やまだ
2025-12-29 14:30:07
3102文字
Public ゼンゼロ
 

No title

ライアキ

 出発前に確認した天気予報は一日中晴れだった。待ちあわせに向かう車内のラジオでもそう言っていたし、グラビティ・シアターに入るときも青空だったのをはっきり記憶している。なぜならアキラが同行者の目を見て話すには、思いきり顎を上げなければならないからだ。
 だからたった一時間半を経て再びまみえたルミナスクエアの街並みがすっかり灰色に濡れそぼっているのは誰のせいでもない。気象予報士すら予測しえなかった急雨なのだ。周囲にも空を窺って困惑の声を上げる人々が増えてきた。
 周りのざわめきと、激しすぎる雨音のため会話もままならない。アキラは隣でしょんぼりと耳を伏せ尻尾を垂らしているオオカミ執事の肩に手をかけ、伸び上がるようにして名を呼んだ。
「ライカンさん」
 巨躯の向こうには重苦しい曇天が広がっている。通り雨を期待するのはいささか都合がよすぎるようだ。
 察して膝を折ってくれたライカンのふわふわした耳へ唇をくっつけるようにした上で、アキラはなお声を張った。それだけの雨が降っている。
「かなり濡れてしまうと思うけれど、向こうの駐車場まで走ってもらっても構わないかな? 今日は車で来ているから送っていくよ」
 ふわふわの三角耳がアキラの顔のすぐ傍で震えるのがこそばゆい。しかもなんだかいい匂いまでする。
「それは……大変ありがたいお申し出ですが、ご迷惑ではありませんか?」
「僕もあなたにたっぷりと迷惑をかけるつもりだから気にしないでくれ。シャワーとランドリーを貸してもらえるとありがたいな。それに、温かいお茶を一杯」
 ふ、とライカンの肩が少し揺れた。声は聞こえないが、どうやら笑ったようだった。アキラを見下ろすライカンの目は優しげに細められている。
「もちろんでございます」
 
 
 グラビティ・シアターから駐車場へ走るだけで下着までぐっしょり濡れてしまったし、そこからヴィクトリア家政の住まいまで向かうあいだに座席シートにも水溜まりができた。車内では暖房を使ったものの、気休めにもならないありさまだ。
 そんな状態のまま、長い廊下に泥水色の足跡を残しながらライカンの部屋へ辿り着いてしまった。ドアマットの上から一歩も動けずにいるアキラを、背後に控える部屋の主は手のひらで室内へ促す。もちろん彼もアキラに負けず劣らず全身ずぶ濡れだ。
「どうかそのままバスルームまでお進みください。お洋服は洗濯機へ。すぐに着替えをご用意いたします」
「たっぷり迷惑をかけるとは言ったけれど、これ以上あなたたちの家を汚すのもどうかと思って……
 本当は車内でもう少し乾いている予定だった。雨の強さと愛車の暖気の力を読み誤ったアキラの失態だ。ライカンは玄関で機械脚をさっと清拭しているが、アキラは違う。濡れた背中をつうっと雨水が伝い落ちていく。
「あなた様がお風邪を召されてしまいます」
 普段の何分の一にもしぼんだ尻尾の先から雫を垂らし、ライカンはあっさりと自室へ踏みこんだ。美しい絨毯が雨水を吸うのに構わず、大股で部屋の奥へ向かい、そして大きなバスタオルを広げながら戻ってくる。
「失礼」
 アキラの視界を真っ白なタオルが埋めつくした。
 がっしりした腕に肩を支えられ、同時に膝裏を掬い上げられる。あまりにやすやすと横抱きにされたものだから驚く隙もなく、アキラはバスタオルに包まれてただ瞬く。たまに額や頬を、しっとり濡れたライカンの被毛が控えめにくすぐった。
 何度か上下に揺れてから丁寧に降ろされたのはバスルームで、洗濯機はアキラがそのまま入ってもぴかぴかに洗いあげてくれそうなほど大きい。
 湿って貼りつくスウェットシャツを引っ張りながら、だからアキラはごゆっくりと言って下がろうとするライカンを呼び止めたのだ。
「ライカンさんも今ここで着替えてしまったらどうだろう? 洗濯が一回で済むんじゃないかな、世話になっている僕から言うのもなんだけれど」
 どこまでもアキラは庶民であるため、見るからに美しく質のよいもので揃えられた空間に足を踏み入れるのは緊張するし、一度でまとめられる家事があるなら詰めこんでしまいたい。我ながらいい提案だと思ったのだが、ライカンは無言で耳を伏せた。あまり肯定的な雰囲気を感じない沈黙だ。
 アキラはバスタオルの幽霊のまま、傾げた顎の下に軽くこぶしを当てた。
……恥ずかしいなら後ろを向いているけれど」
「お気遣い痛み入ります。あなた様の善意は大変ありがたいのですが、客人の前で裸にはなりかねます。また少々障りもございますので」
「障り」
 瞬くアキラの前で、ライカンは喉元のベルトに親指を差しこみ、ぱちんと弾いてみせた。少ししぶきが飛ぶ。
「ご覧の通りベルトも水を吸っておりますため、脱装に時間がかかるのです。通常であれば片手で事足りるところですが……
「なんだ、そんなことか。それなら僕がやるよ」
 ライカンがぴたりと口を噤んだ。
 了解したという意味だろうかと思い、アキラは彼の喉元へ腕を伸ばしたが、すぐにしっとりと湿った大きな手にそれを阻まれてしまう。アキラが一瞬ぎょっとするほど熱い手だった。
 アキラはちょっと瞬きをして、その大きな手を見る。
 顔を上げる。眉間に皺を寄せるライカンの無言の叱責を無視して目で笑いかけた。
「僕はあなたの客人でいる気はないよ。それとも行儀のいいお客様でいたほうがいいのかい? あなたは濡れたそのベルトを外してすっきりしたくはない?」
 ライカンの眉間がますます険しくなり、鼻筋にまでうっすら皺が寄りだした。彼の立派な自制と寛容さをからかいすぎたかもしれない、とアキラもいささかばかり反省して、ぐっしょり濡れた体でライカンの胸にもたれかかった。たっぷり水を吸った重たいカシミヤに頬を擦りつけながら上を向く。
「すまない、今は僕がふざけすぎた。だけど少しくらい僕に図々しくなってほしいんだ、ライカンさん。僕だってベルトを外すくらいならきっとあなたを煩わせずにできるし、シャワーの手伝いだって……
 アキラの台詞を遮ったのはライカンの大きな溜め息だったが、物理的に黙らせたのは彼の太い二本の腕だ。ぎゅうぎゅうと、アキラから水分を絞り出すように抱きしめるので、実際バスルームの床に水溜まりが広がったようだ。アキラが足を動かすたびにちゃぱちゃぱ水音がする。
……いい歳をして何をとお思いになるかもしれませんが」
「あなたが何を言おうとしているかわからないけれど、思わないよ」
「ありがとうございます。……あなたのことを大切にしたいと、心からそう思っています。アキラさん」
「うん」
 アキラは口元をむずむずさせながらライカンの腰を軽く叩いた。抱き竦める腕が固すぎて、アキラから彼の広い背中に手を回すことができないのだ。
「あまりからかわないでほしいのです。あなたが思ってくれているほど、私は自分を御せません」
「そうかな」
「そうです。……それと」
 濡れた側頭部に頬擦りされる。乱れた髪の隙間からべろりと耳を舐められて、さらに直接囁きかけられるのは、映画館の意趣返しのようで楽しかった。
「私のベルトはあなたが外してください。脚を外すときも、手伝ってくれますか」
 返事をする前にアキラがくうんと鳴いたのは、ライカンの腕の拘束がきついせいだ。笑われるなんて心外だ。
……やり直させてほしい。僕はもっとうまく鳴ける」
「ええ」
 アキラに絡まるバスタオルを剥がしながら、ライカンは少し意地悪く目を細めた。
「どうぞご存分に、お好きなだけ」