やまだ
2025-12-29 14:47:55
2119文字
Public アークナイツ
 

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ウルティカ伯爵の話

 ケルシー医師から謝罪されてしまった。
 エーベンホルツはあまりに驚いたため固まってしまい、目を見開いてそれを受けるしかできなかった。本来そうしてよいものではなかったはずなのに。
 エーベンホルツの頭痛を快癒させることはロドスの技術的に困難だったと言わざるを得ないが、幻聴に関しては解決可能な問題だった、長らく無為に苦しませてしまったと語り、ケルシーは医療部の力不足を詫びたのだ。
 それから、エーベンホルツの離艦を承諾してくれた。
……オペレーター・エーベンホルツ。君が今後進もうとしている道は言うまでもなく厳しく、苦しいものだ。おそらく君が想像している以上に」
 ケルシーがゆっくり瞬くと、白い頬に睫毛の影がゆらめいた。
「君は選択をし、責任を負わねばならない。過ちを認め、正し、誠実を示さねばならない。そして他者の悪意に折れず、篤実さに学び、善なる人々へ敬意を払わなければならない。また君は君の正道を見つけ、それを歩む勇気をも育まねばならない。君の生涯をかけて」
 エーベンホルツの腕から点滴の針が静かに引き抜かれた。これがロドス本艦でエーベンホルツが受ける最後の鉱石病治療になる。
「エーベンホルツ」
 ケルシーの声はどんなときも淡々としている。だがこの華奢なフェリーンの内面も同じ温度だとは思わない。なぜなら彼女の瞳が柔らかくエーベンホルツを見つめているからだ。
 彼女は自由になったエーベンホルツの腕を支えながらそっと握手をしてくれた。小さく薄い、あたたかな手だった。
「君の健闘を心から祈っている。我々ロドスはいつまでも君の友人であり、君の帰る場所のひとつだ。どうかそれを忘れないでいてほしい」
 
 
「チェロを持って行かないのか?」
「そうしたいのは山々だが、まだ私はウルティカの高塔の掃除に取りかかってすらいないのだ。あんな腐った場所にチェロを連れて行きたくはない」
 では責任をもって預かっておこう、と言ってドクターは頷いた。彼が責任をもつと言ったのならそれは絶対だった。エーベンホルツの命よりも大切なチェロは、その時が来るまでロドスで守られるだろう。
「離艦申請は退艦申請とは違う。君はウルティカに戻ってもロドスの一員だ。困ったことがあればいつでも連絡してくれ」
「感謝する。先ほど、ケルシー先生からも同じことを言われたよ」
「彼女は私以外の人間には優しいからな」
 ドクターは書類とタブレットに埋もれた机の上で大袈裟に肩を竦めた。ケルシーが医療部で業務に就いていたように、ドクターも自分の執務室でくらくらするような情報の海を泳いでいる。
 彼らはエーベンホルツが艦を降りる程度のことで手を止めてはいられないのだ。こうして挨拶をする時間を捻出してくれただけで十分すぎる厚意だった。
「ドクター」
 うん、と言いながらドクターは右手に持つスタイラスペンをくるくる回している。
「私は臆病だったな」
「君の境遇を鑑みればむしろ当然のことだと思うが。危険に敏感なのは悪いことではない」
「私は無知だったな」
「何をもって過去形で話しているのかが私にはわからないけれど、知ることに終わりはなく、満足すればそこで知能も成長を止める。私は君が学びつづける者であってほしいと願っている、エーベンホルツ」
「私は傲慢だったな。私自身の命に対して」
「そうだな」
 ふっ、とエーベンホルツは噴き出した。ドクターのまったく世間話のような声音がおかしかったのだ。
 彼はいったいどんな顔で、かつてエーベンホルツが残した、いたたまれなくなるような文面の離艦申請書に目を通したのだろう。いつか訊いてみたい。笑い話にできるほどエーベンホルツが成長できたと実感したときに。
「エーベンホルツ」
 スタイラスペンを離した手がエーベンホルツに向かって伸びている。エーベンホルツは少しためらい、おそるおそる机に歩み寄り、下から慎重にドクターの手をとった。ケルシーよりは大きいが、手袋越しであってもケルシーより薄いような気がする手だった。
 じわりと体温が染みてくる。
「ありがとう。君のこれまでの協力に感謝する。ウルティカでの健闘を祈る」
……貴殿とケルシー先生は本当に同じような言葉をくれるな。実は仲が良いのでは?」
「はっはっは」
……せめて何か言ってくれ」
 ドクターはエーベンホルツの要請には応えず、ただぶんぶんと繋いだ手を上下に振り回す。
 痩せっぽちの手はエーベンホルツでも簡単に拘束から抜け出せるほどの力しか込められていなかったが、どうしてもそうすることができなかった。この手が離れる時が別れの時だとわかっていたからだ。
「君は怒るかもしれないが。最後にもうひと言だけ」
 いい加減に手首が痛くなったころ、どうやら同じようなざまらしいドクターが口をひらいた。
「また会おう、伯爵。私は明けない夜などないと信じている。あなたの道にかかる長い夜もまた、そうであるはずだ」
 エーベンホルツは微笑んだ。微笑んで、礼儀正しく握手を解いた。
……ありがとう。ドクター」
 ロドスのドクターは、ウルティカ伯爵へひらりと一度手を振った。