朝一番に歯を磨きながらつけたテレビは朝のニュースの真っ只中だ。しばらくぼんやりと各地の時事問題を眺めていたがどれもこの隔絶された谷とはさほど関わりのない話ばかりで、いつだって都会は大変なものだと適当に歯ブラシを動かし続ける。
そんな折にコーナーが変わり画面にはスーツをかっちりと着こなした天気予報士が現れた。そうして大層深刻そうな声音で明日のこの地方はここ数年でも類を見ないほどの嵐だと告げる。天気予報士が手にしたポインターで指し示すのはまさにこの南海岸一帯。それを見た私はキッキンでコーヒーを淹れるセバスチャンの元へと駆け寄った。
「んーん!」
「なに……? わからないから口濯いでこいよ」
「ん……」
けれど意気揚々と向かったところで呆れたようにそう言う夫に追い払われては仕方なく、すごすごと洗面所へ引っ込み大人しく口の中の泡を吐き出す。二、三度水で口内を濯げば清涼感のある刺激が遠のいて、これなら彼の準備してくれた朝食に手をつける資格もあるだろうし先ほどの話をする権利もあるはずだ。私が部屋へ戻るとセバスチャンもちょうど席に着くところで、おかえりと微かに笑い迎え入れてくれた。
「今日もありがとう、いただきます!」
「別に大したものじゃないけどな、ちょっと早く起きただけだし」
「セバスチャンのご飯好きだから嬉しいよ、毎日幸せだなって」
「……朝からよく喋るなお前は」
うん、と大きく頷いてみせても彼は冗談だと思っているようでまともに取り合ってくれず、それはいいことだとパンを齧る。しかし私が言いたいのはそれだけではなく、先ほどのテレビの話で明日のことだ。口の中のものを今度はコーヒーで流し込み、ねえと少し眠そうな向かいのセバスチャンへ声をかけた。
「明日嵐が来るんだって」
「へぇ、そりゃいいな」
「明日家にいる?」
「今この瞬間に予定は全部なくなったよ」
セバスチャンは出る気が失せたとばかりに小さく首を振る。むしろなんの予定があったのか聞きたいところではあるが、とにかく家にいるのならそれでいい。よかったと私が突破した第一関門に胸を撫で下ろすと彼は食事の手を止め訝しげな表情でこちらを窺った。
「なにかあるのか?」
「明日ね、私も動物のお世話したらすぐ戻ってくるからさ、そのあと一緒にごろごろしようよ」
「ごろごろ?」
「うん、一日中ずっと」
テレビもサイドテーブルも全部ベッドの近くに寄せ、お菓子やピザに好きな飲み物を持ち寄って、映画やドラマでも観ながら心ゆくまでふたりで寝転がっていたい。特にここ最近は季節の始まりということもあって忙しなく動き回ってばかりだったので、せっかくの嵐の日くらいのんびりと過ごしてみたいのだ。そしてそんな時間を、できれば最愛の夫とともに。
「いいぜ、やるならとことんやろう」
「やった! じゃあ仕事がひととおり終わったら買い出しに行ってくるね」
断られることはないとわかってはいたが二つ返事の了承は存外嬉しいもので、楽しみだなと気分も上々にまだ温かいパンを口に放り込む。野菜の種は芽の出てきたばかりだから嵐対策に防風ネットをしっかり張り巡らせて、動物小屋も窓を補強しておこう。セバスチャンの希望も聞いて買い出しに行って、ああ今日も一日忙しくなる。せっかく用意してくれた朝食なのだからきちんと味わって食べたいけれど気が逸って仕方なのない私を見て、彼は頬杖をつきながら穏やかに微笑んだ。
セバスチャンは一人の時間を愛する人だ。こうして結婚した今でもそれは変わらず、私もそれを尊重している。たまに夜中にふらりとどこかへ行ってしまうのは怪我などしやしないかと少し心配だけれど、私の目の覚める前には帰ってきているしどこへ行ってどんなものを見たのかなどを話してくれる朝食の時間はそう悪くはないものだ。そして夕食のときに私がその日どの場所でどんなことをしたのかを話す番になって、それを彼が頷きながら聞いてくれる。私たちの日常はそんな風に互いの一人の時間を共有することで成り立っていた。
そう、つまりそれは言い換えると共通した思い出が少ないということで——いや、その食事の時間もベッドで過ごす時間も確かなふたりの思い出に変わりはないのだけれど、あのときは楽しかったねとアルバムに残せるようなものはほとんどなく、つまるところ私はたまにでもいいから彼と一緒に過ごす時間を増やしたかったのだ。
***
「ただいま! ねぇ外嵐だよ嵐、風も雨もすごい!」
「おかえり……って思い切り濡れてるじゃないか、ちょっと待って」
次の日、あの天気予報は的中して外は今年一番の悪天候だった。厩舎から戻った私が髪からぽたぽたと滴を垂らすのを見てセバスチャンがそこから動くなとストップをかける。なので玄関マットの上で大人しく佇んでいると彼は奥から大きなタオルを持って戻ってきた。
「合羽は? 着てただろ?」
「着てたけど顔濡れたら意味なかったから脱いじゃった……」
暑かったしと言い訳をする私の頭をセバスチャンが無遠慮にタオルでぐしゃぐしゃと水分を拭き取っていく。しかし最初こそしっかり拭き取ってくれていたのにその手つきはだんだんと頭を揺さぶるようになっていき、そのうちされるがまま雑にぐわんぐわんと揺れる視界にああと変な声を漏らすと途中から絶対にわざとそうしていた彼がふと笑みを溢した。
「もう、ぐしゃぐしゃじゃん! 目も回ったし!」
「いいから先にシャワー浴びておいで、風邪引くぞ」
「なんもよくないし……」
「悪かったよ、ほらちゃんと部屋の準備はしたから」
絶対悪いとか思ってないだろうなどとぶつぶつと文句を言いながら手招きされた寝室へ行くと、そこは私の要望どおりに最高に悪い見栄えと極上の過ごしやすさを兼ね備えた夢のような空間へと変貌していた。平たく言ってしまえばベッドの足元に無理やりテレビとその台を持ってきて、ローテーブルに昨日私が買ってきたお菓子の袋がそのまま置かれているだけなのだが、この怠惰で雑多な様がどうにも私の幼心をくすぐった。
「すごい、準備してくれたの?」
「まぁこれくらいはな、動物の方はお前にまかせっきりだし」
「仕方ないなぁ、さっきのは許してあげるよ」
「そりゃどうも……だけど先に風呂入ってからな」
私の首にかかった大きなタオルを掬い、セバスチャンがもう一度私の髪をそれで包む。今度こそその掌は優しくて、私が心地よさに目を閉じ頷くと本日一度目のキスが降ってきた。
私が浴室から戻ってくるとセバスチャンはベッドのヘッドボードに背を預けてかちかちと忙しなくリモコンを弄っていた。ザッピングでもしていたのだろうか、彼はこちらに気づくと私の名前を呼んでおかえりと声をかけてくれる。
そういえばセバスチャンはことあるごとにおかえりと言ってくれて、家を空けがちな私の居場所が彼の隣であることをよく思い出させた。それが嬉しくて結婚したばかりの頃は頻繁に家に立ち寄り、セバスチャンに俺のことは気にしなくていいからなんて言われたんだったなと苦笑する形で思い出していると、そんなことを知らない彼がぽんぽんとその隣を叩いて呼ぶので私もベッドに飛び乗りヘッドボードに立てかけられた柔らかいクッションに寄りかかる。そうしてずるずると体勢を崩しながら見上げた彼は至ってつまらなそうに画面を眺めていた。
「なんか面白い番組あった?」
「いいや、くだらないワイドショーばかりだ」
「あ、でもこのアイス美味しそう」
ころころと変わるチャンネルの中、若い女性リポーターがカラフルなアイスを口にする場面に出会した。いいなと私が反応するとそれに彼の指も止まり、しばし二人でその画面に釘付けになる。この町よりも大分先にある都会の話なんて無関係なのに、しかしだからこそなのだろうか、恋人であったときも特にデートらしいデートをしたことのない自分たちなのでいつかはふたり並んで知らない街を散策してみたいと夢見てしまう。そんな風にテレビの向こうの朗らかな女性の声を聴き流しながらぼんやりと妄想を巡らせていると、セバスチャンが持っていたリモコンで私の頬を突いた。
「今度一緒に行くか?」
「ほんと?」
「いいよ、収穫の終わったあとや冬ならお前も暇だろ」
人混みの嫌いな彼からの思ってもみなかった提案に私がぱっと顔をあげると、彼はリモコンを置いて私の肩へと腕を回し、半分寝転がっているこの体を自分の方へと抱き寄せる。だから私もそのまま彼の腰へと腕を回し、その胸元に頬を寄せた。外は滅多にないほどの暴風雨、まだ朝の九時を回ったところなのにすでに非日常なことでいっぱいで、どうにも緩んでいく口元を止められない。
「……へへ、約束だからね」
「それはこっちの台詞だよ」
けれどそんなご機嫌な私の髪を撫でながら、お前はちっとも家にいやしないと肩を竦めるセバスチャンを私は目を丸くして見上げた。その様子を不思議そうに見る彼はきっと自分の放った何気ない一言など忘れてしまっているのだろう。それがなんだか面白くなく、彼の鳩尾にぐりぐりと額を押し付けた。
「ばか、苦しいよ」
「ばかはそっちでしょ」
「なんで……」
「明日からちょくちょく家に帰って来るもんね、俺のことは気にしなくていいって言われても!」
顰めっ面でセバスチャンを睨むと彼は漸く理解したようでああと笑った。こちらからしたらあのときは少し寂しかったのに、そんな瑣末なことでと言わんばかりの笑顔がまた小憎たらしい。
「あれは仕事の手を止めてまでって意味だよ、変に捉えないでくれ」
「とか言ってやましいことしてるんでしょ」
「するわけないだろ、むしろこんな狭い町でなにができるんだ?」
「そりゃなんかバイクとかPCのお高いパーツとか買ったり……?」
思いつくセバスチャンのやましいこと、しかし私がそう口にした途端、セバスチャンはふいと視線を逸らした。そもそも人嫌いの彼が浮気などするわけもないからそんな心配は端からしていない。かといって別に趣味のための買い物に文句を言うつもりも更々ないが、そういえば少し前にとても機嫌よくバイクの整備をしていたことがあった気がして、私が勢いよく体を起こすと彼は諦めたように首を振った。
「当たりじゃん! 私のいないときに絶対こっそり買っていじってるでしょ!」
「……牧場の金は使ってないから大丈夫だよ」
あっさりと白状した彼は小さな溜息を吐いて私の頭をよしよしと撫でる。それはいつも私が動物にそうしているときの手つきと同じで、もうと私はその手を取った。
「てかこっそり買わなくてもさ、普通に好きなもの買えばいいじゃん。特にパーツなんて消耗品でしょ? 生活にもお仕事にも必要なんだから別にうちのお金使ったってなんも言わないよ」
「消耗品なのはそのとおりだがまぁ流石にね……」
「え? そんな高いの?」
「お前が母さんのところで買ったカタログほど高くはないよ」
そう意地悪くセバスチャンが笑うのも無理はない。セバスチャンの言ったカタログは私が独断で買ってきた所謂サブスクのようなもので様々な家具を取り寄せることができる。しかしそれがまた非常に高額で、ましてや自分の母親からそんなものを買ってきたと知った彼と少し喧嘩になったのだ。
「あれはその、結婚祝いみたいなもんじゃない」
「なんで祝われる側が金出してるんだ」
「もういいでしょ! とにかくセバスチャンは別に隠れてお買い物する必要ないからね! この話はおしまい!」
喧嘩といっても可愛いものだったがまた掘り返しても碌なことはないし、私はセバスチャンの太腿をばしばしと叩いて無理やりこの話に区切りをつけた。最初は私が図星をついて優勢だったはずなのに今や逆にセバスチャンの方が笑いを堪えられないようで、これではいつもと変わらない。
そんな中彼はまた今度一緒に遠乗りしようと私の額に唇を寄せるから、それを受けた私も楽しみにしてると彼の頬へキスを返した。まだ午前も午前、一日は始まったばかりだ。仲良くいこうじゃないかと私は彼の隣へ座り直した。
「じゃあまずなにを見る? 見たいものはあるか?」
灯りを落とした薄暗い室内でセバスチャンが今度は動画配信サービスに並ぶ映画のサムネイルを適当に流していく。過去の話題作や聞いたこともないようなB級映画、果てはどこからきたのかもわからないようなドラマやアニメ作品などがずらりと並んでいて、ここ近年でとても便利になったものだと思う。
引っ越してきたときから使っていたブラウン管は結婚と同時に片づけて、代わりに最新型のテレビを購入した。最初は恐る恐るだったこの牧場もなんとか軌道に乗せることができたし、日付を超えるまでせっせと駆け回る必要もなくなってきたので愛する夫とのんびり夜を過ごせたらいいと思ってのことだったが、こんな風に雨の日の遠足のような使い方ができるのもよいものだ。私は隣に座る彼の肩にことんと頭を乗せううんと唸った。
「なんだろ、セバスチャンはなんかある?」
「そうだな……いろいろ観たかったやつはあるけどこんな朝から観るようなもんじゃないかな」
「なにそれ、えっちなのこそ私のいない間にこっそり観といてよ」
「観ないし観てないしそもそも今日はずっとお前がいるんだから観る必要もないだろ……それとも観ながらしたいのか?」
「朝! 映画!」
いつの間にか腰に回されていた手を解き耳を熱くしながらそう嗜めるとセバスチャンはしてやったとばかりに鼻で笑う。それがなんだかどうにも悔しくて私がまたあとでと小さな声で返すと、そんな返事があると思わなかったのか彼は目を丸くしたあとに私の頭を軽く叩いた。
「とりあえず観たいのはそういうのじゃなくてホラーとかミステリーとか……別に朝一で観るようなもんじゃないだろ?」
「そう? そしたら……あ、それ観たい」
「どれ?」
「漫画の実写映画なんだけどさ、漫画は面白かったんだよね。観たことある?」
それ、と私が指を差したのは数年前に流行ったSF漫画の実写映画だ。当時人気のあった青年誌連載のそれは若手ベテラン問わず豪華なキャスト、美麗なCGをやたら喧伝していて少し気になっていたまま見ずに終わっていたのだ。
「映画はないけど漫画は読んでたよ、まだあの部屋にあるかもな」
「ほんと? だったら観てみようよ。好きな俳優さんも出てるの」
「……いいよ」
そうと決まれば早いもので、セバスチャンがリモコンをサイドテーブルへ置くとともに画面が暗転し、そのあとすぐ日常を切り取ったひとコマから始まった。緊張する必要はないのだがなんとなく居住まいを正し、ひとつめの映画を存分に楽しもうと構えた。
だがしかし何と言えばよいのか、三十分経とうが一時間経とうが一向に面白くならない。内容も微妙に改変されているし登場人物の立ち位置が微妙に違ったりとひとつ気になればどんどん気になるところが溢れてくる。確か二時間半ほどの上映時間だっただろうか、あまりの手持ち無沙汰に私がなにか食べるか隣の彼に訊ねると、間髪入れずに食べると返事があった。もうそれだけで充分理解した、あぁあなたもきっと同じ感情を抱えているのだと——大粒の雨がばちばちと窓を叩く音が無常に響く中、私達がこの映画の間に会話をすることは一度もなかった。
結局ふたりで二つのスナック菓子を平らげた頃、その映画は漸く終幕を迎えた。ゆっくりと流れるエンドロールを見つめたまま、セバスチャンは溜息ひとつ吐かず何も話さない。ただ余韻に浸っているのでないことだけは確かで、私は恐る恐る隣の彼を窺った。
「……あの、セバスチャンさん? 次行く前に感想戦します?」
「……感想戦も何も言いたいことはひとつしかない」
「つまんなかったね!」
あははと私が半ば自棄になって笑うと彼がじろりとこちらを見やる。だから気まずさにふいと目を逸らせば彼はエンドロールも半ばでその再生を終了させた。別に冷たく睨まれているわけでも機嫌を損ねたわけでもなさそうだが、もし今の私に内申書があるとするならば、彼はきっとセンスの欄に大きくばつ印をつけるだろう。とにかくそのばつ印を増やさないようにしなければと甘えるように彼の膝へと寝転がり、そこから彼を上目遣いに見上げた。
「なんていうかそのさ、これより下はそうないと思うから逆にこのあとの映画は全部感動するほど面白いと思うよ!」
「まぁまだ時間はたっぷりあるしな、次は?」
「今度は口直しにSFの超名作!」
「へぇ、いいね」
「……の続編見よ?」
ずっと観たかったものがあるのだと勢いよく体を起こすと、彼はたった今肯定してくれたばかりとは思えないほど呆れた表情でゆるゆると首を振った。
「……前言撤回するよ。もう嫌な予感しかしない」
「なんでよ!」
「どうせこれだろ? 観ちゃいないけど評判がよくなかったことだけは知ってるんだ」
そうセバスチャンが開いたページはまさに私の観たかったそれで、以心伝心の嬉しさとすでにばつ印が二つ目になりそうな現状にもう笑うしかない。笑うしかないがそれでもなんとか堪えようと唇を噛みながら彼から顔を背けた。
「……あのねセバスチャンさん、名作ってね、たくさんあるんですよ」
「じゃあこっち向いて、違うんだろ?」
「やだちょっと待って!」
しかしその背けた顔を後ろから回ってきた指にしっかりと掴まれてしまい、逃げようと体を捩るがそうはさせないとばかりにそのまま後ろから羽交い締めにされてしまう。ほら、と覗き込んでくる彼に見ないでと掌で顔を覆おうとしてもやっぱりそれもすぐに捕まって、足をばたつかせても逃げられない。そうしてどんどんと体制の崩れるうちにやがて頭が彼の膝の上に戻った頃、私はとうとう我慢ができずに声を上げて笑った。
「……もうごめんって! それですそれそれ! それが観たかったの!」
「最初から素直にそう言えばいいんだ」
小さく息を吐きながらセバスチャンもその口元に笑みを浮かべ、緩みっぱなしの私の頬を軽く撫ぜる。恥ずかしさと心地よさにふふ、とにやけるのを止められない。そんな様子を見てか彼は仕方ないなとリモコンを手に取り、そうしてすぐに放り投げたかと思うと、それと同時に画面が作品ページから映像へと切り替わった。
「いいの?」
「あぁ、その代わりこっちにおいで」
こっち、とセバスチャンは立てた膝の間をぽんぽんと叩く。なるほど彼を座椅子にする権利まで与えてくれるらしい。二つ返事で彼の間に座ろうとすると、彼はその前にテーブルに置いたままのペットボトルを持ってくるように言うので、テレビの前にある飲みかけのそれに手を伸ばし彼の元へと戻った。
「ありがとな、俺が食べ物って言ったら取ってくるんだぞ」
「なるほど? 取ってこいするために呼んだってことね?」
「まさか、抱き心地のいいものが欲しかったんだよ」
長丁場になるからなとセバスチャンが私の腹部へと腕を回し後ろから抱き抱えるようにする。本当にぬいぐるみかなにかになった気分だがなかなか悪くない。凭れかかると彼の息遣いも心音も感じられるので心地いいくらいだし、それならボトルホルダー兼使い走りでも全然よいと思えた。
だがしかし話が進むにつれ、そんな居心地のよさとは裏腹に居た堪れない気持ちが積み上がっていく。面白くないわけではないし一作目よりも映像技術が格段に上がっているのは間違いないのだけれど、なんというか、ストーリーに難がある。一作目からの熱心なファンというわけではないが、それでもあまりに別物となってしまっている内容に次第に自分ならどういう脚本にしただろうかと考え始める始末だ。
そんな中でふと後ろのセバスチャンを振り返ると、彼は先ほどの映画のときよりも穏やかな表情でこちらを覗き込んだ。
「大丈夫さ、お前の映画の好みがどんなに悪くたって俺はお前を愛してるよ」
「ねぇ! まだわかんないから!」
もう充分わかったと馬鹿にするように笑うセバスチャンの手をぱちんと叩けばそれは覆うようにしてあっさりと絡め取られる。画面の向こうでは人類が地球外生命体と命を賭して戦っているのに、名前を呼ばれるままに彼の方へ顔を向けると地球の危機など知ったことではないとばかりに彼は優しく私に口付けた。
「……飽きた? ほかの映画観る?」
「いや? 思ってたよりは楽しんでるつもりだよ。ただ……」
「ただ?」
「なんでもない」
セバスチャンは少し何かを言い淀んだあと、後ろからぎゅっと抱きしめ私の首元に顔を埋める。そこで深く息を吐かれるのがくすぐったいけれど珍しく甘えているみたいでなんだか可愛らしく、どうしたのと彼の頭に頬を寄せてそっとその髪を撫でていると不意にセバスチャンがこの手を取った。
「……先に謝っとくよ、ごめんな」
「え?」
「これはまたいつか観よう、あとで埋め合わせもするから」
どういうことかと尋ねる前に再び彼の唇が私のそれに重なる。しかしそれは先ほどのように触れるだけのものではなく深さを伴うもので、突然のことにくぐもった声を漏らすとそのまま押し倒されてしまった。それでもキスが止むことはなく、どんどんと口内を蹂躙される。そうして身体の疼くのを感じた頃に彼の大きな掌が服の中へと侵入してきたので、そういうことかと先ほど彼の言い淀んだ言葉を理解した。
「……ね、セブ」
「……ん?」
「テレビ、消そ? セブだけがいい……」
キスの合間に名前を呼べば名残惜しそうに唇が離れる。ただそんな風に吐息混じりに甘えてみせればセバスチャンはすぐさま体を起こし、ぶつりとテレビを電源から落としてリモコンをまたベッドのどこかに放り投げた。どうせ邪魔になるのだからきちんとテーブルに置けばいいのに、私が控えめに彼の袖を引っ張ると、彼は気をよくしたように微笑んで再び私へと覆い被さった。
雨も風も依然としてこの家を鳴らすほど強く、部屋の灯りも映画を観るために消してあったから窓から差し込む濁り曇った光しか頼るものもない。家に避難させたペットもどこか別の部屋に行ってしまって、ヒーロー達も観てもらえないなら仕方ないので今頃はきっと別の家のモニターに決戦の場を移したことだろう。
だから私のすべては今漸くあなたでいっぱいになった。さっきあなたは謝っていたけれど、私はただこの不自由な一日を自由にあなたと過ごしたかっただけだから、あなたがいてあなたとふたりでできることならなんだってよかった。
***
遠くに女性の微かな悲鳴が聴こえた気がしてふと意識の戻る感覚を覚える。ぱちぱちと二、三度瞬きをすれば変わらぬ薄暗い部屋に人工的な白い光がちらちらと見え、それが何なのかを把握する前に隣にある温もりを見上げた。
お風呂上がりに私がこの部屋を訪れたのと同じように、セバスチャンがヘッドボードに凭れかかって前方をぼんやりと見つめている。電光色に照らされる顔のラインがとても綺麗で、それを働かない頭で眺めていると、その視線に気づいたのか彼がこちらを見下ろした。
「起きたのか」
「……どれくらい寝てたの?」
「一時間も経ってない、まだ寝ててもよかったくらいだ」
「うそ、ごめん……」
目を擦りながら私が体を起こすと上掛けから何も身につけていない素肌が溢れる。それを自分で慌てて隠そうとするより早くセバスチャンがカバーして、滑り落ちた上掛けをしっかりと被せ直してくれた。服はどこへいったのだろうと辺りを見渡すけれど見当たらず、彼はいつの間にかちゃっかり自分だけ着ているのに私が頼れるのは肩に掛かる柔らかな布だけだ。それを体の前できゅっと握ればそのまま彼のすぐそばに抱き寄せられた。
「風呂、入るか?」
「ありがと、まだ大丈夫……なに観てるの?」
「さぁ、目についたホラー映画かな。お前が起きるまでのつもりだったからもうやめてもいいよ」
「……ううん、一緒に観る」
なるほど先ほどこの目を覚まさせた女性の悲鳴はここからきていたか、途中から見始めたものなのでこれがサイコかパニックかもよくわからないけれど、凄惨な雰囲気がこの暗い部屋によく映えた。
嵐は少し落ち着いただろうか、気を失う前よりも窓を揺らす音は小さくなった気がする。まだ夕方に差し掛かる前なのにもう一日が終わる気がして少しもの寂しい。
するとそんな私の胸の内を知ってか知らずか、セバスチャンはおいでともう一度彼の前に私を置いた。
「どしたの、怖くなっちゃった?」
「そんなわけないだろ、あったかくてちょうど収まりがよかったから気に入ってるんだ」
「ふぅん、怖くなったらしがみついていいからね」
「さっきまでしがみついてたのはお前の方なのに……」
「あれは違うでしょ!」
ばかじゃないのときゃんきゃん子犬が噛みつくように抗議してもそんなのはどこ吹く風で、彼は先ほどのように私を抱き抱える。しかし上掛けに包まれたままなので身動きができず、私は後ろの彼を首だけで振り返った。
「ねぇ、私の服は?」
「どこにやったかな、ベッドの下じゃないか?」
「取ってよ、セバスチャンだけずるい」
「……仕方ないな」
セバスチャンが少し離れてと言うので言われるままに体を離すと、彼は着ていたシャツを脱いでそのまま私に被せた。自分は少し余るそれに上掛けを外しながらもぞもぞと腕を通すと、再び彼の素肌の腕の中に閉じ込められる。ふわりと香る彼の香りに包まれるのはいいのだけれど、少し心許ない裾を引っ張って、もう一度上掛けを膝にかけた。
「ありがと……でも下がほしいんだけど」
「履けないだろあんなの、もう使いものにならなかったよ」
「は……?!」
さらりととんでもないことを言うセバスチャンを思い切り振り返るが返す言葉もなく、その様はきっとまるで金魚のようだっただろう。それなのに彼は至って落ち着いていて、ふと笑みを溢したあと私の頭に手を置いて立ち上がった。
「わかったよ、風呂準備してくるから」
「え、いやじゃあ私が自分でやるよ!」
「いいから映画でも観て待っててくれ、多分さっきの二本よりは悪くないはずだ」
彼はそう余計な一言を加えてベッドから降りると浴室の方へと消えていった。あとに残されたのは私と暗闇に紛れる殺人鬼で、画面越しに目が合った気がした。先ほどまではなんともなかったはずなのに今は風が窓を揺らす強い音も相俟ってか、映画の中の静けさが一層不気味だ。しばらくそんな画面に釘づけとなっていた中でふと寒さを感じ、セブ、と入り口に向かって愛しい人の名を呼んだがもちろん返事などあるはずもない。
別に怖いわけではないけれど、ひたすらに追いかけられている人物の浅い呼吸が少しだけ落ち着かなくさせる。あぁもうどうしてそんな小部屋に入ってしまうのだろう、だってそんなの開けられるに決まってるじゃないか。下手したらなにか斧や鈍器のようなものでドアを壊されるかもしれないし、ドアの前に立っていることさえ信じられない。ゆったりとした大仰な足音に震える呼吸、傾くドアノブとそして——
「なぁ、もうそろそろ入れると思うぜ」
「わっ?!」
突然かけられた声と画面の中の甲高い悲鳴に釣られ、私も叫び声をあげてしまった。口を押さえてももう遅く、ゆるゆると入口の方へ視線をやるとなんとか笑いを堪えようとするセバスチャンがいて、小さなこの失態を誤魔化すように彼を睨むしかできなかった。
「……いや、そんなに驚くとは思わなかったんだ」
「驚いてませんけど?」
「怖くなったらしがみつくんだったか? 来る?」
「だから怖くないって!」
冗談めかして小さく腕を広げるセバスチャンはもう完全に面白がっていて、私が怒ってみせてもなんの効力もない。そうこうしている間に彼がベッドに戻ってきてしまったので、私は命からがらどうにかあの小部屋から逃げ出した主人公と思しき人物を横目で見て、セバスチャンの指を引き留めるように握った。
「……でも」
「ん?」
「別にセバスチャンが一緒にお風呂入りたいならいいよ……」
そうふいと視線を逸らしながら精一杯の強がりを見せると、彼は私の目の前に座りこの手を握り返す。小さく吐かれた息は呆れを表すようなものではなく、一瞬だけ盗み見たその顔にはまるで幼い子どもをあやすようなそんな柔らかな笑みが浮かんでいた。
「またお前はそうやって、素直に一人じゃ入れないって言えばいいだろ?」
「いや入れるけど、今日は特別っていうか」
「一人で入れるなら大丈夫だな、お前にとったらせっかくの休日なんだ。ゆっくりしてくるといいよ」
「……ねぇ! もう一緒に入ろうよ!」
繋いだままの手をぶんぶんと振って降参すると、セバスチャンがわかったよと笑った。別に断る気もなかっただろうに一度はそうするので私がむっと唇を尖らせると、彼は機嫌を取るように触れるだけのキスをして私の手を引いた。
そうして向かった浴室でふたりあたたかな湯船に浸かり、長い時間ベッドで転がって固まった体を伸ばした。改築した際にお風呂は広い方がいいわよね、とロビンがいらぬ気を利かせてくれたのも今はありがたい。ぱしゃりと軽く水音を立て、ここでも後ろから包んでくれるセバスチャンへ甘えるように凭れかかった。
「……そんなに怖かったのか?」
「別に怖くないよ、怖くないけど、怖がってるふりしてセバスチャンを騙してやろうって思っただけだし」
「そうか、すっかり騙されたよ……でもそれならお前も平気そうだし夜は俺の観たかったやつに付き合ってもらおうかな」
「ねぇなに観るの……?」
「内緒」
その楽しそうな声が浴室に反響し、少し募った不安を隠せない私の頬にまたひとつ彼がキスをした。彼の動くたびにちゃぷんと立つ水音に少し緊張する。そのためか無意識に膝を抱え体を小さくすると、セバスチャンはこの肩を抱くようにして私の背に覆い被さってきて私の名を呼んだ。だからなぁにと少し上擦った声で返事をすれば、彼は可愛いと脈絡もないことを言って私の耳を喰む。今日はやたらとスキンシップが多くてなんだか照れるけれどもちろん悪い気分なんてするはずもなく、私は抱えた膝を解き後ろへ向き直ると、彼の頬を両手で包んで今度は自分からキスをした。
***
少し長湯をした浴室をあとにして、ふたりで髪を乾かし合った。最初は自分でドライヤーを当てていたのに彼が突然それを取り上げ今日は俺がやるのだと洗面台の鏡の中で微笑んだ。また雑にぐしゃぐしゃと乱されるかと思いきや意外と丁寧に扱われ、その長い指でさらさらと梳かされる髪はいつもより格段に艶やかで綺麗な気がする。けれど次第になんだか手慣れたその様子が不思議になってきてお上手ですねとつっけんどんな口をきくと、ずっと触っていたくてつい丁寧になってしまったと嘘か本当かわからない言葉で言い返せなくされてしまう。
だから今度は私の番だと彼の濡れた髪をこちらも丁寧に撫で乾かした。彼の髪は母親のそれと違った紫黒色がまた美しく、父親のものか隔世遺伝かは知らないけれど私はこの色をこよなく愛している。指の隙間をさらりと流れていくそれに綺麗だな、とぽつりと呟いたのを鏡越しに彼が見ていたようでなにか言ったかと訊ねられたが、私は熱くないですかなんて美容師の真似事をして誤魔化した。
そうして戻ったベッドの上でたくさん買い込んでいたピザを食べながらまたふたりで映画を見始める。ピザは私の好きな味を選ばせてもらったので映画はセバスチャンの選んだものにした。元々嵐のせいで明るくはなかった外も今はすっかり真っ暗で、暖色の間接照明を点ければどこかで眠っていたペットもこの部屋にやってきて床に寝転がった。
セバスチャンの選んだ映画はサイコサスペンスに分類されるものだろうか、どうして食事時にと思うほど不気味ではあるが名作と呼ばれるだけのことはあってその世界へどんどんと惹き込まれていく。
「……この町でこんなこと起きたらどうしようね」
「お前は生き残りそうだけどな」
「いや無理だよ死んじゃうって」
「……人の気も知らないで数えきれないほどのモンスターと戦って尚且つ毎度生還してるお前をどんな殺人鬼が殺せるんだ?」
「んん?」
なんのことだかとおどけたように首を傾げるとセバスチャンも含みのある様子で同じように首を傾げてみせた。確かに戦闘面では負ける気はしないけれど、起きる事象としては恐怖以外のなにものでもない。どうせなら大々的に現れ一気に襲いかかってくれればいい、それなら勝てるのにと思ったがどうせまた揶揄われるだろうから口にはしなかった。
「そういえば殺そうとしてくるモンスターを主人公が次々返り討ちにするホラーがあった気がするな」
「ねぇなんで私でそんな映画思い出すの?」
「いや? 深い意味はないけど……」
「けど、なによ」
「……ピザもう一枚あっためてくるかな」
もう、と私が笑うとセバスチャンはそう首を振りながらベッドを降りた。逃げられてしまっては仕方ないのでついでにピザの種類を選ぶ権利も譲ってあげるとその慈悲深さに感謝するよと適当なことを言ってキッチンへと向かっていった。ああたまに見せるそんな可愛いところも好きだ。不穏な背景音楽も知らんぷりをして枕に顔を押し付け、この愛情と同じくらい深い溜息を吐いた。
「あ、この曲この映画のだったんだ」
ピザを食べつつゆったりと観ていた映画も終幕を迎え、若干残る後味の悪さすら余韻として充分に味わいたいと思っていた矢先、流れてきたとあるバンドの曲に懐かしさを覚える。昔よく聴いていたそれがなにかの主題歌だったことは知っていたがまさかこの映画だったとは思わず、懐かしいと零したところでセバスチャンがこちらを振り向いた。
「知ってるのか?」
「うん、昔よく聴いてた。懐かしいなって」
「俺もだよ、まさかこんなところで話が合うなんてな」
仲良くなってから随分と経つので今更にも思うがそこからどんな音楽が好きだと言う話になり、エンドロールの終わったあとは映画から動画サイトへ移動してお互いの好きなミュージックビデオなどを見漁った。ベッドの足元の方に枕を持ち寄り寝転がって、ああでもないこうでもないと思い出話に花が咲く。遠く別の場所に住んでいて見られる空の色や星の数が違ってもその頃に聴いていた曲で共通して盛り上がれるのは嬉しいことで、知らない曲を聴かせてもらったりしたときには更に彼に近づけた気がした。またそれとともに語られる当時の彼の様子なども聞くだけでわくわくするような愛おしいような感情で胸がいっぱいになり、そういえばそれはちょうどいつもの朝食の風景と重なった。彼が深夜の外出で見たもの聴いたもの感じたものを分けてもらう、あの朝の時間に。
いつしか外の嵐もすっかり影を潜めていて、少しまだ風はあるものの雨は止んだようだ。それでも私は彼の隣にいて、彼も今日ばかりは深夜の散歩に出かけたりはしないだろう。私はひとつ欠伸を零し、隣で寝そべって未だ画面を眺める彼に擦り寄った。
「……眠くなったのか?」
「……ううん、まだ起きる」
その言葉とは裏腹に、うつ伏せで枕に肘をついていた彼の腕と体の隙間に額をぐいと潜り込ませようとすると、彼はふと笑ってそんな私の頭を撫でた。
「我慢しなくていいよ、もう寝ようか」
「ん、でも……」
「また次の楽しみに取っておけばいい。俺達は夫婦なんだ、今日で終わりじゃないだろ?」
セバスチャンはそう言うと有無を言わさずテレビを消した。次いで照明も消しに行こうと起き上がろうとするので私は最後の力を振り絞り、行かないでと呟きその手を掴んだ。
「……今日はやけに甘えるんだな」
「……だって、ほんとはずっとこうしたかったんだもん」
毎日朝から晩まで仕事に明け暮れて、一緒に過ごす時間は食事の時間と夜のわずかな時間だけ。それに加え彼のスタンスを尊重できる自分でいたくて、こんな風にのんびりと過ごすなんて考えられもしなかったのだ。
セバスチャンはそうやって手を引く私の隣にもう一度戻って寝転がると、何も言わずにこの体を抱き寄せた。
「……俺のことは気にしなくていいって言うのは本当なんだ」
「……うん」
「でもそれは一人の時間が好きだからってだけじゃない……多分俺はお前が泥だらけで走り回ってる姿を見るのが好きなんだろうな」
閉じ込められた腕の中は蕩けてしまいそうなほどにあたたかく、すぐに彼の香りでいっぱいになった。それは私をひどく安心させ、背を叩く優しいリズムも私を眠りへと誘っていく。けれど彼の話すその声を言葉をもっと聞いていたくて、もっと今日という一日を一緒に過ごしたくて、私はセバスチャンにしがみつくようにしながらその胸元に顔を埋めた。
「ゆっくり休んで、また明日からいろんなところを駆け回って……そして満足したら俺のところに帰ってきてくれ」
待ってるから。私の背を撫でていた掌がこの頭を二、三度撫でたあと、そのまま強く抱きしめる。そんなことをされては鼻も潰れてしまうし息もうまくできないし、普段ならきっと苦しいなんて笑って彼の背中を叩くのだろうけれど、今はそんな状況すら心地よい。私は薄れゆく意識の中で好きだと小さく呟いた。
***
翌る日ベッドの足元の方でぱちりと目を覚ました私は、窓から差し込む爽やかな陽の光に顔を顰めながらのそのそと体を起こす。こんなに寝相が悪かっただろうかと一瞬不安になったが、そういえば昨日は動画を観ていてあのまま彼の腕の中で眠りについたのだ。部屋をぐるりと見渡したがもうセバスチャンの姿はなく、私は裸足でぐちゃぐちゃに寝乱れたベッドを降りた。
「おはよう、早かったな」
セバスチャンはいつものようにすでにキッチンにいて、普段と同じく朝食の準備をしていた。私よりもあとに眠ったはずなのに私よりも早起きをして、それでも不満なんて口にせず彼は当然のように微笑んでくれる。
「おはよ、ごめんね毎朝」
「いや、外の様子を見たかったんだ。すごいことになってたぞ」
「えぇ……見たくない」
「樹液採取器だったか? 飛ばされて転がってたな」
「やだもう聞きたくない!」
「いくらでも聞かせてやるから顔洗っておいで」
はぁいとしょぼくれて洗面所へ向かい身支度を済ませて溜息を吐きながら戻れば、セバスチャンはもうテーブルについて淹れたばかりのコーヒーを飲んでいる。もちろん私の分も準備してくれていて、私はもう一度ごめんねと断ってから席につき、いただきますと両手を合わせた。
「そういえばバイクは平気だった?」
「あぁ、平気そうだったよ。でもあとで念のため見ておこうかな」
「……ねぇ、作業するとき私も近くで見てていい?」
コーヒーに口をつける前に私がそう窺うと、まさにトーストに齧り付いていたセバスチャンが目を丸くしてこちらを見た。今までにもそういった場面に出会して声をかけたり眺めたりすることはあったので何を今更というような、そんな視線で。
「いいけど、お前の言うお高いパーツなんて買ってないぞ?」
「別にそれはいいの! ……私もね、セバスチャンが好きなことしてるのを見るのが好きだから」
私がそう若干の照れを隠すようにはにかむと、最初は何の話かまるで理解していなさそうだった彼も一瞬の間ののち合点がいったように頷いた。
「じゃあ部屋を片づけてからだな」
「私もやるよ、準備してくれたもんね」
「なら俺も外の片づけ手伝うかな、そのあとたまにはベンチで昼でも食べようか」
「だったら私おにぎり作るよ、たくさん」
「いいね、俺もお前の作るものが好きなんだ」
どちらからともなくテーブルに身を乗り出してそんな他愛もない会話を交わし、具はどうしようだとかビニールシートでもいいなとか止まない応酬に私達は顔を見合わせて笑った。
なんでもない一日が今日もまた始まり、またひとつあなたとの思い出が増えていく。そんなことがやっぱりどうにも嬉しくて、私は少し焦げ目のついたきつね色のトーストに齧り付いた。
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