彼から愛してもらえる誰かはきっと随分居心地よく過ごせるのだろう、と、そう思ったのが最初だったように思う。少なくともこのときのライカンはまだそんな感慨だけをいだきながら、才能あふれる若きプロキシと交流していた。バレエツインズでの共同戦線が見事成ったころの話だ。
「そろそろ失礼させてもらおうかな。今夜は妹と出かける日なんだ」
「おや、それは……ご予定がおありなのにお付きあいいただきまして、大変申し訳なく」
ルミナスクエアの遊歩道で、太陽の傾きとスマートフォンの画面をさっと確認したのは若きプロキシたるアキラだ。彼ら兄妹「パエトーン」とヴィクトリア家政がバレエツインズの件で協力関係を結んで以降、時折時間を合わせて出かけるようになった。
「妹の好きなものを食べに行くってだけさ。あの子もどうせまだどこかをふらふらしているだろうし、気にしないでくれ」
アキラは苦笑顔の前で片手を振った。胸に手をやるライカンを柔らかく拒み、謝らせまいとする。
「僕が先に家で待っていないと拗ねてしまうんだよ。リンは」
妹、あの子、と呼ぶアキラの声に深い親しみがあふれている。彼が妹をどれだけ大切に思っているかがそれだけで伝わってくるような声だ。
その響きを耳にするライカンの胸までがあたたかくなる。謝罪の代わりに微笑んだ。
「そのような事情がおありでしたか。ならば、お早くお戻りにならないわけにはまいりませんね」
「うん。今日はありがとうライカンさん、気晴らしに付きあってくれて」
アキラは遊歩道をコインパーキングへと引き返すので、それに従いライカンも爪先を反転させる。
車に乗りこむまで見送るつもりのライカンをちらりと仰いだアキラは、何も言わず目元に笑みを浮かべた。好ましい親しみの滲む視線はかつての感慨を改めてライカンの胸に呼び起こす。……きっと彼に愛される誰かは幸せだろう、と。
アキラという青年は、ライカンの家族というものに対するほのかな憧憬を具現化すればこうなるという人物だった。大らかで温厚で、そして愛情深い。
家族と呼べるものを持たないライカンには、アキラと彼の妹の仲睦まじさは非常にまばゆく映った。酸っぱいぶどうに負け惜しみを吐きたがる若さを失って久しいのが幸いだ。彼らを見て、ただ素直に羨ましいと感じることができる。
リンは幸せだろう。彼のような兄に愛されている。
「たまにね、不安になることがある。僕はリンの重荷になっていやしないかって」
だから隣を歩くアキラがふいに漏らした呟きは、ライカンを内心大いに動揺させた。もちろん態度に出すような失態はしないが、首を巡らせてアキラの頭を見下ろしてしまう。青年はなんでもないような足取りでライカンの横を歩いている。
「……今もあなた様はリン様のために帰宅を急ごうとしておいでではございませんか。きっとリン様もお喜びになるかと」
「どうかな。そもそも、僕はリンを喜ばせたいんだろうか。ただ彼女に嫌われるのが怖いだけかもしれない。……僕にはリンしかいないから」
ライカンはぎくりとした。常にあたたかく安穏とした雰囲気をまとう若者、ライカンの手の届かない高みできらめくはずの憧れが、悄然と肩を落としたからだ。あるいは本人は肩を竦めたつもりなのかもしれなかったが、それにしてはあまりできが良くない。
リンしかいない、とアキラは言った。たったひとりの家族に嫌われたくない。見放されたくない。ライカンには家族はいないが、その感覚は少しわかる気がした。
かつて、ライカンにもかけがえのない友がいた。
彼とふたりならなんだってできると信じており、彼のためなら命すら惜しくはなかった。ライカンを真に理解してくれるのは彼だけだと思っていた。
それはそれで痛快ではあったものの、極めて狭い世界で生きていた。
「アキラ様。差し出口をどうかお許しください」
パーキングのゲートを通り、アキラの乗用車の前までたどり着いている。ライカンは車のキーを探っている手をそっと掬い、両手で挟むように包みこんだ。
ぽかんとした無防備な顔を覗きこみ、ひとつ頷いてやる。
「あなた様を頼りにしているのはリン様だけではございません。私どもヴィクトリア家政はもちろん、邪兎屋の皆様もあなた様を深く信頼しておいででしょう。……ほかにも、あなた様の胸には浮かんでくる方々がいらっしゃるのでは?」
賢く心優しい若者は、すぐに自身の失言を自覚したようだった。恥じ入るように唇を噛むアキラの瞳にはライカンへの深い謝意が満ちている。
もはやアキラにこれ以上の言葉は不要だと、そう理解していたにも関わらず、ライカンは彼の手を離さなかった。離せなかった。
「それでもなお、ご自分にはリン様だけだとおっしゃいますか? あなた様の前にはこのライカンもおりますのに」
アキラの目元にさっと朱が走る様子は、予想外のこころよさでライカンを満たした。アキラにもこのような歳相応の部分があるのか。
なんとなくしみじみ見守っていたところ、アキラが赤い目元のままにやっとした。
「……もう言わないよ。あれはリンやみんなへの侮辱だったし、それに……どうも、僕にはあなたがいてくれるようだしね」
ライカンは無言でアキラの手を解放した。
にこりと笑い、アキラはその手でポケットから車のキーを取り出す。
「じゃあまた、ライカンさん」
「……道中、どうぞお気をつけて」
腰を折って遠ざかるエンジン音を見送りながら、ライカンは「また」があることに安堵している。安堵したことに驚きもしている。
赤い顔でにやりと笑ったアキラが、瞼の裏から消えずにいる。
「……なんと」
きっとアキラに愛される誰かは幸せだろう、心地良かろうと思っていた。今もそれは変わりない。彼への憧憬はライカンの中に変わりなく存在する。
ただ、そこにどうやら欲が宿ったようだ。アキラが憂いなく彼の大切なものたちへ心を向けられるよう、それをライカンが支えてやりたい。彼の弱音を聞くのはライカンだけでありたかった。
ぐっと背中を伸ばしたついでに空を仰ぐ。やや西に傾きかけた太陽が、じわじわと赤味を帯びつつあった。
この太陽がすっかり沈むころ、アキラはリンと出かけるのだろう。今このとき覗かせた弱気など、完璧に覆い隠して。その予測はライカンの口元を綻ばせる。
「……なんと。これでは初めて恋を知った小僧のようだな」
くだらない冗談がついて出るほど、気分がよかった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.