「この前ライカンさんの髪を直させてもらったんだけど、凄く手触りがよくて夢中になってしまったよ。あの人はそういうところまで完璧なんだね」
「えっ?」
「どうしたんだい? カリン」
「いいいいいえ、あの……その、アキラ様はライカンさんの頭に触ったことがおありなのですか?」
「うん。さすがに屈んでもらわないと手が届かなかった」
「わあ……凄いです、アキラ様! だってライカンさんは……」
「アキラ様、何か私に至らぬ所がございましたでしょうか。それとも体調が優れずにおいでですか」
少し声量を抑えた問いかけに、アキラは慌てて瞬きした。明るい昼の日射しを遮るライカンの影が、アキラと、そしてルミナスクエアの遊歩道に落ちている。
自らの体で直射日光を遮ってくれているオオカミ執事をどうしても直視できず、せっかく気遣ってくれているというのにアキラはあさっての方角へ目をやってしまった。
「……そんなことはないよ。心配してくれてありがとう、ライカンさん」
「……しかし、本日のあなた様はいささか精彩にかけるご様子です。散歩は取りやめて、屋内で休憩とするのはいかがでしょうか?」
「それはちょっと! ……その、本当に大丈夫なんだ」
「……かしこまりました。ですがアキラ様、決してご無理はなさいませんようお願いいたします」
うん、と頷きながらアキラは数日前の自分を痛罵している。
なぜよりによってライカンと外出の予定を立てた日がカリンと世間話をした翌日なのだ。もちろんスケジュールの擦り合わせでこうなったのは理解しているが、それでも勝手に気まずい。こんな状態でカフェになど向かってしまえば大変な失態を犯す可能性があった。
今日のアキラはどうしてもライカンと目を合わせることができず、すると表情もわからないので会話が弾みをもたないまま途切れ途切れになる。ライカンが心配するのも当然だった。
昨日カリンがにこにこしながら放った言葉が今も頭に響いている。認識するたび顔がかっかと熱をもつようで、遊歩道を吹くそよ風がとても気持ちよかった。
静かに深呼吸して改めて気持ちを落ちつかせようとする。このあたりは排ガスやファストフードの油臭さが遠く、微かに水の匂いがした。静寂を保ったままアキラの隣を歩く人がこの場所を好む理由のひとつは、新エリー都では珍しい清澄な風にあるのかもしれない。
「……ライカンさん」
そっと呼びかけるとすぐに返事があった。
「心配してくれてありがとう。少し……考えごとをしていて。あなたといるのに失礼な態度をとってしまった」
「お気になさらずに。……それはお仕事に関するお悩みなのでしょうか?」
「……ど、どうだろう……仕事のような、プライベートのような」
「もし差し障りがなければお聞かせください。人に話してみるだけで、以外な解決法が浮かび上がることもございます」
そう提案してもらっても、あなたのことで悩んでいるのだけど、などと言えるはずがない。
アキラはちょっと頬を掻き、ちょっと目を逸らした。
「うん……実は、最近懇意にしている取引先の人から相談されたことがあってね」
ということにして、アキラはすばやく続きを口にした。
「イヌ科のシリオンと親しくなりたいのだけど、自分から積極的に距離を詰めるのは失礼だろうかって。そういう話を聞いているうちに、もしかしたら僕も気づかないうちにライカンさんに嫌なことをしてやしないかと気になって……」
「なるほど」
咄嗟にでっちあげた話だったが、後半は本音でもある。もしかして先日の彼は無理をしてアキラの好きにさせてくれたのでは、と思うといたたまれないのだ。
顎に手を添え頷くライカンは前を向いたままだ。アキラが目を合わせたがらないことに気づいてしまったようだった。自業自得なのに、それを見上げながら受ける風が冷たい。
「イヌ科……といっても多岐に渡りますし、個人差もございます。確実にこう、というお答えはいたしかねますが、ネコ科などと比べれば人好きな者が多いです。その方のお悩みはおそらく杞憂になるでしょう」
「そうか。よかった」
「そして、もうひとつのお悩みですが……」
ライカンがアキラを振り返ると同時に風が吹いた。
自慢の毛並みが乱れて目元が隠れてしまったライカンの姿は、アキラには見覚えのあるものだ。過日、自分にやらせてほしいとねだってライカンの頭に触れたのだ。彼はわざわざ膝を折ってくれたのに、アキラはそれでも爪先立たなければ手が届かなかった。
「これは失礼、お見苦しいところを」
「……そんなことはないさ」
なんとかそれだけを口にする。直させてほしい、とは言えなかった。
ところがライカンは当たり前のように膝を曲げて長身をかがめた。今度は以前よりももっと低く、アキラの鼻先に彼の懐中時計の金鎖が掠めるほど近い。
「申し訳ありません。お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか? アキラ様」
「……いいのかい?」
「もちろんでございます」
おそるおそる手を伸ばす。つややかで、指で梳けば素直にその方向へ流れる毛並みは本当に触り心地がいい。普段からライカンがどれだけ気を遣っているのかがこれだけの接触でもよくわかる。
目元に垂れた毛束をそうっと横へ流した瞬間、現れた隻眼とまっすぐ視線が重なった。ライカンは瞬きもせずにアキラを見据える。
「あなた様がなさることを、私が拒むことはありえません」
それがアキラのふたつめの「相談」に対する答えだと理解するのに時間がかかった。視線を合わせたまま数度瞬き、正気に還って目を逸らす。
「……尻尾の毛が欲しいと言ったら嫌がられたことがあったけど」
「あれは……オオカミのシリオンにとっては本当に重大な事件なのです、アキラ様」
その声があまりにも苦渋に満ちたものだったので少し笑ってしまった。
「それなのにカリンのために折れてくれたんだ。ありがとう」
「カリンのためでもあります。ですが、あなた様の願いだからこそでもあるのですよ」
身だしなみが整ってもライカンは膝を曲げたままでいる。彼はアキラを見つめて上品に微笑んだが、なぜかそこに捕食者の不穏さも潜んでいる気がする。
「どうかお忘れなきよう、アキラ様。あなた様が私めに触れるとき、躊躇する必要などございません。どうぞご自由にお過ごしください」
「わあ……凄いです、アキラ様! だってライカンさんは人に触られるのがあんまり好きじゃないんです。カリンたちだってあまりブラシがけを手伝わせてもらえなくって……だけどアキラ様とライカンさんが仲良しで、カリンとってもとっても嬉しいです!」
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