ちゆき
2025-12-30 13:04:49
12350文字
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いいな

そりゃあいいなって思うよ。

*pixiv閲覧制限国の方用にpixivから持ってきました


*セバスチャンと仲良さそうな女の子に嫉妬するお話
*牧場主視点

*セバスチャンとはお友達

 そりゃあこれだけ親しくなればふとした瞬間にいいなと思うことはある。本人は弱い体だと言うけれどそれなりに背もあるしただ細いわけではなく程よく体も作られているようにも思うし、夕闇に紛れ煙草を蒸すそのシルエットは指先まで綺麗だ。それに自室に篭りきりかと思いきや意外とバイクや音楽の趣味もあってきちんと年頃の男性だし、友人をビリヤードで一方的に負かしている姿は素直に格好いい。家族に不満を持っていると言いながらも母親を気遣う一面が見えるところもいいし、友人と悪巧みをしている顔も、ぼんやりと少し気怠そうな横顔も、私が呼んだら微かに見せてくれる笑顔も、少しずついいなが募っていく。
 けれどそんな彼はお日様の光も他人のことも苦手な一匹狼で、私はそのお日様と周りの人に生かされている牧場主——知れば知るほどふたりは正反対な存在だった。

***

「ねぇ! あなた今夜の打ち上げに来ない?」
 それはよく晴れた日の朝一番、町の商店に掲示された依頼の貼り紙を見ていたときのことだった。可愛らしい鳥の囀りを掻き消しばたばたと店内から飛び出してきた友人の一人、アビゲイルは開口一番そう告げた。
「おはよ……打ち上げ? なんの?」
「あたし達のバンドのよ。この間あなたが来られなかったライブあったでしょ?」
話を聞けば先週だったかに行われた彼等のライブの打ち上げを、今夜町の酒場で行うらしい。そのときに開催すればよかったのに帰りの便の都合もあったのか、一週間ほど経った今頃サムが酒場の主人に掛け合うなどして手配を進めているのだという。最近は以前よりも精力的に活動しているようなのでたまにはそうやって過ごしたい日もあるのかもしれない。
「でも私なにもしてないのにいいの? というか行けてすらないのに」
「もちろんよ、友達じゃない!」
 アビゲイルは徐にこの手を握り、ぶんぶんと振り回す。友達だからいいなんてそんなものなのだろうか、まあこの気の良い友人達は絶対にだめだと言わないだろうけれど。ふとメンバーのうちの一人の姿を思い浮かべたのと同じタイミングで、それにね、とアビゲイルがしゅんと視線を落とした。
「セバスチャンが、あなたが来ないなら行かないって言うんだもの」
「え? どういうこと?」
「いろいろあってね……活動は楽しいんだけど今大変なのよ」
 アビゲイルは大袈裟な溜息を吐いて首を捻った。しかしどうしてセバスチャンが私が来ないなら行かないなんて、そんなの思い当たる節もないしそもそも嘘か本当かもわからない。ただ目の前の友人の元気のなくなった顔を見て断れるわけもなく、私はひとまずわかったとだけ返事をしてその場を後にした。

 セバスチャンはアビゲイルと同じくこの町に来てできた友人の一人だ。いつも畑を狙うカラスのように真っ黒な出立ちで、あまり他人とも関わらずなかなか外にも出てこない彼。自分の生活スタイルと真逆の彼と仲良くなれたのは奇跡なのではないかと今でも思う。最初はアビゲイルやサムと一緒に遊びに来ていた部屋にも今は私一人で訪れるようになって、たとえば鉱山からの帰りに寄り道をして彼が仕事をする横で漫画を読んだり昼寝をしたり、それに彼はまた来たのかなんて言いながら少しだけ、きっと本人も気づいていない程度に笑ってくれて——古き良きこの谷でそんな時間をこれからも変わらず過ごしていくのだと思っていた。

「セバスチャンいる?」
 部屋の扉をノックはするが返事を待たずにがちゃりと開ける。これはもはや私がこの部屋を訪れる際のお約束だ。そしてそれを溜息か冷たい視線かのどちらかで迎えてくれるこの地下室の主、セバスチャンも同じことで、どうやら今回前者のようだ。仕事道具に囲まれた部屋の隅でゆっくりと立ち上がる黒い影に私はお邪魔しますと声を掛けた。
……あのな、ノックの意味知ってるか?」
「もちろん!」
 今日は小言もセットらしい。少しご機嫌斜めなのだろうか、タイミングが悪かったかも知れないと思いながらもいつしか定位置となったソファに腰掛ける。彼もこちらまで歩み寄ってきながら愛飲する煙草に火をつけたが追い出すつもりはないのか、そのまま近くにあった椅子に座って煙を吐き出した。
「どうするんだよ俺が着替えてたりでもしたら」
「そんな着替えてるくらいじゃどうもしないよ、女の子とよろしくやってたら本気で謝るけど」
「お前なら本気でやりかねないからこれからは鍵でも掛けとくかな」
「やだやだ、善処するから待って」 
 休憩できないの困るもん、と両手を合わせてかわい子ぶるように首を傾げてみせれば彼はふん、と鼻を鳴らして再び煙草を咥えた。
「でもそもそもそんな連れ込むような女の子いないでしょ、いるなら見てみたいよ」
……どうだろうね」
「え?」
 ふ、とそっぽを向いて紫煙を燻らせるセバスチャンはそう曖昧にぽつりと呟いた。言葉のとおり煙に巻かれたような心地で私が返事もできずにいると、灰皿へ伸びた灰を落としながら気を取り直したようにこちらへと視線を向けた。
「でもいいところに来たよ。お前、今日サルーンに来ないか?」
……あ、そうそうそれで来たんだ。アビゲイルからも誘われて、本当に私が行ってもいいの?」
「打ち上げなんか口実でただ騒ぎたいだけだろ、いいに決まってる」
「じゃあお言葉に甘えようかな、何時くらいから?」
「さぁ、夕方くらいからかな」
「そこ知らないの?」
「覚えてない」
 そんなことでよく誘ってきたものだがアビゲイルの話やその口ぶりからするにセバスチャンはやはり気乗りしないのだろうか、表情もやや重い。どちらにせよ先ほどアビゲイルから聞いた話は出さない方がよさそうだと私は笑顔で頷いた。
「そしたらちょっと動物達の様子見たあとで行くよ、待っててね」
……あぁ、でもできるだけ早く来てくれ」
 私がそう言うと若干、よく見ないとわからない程度に表情が和らいだ気がする。しかし視線をふと落としてそう呟いたセバスチャンの言葉に首を傾げ、とりあえずコーヒーをおねだりすると彼はぶつぶつと文句を言いながら地下室をあとにした。

 ただ友達といつものように酒場で屯して一日が終わっていく余韻を楽しむだけだと思っていた。シャワーを浴びながら今日はなにを飲もうかななんて、アビゲイルの重い溜息もセバスチャンの煩わしそうな表情も、私はおかしいと思いながらなにも考えようとしていなかったのだ。

 すっかり日も落ちてしまった時分、外まで声が漏れ響くほど賑わいを見せる酒場の扉を開け、いつもの遊戯室の前でこんばんはとセバスチャンの名前を呼ぼうとした唇は最後までそれを模ることはなかった。今し方いらっしゃいと声を掛けてくれたガスもエミリーも上機嫌だった理由がわかった——知らない人が、たくさんいる。
……あっ! やっと来てくれたのね!」
「アビゲイル……これ、どういうこと?」
 席を外していたのか、アビゲイルが背後から私に向かって飛びついてきた。その衝撃も今は目の前の光景には勝てず、たくさんは些か表現を盛ったかもしれないが、やはり見える範囲だけで名前を呼べない人物が四、五人ほどいる気がする。サムはその中に混じって楽しそうに談笑していてこちらにも気づいていない。
「この間のライブでサムが仲良くなった人達よ」
 はぁ、とアビゲイルがまた今朝と同じような溜息を吐く。入り口から様子を窺い見るといかにもバンドマンといった風貌の男性やお洒落な女性がいて、こんな辺境まで来てくれるような懐の深い人達と交流を深めるのはいいことなのではないかと思う。しかしアビゲイルは不満そうに唇をつんと尖らせて私へ耳打ちをした。
「なんかファンだって声を掛けてくれた子まで呼んだみたいで……
 あたしは反対したんだよ、とアビゲイルが首を振りながらこの手を取り中へと招き入れる。そうして人混みの影から覗いた部屋の奥には一人の女性となにかを話しているセバスチャンの姿があった。
……何回かライブに来てくれてる女の子なんだけど、友達と二人でサムに声掛けてきて——それで一人はサム、一人はセバスチャン、みたいな感じなの」
……ふぅん」
 すらりとした手足に白く綺麗な肌、ここからでもわかるくらい長い睫毛に綺麗に飾り付けられた爪。ふわふわと柔らかそうな長い髪になんといっても女性の愛らしさを際立たせるシンプルなワンピースとヒール——こう表現するだけなら雑誌にたくさん載っているような量産型の女の子かもしれないが、いざ目の前にすればやはり目を引くほどに綺麗だと思うし、こうして見る分には落ち着いた彼にもよくお似合いだ。だからだろうかセバスチャンもまだこちらに気づかない。
 あの子があんなに楽しそうに笑ってるってことはセバスチャンもなにか話してるんだよね。あ、ほら今なにか喋った。それにまた女の子は彼の肩を軽く叩いて、彼は目を逸らし煙草に火をつける。
 そういえば日中に親しい女の子なんていないでしょうと揶揄った際に微妙な反応をしていたのを思い出した。それはこういうことだったのか。いるじゃん、普通に。しかもアビゲイルの話が本当ならしばらく前から。それも私とは正反対の、綺麗で愛らしい女の子が。想像もしなかった光景に立ち尽くす私を、アビゲイルが慌てたように覗き込んだ。
「あの、違うのよ? セバスチャンは本当にあなたを待って……
——やだなアビィ。私達普通に友達だしなんもないし、セバスチャンもやっと彼女できるんならよかったじゃん」
「え? ちょっと……
 うまく避けられず知らない人にぶつかりそうになりながらふらふらと歩く。そんな私にまずはサムが気づいたようでよぉ、と声を掛けてくれたが私は笑顔で手を振るのみに留め更に歩みを進めた。そう、笑顔で。壁際で煙草を蒸しながら女性と話すセバスチャンの元へ。私が人影から姿を現すと漸く気づいた彼は安心したように表情を緩ませ、まだ長い煙草を近くの灰皿に惜し気もなく押し付けた。
「遅くなってごめんね」
「本当だよ、来ないのかと——
「いや約束したからね、来た……けど」
 けれど。セバスチャンの隣にいる女の子の視線が刺さる。上から下までじろりと一瞥したあと、僅かにセバスチャンへ体を寄せる。私は笑顔を張り付けたまま視線を彷徨わせ、たくさん着て草臥れたお気に入りの服の裾をきゅっと握った。
 いいな、この子はこんな可愛い格好でこの人の隣に立てて。私はいつも泥だらけで土と草の匂いでいっぱいで、この手を伸ばしたくたってこんなに荒れ放題で傷だらけの指じゃこの人を傷つけてしまうから。
——ごめん、動物の体調よくないみたいで……今日は帰るね」
「は? いや、待って……
 セバスチャンの手が伸びてくるのを一歩後ろに引いて避ける。すると彼の表情は途端に戸惑いを帯びた。それはそうだろう、来たばかりなのに帰るだなんて約束を守ったうちに入るわけもない。しかし隣の女の子は今も私を警戒するように見つめていて、私は歪みそうになる口元をなんとか釣り上げた。
「ごゆっくり、楽しんでね」

***

——ねぇ! 待って!」
 本当は走り去りたかったけれどそんなことをしたら不自然なのはこんな頭でもわかっていて、駆け出さないよう必死で抑えた足取りで酒場を抜け出したがすぐアビゲイルに捕まってしまった。街灯からも少し離れた町の広場の中心で彼女に手を取られるまま足を止めたが、今自分はどんな顔をしているのだろう。私は振り向くこともできずなるべく明るい声音で謝った。
……アビゲイル、誘ってくれたのにごめんね」
……そうじゃなくて、嘘でしょう? 動物はみんな元気、違う?」
 しかしこの町に来てからずっと付き合いのある彼女だ、流石にそんなことはお見通しで、この目の前に回り込み優しくこちらを覗き込む。そうされてはもう逃げ場もなく、私はふいと目線だけをずらした。
「いやまぁ……私普通にこないだのライブも行ってないし、そもそも普段から行けてないし、いくら友達でも空気読めってさ……
「なにそれ、そんなこと誰が言ったの? あたしは言わないわ」
「もちろんサムもセバスチャンもそんなこと言ってない。言ってない、けど」
 アビゲイルはこの両手を握るあたたかさとは裏腹に憤りを露わにするが、優しい彼等がそんなこと言うはずがない。そんなのは神様の存在より当たり前に信じられるほどわかっている。けれど待っていると言いながら追いかけても来ない彼、これが答えだ。
……でも、女の子と仲良くしてたから、邪魔じゃない……
 あんな風に笑わせてあげて、べたべたボディタッチまでさせて——そんなことをアビゲイルに溢すことはしないが、このどうしようもない感情には過去に何度もいろんな形で覚えがあった。
「あなた、やきもち妬いてるのね」
 そう、アビゲイルの言うとおりこれは嫉妬だ。私は自分と比べるのも烏滸がましいほど綺麗だったあの子に嫉妬している。それは自覚してしまえばその辺にありふれた、けれど今の私が抱けるはずもない感情だった。
 彼女の指摘に私は返す言葉もなくただ俯くしかなかった。馬鹿みたいに開いた口からはなにも出てこず、不自然に押し黙った私に彼女はあはは、と明るく笑った。
「じゃあいらない心配よ、戻ってみれば?」
「いらない心配って……
「あたしからは深くは言わないけど、セバスチャンは本当にあなたを待ってたもの。今頃どうせ機嫌悪くしちゃってあの部屋の空気は世界の端っこよりも冷え切ってるわね」
 戻ったってペンギンやシロクマしかいないかもしれないわだなんて可愛らしい冗談を言ってくれるアビゲイルの気持ちはこれ以上ないほどありがたかったが、これが嫉妬なのだと気づいたこの心にはもう一度あの光景を見る余裕はない。
「ありがと、アビィ」
「えぇ、じゃあ」
「でも今日はやっぱやめとく、明日直接謝りに行くよ」
 私は再び笑顔を作り、首を横に振った。その分アビゲイルの表情は曇りどうして、と眉尻を下げる。動物の体調だなんて大事なものはくだらない嘘を吐くために出してはいけないものだったし、今戻ったところで言い訳ひとつも浮かばない。戻らない理由なんていくつでも湧き出てくるけれど、それでもやはりこの胸の内を占めるのはたったひとつだ。
……わかった。ならそこまで送らせて、それくらいならいいでしょ?」
 そんな私の幼い感情を赦すようにアビゲイルは私の手を握り直すと、牧場までの道を指差す。年下の女の子にここまで気を遣わせてしまうことが情けなく、できるだけ平静を装い私は笑って頷いた。

 牧場へと続く小道までの間、アビゲイルはあらためて今一体なにが起きているのかを彼女なりに話してくれた。要はサムが新しくできたファンに、しかもそれが女の子であることに浮かれているのだと溜息混じりで首を振る。そしてセバスチャンはそれに巻き込まれているだけで、彼も自分もどうしたものかと思っているのだと。
 でもそれなら日中彼の部屋を訪れた際にどうして彼は含みを持たせるような言い方をしたのだろう。どうしてあの子はあんなに楽しそうに笑っていたの——どうして、どうして。そこまで言葉が出そうになって私は思い出した。アビゲイルがどんなにこの心を慰めることを言ってくれたとしても、そもそも彼が私を追いかけてくる理由も、私が彼の交友関係に口を出す権利もなにもないことを。

 そうしてアビゲイルと別れたあと、私は牧場までの暗い小道をゆっくりと歩いた。脇道の奥には古びたバスが見え、運転手には悪いがこの夜だけ貸してもらってどこかへ行ってしまいたい気分だと足元の小石を蹴った。
 そういえばいつだったかセバスチャンがバイクに乗せてくれるって言っていたっけ。あれからもう随分と経ったけど、彼はもう忘れているかもしれないな。それともあの子にも同じようなことを言っているかもしれない。
……あの子もなにがいいのよ、あんなやつ」
 別に都会にはもっといい男なんてたくさんいるじゃないか。もっとちゃんと仕事に精を出して、いっぱい友達もいて、煙草も吸わずよく笑って捻くれたことも憎まれ口も叩かずに、もっともっと大人でいい男なんてたくさんいる。なのにどうしてこんななにもない町のあんな人なのか、本当にどうかしている。
 どうかしているのに、私はいいなって思っている——都会の可愛い女の子になんて目もくれず、私のところに来てくれたらいいなって。
「悪かったな、あんなやつで」
 突然背後からそう掛けられた声に私は驚きのあまり振り向いた。この細い月明かりしか頼るもののない暗い小道に現れたのは幻聴でも幻覚でもない。紛れもなく望みに望んでいた人物、セバスチャンだ。
「なんで……
「なんでってこっちの台詞だよ」
 彼は少し切れた息を整えるように一度深く呼吸をしてずかずかとこちらへ歩いてくる。どうしてこんなところに、みんなは? 言いたいことや誤魔化したいことが縺れた糸のようにこんがらがってうまい言葉が出てこない。そのうち彼がすでに解除済みのこのパーソナルスペースまで侵入してきたので、私は目線を泳がせて下手くそな笑みを見せた。
「いや足音くらい立ててよ、びっくりするでしょ」
「普通に歩いてたさ、お前が気づかないほど考えごとをしていたんだ。あの子のことだかあんなやつのことだかをな」
 しかし私の独り言は彼に届いた時点で紛うことなき失言になってしまって、私はそのあとに返す言葉を失ってしまう。風の音も虫の声も聞こえない静まり返ったこの夜に、ただ彼の黒曜石を思わせるその瞳が真っ直ぐと私を貫いた。
……ごめん」
「今度はなんの謝罪だ? あんなやつ呼ばわりなんか今更だしな、それとも嘘を吐いたことか?」
……なにもかも」
 居た堪れなくなった私が俯くとそこには当たり前だが二人分の靴が見えて、あまり家から出ない彼のそれとは違い私のブーツは毎日駆け回るものだから見るに耐えないほどぼろぼろだった。そう、あの子の可愛らしいヒールとなんてもはや比べ物にもならない。暗がりとはいえこんなに景色豊かなこの場所で、どうしてよりによってこれを視界に入れてしまったのだろう。力なく笑い髪を弄ろうとしたこの腕を、彼が静止するように優しく掴んだ。
「どうして嘘を吐いてまで帰ったんだ」
「別に吐きたくて吐いたわけじゃ……
「だから、だったらどうしてって聞いてるんだよ。言わないとわからない」
 セバスチャンの声音は一切咎めるようなものではない。少し不機嫌そうではあるものの、ただどちらかといえば本当になぜなのかと理解できないようで、至って真剣な様子で首を振る。だから私は半ば自暴自棄にだって、と吐き捨てた。
……いや、どう考えても邪魔じゃん、私」
「邪魔?」
「可愛かったね、あの子。ごめんね、紹介してくれるつもりだったんでしょ? お昼に言ってた部屋に来るのもあの子だったんだよね。なのに私空気読まないで帰ったりして……自慢できるような友達じゃなくて、ごめん」
 私が慣れない自嘲を見せるとセバスチャンの指が掴んでいた私の手首をそっと離した。そうしてふたりの間に沈黙が流れ、それはそうだ、恋人でもなんでもないただの友人からこんな重い言葉を一方的に投げつけられたら誰だって困るというものだ。
 やがて私の口からなにも出てこなくなったのに気づいたセバスチャンはひとつ溜息を吐いた。心の底から呆れ返ったようなそれは彼の前では忘れ去っていた緊張を思い出させ私をより深く俯かせたけれど、彼がその後に続けた言葉は私の心を少しだけ軽くした。
……言ってる意味はひとつもわからないが、とりあえずお前が勘違いしてるのだけはよくわかったよ」
 それにぱっと顔を上げると誰が見ても明らかにげんなりと萎えている彼と目が合い、けれど目の合ったのがわかったあと、彼はやっとこっちを見たかとでも言うように微かに笑った気がした。
「サムが浮かれてるんだよ、女子に声掛けられて」
「アビィから聞いた……けど」
「最初はそれをアビゲイルと面白がってたけどそのうちの一人がああやって俺のところに来るようになって、俺は迷惑してる」
……でもセバスチャンも楽しそうに話してたじゃん」
「あれが?」
「すごく笑ってたよあの子。肩叩いて、笑って……
「それはあいつの話だろ? 俺じゃない。付き纏われて本当にうんざりしてるし、今日だって俺はずっとお前を待ってた」
 ずっと。そういえば彼はなぜ私を待っていたのだろう。たとえ本当に嫌だったとして、アビゲイルにも漏らすほどのことだろうか。だってあの子を躱すだけなら別に私でなくてもよかったはずなのだ。アビゲイルでもエミリーやリアでも、なんなら女子でなくたってクリント辺りは女子を紹介すると言えば喜んで食いつくだろうに、セバスチャンがいつもふらふらと走り回るばかりで本当に現れるかも不確実な私を選んだ理由がわからない。
……ねぇ、なんで私を?」
「なんでってそんなの——
 セバスチャンはなにか言い淀み唇をきゅっと結んだあと、飲み込んだ言葉の代わりだろうか、初めて私の手を取った。今日だって不注意に怪我をしてまたひとつ傷のできたこの醜い手を、優しく。表情はどこか固いけれど決して視線を逸らそうとはしない彼から私もまた目が離せなくなった。
「とにかく今度から帰らなくていい。というか、帰らないでくれ……俺はお前にいてほしいんだ」
 彼の言葉も手のぬくもりも、そのすべてがこの心を守るために築き上げた壁をいとも簡単に崩してしまう。そしてそれはまた私にほんの僅かな優越感を覚えさせた。だってあの子はきっとこの甘く脳を揺らす声も蕩けるようなぬくもりも、こんなに優しい眼差しもなにも知らない——いや、これまで私が見てきた彼のひとかけらだってきっときっと知らないのだ。私は握られた手へと視線を落とし、込み上げるなにかを堪えるために唇を噛みながらうん、と小さく何度も頷いた。
 そう、そこまではよかったのに、一区切りのついたところでセバスチャンが打って変わって至極面白そうに笑いながらこちらを覗き込んできた。
「それよりひとつ聞きたいんだが」
「なに?」
「要は知らない女が俺のそばにいたから帰ったってことでいいんだよな」
……は?!」
 にやにやと意地悪く笑いながらそう尋ねるセバスチャンに私は素っ頓狂な声を上げる。その声のせいか近くの茂みでがさがさとなにかが走り去ったのにも驚いて、忙しなく視線を右往左往とさせた。
「なぁ、どうなんだ?」
「ちが、私がいたら悪いなって」
「誰に?」
「誰ってそんなの、セバスチャンとか他の人とか!」
「へぇ、どうして?」
「聞きたいことはひとつでしょ?!」
「ひとつが何個もあるんだよ」
「意味わかんない!」
 今すぐ走って逃げたいのに握られた手はそのままで、顔を背けたって彼の瞳は愉しげに追いかけてくる。空いた手で顔を隠そうとしてもその腕はすぐ払われてしまうし逃げ場なんてどこにもない。やがてそれを悟った私が諦めて最後に俯くと、彼の綺麗な指が顔にかかる私の髪をそっと掬った。
……もしかして、俺が他の女と一緒にいるのが嫌だったのか?」
 少し背の高い彼が腰を屈め、夜の帷に隠したいこの赤く膨れた頬を暴く。握っていただけだったはずの手はいつのまにか指が絡められていて、こんなのは意地の悪い彼の悪戯だ。だったらこっちだって揶揄ってやる——なんてそんな余裕はない。でも少しだけ、ほんの少しだけ心の内を明かすならば今なのかもしれない。つい先刻の、友人との会話を思い出しながら私はぎゅっと強く瞼を伏せ恐々と口を開いた。
……や、」
「ん?」
……ほんとはちょっと、やだった……
 ちらと薄目で覗いたセバスチャンは珍しく大層目を丸くしていて、そのあとふと見たことのないほど柔らかな表情で笑い出した。やっぱり馬鹿にしてる、そう思ったのも束の間、彼は緩む頬もそのままにしゃがみ込み、下から覗くようにして今度はこの両手を取った。
「ほら顔を見せてくれ、なにが嫌だったんだ?」
「今言ったでしょ!」
「だめだよ、もう一回」
「やだ、ばか!」
 手を振り解こうとしても振り解けないのは彼のせいか自分のせいか、それともふたりして離す気がないのだろうか。二人分の笑い声が誰も訪れない静かな夜の小道を密かに賑やかし、そうして暫くしたのちに彼がはぁ、と一息ついた。
「やっぱりいいな」
「なにが?!」
「お前はどうだか知らないけど、これでも俺はお前と一緒にいる時間を楽しんでるんだ」
 伏目がちに彼はそう微笑んだ。その満足そうな表情がまた私にいいなと思わせて、熱くなった頬を扇ぎたいのにやっぱりどうしたって繋いだ手を離せない。だから私も彼の真似をしてひとつだけ小さな、けれどありったけの想いを乗せて溜息を吐いた。
……やっぱばか」

 確かに私達は正反対だ。私は彼のようにお家で大人しくなんてしていられないし、あの子のように彼の隣を華やかに彩る存在にもなれない。それでもそんなことは百も承知で私はきっと彼の愛する一人の時間をぶち破るように明日も地下室の扉を開けるし、それに彼が顰めっ面をしても私は気にもせずとりとめのないことを話して、笑って——けれど彼がそれがいいと言うならそれでいい、そんな簡単なことだった。

***

「そういえば結局あの子達はどうしたの?」
 あれから一週間ほど経った週末の夜、あの日ぶりに私達四人は酒場で集まっていた。しかし今日はビリヤードもゲームもせず、四人がけの座席で珍しくサムが酒を煽るのを三人で囲んでいる。その理由は聞いてはいないが、きっとあの夜が関係したことなのだろうと私がそれを口にすると、セバスチャン以外の二人——サムとアビゲイルが首を振った。
「あれはねぇ……
「やってくれたよ本当」
 隣のアビゲイルは苦笑して、向かいのサムはジョッキを少し響く程度にテーブルへ叩きつけているのに、当事者であるはずのセバスチャンはどこ吹く風で煙草に火をつける。なので私がテーブルの隅から灰皿を差し出すと、短く礼を述べながら細く煙を吐き出した。
「あたしが戻ったあとのあの部屋の空気、氷点下なんてものじゃなかったわ」
「そりゃそうだろ! 迷惑だし顔も見たくない、二度と付き纏わないでくれってせっかくできたファンに言うことか?!」
「お前の方のはどうだったか知らないけど、あれがファンなら俺はいらない」
……そこまで? むしろなにされてたの?」
 聞くのも怖いがそう尋ねてもセバスチャンはノーコメントだと首を振る。それにしてもいつもならもっとうまい言い回しで躱しそうなはずなのに珍しく言葉を選ばなかったのだなと思ったが、逆にそれがなぜか他のバンド仲間からのうけはよかったらしく、また別途次回のライブの話が進んでいるのだと言う。
 それなら別にいい気もするけれど、やはりそんな風にこっ酷く当たったものだからサムまでとばっちりを受けてしまいもう女の子達と連絡が取れなくなったそうで、今こうして自棄酒を煽っているというわけだ。
「そりゃいいだろうさセバスチャンは、いるもんな! 相手が!」
「おいサム、お前余計な……
「大事にしたい人がいるんだって俺も言ってみてぇよ……
 週末の人で溢れかえる店内、エミリーは忙しくこちらのテーブルに空いたグラスを下げに来られないほどだ。目の前にはかつてビールの入っていたジョッキが二つ並んでいて、サムの手に握られたもうひとつもそろそろ空きそうだ。そんな折、サムの零した言葉に一瞬テーブルがしんと静まり返った。
……大事にしたい人?」
「違う、サムが適当なことを言ってるだけだから聞かなくていい」
「命知らずね、サム……でも面白そうだからもっと聞きたいわ」
「あぁいいさ聞かせてやるよ、お前じゃなくて大事にしたい人が他にいるって思い切り振り払って帰ったんだよこいつは……!」
 サムの突然の暴露に先ほどの余裕ぶった様とは打って変わってセバスチャンが途端に焦り出しもう飲むなとビールを引ったくろうとするが、サムは両手でがっちりとジョッキを掴みやだねと舌を出す。本当に仲が良い彼等二人の様子を見て、私は至って真剣にテーブルへ身を乗り出した。
「ねぇ、もしかしてセバスチャンの大事な人って……
「やだもう、今更なの?」
「おっ、そうだよ! やっと気づいたのか!」
 アビゲイルが嬉しそうににこにこと私の腕を肘で小突いてサムもまた満面の笑みでこちらを見る。ただ一人セバスチャンは待ってくれと吸い始めたばかりの煙草を灰皿で揉み消し顔を赤くして——この間散々に揶揄われた分のお返しだ。
「大事な人って、サム?」
「は?」
「え?」
……いやなんでそうなるんだ?!」
 内緒話でもするように手を添え大真面目にそう言うと、三人はそれぞれに見事な溜息の大合唱を披露してくれた。安心したとも残念そうとも取れる脱力を見せるセバスチャンも机に突っ伏すサムもどうにも可笑しくて、なんでと隣で唇を尖らせるアビゲイルに目配せをしながら頬杖を突いて笑った。
「だっていつも仲良いし……それに今そうだよってサムが自分で言ったんじゃん」
「最後まで聞いてたら言わなかったさ! よりによってどうして俺なんだよ!」
……有り得ない、俺だってサムなんかごめんだよ」
「えぇ、二人でそんなに否定してたら怪しいなぁ」
「なにも怪しくない!」
 あの子の代わりがセバスチャンなんて嫌だと嘆くサムの空いたジョッキをエミリーが片しに来てくれた。本当にあなた達は仲が良いねと彼女は笑うが、たとえそういう意味でなくこの四人に言ったつもりだったとしても今はただの煽りにしか聞こえず、サムがもう一杯と叫ぶのをセバスチャンがいつになく必死で止める。しかし注文は無情にも通ってしまって、私はこの浮ついた夜の続くのが嬉しく、ふと目の合ったセバスチャンにその幸福感のまま微笑んだ。

 そりゃあこれだけ親しくなってあなたを知れば知るほどそう思うことも増えた。もう認めるよ——私と正反対の、お日様も他人も苦手なあなたのたった一人の例外が私なら、あなたと想い合えてたらいいなって。