やまだ
2025-12-29 14:35:04
2859文字
Public ゼンゼロ
 

No title

ライアキ

 くるぶしまで隠す黒のロングワンピースは襟が高く、喉元までボタンを留めるとやや息苦しい。肩がふんわり膨らんだそのワンピースを覆う、真っ白でフリルたっぷりのエプロンは、一般家庭で使用されているエプロンとは生地の質も丈の長さも桁違いだ。きっと頭に乗ったホワイトブリュムも素晴らしい素材が惜しげなく使われているのだろう。
「あら、とってもお似合いですわ〜アキラさま」
 傾げた顔の横で両手を合わせてにっこり微笑むリナはご機嫌だったが、アキラはもはや呼吸にもためらって震えるばかりだ。おそろしすぎる。
……これが一着二百二十万ディニーのメイド服……
「少々訂正させてくださいませ〜。私の衣装のオーダー総額がその程度、という話ですわ。ただ今アキラさまがお召しになっているのはあらゆるデザインのベースになるサンプル衣装のひとつですから……半額以下で事足りるでしょう」
「なるほど。リナさん、半額でも十分とんでもないよ」
「うふふ……ヴィクトリア家政は一流の家事代行サービスが売りですもの。スタッフが身につけるものも当然一流でなくてはなりませんわ」
 ちなみに断じてアキラがメイド衣装一式を試着してみたいと言い出したわけではない。アキラが望んだのは執事服のほうだ。
 彼女たちのリーダーにちょっとした用事があってオフィスを訪れたのだが、ちょうど急用のために入れ違いで出かけてしまったと言う。茶請けをこしらえようとするリナを引き留めるため彼女に話し相手になってもらっていたところ、話題がヴィクトリア家政の服装に推移した。
 やっぱり執事はかっこいい、あの衣装には憧れる、といった話をしていたはずなのに、なぜかあれよあれよとワンピースを着つけられてしまっていた。リナの押しの強さには逆らいがたい不思議な圧がある。
 さほど激しい抵抗感やむなしさを抱かずに済んでいるのは、ほぼ露出部のない格好であること、ワンピースの下に履いたタイツが諸々の安定をもたらしてくれていること、そして視界に鏡がないことが大きい。
「アキラさまはお顔立ちが優しいので、以前から似合うだろうと思っていましたのよ。私の見立て通りですわ」
「リナさん、僕が興味があるのは執事服のほうなんだけれど」
「まあ、申し訳ありません〜。男性用の衣装部屋の鍵は、ライカンさんが管理しておりますの」
 リナはあでやかな花のように微笑んだ。非常に美しく魅力的だが、なぜだろう。アキラは彼女の背後に捕食前の食虫植物を幻視する。
……もう着替えてもいいかな?」
「いやですわアキラさま、ご冗談を。今着替えたばかりではありませんか」
「いやいや、リナさん……
「それに」
「それに?」
 いつの間にかリナの手は高そうなコンパクトやメイクブラシを掲げている。ライカンもそうだが、ヴィクトリア家政の収納術はどうやって鍛えあげられたものなのだろうか。
 現実逃避しかけるアキラの前に、メイド長の麗しい微笑みがある。
「お化粧とヘアメイクがまだですもの〜」
 
 
 客人を待たせているので寄り道などせず帰ってくるように、という旨のメッセージをリナから受け取ってからすでに一時間弱経過している。彼女自らもてなしているのなら問題など起こりえないが——軽食を作ろうとでも思い立たない限りは問題など起こりえないが、車を降りたライカンの足は自然と速くなる。予定外とはいえライカンへの客人だ。ならば誠心誠意向き合わねばならない。
 応接室はドアが少し開いていた。ころころ笑うリナの声が高く、客人の声はほとんどかき消されている。
 来客とはリナの友人なのかもしれなかった。彼女がここまで胸襟をひらいて応接する相手はごく限られる。
「失礼いたします」
 扉を軽く叩き、隙間を広げる。室内中央のソファーではなく、窓辺のティーテーブルで女性が向かいあってフルーツをつまんでいた。自然物が供されていたことに安堵しつつ、ライカンは人影に向けてまず腰を折る。
「大変お待たせをいたしました。ヴィクトリア家政のフォン・ライカンでございます」
 にこにこ笑うリナの横を見る。襟が高いロング丈のメイド服はヴィクトリア家政のものだが、それを纏う娘に見覚えはない。顎の下に手をやりながら静かに深呼吸する。
……私へのお客様だと伺いましたが……こちらのお嬢様とは、面識がなかったように思います」
「ええ、私のとっても大切なお友達なのです。かわいらしい方でしょう? ぜひあなたにもご紹介したくて」
「そうですか」
 ライカンはひとつ頷き、俯いてワンピースを握りしめる娘を見下ろした。ホワイトブリュムの大きなフリルで目元が隠れ、あまり表情は読めないが、明らかに緊張している。
「失礼、レディ」
 床に片膝をつく。娘のきつく強張った指をそっと伸ばしてやり、進捗に掬いあげた。
 細く長い指だ。
 きっとこの指先は、キーボードの上でよく働くだろう。例えばホロウの中を進む者どもの安全と命を守る際などに。
「なぜこのようなお姿でいらっしゃるか、ライカンへ教えてはくださらないのですか、アキラ様?」
……どうしてすぐわかるんだ」
 愕然としながら上向いたアキラの顔には、リナの手によるのだろう薄化粧が施されている。何をしているのだと呆れる気持ちと、少し色を乗せるだけでここまで印象が変わるものかという驚きがライカンの胸中で拮抗していた。
 そしてライカンは執事であるので、当然そんな心情を顔に出しはしない。ただ微笑むのみだ。
「お忘れでしょうか。私はオオカミのシリオンでございます」
 アキラは長くつやめく睫毛を震わせ、薄桃色のふっくらした唇から低く絶望のうめきを漏らした。
……これが僕の趣味嗜好だとだけは思わないでくれないか、ライカンさん」
「大変お似合いでいらっしゃいますよ。もしかすると、リン様もしばらく気づけないのではないでしょうか」
「そうでしょう? 素材が良いと腕の振るいがいがありますわ〜」
「ありがとうふたりとも。だけど今僕が聞きたいのはそういう言葉じゃないんだ」
 リナは半目のアキラを見てにこっと笑い、ライカンは掬い取った手を引いて彼を椅子から立ち上がらせた。再びそっと深呼吸してみると、化粧やパフュームの香りの奥に彼だけの気配が感じられる。
 リナの努力を無にするのは申し訳ないようだが、やはりライカンはありのままのアキラが好ましい。
「私の部屋へご案内いたしましょう。お化粧を落としてお着替えください。ご用件はそのあとにお伺いいたします」
「まあ、残念」
「ライカンさん……!」
 アキラがここまで感情を露出させるのも珍しい。
 満面の笑みを向けられてライカンは思わず尻尾を揺らしたが、おそらく気づいたのはリナだけだ。
 笑顔のリナに見送られてメイド姿のアキラをエスコートしながら、ライカンの胸には小さな悔いが刺さっている。
 できることなら先ほどの笑顔は、化粧を落としたあとに見せてもらいたかった。