きっと自分の知らない美しいものばかりで溢れているのだろうと。
 けれどひとところに落ち着いてはいられない彼女のそんな瞳も最後はいつだって自分を映した。ともに湖に浮かぶ月を眺めていたときも、遠慮もなく地下室の扉を開け放つ瞬間も、二人で出かけたときにも遠くに浮かぶ夜景にすら目もくれず、そう、ちょうどこんな風に。
 彼女の頬へ手をかけその肌を親指でなぞる。自分に出来得る限りの優しい力で、けれど一度込み上げる感情のままに触れてしまえばもう抑えることができず、気づけば彼女をこの腕に抱き締めていた。その髪に指を絡ませ、抱き潰された彼女の口から意図せず息が漏れるほど。苦しいよと笑う声にも込める腕の力で応えたのに、それでも彼女は離してと突き飛ばすこともせずただ同じようにこの背中へ腕を回した。
……お前は俺が牧場で生きていけると思うか?」
「当たり前でしょ? ちょっと庭が広くて部屋に窓があるだけだよ」
「動物の世話もなにもしたこともない。早起きだって、朝日が昇る時間に寝ることだってあるのに」
「私だってここに来るまでは自分が牛を飼って毎朝ミルクを絞るなんて思ってもみなかった」
 だから大丈夫だと彼女がこの背を軽く叩く。ぽんぽんと眠りにつく子どもをあやすような手つきで、遠い昔に忘れたその感覚に瞼を伏せ浸った。そうすることで早朝の風に少し冷えた体が少しずつぬくもりを取り戻す心地をはっきりと感じ、きっと満たされるとはこういうことを言うのだろう。だから触れてしまうのが怖かったのに、そんなことを知らない彼女は遠慮もなく爪先を立ててまでより一層抱きついた。
「春になったらいっぱい苺を育てよう、ロビン達にお裾分けする分もね」
……俺は手伝ってないことにしてくれ」
「夏は生簀に入れる魚を釣りに行こうよ、どんなのがいい?」
「平らな魚がいい、あれ好きなんだ」
「多分魚が増える前に食べ切っちゃいそうだね……秋は一面カボチャ畑にするから覚悟しててね」
……ひとつだけでいいからスープにしてくれって言ったら嫌か?」
「もちろん全部でもいいよ、冬のセバスチャンのお誕生日も冬星祭も、セバスチャンがもう嫌だって言うくらいたくさん作るから」
「お前ならやりかねなくて今から怖いな」
 目の奥が熱い。瞼を閉じているのに陽の光が容赦なく差し込み、真っ暗なはずの視界を淡い金色に染め上げる。そこにお前が映っているのだと言ったらお前は笑うだろうか。それとも一緒に想像してくれるだろうか、作物の美しく実る畑の真ん中からこちらに向かって手を振るお前と、ここからそれを眺める俺の姿を。
 絡めていた腕を片方だけするりと解いてもう一度そのやわらかな頬を撫でた。そこはひやりと濡れた感触があり、こっちを向いてと顔を上げさせようとするが彼女は嫌だと笑って身を捩る。けれどそのうちに観念したのかこの掌に彼女自ら手を重ねて頬擦りをし、くしゃくしゃになった笑顔を涙がまた一粒、晴れた空から雨の降るように清らかに滑り落ちた。
「でもきっとこんな風にね、私達が一緒にいたら朝から晩まで一年中楽しいよ……だからねぇ、セバスチャン」
「もういいよ、わかったから──」
 声まで滲む彼女に顔を寄せ、そのまま薄く開いた唇に己のそれを重ねた。震えて乾いてしまったためか触れ合った箇所が張りつく感触さえも愛おしく、彼女が続けようとした言葉ごとそっと包み込む。あともう少しだけこの幸福を味わったらきちんと自分から伝えよう、この谷が完全に朝焼けから抜け出し目覚めてしまうその前に。


 きっとほかの人間にとってみればこれはなんの変哲もない朝なのだろう。けれど自分にとってはこれまでのすべてを塗り替えてしまうほどの光をもって、やはりあの地下室には戻りたくてももう戻れそうにない。それでも今なら彼女の愛したこの場所でともに生きていけるような気がした、そんなやさしい朝だった。