どこかの店の開店祝いの置き物にでもなった気分だ。ルミナスクエアの地下鉄駅前で人待ちをするアキラは、周囲から刺さる好奇の視線にそっと溜め息をついた。今更待ち合わせ場所を後悔しても遅い。
純白の花が滝のように連なる、三本立ちの立派な胡蝶蘭は、人の気も知らずに花弁を昼下がりの陽光できらきらと輝かせている。詳しくはないものの高級な花だという知識くらいはあるので、小市民のアキラは手が痺れつつある中でうかつに地面へ置くこともできずにいた。うっかり鉢を蹴飛ばしでもしたらしばらく立ち直れない。
「アキラ様」
強張り、血が止まって冷えつつある指で支えていた鉢が腕の中からふと消える。
アキラが両手で必死に保持していた胡蝶蘭を、待ち合わせ相手だったオオカミ執事は難なく片腕のみで維持する。
高価な花よりも白く輝く見事な毛並みを仰ぎ、アキラはほっと肩の力を抜いた。彼が来てくれたのなら衆目などもう気にならない。貧相な一般人のアキラと異なり、彼には胡蝶蘭に勝るとも劣らない華やかさと気品がある。
「ライカンさん、急に呼び出したのに来てくれてありがとう。すぐに会えて助かったよ」
「私こそ、これほど素晴らしいお花をお譲りいただけるとは思っておりませんでした。こちら、ありがたく頂戴いたします」
胡蝶蘭を受け取ったのはしがないビデオ屋店長のアキラではない。伝説のプロキシ「パエトーン」……の失われた名声を再び取り戻すため、こつこつ実績を積み重ねる謎の新人プロキシとしてのアキラだ。毎回なぜか自らをお姉ちゃんと自称して依頼を持ってくる女性が、今日は依頼完遂の「ご褒美」としてディニーのほかに花を贈ってくれたのだ。
ついその場の流れで受け取ってしまったが、正気に返ればこれほど扱いに困る報酬もない。アキラやリンの部屋にも、ビデオ屋にも、いくらなんでも胡蝶蘭は高貴すぎる。
誰か友人知人にこの花が似合う人物は、迷惑がらず受け取ってもらえるような人はいないものかと兄妹で首をひねり、そうした瞬間にふたり同時に思い至ったのがヴィクトリア家政の敏腕執事フォン・ライカンなのだった。兄妹の見立て通り、やはり非常に似合っている。
ライカンは慎重に茎の向きを整え、少し大きめに尻尾を揺らした。喜んでもらえたようで何よりだ。
「お花を車へ置いてまいります。もうしばらくこちらでお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ。もちろんさ」
と答えながらアキラの口は緩んでいる。胡蝶蘭を譲るという理由で呼びつけたライカンが、用事が済んだあとも当然のようにアキラと過ごす選択をしてくれたのが嬉しかったのだ。
植木鉢を抱えていたせいで固まってしまった指をゆっくり屈伸させてみる。
まだ動きはぎこちないものの、アキラの手は感情と比例して指先までしっかり温かくなっていた。
アキラが今回のいきさつを話すと、ライカンはごく真面目に頷いた。
「今後もお付きあいがある方からの贈り物では、確かに断りづらいものです。私が責任を持って管理させていただきます」
「ライカンさんの部屋に置かれることになるのかな?」
「そうですね。殺風景な部屋でしたが、これからはあなた様のお陰でかなり印象が変わるかと」
「あの胡蝶蘭も大出世だなあ。あなたにもらわれてよかったよ」
狭くて物にあふれたビデオ屋に飾られるより遥かに条件がいい。これからはアキラが遊びに行くたび、あの胡蝶蘭が出迎えてくれることになるだろう。
「だけど……」
アキラの歩調に合わせてゆったりと歩いてくれているライカンを、改めて見上げてみる。
姿勢を崩してふらついた体は、さっと背中へ回る手がスマートに支えて通行人の邪魔にならないようにしてくれるのだ。ライカンの隣を歩くとき、究極アキラは目を閉じていてもぶつからず転ばずにいられるのではないだろうか。
「もらいものを引き取ってもらっただけなのに、お返しなんて悪いな。僕ばかりいい目を見ていないかい?」
「いえ。あなた様からあのお花をいただけましたこと、大変嬉しく光栄に思っております。ぜひ私からもあなた様へ贈り物をさせていただきたく」
そう言われるとなんだかとても大層なことをした気がしてくる。照れ隠しで肩を竦めたアキラはそのせいでつま先を石畳に引っかけたが、ライカンの手が再び丁寧に助けてくれた。
「ありがとう」
「当然のことでございますから、お気になさらず」
花の返礼に花を贈らせてほしい、と言うライカンのエスコートで向かっているのはもちろんルミナスクエアの花屋だ。自主的にはあまり立ち寄らない場所だが、前を通り過ぎるたび気にはなっていた。
「切り花にいたしましょうか。お店の一隅に置いていただければ」
「あなたは胡蝶蘭をあなたの部屋に置いてくれるんだろう? なら僕だってもらう花は自分の部屋に飾りたいな」
「……左様ですか」
ふっと柔らかに目で笑うライカンの頭上で、三角耳も嬉しそうに揺れている。アキラも彼へにこりと笑い返したが、機嫌のいい耳については指摘を控えた。からかうのが少しもったいなかったのもあるし、もう色とりどりの花があふれる店先に到着するところだったからだ。
「こんにちは。少々お伺いしてもよろしいでしょうか」
ライカンはもうアキラへ贈る花に目星をつけているらしい。本数まで指定して店長へ在庫を確認して、彼女から恐縮ぎみに謝罪されていた。そこまでの在庫がないらしい。
「ごめんなさい、四十本はさすがに……予約をしてくれたらご用意できますけれど、今必要なんですよね?」
困り顔で頬に手をあてた店長となぜか目が合う。わけもわからず瞬きを返すと微笑まれた。
「では、四本包んでいただけますか? 四十本はまたの機会にお願いすることにいたします」
「ええ、少々お待ちください」
「……随分減ったね?」
店長が優雅に身を翻して奥へ向かってから、アキラはそっとライカンに囁いた。どうも数に意味があるらしかったが、その割にはライカンに悔やむような様子はない。
「あなた様のお部屋に飾っていただくものだということを失念しておりました。四本でも私はなんら差し支えございませんので、あまりかさばらないほうがよろしいでしょう」
「そうなのかい?」
「はい。そうなのです」
ライカンの尻尾がふさっと揺れた。
花とはあまり縁がないが、だからこそ店頭に並ぶ名前も知らない植物を眺めるのはなかなか楽しかった。
この店にももちろん胡蝶蘭はあって、アキラが指さすとすぐにライカンも気がついて微笑んでくれる。彼の前ではつい甘えが出てしまうアキラをたしなめるでもなく受け入れてくれるライカンの側は、いつでも居心地がいい。
「お待たせいたしました」
雑談をしながらサボテンの棘をふたりで交互につついて遊んでいたら、薄紙に包んだ花束を手に店長が奥から戻ってきた。ライカンが花束と漆黒のカードを交換し、店長はカードを両手に乗せてどことなくうやうやしくレジに向かう。
「アキラ様、こちらを」
そうして花束はアキラの手元へやってきた。小指の先よりも小さな白い花を無数につけたカスミソウが、水辺からの風を受けてふわふわとレース細工のように揺れる。
アキラのイメージではカスミソウといえばほかのあでやかな花々の添え役だったが、ライカンからもらった花束はカスミソウだけが包まれていた。彼の言葉の通りなら、四本。
「あまり主張しない花ですから、あなた様のお部屋にも馴染むはずです。花瓶の水を少なめにしていただいてそのまま、水分が蒸発しきるまで放置しておきますと、ドライフラワーにもなります」
「へえ。それは実に僕向きだ」
気取ったところのないシンプルさもいい。
小さな花束になんとなく頬を寄せる。ふわっとした肌触りは誰かの見事な毛並みに少し似ているようで、アキラは目を閉じて改めてその感覚を楽しんだ。
「ありがとうライカンさん。大切に飾らせてもらうよ」
「ええ。そうしていただけるなら光栄でございます」
「そのうち、四十本の花束ももらえたりするのかい?」
アキラとしては冗談のつもりだった。カスミソウは華奢な花だが、これが四十本も束になれば相当なボリュームだろう。ライカンはともかくとして、花屋の店長やアキラが持てばその陰にすっかり隠れてしまうのではないだろうか。
まだ目を閉じていたアキラは、ライカンの微かに息を呑む気配で瞼を上げた。立派で完璧な紳士が口元を手で覆って斜め下を向いている。耳と尻尾も忙しそうだ。
「……そうですね、もしかするとそのうちにお渡しできるかもしれません」
「なら、楽しみにしているよ」
店長がにこにこしながらブラックカードと領収書を手に戻ってくる。
この日の深夜、自室でくつろぎながら何気なく検索サイトを使ったアキラが頭を抱えてうめくはめになることなど、もちろん今はまだ誰も知らずにいるのだ。
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