やまだ
2025-12-29 14:34:42
2739文字
Public ゼンゼロ
 

No title

ライアキ

 目が覚めたアキラの頭に真っ先に浮かんだ言葉が「うわあ、やってしまった」だった。我ながら、今この状況にこれ以上ふさわしい感想もないだろう。
 リンに連絡も入れないで外泊してしまった。しかもヴィクトリア家政の豪華な晩餐つきで。
 ライカンの部屋に泊まってしまった。しかも新品のパジャマと下着つきで。
 ライカンとついに一線を越えてしまった。
 しかもそれから朝まで、ふかふかなのにがっしりした腕枕つきで。目の前には頬擦りしたくなるぐらいにふわふわで真っ白な飾り毛もあり、不思議になるくらいにいい匂いがする。昨日はお互い、あんなにいろんな汁まみれになったのに。昨夜の色々を反芻してアキラは勝手に少し気まずくなった。
 うわあ、やってしまった。ついに。とうとう。あのライカンさんと。
 呟きを漏らしたつもりでいたが、実際には掠れた吐息がぜいひゅうと鳴るだけだった。喉が渇いて舌がねばつく。唾液すらなかなか湧いてこない。
 水が飲みたい。けれど下半身というか脚の付け根というかその奥というかが鈍痛を発していて、それを押してまで体を起こすのも億劫だった。
 困ったなあと口をもごもごさせていたら、頭の上のほうからふっと笑うような音がした。
「お目覚めですか。お水をお持ちしましょうか」
 ちょっと顔を上向ける。目を細めてアキラを見つめるライカンはいつも通りに格好よかった。
 頷くと丁寧に腕を抜かれて隣の体が離れていってしまう。ライカンはしっかり義足とスラックスを身につけているので、アキラが起きるまで身支度を整えながら待ってくれていたらしい。そういえば、シーツや腰の下のタオルはさすがに湿ってごわついているけれど、アキラの痛む体は清潔だった。おそらく全身くまなく。
「ありがとう」
 だから介助を受けてどうにか体を起こしたアキラの第一声は、複数の意味を含んでいる。まずぬるい水をカップひと口、その次に与えられた水はグラスごとよく冷えていた。
 簡単すぎる言葉に内包する理由をすべて聞き拾ったライカンは、アキラの肩にパジャマをかけてくれながら気遣わしげに顔を覗きこんでくる。
「お体の具合はいかがでしょう。おつらくはございませんか」
「そうだね、覚悟していたよりは……もちろん痛いは痛いし、だるくもあるけれど」
 空のグラスをヘッドボードに乗せる。軽くなった手をひらめかせてアキラはしゅんと耳を伏せているライカンを呼んだ。
 昨夜までより、たくましい肩に腕をかけることへの抵抗や羞恥が薄らいでいる。ハグどころか手を繋ぐのも照れ臭がっていたのが馬鹿らしいほどだ。
 まだたった一度ライカンの前で服を脱いだだけ、彼の重みを全身で味わっただけで、アキラはすっかり遠慮を忘れてしまったらしい。もしこれから回数を重ねていったなら、どれだけ図太くなるのだろう。
 ライカンに縋りついてふかふかの毛並みに頬擦りする。アキラの背を支える手の穏やかさに嬉しくなった。
「謝ったり後悔したりはしないでほしいな。あなたをそそのかしたのは僕なんだしね」
……そのようなことは。あなた様を求めたのは私も同じでございますよ」
「そうかい? あんなにみっともなくして、嫌われてしまったらどうしようと思っていたのだけれど」
……アキラ様」
 吐息混じりに名前を呼ぶ声がアキラの首筋をぬるく撫でる。ぶるっ、と背筋が震えたのは不可抗力で、呼吸が乱れたのも昨日の今日なのだからしかたがない。それなのにライカンは得意そうにふさふさと尻尾を揺らした。
「私、あなた様についてひとつ理解を深められたような気がいたします」
「理解」
 復唱するアキラの背を大きな手が繰り返し撫でている。仕草は優しいものだったが、どうも体を繋げあった関係由来の甘やかさよりは穏やかに幼児をあやす感覚のほうが近そうだ。
 そしてアキラはその手に、子ども扱いされているといじけるよりも先に安心してしまった。背中が丸くなる。ふかふかの毛並みに頬を半分埋めるようにしながら、アキラはライカンの静かな笑声を聞いた。
「アキラ様は望んだものを手に入れようとなさるまでは凛々しく決然としておられますが、手にしてからはあれこれと気がかりや心労が増すお方でいらっしゃるご様子」
 低く優しい声を聞きながら、アキラは腰が痛いなあと考えている。
 昨夜だってライカンは丁寧で優しかった。ライカンが根気よくアキラの体をほぐしてくれたからこそ、この程度の気だるさで済んでいることくらいはわかっているのだ。股間に血が集まっている状態でよくぞあそこまで他人を慮れるものだと尊敬すらする。
 そういう人を好きになった。
 そういう人だからこの人の何もかもを欲しいと思うようになった。彼の前で服を脱ぐことすらして。
「手にした瞬間から、手を離れた際のご負担を減らすための予防線を幾重にも張っておいででしょう」
 疑問形でもない、落ちついたその語尾に対して反論する意味もないので、アキラは黙ってライカンの胸で深呼吸する。いい香りだ。昨夜はもっと香りが立っていた。
「私のことでお悩みですか?」
……そんなことはないさ。ただ、あなたは僕をよく見てくれているなあと思って」
「光栄でございます」
 ライカンはきっと微笑んでいる。声が深く柔らかい。
「私はあなた様のお傍におります。必要ないと言われるまでは」
「言わないよ」
「左様ですか」
「ライカンさん。言わないからね」
「ええ。わかっておりますよ」
 背中を撫でてくれていた手がアキラの腹に回る。あれっ、と思ううちにかるがる持ち上げられたアキラは、今度はライカンの腿に乗っていた。
 声を聞いて想像した通りの表情のライカンと、正面から目を合わせる。
「私は不要だと申し付けられるまでお傍におります。そして、あなた様は私にそのようなことは口にしないと仰せになられた。アキラ様」
 耳を揺らして、ライカンは少し首を傾げた。
 何もかもをよこせとねだったアキラに何もかもを差し出してくれた人が、優しく優しくアキラを呼ぶ。
「いったいどこに、これ以上ライカンについて悩む必要が?」
 アキラは答える前にちょっと考えた。
 どうしても時間が必要だった。
 なぜかといえば、下手をすると昨夜よりも茹だって赤くなっているかもしれない顔の熱を引かせなければ、今後ライカンから大人の男として扱われないような気がするからだ。
 うわあ、と思う。目覚めたときによぎった言葉よりも深刻で、それなのに抜けるように明るくアキラの中で膨らんでいく。
……やられた」
 くう、と胸に手をあてて高い天井を仰ぐアキラを、ライカンの大きな手が穏やかに抱き寄せる。