寝室に他人の気配を感じることほどぞっとする事態もそうない。怖気をふるう感覚に最悪の覚醒をプレゼントされながら、ガイアは瞼を上げるより早く片手でシーツを探っている。眠る前にいつもダガーを枕の下に置いているのだ。
ところが何度シーツを探ってもその感触にたどり着かないことで、いよいよガイアは目を見開いた。ぎょろりと両目で室内を見る。
「やっと起きたか」
「……んっ?」
非常に見覚えのあるダガーを片手で弄びながら、非常に見覚えのある男がスツールに座って本を読んでいる。燃えるような赤毛が寝起きの目に痛い。
「君、頭の下に手を入れられても目覚めないのはどうかと思うぞ」
「……俺も家主が寝てるあいだに勝手に入りこんだあげく寝室まで押しかけるのはどうかと思うぜ」
ガイアはモンドの城下町に部屋を借りている。狭いながらも居心地よい我が家の合鍵を、この男に渡した覚えはない。
ふん、とディルックがつまらなそうに鼻を鳴らした。
ご丁寧に日が高くなるまでじっと気配を殺して待っていたようだが、そこまでするなら日が高くなってから普通に訪問すればいいだろう。なぜこの男はわざわざガイアの意識がないうちに忍び入って来るのだ。半目でじっと睨んでいたら顔面に眼帯を投げつけられた。
「なんだよ」
「起きたならさっさと身支度をしろ。朝食にするぞ」
「……おまえも食べていくのか?」
ディルックは片手で鞘ごとのダガーをくるくると投げて遊びながら立ち上がった。
「僕が作ってやる」
「……んっ?」
「いいから顔を洗ってこい」
ガイアは何もよくないのだが、不機嫌かつ景気の悪い義兄の面など休日の朝にこれ以上見ていたいものでもないため、そそくさと自分のプライベートな空間であるはずの寝室から逃げ出した。
朝食はもちろん昼食までディルックの手作りだった。まさか夕食までこの男が作る気でいやしないかと、数週間ぶりに居間でのんびりと読書などしながら内心ひやひやしている。気ままなひとり暮らしだ。夜な夜な飲み歩く男の食料品の備蓄などたかが知れている。
てっきり何か仕事の話でもあると思っていたのに、ディルックは何も言わずにただガイアの家に居座るだけだ。朝から好き勝手に本棚を漁り、ガイアと同じソファーに並んで興味深そうに読み耽っている。本が読みたいなら騎士団の図書館へ行けばいい。なぜわざわざガイアの、休日のガイアの、自宅へ勝手に押し入った上で本を読んでいるのかがまったくわからない。訊いてもまともな返事は返ってこなかった。
ただ、我ながら癪なことに、ガイアは今この時間を決して疎んではいない。
穏やかに降り積もる沈黙が心地よかった。ガイアは賑やかなおしゃべりも仲間の笑い声も大好きだが、静寂も同じほど好んでいる。好きなだけ黙り、好きなだけ喋っても、ディルックは嫌な顔をしないのもいい。もとから仏頂面なので気を遣わなくていいのだ。
「おまえならこんな本なんて、とっくに読んだことあるんじゃないのか?」
ラグヴィンドの屋敷にも書庫はある。西風騎士団の図書館と比べればさすがに見劣りはするものの、蔵書量はかなりのものだ。ディルックはもちろん目を通しただろうし、騎士団時代に図書館にも通い詰めたことだろう。ガイアの義兄は勤勉な男なのだ。
「君の選ぶ本はうちにあるものとは性質が違う。暇潰しのつもりだったが、なかなか興味深い」
「暇なら帰れよ。おまえだって休日は貴重じゃないか。ちゃんと休め」
ガイアがそう忠告すると、ディルックが少し眉を上げた。何か思いがけないものを見るような目をする。
「……まさかとは思ったが」
「何がだよ」
今日のディルックは何がなんだかさっぱりわからない。ページを繰る手を止め、ガイアは片目でじろりと隣の男を窺った。
ディルックも膝の上で本を閉じている。
「今日が休日なのはジンの指定だろう」
「ああ」
「絶対にこの日は休めと言われたはずだ」
「そうだな。どうして知ってるんだ、ディルック?」
「……今日が何日なのか、君は把握しているか?」
ガイアはちょっと口を噤んだ。
呆れ果てた顔のディルックから目を逸らして壁のカレンダーを確認せずとも、正解する自信があった。ディルックの問いは問いでありながらすでに答えでもあったからだ。
「……仕事が忙しいと日付の感覚がなくなるんだよ」
もごもごと言い返したガイアは、ふん、とディルックが鼻を鳴らす音を聞いた。表情が見えないのは、額にディルックの読んでいた本の表紙が乗っているからだ。
「夜までに思い出してくれて何よりだ。うちでアデリンが張り切っている。この本を読み終えたら出るから準備しろ」
「選択肢がないのが凄いな。俺の誕生日なんだよな?」
「まさか君はアデリンの厚意を踏みにじる気なのか?」
「……わかってて言うなよ」
溜め息とともに肩を落とす。もしかするとこれは泊まることになるかもしれない。
「それならいい」
ガイアの視界が明るくなり、ディルックは再び本の中に意識を向ける。ぱらりぱらりとほとんど一定の速度で左から右に流れていくページの音を聞きながら、ガイアは素早く瞬きした。
にやっ、と笑う。
「……それで、ディルック。おまえはわざわざ、それを言うためだけに俺の家に侵入してきたのか?」
「うるさい」
「いやあ朝飯も昼飯も実にうまかった。そうか、あれは旦那様なりの俺への贈り物だったってわけだな?」
そう思うと急にディルックの仏頂面がかわいく見えてくる。
「……ガイア」
「うん?」
「なぜ僕が都合よくこの日に休みを捻出したと思う」
機嫌よく体を揺らしながら読書を再開したガイアだが、ディルックの言葉が脳まで浸透してしまうと、それから家を出るまでもう一行すら読み進めることができなかった。
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