確かにそれは幼い頃の遠い記憶、たった一夏のことでしかない。歳を重ねるごとにつれ本当に些細な会話の端々やシーンなんかは思い出せなくなってきているけれど、それでも自分の名前を気恥ずかしそうに呼ぶその声を、同じように草の色と土で汚れた小さな掌を、馬鹿みたくくだらないことでともに笑い合ったその笑顔を忘れた日はなかった。
どんなに忘れようとしてもあの夜交わした星のかけらのような約束を、一日だって忘れることはできなかった。
「初めまして」
春の初日の午後、薄暗い地下室を抜け出し少し遅めの昼食を摂ろうと上がった階段の先でばったり出会した女はにこりと微笑みそう言った。その女はこの町の人間ではない。数日前から母親が引っ越してくると話していた、西の道を下った先にある牧場の女だ。この日に町へやってくると言っていたので間違いはないだろう。
しかしこのたった一瞬の偶然の間の中でひとつだけ間違っていることがある。それは目の前の女と自分が初対面ではないということだ。この女はあの廃れた牧場の土地の権利を購入した赤の他人ではなく以前の牧場主の孫娘にあたる人間で、かつてとても幼い頃に自分達は友人だった。それなのにこいつはすべてを知らないような顔をして初めましてとそう告げる。初対面ではないのに。
なにも返事をしない自分にあの、と女が首を傾げたとき、キッチンの方から母親がひょこりと顔を出した。
「──初めましてじゃないわよ」
「ロビンさん」
母親がけらけらと笑いながらこちらへ歩み寄ってくる。ロビンさんだなんて、昔はセブのおばちゃんと呼んでいたのにそんな畏まったことを言えるようになったのか。もちろん自分だって今はあんな風に太陽の下を走り回ったり泥だらけになったりしない完全にインドアタイプになってしまったけれど。今も刻一刻と過ぎる時間の残酷さを思っていると母親が自分達の間に入り彼女にあらためて紹介を始めた。
「さっき少しだけ話したセバスチャンよ、セブ。あなたが小さい頃牧場で一緒に遊んでた男の子」
「あ、ごめんなさい……セバスチャン」
「この子小さかったからこの谷に来てたときのことを覚えてないみたい、私もさっき初めましてって言われたのよ」
仕方のなさそうに笑う母親に彼女はもう一度ごめんなさいと言い口元に手を添える。確かにこいつは自分よりもほんの少しだけ年下だった。だからそのとおりに仕方のないことなのだ。彼女はうろうろと視線を彷徨わせたあとそれをこちらへ戻すことなくふいと逸らした。
「その、私……覚えてなくて──」
「それなら」
「え?」
「……それなら他にも街はあるのに、どうしてここへ来たんだ?」
二人の会話に込み上げる苛立ちを精一杯に抑えつけ、自分は彼女へそう問うた。パーカーの袖に握り締める拳を隠し、目を合わせない彼女を真っ直ぐに見据えて。彼女は余計戸惑ったように口籠ったあと、視線を逸らしたまま気まずそうに口元を歪めて笑った。
「……仕事が嫌になって、逃げてきたの」
なんだよそれ。彼女の返答に落胆を隠せなかった自分はそうかとそのまま二人を置き去りに外へと繰り出し、その日は結局町まで降りて友人と酒場で遊び耽った。念願叶って再び会うことができたのだとしても向こうが忘れてしまっているのならそれはもはや再会ではない。正しくただの初対面だ。
けれどもし自分のことを僅かにでも覚えていてさえくれれば、いや、たとえ自分を覚えていなくともあの日々について一言だってあればきっとこんな虚しさを抱えることはなかっただろう。
一緒にクラゲを見ようと約束をした。それは叶わなかった、お前はその直前に遠くにある自分の街へ帰ってしまったからだ。だから来年また一緒に願いごとを書こうという約束を信じた。なのにやっぱりお前がこの谷を訪れることはあれっきり、ずっと一緒にいられるようにとともに祈りながら書いた願いごともすべて嘘になった。
待つことに疲れ果てた自分はそれでも独りであの日と変わらぬ満天の空を見上げる。そうしてこの感情に名前をつけることのできないまま、またひとつ煙草の吸い殻を足元に積み重ねた。
***
それから時間は過ぎ季節は夏へと移り変わった。茹だるような暑さが続きもうすぐ一週間が経つ。そんな週末の夜に自分は友人といつものように酒場で屯していた。しかしこれまでと違うことがただひとつ、馴染みのサムとアビゲイルに加えて彼女も来ているのだ。自分はビリヤードのキューを握りちらと遊戯室の隅にあるソファへ視線をやった。
「あの子、お前の幼馴染なんだろ」
お前の番だと言いながらサムがこちらへ声をかける。あの子とはもちろん言わずもがな、牧場の現主人のことだ。彼女は今部屋の隅でアビゲイルと楽しそうに笑い合っている。二人はどうやら商店で顔を合わせるたびに仲良くなってしまったようで、それは自分にとっては大誤算でしかない。今日もみんなで遊ぶから一緒に行きましょうと勝手に誘ったのはアビゲイルで、自分はそれを無視してサムを引き連れビリヤードに興じるばかりだった。
「……さぁね、覚えてない」
「またあんな可愛い子を忘れるなんてあり得ないだろ。ヘイリーも言ってたぞ、あれですっぴんなんだってさ」
見てみろよと浮かれ調子にサムが彼女を顎でしゃくる。自分はそれを目で追うことはしなかったが、確かに二十年ほど前に比べればいい意味で成長したのだと思う。その笑顔こそ面影はあるものの時折大人びた表情をするようになったし、自分と変わらなかった背丈もそれなりに差ができたがあの頃とは違ってすらりと手脚が伸びている。本当にしっかりと食事を摂っているのかと心配したほどに細かった体もほどよく丸みを帯びているし、それに──そこまで考えてサムにつられた自分に気づき、馬鹿馬鹿しいと溜息を吐いた。
「可愛いなんて思ったこともないよ、あんな泥だらけで鼻垂らして走り回ってたような奴……」
「なんだよ、覚えてんじゃん」
覚えてないって言ったくせに、そう意地悪く笑うサムの指摘にすぐさま口を噤み記憶の中の子どもの姿を引っ込める。ああそうだ、確かに未だずっと覚えている。妹があのときの彼女と同い年だった頃のことを思い出す方が難しいほどにはあの夏の記憶が勝っているのだ。もちろんそんなことを素直に認めるわけもないが今回ばかりはそれも悪手だったようで、サムは更に距離を詰め首を傾げながら不貞腐れる俺を覗き込むようにした。
「で、なんでそんなにあの子を避けてるんだ?」
「別に避けてるわけじゃ……」
「いや俺でもわかるくらい避けてるぞ、それも可哀想なほどにな」
的球を確認しキューを構えれば否が応でも目に入る女子二人、そのうちの一人が今またこちらを気にする視線を寄越し、自分は当然のように目を逸らした。
あの春の日からたまに挨拶を交わす程度、幼馴染から顔見知りにまで落ちた自分達の関係性。およそ二十年という月日を考えればそれも当然で、だからなにも気にすることなどない。突いた球はやけに小気味のいい音を立て、この気分とは裏腹に軽やかに響くそれがこの胸に立ち込めた靄を払う。体を起こした自分は散った球の軌道を最後まで見守ることなくサムへ持っていたキューを押しつけた。
「……そろそろ帰るよ、またな」
「おいセバスチャン! 勝負は?!」
「よく見てくれよ、もう終わってる」
そう盤面を一瞥すると二人が競った球はもうどこにもない。まじかよと大袈裟に項垂れるサムの肩を笑いながら軽く叩き部屋を出ようとしたときだった。
「あの、セバスチャン」
突然かけられた声に心臓が鷲掴みにされたようで思わず足を止めてしまった。あんまり不自然なこの格好に仕方なく振り向くと、アビゲイルの元を離れた彼女が数歩後ろに立っている。両手をきゅっと握り合わせ、こちらの機嫌を窺うような恐々とした表情で。今溜息なんて吐き出せばびくりと肩を跳ね上がらせてしまいそうで、そんなことにでもなったら友人達が一気に責め立ててくるだろう。だから喉まで出かかった感情をぐっと飲み込み、努めて冷静に口を開いた。
「……なんだ?」
「いやその、もう帰るの?」
「あぁ、お前は覚えてないだろうがここから家は遠いんだ」
「覚え……うん、でも春の間ずっといたから知ってるよ」
「そうか、それは悪かったな。で、なにか用なのか?」
別に苛立っているわけではない、ないはずなのに声や言葉の端々に棘がある。自分でもそれに気づいてはいるがどうしようもなく他所へ視線をやれば、頭を抱え呆れた顔をしたサムにこちらをじろりと睨みつけるアビゲイルが目に入る。そんな彼等に結局堪えたはずの溜息も僅かに漏れ出してしまって、胸元で遊んでいた彼女の指先がその手の甲に食い込んだ。
「あ……明日のお昼頃、ロビンに用事があってお家に行くから一緒にご飯でもどうかなって思って」
「……その時間に仕事が片づいてたら考えるよ」
自分は静かにそう吐き捨てじゃあなと今度こそこの場をあとにした。ちょっと、と呼び止めようとしたのはアビゲイルだろうか。だがもうそんなことも知らない。足早に酒場を飛び出し誰も追っては来ないのを確認したが、それでもいつもとは違う道から帰路に着いた。
***
明後日には彼女が帰ってしまうと母から聞かされたのはゲッコウクラゲがこの町へやってくる、待ちに待ったその四日前のことだった。その日も牧場へ行くために早起きをして朝食を摂っていたさなかのこと、椅子から投げ出しぶらぶらと揺らしていた足がぴたりと止まったあの感覚を今でも覚えている。言い出しづらそうな母の曇った顔も、トーストからジャムの垂れ落ちた音も、頭から血の気が引いていく心地も、心臓が再び凍りついたのもなにもかもを鮮明に思い出せるのだ。そのまま朝食を放り投げて駆け出した外はもうすぐ秋の訪れる予感に包まれていて、少し肌寒いくらいの外気に唇を震わせてただ坂道を直走った。
辿り着いた牧場にはいつものように老爺と孫娘が畑で作物の世話をしていて、この姿を見つけた彼女はセブ、と呑気に笑って大きく手を振った。だから自分はそんな彼女へものすごい剣幕で詰め寄り、嘘つきと開口一番そう叫んだ。
「……なんで? 私、嘘なんて吐いてないよ……」
「だってお前明後日帰るんだろ? 母さんが帰るって言ってた、一緒にクラゲ見ようって言ったのに!」
一息に絞り出したその怒声は広い牧場中に響き渡った。動物達を驚かせないように、自分より年下の子には優しくするように。大人達にそう言われていたことを守るのも忘れ、こいつも裏切った、そんな思いに囚われただ歯を食い縛る。
ただごとではないその様子に少し離れた場所にいた彼女の祖父も慌ててやってきた。どうしたのかと問う声はいつもより静かな気がして、一方的に怒鳴りつけた自分は怒られるのではないかと咄嗟に俯きその場に立ち尽くす。心臓がどくどくと早鐘を打つのは走ったからではなく、おじいちゃん、とか細い声が聞こえたからだ。夏仕様の薄っぺらいシャツをどんなに指先で弄ったってそれはこんな自分をどこにも隠してはくれない。彼女の声はなにかに押し当てたようにくぐもっていくのに自分にはなにも、お前が帰ってしまったら自分にはなにもかもなくなってしまうのに。
「おじいちゃん、私……帰っちゃうの……?」
「あぁ、それは……」
「わたし、セブとクラゲ見えないの? 嘘つきなの? やだ、クラゲ、約束した……セブと……」
そのまま彼女はわっと声を上げて泣き出した。普段から辿々しい声は涙に飲まれ更に要領を得ないものではあったが、その断片を拾い集めれば彼女もまた自らがここを去る日を知らなかったのだということがわかった。しかしわかったところで投げつけた言葉はもう取り返しがつかず視界が滲んでいくのをじわじわと感じていると、少し離れた場所からセビィと自分を呼ぶ母の声が聞こえた。
「──ごめんなさい、泣かせちゃったのね?!」
「いや、大丈夫だよ。それよりも……」
「セブ! 駄目じゃない、自分よりも小さな子は大事にしないといけないっていつも言ってるでしょ? 」
飛び出した自分を追いかけてきたのだろう、息を切らしてそばにしゃがみ込んだ母は今も彼女の祖父が泣きじゃくる孫を抱くように優しく抱き締めてはくれず、代わりにその腕に抱かれているのは自分よりも小さな妹だった。あいつは祖父の胸に飛び込んで、妹もつられて愚図り出し、それなのに自分はといえば妹を抱かない方の手で肩を掴まれ諭される。今ならこれが当然に自分の無礼な振る舞いを叱っているのだと納得できるが、当時は納得どころか理解もできなかった。
「あなたはもうお兄ちゃんだからわかると思って話したのよ、でもこの子は小さいからあとどれだけ寝たら帰らないといけないのか知らなかっただけで……」
「……母さんだって」
ぱたと地面に水滴がひとつ落ちた。指先ほどの小さなそれは雨粒でもなければスプリンクラーの飛沫でもなく、乾いた土に吸い込まれすぐに跡形もなくなった。けれどそのあとを追うようにひとつ、またひとつと音もなく降り注ぐ。母も異変に気づいたのかこの肩を掴む指からゆるゆると力が抜けていき、それからすぐにそっと撫でる手つきへと変わった。自分が瞬きをするたびに零れる熱い雫、それをぐいと手の甲で強く擦りいつの間にかきつく噛み締めていた唇を解いた。
「それだったら母さんだって自分よりも小さな子を大事にしないといけないだろ。でもいつも俺じゃなくてマルばっかりだ。俺はこいつが帰ったらもう誰も遊んでくれないのに、いつも俺だけ……」
言いたいことを最後まで言い切らぬまま自分は縋る場所もなくただ溢れる涙を必死で拭い続けた。それでもやっぱり彼女のように素直には泣けなくて下手くそな嗚咽を漏らす。
そんな自分を抱き締めたのは母だった。その両腕で強く、しかしそれまで抱いていたはずの妹をどうしたのかは知らない。きっと牧場の主が代わりに引き取ってくれたのかもしれないがそのあとのことはあまり覚えていない。自分はいつぶりかも覚えていないほど久々に母の腕の中で泣いた。彼女の泣き声が遠くなっていくのも気づかずずっとずっとひたすらに。
結局そのまま彼女と仲直りをすることなく別れの日を迎えた。その日は憎たらしいほどによく晴れていて、だから見送りには行かなかった。町中の人がバス停に集まり別れを惜しむ中、自分は幾度となく通った牧場へと続く道からその様子を見下ろしていた。路傍に並ぶ木の幹からこっそりと、だが彼女は背が低かったからバスの大きな影に隠れてあの背中すら見かけることはできなくて、やがて無情にもバスが去り皆が解散したあとも自分はその場に蹲っていた。日が暮れ母が夕食だといつもの調子で探しにくるまで。
次の日の朝、彼女の祖父が自分の部屋を訪れた。手にはあの日一緒に書いた短冊を持って。一夏を終えやや草臥れたそれは子どもの汚い字でいっぱいで、その賑やかな紙面に本当に彼女が帰ってしまったのを実感した。彼はこれを自分に持っていてほしいとそう言い、そしてまたいつでも牧場へ遊びに来なさいと笑ってこの頭を撫でた。その手がいつものように髪を乱すのをなぜか苦しく思い、思わずくしゃりと握った短冊には達筆な大人の字で二人が仲良くいてくれますようにと書かれてあった。
その老いた牧場主はそのあともいつだって優しかった。母へ依頼をしに来たときは必ずと言っていいほど自分の顔を見て帰ったし、イベントで顔を合わせるたびにお菓子をくれた。彼も自分を歳の近い孫娘に重ねて気にかけてくれ、そしてまた寂しかったのだと今ならわかる。しかしあいつとの思い出で詰まったあの牧場に一人で行くことはどうしてもできず、いつしか自分は外に出ることも少なくなっていった。そんな自分にいつでも遊びにおいでと繰り返した彼にそのうち行くよと返し続け、やがてそれは自分の吐いた最低最悪の嘘となる。
その日も雲ひとつない晴天だった。立派な牧場を作り上げた彼だからこの晴れ空も神からの祝福だろうと言ったのは町長だったか。自分が再び牧場へ足を踏み入れたのは彼の葬式の日だった。
少し前から町のイベントに顔を出さなくなっていたのは知っていた。母から体調がよくなさそうだとも聞いていて、それでもなおそのうち会えるだろうとたかを括っていた。そんな矢先のこと、そればかりは行きたくないなどと言えるはずもなく静かに喪服に身を包んだ。
彼の墓は広大な牧場のほんの片隅に作られた。埋葬の前に棺へ一緒に添えに行こうと母から手渡された白い花を数輪握り締め、久しぶりに覗き込んだあの豪気で逞しかった牧場主は記憶の中よりもずっとずっと痩せて小さくなっていた。胸の前に組まれた手は本当に自分の頭をすっぽりと覆ってくれていたのか? こんなに小さくなどなかったはずだ。腕だってあんなにたくさんの野菜を抱えられるほど太かったのに、こんなに細かったらすぐに折れてしまうじゃないか。肌も日に焼けた色じゃなくて土色だ。その表情は穏やかそのもので今にも動き出しそうなのに、もう二度と話さない。目を開かない。いつでもおいでと笑ってくれない。もう二度と。
感覚を失った手で花を捧げた自分の耳に一際強い泣き声が届き、聞き覚えのあるそれに息を呑む。そこからの光景はスローモーション宛らに、そしてはっきりとこの目に刻まれている。
父親だろうか、大人の男の腰元にしがみついてしゃくりあげている少女。それはあの頃の自分もよりもずっと大きくなったあいつだ。後ろ姿だって見間違えるはずがない。遠くに動物達の別れを告げる声が聞こえ、それに紛れるように彼女の名前を呼んだ。ぽつりとただ一度、誰も拾えないほど小さな声で。
それなのにその瞬間、彼女がこちらを振り返る。町中の人が集まるこの場所で彼女だけが情けないほどに震えた自分の声を聞き届けたのだ。振り向くその髪の一本までよく見えた。見たくなかった。きゅっと結ばれていた彼女の赤い唇がいつだって象るのだ。
うそつき、と。
真っ暗な部屋で目を開く。そのままゆっくりと眼球を左右へ動かし、ここが地下の自室であることに安堵の息を吐いた。口の中はからからに渇いているのに掻き上げた伸びた前髪は汗でべっとりと張りついて、その不快さにベッドを軋ませ体を起こす。窓もないから今が何時であるかはわからず、ただ痛む心臓を抑えるために胸元を強く握り締めた。
呼吸が落ち着き始めた頃に水を飲みに行こうとベットから降りた足でそのまま部屋の扉を開ける。しかし階上から女性の話し声が聞こえてきたためにそこでぴたりと立ち止まった。おそらく声の出処はキッチンで、そういえば彼女が今日は母に用事があるからうちへ来ると言っていた気がする。そうなると今は昼頃なのか。昨日の彼女からの誘いを思い出し、自分は気づかれる前に静かに部屋へと引っ込んだ。
あの日から何度も繰り返しこの夢を見る。晴れすぎたほどよく晴れた別れの日の夢を。彼女が悲痛そうな表情でうそつきと唇を戦慄かせるその度にこうして飛び起き取り返しのつかない過去に項垂れた。特に彼女がここへ戻ってきてから頻繁に見ていてちっとも眠れやしない。今日はメールを返して作業を少し進めて、なにもなければそのまま漫画を読むかゲームをするか。ただそれまではもう少しだけ横になっていたい。ぼすんとベッドに思い切り体を沈ませ深く息を吸った。染みついた煙草の香りを肺いっぱいに、けれど薄暗い照明にちらちらと小さな埃が舞い輝いているのを見てすぐに吐き出した。
それから少しして母親が昼食を摂らないかと呼びに来た。答えはもちろんノーだ。母親もなんとなくわかっていたのかあっさりと引き下がったがただ一言、もう許してあげたらとそう言った。
***
その日の夕食後、辺りが薄暗くなり家族も皆自室へ戻った頃に外へと繰り出した。日中はあんなに煩わしく思う太陽ももう山の向こうへ沈み、今はただ鈴を転がすような虫の声が厳かに響いている。ずっと自室の空気の悪い中にいたからそれらをすべて吐き出すように大きく深呼吸をしたが、結局湖の辺りまで来るともはや癖になっている煙草を一本口に咥え慣れた手つきで火を点けた。
凪いだ湖面には不恰好な月の姿がぼんやりと浮かんでいて、ふうと細く吐いた白煙でそれに靄をかける。しかしそれはたった一瞬で立ち消え、燻る煙の行先を目で追うとこの視界に空が映った。毎秒毎に山や木々との境目がなくなっているこの宵の口、つい見上げた頭上にはいつの間にか星々が所狭しと集い始めていた。
「……そういえば今日だったかな」
昼間にパソコンのモニターで見た今日の日付は夏の七日、あいつと初めて会った日だ。感傷に浸るにはあまりの歳月が過ぎたけれどそれでもふとした瞬間に意識する。サムは幼い頃の友人などそう覚えてはいないと言っていた。連絡を取る人間や頻度も年々少なくなっているとも言うし、きっとそれが普通なのだ。しかしそうであるなら自分は普通ではないのだから当て嵌まらない。ただあの頃世界のすべてだった母親を奪われた自分にとって彼女の存在がどれほど大きなものであるかは誰にもわからないだろう。
自分も彼女も大人になった。あの日よりもずっと伸びた背の高さだけ少しは遠くの星々に近づけただろうか。字もあのときよりは多少綺麗になった。もし神様とやらがいるのなら今度こそは書いた願いごとを読んでくれるはずだ。今なら図鑑で見た笹だっていくらでも取り寄せられる。この谷で一番高い木のてっぺんに結ぶことだってできるから、だからもう一度だけどうか──
「セバスチャン」
いつもは自分しかいないこの時間のこの場所でかけられた声に煙草を口へ運ぼうとした手が止まる。それも仕方がないだろう、その声が今の今までこの頭を占めていた人物のものだったのだから。タイミングをはかったようなその登場に固唾を飲み振り返ると星明かりを背負った彼女が緊張した面持ちで立っていた。
「ごめん、ロビンに多分ここにいるって聞いたの」
「……なにか用か?」
「うん、あのね……あの……」
昨日の別れ際のように視線を彷徨わせ歯切れの悪い彼女はなにか用があったのだろうに本題に入ることなく俯いてしまう。そうさせているのが自分なのはわかっているが暫く黙っていても話し出す様子はない。そのうちに煙草もどんどんと短くなっていき、二本目に火を点けるまでもないだろうと判断した自分は一瞬湧き上がった気持ちとともに煙草を捨てにべもなく踏みつけた。
「悪いがなにもないなら帰るよ、仕事が残ってるんだ」
「──待って、セブ!」
しかし彼女の横を通り過ぎ家へ戻ろうとしたときだった。なにも覚えていないと言った彼女の口から意を決したように飛び出したその名前に耳を疑い足が止まる。それは幼い頃セバスチャンと呼べなかった彼女に許した呼び方で、今の関係性で絶対に出てくることのないものだ。つまりそれの意味するところはひとつで、信じられない思いで振り向いた彼女は今度こそ真っ直ぐこちらを見据えていた。
「お前……」
「セブ、お願い……これきりでもいいから、いいから一緒に来て」
真剣な表情でそう言った彼女はこの手を掴むとこちらの静止も聞かずに強く引いて歩き出した。そのまま自分の家を通り過ぎ、今はもう足を踏み入れることもなくなった牧場へ続く裏道へと進む。
こんな小さな手など振り払おうと思えば振り払えた。あの頃は年齢差しかなかったが今は性差があるのだし大人しく引かれていなくたっていつでも踵を返せる。なのにそうすることはなくその背中をずっと見つめていた。あの夏、こうして同じように自分の手を引き外の世界へ連れ出したその背中を。
そうやってされるがままに引かれて辿り着いたのは今や彼女の所有地となった牧場だった。記憶の中とはまるで違い大した灯りもなければ厩舎やサイロなどの施設もなく、今は木や草が鬱蒼と生い茂るばかりだ。彼が亡くなってから牧場内はたちまち老朽化が進み、小屋を残して施設などはやむなく撤去をしたと母と継父が話しているのを聞いたことはあったが、本当になにもかもが記憶の中とは違った。あの頃はしっかりと舗装されていたはずの場所も今はそれ自体が取り除かれたのか地面が露出し、ともすれば乱雑に転がった大きめの石に躓いてしまいそうにもなる。
それでもあの小屋自体は健在で、影を見る限り少し小さくなった気はするものの彼女は今そこに住んでいるらしい。そして全体的に荒れているようだったが小屋の周辺は開けているのが夜目にもわかり、きっとその場所には畑があるのだと思う。母に手を引かれ牧場を訪れたあの日のように、辺りが暗闇に包まれていても物珍しくきょろきょろと見渡していると突然小屋の前で立ち止まった。
手を離し玄関先にしゃがみ込んだ彼女はなにかかちゃかちゃと音を立てていて、それがランタンのキャンドルに火を点けようとしているのだと気づいたのはマッチの先に赤い炎を見てからだ。この静まり返った牧場に今、頭上の月よりも頼りない灯りが灯される。
「セブ、ごめん」
「なにが……」
「来年も来るって言ったのに約束破ってごめん」
立ち上がった彼女がその腕を突き出し、揺れる淡い光に照らしたのはたくさんの飾りつけがされた背の低い笹だった。本の中でしか見たことのない、次こそはと約束をしたそれ。先ほどから想像もしていなかったことばかりが次から次へと舞い込み言葉を失った自分に彼女はあらたまって向き直った。
「クラゲも一緒に見るって言ったのに見られなくてごめん……お葬式のときにあのときはごめんねって言えなくてごめん。引っ越してきた日も、初めましてって嘘吐いて……ごめん」
「……覚えてたのか?」
「ごめんね、いっぱい約束破ったから……今更どうしてって言われるのが怖くて……」
その声は次第に震え言葉に詰まり、固くなっていた表情もくしゃくしゃと歪んでいく。そのうち堪えきれなくなった涙がぽろぽろと頬を伝い始めた。あの頃のように声を上げることはなくただただ静かに嗚咽を堪えようとしているがその泣き顔はまるで変わらない。しまいにはランタンを持った手でも拭うものだから灯りが不安定に揺らめき、その濡れた頬を優しく照らした。
「でも無理だよ、この谷中どこに行ったっておじいちゃんとセブがいる……やっぱり私、セブと一緒がいい。だからお願い、もう一度──」
それきり泣きじゃくり始めた彼女へと歩み寄り、その手からランタンをそっと取り上げる。そうして点けたばかりの灯火を消して、役目を終えたそれを半ば放り投げるように傍へ置いた。この夜にもうこれ以上の灯りは必要ない。セブ、と涙声で結局今でも舌足らずなままの彼女へ腕を伸ばして抱き締めた。睫毛に刺さる雫がぱっと散るほどに強く、髪に指を絡めやわらかなそれに鼻先を埋めて、もう夢や幻ではないその存在を腕の中に確かに感じながらそっと瞼を伏せた。
「……次の年にさ、一人で願いごとを書いて部屋の隅に飾ったんだ」
「え……?」
「でも叶わなかった。部屋の中なのがよくないのかと思ったんだ、だから次の年は外の植木に飾ったのにそれも駄目だった。それでその次は大きな木に登って枝に結んだけどやっぱり叶わなかったよ。考えつくことは全部やったが……でもいつだって駄目だった。どうせただの子ども騙しで叶わないって気づいたよ」
彼女が来なくなってから暫くは毎年一人でたったひとつの願いごとを書いていた。次の年は記憶を頼って切った色紙を自分の部屋の観葉植物に結んだ。けれどやっぱり音沙汰もなく、自分の部屋だと星が見えないからよくなかったのだと思い次の年は家から少し離れた低木に結んだ。誰にも見られないように、だからそれもそのせいで叶わなかったのだと思った。だからその次はもっと高い木に登って枝に結び、なんなら目印にとほんの少しだけ飾りつけまでしたのにそれでも駄目で、もしかするとまだ大人のように字がうまくないから神様も読んでくれないのかもしれないと思いたくさん勉強をして臨んだ次の年もやはりなにもなかった。ずっとずっとそんなことを一人きりで繰り返した。大きくなるにつれて知らなかった世界に触れ現実を見ながらやがて疲れ果ていつしか諦めてしまっても、燻り続ける願いはたったひとつだった。
「だがそれでも──それでも俺はお前に会いたかったんだ」
本で読んだ織姫と彦星とかいう奴等は何千光年何万光年離れていたって一年に一度は会えるのに、自分達はたったバスや汽車で行けるような距離でも何年も会うことは叶わない。そんな不公平を幼稚に恨みながら眠りにつくこともあった。誰も来ないとわかっているバス停を、線路を何度も何度も訪れては項垂れて帰った。こいつが来てからも忘れられていては意味もなく、自分の後悔と向き合う日々に魘された。けれどすべては今このときのためにあったのだ。ごめんなとずっと伝えられないでいた一言をその耳元に囁くと彼女はなにも言わずただ首を振り、涙の雫がぱたぱたとこの肩口を濡らしていった。
「……短冊、なに書くんだ?」
「……短冊?」
「やり直すんだろ? 来年は笹を用意しようって言ってたもんな。これ、どうやって手に入れたんだ?」
その言葉に強張っていた彼女の肩から力が抜ける。意味を噛み砕くのに数秒時間を要したようだが、ぎこちなく傾いた頭を包んだ掌で軽く叩くと彼女は小さく鼻を啜り頷いた。
「……エブリンおばあちゃんにお願いして取り寄せてもらった」
「字は書けるようになったのか?」
「当たり前じゃん」
「落ち着きなく走り回ってるって母さんやサム達から聞いたよ、その様子じゃまだ椅子の上で飛び跳ねてそうだな」
「もうやらないし……セブはきのこ食べられるようになった?」
「ノーコメントだ」
「なにそれ」
漸く笑みを零した彼女はそっとこの背中へ腕を回した。服をきゅっと掴みながらおっきくなったねとどこか気恥ずかしそうに笑うその体をふざけて更に強く抱き締める。けれど苦しいと文句を言いながらも彼女だってその腕を緩めようとはせず、もう無邪気な子どもではないとわかっていながら彼女の鼻にかかる照れた声を聞いていたくて暫くの間しがみつく彼女の指に甘えていた。
「……ねぇ、これだと短冊書けないよ」
「いいよ、言ってみて」
「じゃあ……今度こそ一緒にクラゲを見られますように」
「わかった」
「あのときクリアできなかったゲームのエンディングも見られますように」
「何度だって見せてやるさ」
「図書館で一緒に読んだ本の続きも読めますように」
「まだあるかな……今度探しに行こうか」
「来年のフラワーダンス、一緒に踊れますように」
「……考えとくよ」
「もう、七夕のお願いごとなのに全部セブが返事するじゃん」
「そりゃそうだろ、お前気づいてないのか?」
「え?」
文字ではなく声に乗せられた願いごとの数々に少し体を離して彼女の顔を覗き込めば、ついきつく閉じ込めすぎていたからか涙の跡に髪が張りついてしまっていて、だからとその頬に手を伸ばした。冷たい涙の筋を拭うようにして髪を払う自分をきょとんと見上げている彼女は確かにサムや町の女子の言うとおりかもしれないが、瞬きをするその様子ひとつにさえ自分だけが知るあの頃の面影が残っている。一度、一瞬だけ空を見上げた自分は夜空を塗り潰す満天の星々に心の中で舌を出し、そうして彼女にばかだなと笑ってみせた。
「今も昔も、お前の願いごとは全部俺しか叶えられないものばっかりだ」
クラゲを見るのもゲームをするのも本を読むのも、競争やフラワーダンス、果ては嫌いな食べものの克服だって、お前が俺を名指しで呼ぶならそれを叶えるのは神でも星でもなんでもない。そう呆れたように吹き出すと彼女はその潤んだ目を大きく見開きぱちぱちと瞬かせ、本当だねとはにかむ。そしてそのままもう一度この胸に体を預けてきたかと思えば突然ぱっと勢いよくその顔を上げた。
「セブ、ゼリー覚えてる?」
「ゼリー?」
「お願いごとしたあとはゼリー食べるって、おじいちゃんがそう言ってたでしょ?」
ちょっと待っててと言い残した彼女は急いで小屋の中へと引っ込んでしまった。それからすぐに室内の照明が点いて窓からあたたかな光が零れる。眩しさに慣れない目を細め、先ほどまで彼女を閉じ込めていた自らの手と腕をじっと見つめていた。あまりの呆気なさに今が夢の中なのではないかと思うほど、しかし確かに残るぬくもりとやわらかさがこの胸の内を支配し、深みを増して冷え始めた夜風がこの肌を撫でようともまるで落ち着く気配がなかった。
「お待たせ、ここに座ろ?」
そうぼうっとしていたところへ忙しなく扉を開け出てきた彼女はここ、と玄関前の階段へ視線をやる。あの頃にはあったガーデンセットももう当然のようになくなってしまったのだろう。もちろん自分はどこでもよかったので呼ばれるがままに彼女の隣へ腰を下ろした。この建物も記憶より大分と朽ちてしまったのではないかと心配していたが腰掛けた木製の階段はまだ比較的新しいようで、もしかすると母が手入れをしていたのかもしれない。細かな砂の散った木材を指で線を描くように撫ぜているとどうぞと小さな硝子の器を手渡された。ひやりとしたそれは一気にきんとこの指先を冷やし、青く澄んだその中身もまたこの目を涼やかにさせる。少し汗をかいた器におさまる青いゼリー、星空を閉じ込めたような大小のフルーツもまさに思い出そのままの出来栄えだった。
「懐かしいな」
「今朝ロビンにキッチン借りて作ったんだ、うちまだ冷蔵庫しかないから……」
「キッチンは? なくなったのか?」
「老朽化で誰も使わないし壊しちゃったんだって、でも町長がなんとか小屋そのものだけは頑張って残してくれたみたい」
だからまずはキッチンを復活させるのが目標なのだと前向きな様子でゼリーを頬張る。すると彼女が冷たいと足をばたつかせるので自分も同じようにスプーンに掬ってみればまだ若干凍っており、そういえばあの日も凍らせたのだと言っていたか。あのときはゼリーがアイスのように凍っているだなんて本当に魔法だと思ったのを覚えている。そっと口へ運べば表面の細かな氷が口内の熱で軽やかにほどけていき、それからまもなく舌触りのいいゼリーが現れそのまま溶けていった。しゃりしゃりと音を立てながら掬ったフルーツはほんのりとシロップの甘さを感じたが、ほどよい冷たさがそれを控えめに思わせる。けれど彼女は納得のいかないようにううんと唸った。
「やっぱり缶詰だとちょっと違う……」
「そうか? 悪くないよ」
「でもまだ缶詰のフルーツだけどね、そのうちいっぱい育てておじいちゃんと同じゼリーにするから」
これまでの年月に思いを馳せるようにしながら黙々と味わっていると、隣でかちゃんと食器が夏らしい音を奏でる。続いてこの肩を軽く叩く手があって隣を見遣ると、抱えた膝に頭を乗せてこちらを覗き込むようにする彼女がいた。
「……だからねぇ、セブ」
「ん?」
「おじいちゃんにも負けない牧場にできたら、そのときは今度こそ本当に牧場の子になってくれる?」
そう悪戯に微笑む彼女に思わずゼリーを飲み込むタイミングを失い軽く咽せ込んでしまう。その台詞はかつて幼かった頃母親がふざけて彼女に吹き込んだ言葉で、それからも度々彼女は牧場の子になればいいのになんて馬鹿を言った。しかし二人とも大人になった今、こんなに気軽に口にしていいものではない。だって母はこうも言ったのだ──俺とお前が結婚したならと。
「は?」
「ねぇもっかい聞いて、なんでこの町にしたのかって」
「なんでだよ」
「いいからほら!」
「……他にも街はあるのに、どうしてこの町にしたんだ?」
動揺する自分の腕を叩いてきらきらと目を輝かせる彼女に溜息を吐き、再会したときと同じ台詞を吐いた。あのときはどうかひとかけらでもいいから覚えていてほしいとひどく痛み冷えゆく心臓で願った。けれど同じシチュエーションに持ち込み持ち込まれた今、この胸の奥はまるで違う騒がしさに襲われている。
それはね、と彼女の唇が弧を描く。そのなにもかもがまるで頭上に輝く月のようでいて、ああやはりこの夜にこれ以上の輝きなど必要ないと信じさせてくれるほどにこの目を奪った。
「私もセブに会いたかったからだよ」
***
雲ひとつない晴天の下、午後の装いに姿を変え始めた太陽がじりじりとこの身を焦がすのを感じながら牧場の片隅で静かに瞼を伏せる。これは謝罪であり感謝でもあり、そして祈りだ。セブ、と遠くから自分を呼ぶ明るい声が聞こえるまでただあの大きな掌の強さを思い出しながらずっとそうしていた。
「お花ありがとう、おじいちゃんも喜んでると思う」
「まさか、今更すぎるって怒ってるさ」
「おじいちゃんはそんな心狭くないよ」
ねえと隣に並んだ彼女が厳かな雰囲気の漂う石碑を撫でる。牧場の端に潜むように造られたこの場所はかつての牧場主であった男の墓だ。昨晩漸く心の整理がついた自分は彼の葬式から初めてこの場を訪れ花を手向けることができた。それがただ取り返しのつかないことをした自らの心を軽くするためだけの行為であるとわかっていても、どうしても遠くにいる彼に届くことを願い祈らずにはいられなかった。
「それよりセブ、こっち来てよ! 見てほしいものがあるの!」
「見てほしいもの?」
しかし感傷に浸る間もなく彼女が来て来てと目の前で小さく飛び跳ねる。流石の温和な彼もそれより扱いは怒るのではないかと思ったが、彼女はお構いなしにこの手を掴んでぐいぐいと引っ張り歩いた。その向かう先は家の前にある畑の区画で、几帳面に耕され作物の芽吹き始めたその中央にはなにやら小さな機械がある。彼女が見ててねと言い畑の隅でしゃがみ込むのを隣の区画の畝間から眺めていると、その中央から突然水が噴き出した。
「見てこれ、スプリンクラー作ったんだよ!」
「へぇ、これをお前が?」
「でもね、まだ範囲がほんのちょっとで……」
彼女が照れたように言うとおりそのスプリンクラーはそこまで勢いもなく周囲全体に水を撒くこともしない。上下左右の小範囲にのみ噴出しているようだ。とはいえこれをこの間まで都会で会社員をやっていた人間が作ったのだから上出来だとは思うものの、素直に口にしたくはなくて腕を組み直しながら鼻で笑ってみせた。
「これじゃまだまだ先は長そうだな」
しかしそうしていられたのも束の間、ちょろちょろと出ていた水が土に吸い込まれていくのを見ていると突然後ろからより強い水の噴出音がした。次いで声を上げる間もなくこの足を濡らすものがあり、思いもよらぬ冷たいその感触に驚き振り返ればすぐ後ろにもうひとつの、少しばかり形状の違うスプリンクラーがある。今も水を噴き続けるそれはたった今し方見たものとは違ってきちんと全方向に水を撒いており明らかに別物だ。畝間を飛び退いてももう遅く、しっとりと濡れてしまった服や靴を唖然として見ていると後ろでくすくすとおかしそうに笑う声が聞こえた。
「びっくりした? 実はもっといいやつ作っちゃった」
「お前ね……」
「ねぇセブ、どうせ濡れちゃったし今から海行かない?」
「濡れちゃったじゃなくてお前が濡らしたんだよ」
「タオル取って準備してくるね、待ってて!」
「いや俺は行かな……」
彼女はそう言うと話も聞かずに家へ駆け込んで行ってしまった。そういえば幼い頃もこんなことがあった気がすると溜息を吐いて立ち上がればさらさらと心地の良い音が聞こえ、振り返ったそこには彼女が飾ったままにしてある笹があった。細く鋭い葉が垂れるほど飾りつけられたそれに何気なく近寄ると、ふと表からは見えづらい場所に短冊が吊るされているのを見つけた。あいつが書いたのだろうそれに好奇心が疼き、勝手に話を進める意趣返しにと手を伸ばす。しかし書かれた願いごとを見た途端そんな悪戯心も暑気の煩わしさも掻き消えてしまって、結局変わらないのは自分も同じらしいと苦笑した。
「お待たせ、そういえばさっきなにか言いかけてた? ごめんね」
「……あぁ、言いかけてたよ。本当に海へ行くなら着替えたいから俺の部屋に寄ってくれってね」
手に荷物を下げ急く気持ちのまま玄関を飛び出してきた彼女に気乗りしない風を装いながらそう言葉をあらためる。ただ少し素っ気なさすぎただろうかと思ったけれど彼女はぱっと表情を明るくしてもちろんだと頷いた。勢いよく浅い階段を飛び降りる彼女の切った風が笹を揺らし、偶然か否か隠された短冊が刹那に視界へ映る。だが軽やかに翻るその紙を握り締める必要はもうないだろう。きっともうあの悲しい夢ともお別れで、返せなかった優しさはこれから彼の一番望んだであろう形で返すつもりだ。はやくと手を振りながら足元の石に躓き、それを誤魔化すように笑う彼女を受け取り先として。
「ロビンにお願いしたら昔みたいにお弁当作ってくれないかな」
「母さんに? もうサルーンが開くからそっちで買おうぜ」
「なに、まだ卵もだめなの?」
「そうじゃなくてたまには母さんの飯以外のものを食べたいって言ってるんだ」
「ふうん、じゃあ平気になったんだね」
「……それとこれとは話が別だろ」
「全然別じゃないし!」
牧場を抜ける間際、こちらを振り向いた彼女の唇がセブ、とこの名を象る。あの夏に見た大輪の向日葵のような笑顔で自分だけを見つめて──その瞬間、長い間ずっと抱き続けた彼女への祈りにも似た願いにやっと名前をつけることができた。
ねえ、毎年迎えに行くから一緒にクラゲを見よう。ゲームも読書もお前が飽きるまで付き合うよ。身長も変わってしまったからお前がどんなに牧場仕事で力をつけたって多分俺の方が歩くのも走るのも早くなってしまうんだろうね、だからお前の歩幅に合わせられるよう努力する。意地悪ももう二度と言わない、ただ少しくらいの冗談は許してくれ。嫌いなものだって食べたくないがお前が作る料理ならたまには食べてやってもいいかな、たまにね。フラワーダンスは努力するとしか言えないけれど、どうせ踊らないといけないならお前がいいよ。この先ずっと。
だからさ、もうどこにも行かないでずっとそばにいてくれないか。お前の願いは俺しか叶えられないように、この宇宙のどこを探したって俺の願いを叶えられるのもお前ただひとりだけだから。
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