ライカンの部屋に泊まる日は夜が長い。ちょっとリンに対して申し訳なくなるような晩餐を満喫し、明るく広々としたシャワールームで信じられないほど香り高い石鹸を使わせてもらい、軽くて柔らかいパジャマを借りる。いつだったか、シルク生地のパジャマを手渡されたアキラが萎縮して挙動不審になって以来、ライカンは何も言うことなくコットン製のものを用意してくれるようになった。きっとこれもお高いのだろうとは思うが、肌触りが変わるだけでもだいぶ気が楽だった。
分厚いカーペットをルームシューズでもふんもふんと踏みしめて向かうベッドルームでは、機械脚を外したライカンが枕を背もたれ代わりにして爪を切っている。アキラは彼が爪を短く整えるところを見るのが大好きなので、ベッドに乗り上がるなり彼の腿のあいだに滑りこんだ。
「危ないですよ」
ちっとも怖くない声を聞き流してライカンの手首を掴み、軽く引き寄せる。もっと低いところでやってくれなくては、アキラに見えない。
「もう薬指じゃないか! 僕が戻るまで待っていてくれたらよかったのに」
「これは失礼を。ですがまだ右手が残っておりますよ。……それにしても、特にご覧になっていて楽しいものではないと思うのですが」
ばき、ぱき、と大きな爪切りがライカンの爪をほとんど深爪になるところまで切り落としていく様子を、アキラはライカンの腕に寄りかかりながらうっとり見守った。たくましくて真っ白でふかふかの腕は少し湿っていて、そしてアキラと同じ石鹸の香りがする。
「あなたが僕のためだけにあなたの武器をひとつ損なってくれるんだ。とても楽しい……いや、楽しいというか嬉しい、かな? 嬉しくてたまらない」
もちろんアキラは普段のライカンの手指だって大好きだ。格好良いし美しい。不穏な爪をきらめかせつつ完璧に、一切の乱れなく繊細な食器や菓子を扱う様子にはいつになっても見惚れてしまうくらいだ。
だがそれはそれとして、アキラのために念入りに指先を整え、不便だろうに早々と機械脚を外してしまうライカンの篤実さはやはり別格なのだった。
「……お喜びいただけて何よりでございます」
耳裏にぴたりと鼻先を寄せられての囁きはアキラをこそばゆくさせた。くく、と笑って身をよじるアキラの腹の前にライカンの右手が寄る。わざわざ背を丸め、窮屈な格好になってもきちんと手元を覗かせてくれるライカンに甘えて、アキラは短くなっていく爪先をじっくりと眺めた。
「まだ脚はつけておいたらいいのに。不便じゃないのかい?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、特に問題は。今日はもう部屋を歩く用事もありませんから」
「ふうん」
シリオンでなくてよかった、とこういうときに少し思う。もしアキラにふさふさの尻尾がついていたとすれば、今うるさいほど左右に揺れてしまっているに違いないからだ。
ところが、そっけない相槌だけを返したはずのアキラの頭上でライカンはおかしそうに笑うのだ。
「……アキラ様。お耳が赤くなっておいでですよ」
「……気のせいじゃないか? 爪を切っているのによそ見ができるはずないしね」
「あなた様がた人類のお耳も、一定の感情に対しては非常に素直でございますね。私、少々安心しましてございます」
「そうなのか。それはそれとして、ライカンさんの気のせいだよ」
「さて。そういうことにしておきましょうか」
なんだか聞き覚えのある台詞だ。アキラはライカンの小指の爪がすっかり短くなり、やすりがけされるところを見つめるのに夢中でいたので、それには返事をしなかった。
さあできましたよ、とアキラの目の前にさし出された大きな手を捕まえる。
ふかふかでしっとり湿っていていい匂いがして、万が一にもアキラを傷つけることのない手だ。この手に体の内外を優しく撫でられると、アキラはすっかり馬鹿になる。絶対に格好悪いはずなのに、ライカンはそうしてみっともなくなるアキラを見ると嬉しそうにするのだ。ちょっとどうかと思う。
ライカンの指先を手のひらでするりと撫で、擦り傷ひとつないところを背後に向けて見せてやる。立派な尻尾がぱたんとベッドを叩いた。
ここまででひと区切りだ。アキラはにっこりしてライカンの首にしがみついた。
体を起こしたライカンがそのまま膝のない両脚と両手で四つん這いになると、アキラの背中がベッドでぽんと跳ねる。隙間に差しこませた大きな手でしっかり支えられながら、アキラは太い首を両手で撫で上げた。頬を包み、鼻筋を撫で、そうして両手で作った簡素なマズルで彼の口元にそっと拘束をかける。
ほとんど力をこめていない、ただ触れているだけに近い手を振り払われたことは、これまで一度もなかった。
微笑むアキラをライカンはじっと見下ろしている。
「あなたは僕を噛んでいいし、引き裂いていい。僕はそれもとても嬉しいからね。だけどうぬぼれでなければ、あなたはきっと悲しむだろうから。あなたがあとで後悔しそうなことだけは絶対にしないでくれ」
ちょっとしたルーティンだ。ライカンがアキラの泊まる日は必ず爪を短くするように、アキラも必ずベッドで裸になる前にこの確認をする。種族も体の大きさも違うふたりで同じ夜を過ごすため、アキラはライカンの篤実に信頼を返している。
「いつも優しくしてくれてありがとう」
ライカンの鼻の頭、口吻の右側、先端と左側に一度ずつキスをする。ぐうう、と喉を鳴らす人がかわいくて、つい鼻の頭にもう一回口付けてしまった。
「あなたの服とバンドを脱がせてしまっていいかい?」
ライカンがじっとアキラを見つめたまま頷いた。
「僕の服を脱がせてくれるかな?」
ライカンがもう一度、さっきよりも深く頷いた。
笑ってアキラは彼の口を封じていた手を離す。
「うん、じゃあ、そうしよう」
「ええ」
アキラの顎からこめかみまでを念入りに舐め上げて、ライカンは真摯に、かつ熱心に三たび頷いた。
「あなた様のおっしゃる通りに」
柔らかく温かな指がふわふわとアキラの喉元を撫でるので笑いが止まらない。ライカンの服にかけた指が震えてボタンがうまく外せなかった。
「今日は私が自分で脱ぎましょうか」
「それは絶対に嫌だ」
アキラはライカンの申し出を心を込めて断った。
「好きな人を自分の手で脱がせていくのは男の浪漫だろう、ライカンさん」
ライカンは黙ってアキラを見下ろしてから、左様ですねと格好よく微笑んだ。
彼の後背で尻尾がふさふさと大きく揺れていなければ随分絵になるさまだったけれど、アキラはライカンのこの素直さも大好きなので、もちろんなんの問題もない。
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