やまだ
2025-12-29 14:25:36
3052文字
Public ゼンゼロ
 

No title

ライアキ

 六分街の地下鉄駅から自宅へ向かう途中、路地裏から伸びてきた手によって一瞬でアキラは薄暗がりに引きこまれた。悲鳴も出ない手際の良さだ。
……な、なっ」
 よろけて壁にぶつかった体の横に、ずどんと勢いよく鮫の尻尾が突き立てられる。瞬時に背筋が伸びた。彼女がホロウで振り回す物騒な大鋏はもちろんだが、それを可能にする膂力が今はおそろしい。
……あんた」
 棒つきキャンディーを頬張った制服姿の少女は、固まるアキラを下からじろりと睨め上げつつ顎をしゃくった。
「ちょっとあたしにその面、貸しなさいよ」
 
 
「この度は……誠に申し訳ございません。うちの従業員が大変なご迷惑をおかけいたしました」
「いや、うん。かなりびっくりはしたけど全然構わないよ」
 六分街でアキラを拘束したエレンの要求は、車を出してヴィクトリア家政のホームエリアまで彼女を送り届けろというものだった。
 迎えに来るはずだったライカンに急用が入ったが、エレンもスマートフォンに小遣いをほとんどチャージしていなくて途方に暮れていたらしい。
 そこへアキラがのこのこ現れたわけだ。
 もう少し穏便に声をかけて欲しかったとは思うが、彼女もそれだけ追い詰められていたのだろう。車から降りるときには眠たげにしながらもちゃんと礼を言ってくれた。
「あなたたちにはいつも助けてもらっているしね。これくらいは手伝うよ……それで、その」
 エレンはカリンと手を繋いで——もしくは彼女に手を引かれて、着替えに向かった。無事に依頼を終えたことだし、と六分街へ戻ろうとしたアキラを引き留めたのはリナだ。せめて夕食を一緒にと誘ってくれるのを心をこめて懸命に断っているところへ、ライカンから着信があったのだった。
 てっきり仕事で外にいるものだと思った彼は、自室に篭っているらしい。はて、と首をひねり、ライカンの指示を受けたリナの案内で立派な屋敷を歩き、彼の部屋の扉を開けた。
 ごゆっくり、と微笑んだリナは、室内を覗いて瞠目するアキラを置き去りに、しずしずと廊下を歩いて行ってしまった。
「その……ライカンさん、それは大丈夫なのかい?」
 豪華な椅子に深く腰掛けたライカンの、左膝から下が消え失せている。
 正確には、機械化された義足がごっそり取り外されて彼の腿に乗っている。
 重々しい鋼鉄の脛当てが片方あるべき場所にないだけで、随分こころもとない眺めだった。余ったスラックスの裾が美しい絨毯の上をゆらめいている。
「お目汚しを晒して申し訳ありません。先ほど応急処置が済んだところです。どうやら過日、ホロウ探索で負荷をかけすぎてしまっていたらしく」
「エレンが心配していたよ。ライカンさんが約束を守らないのは珍しいって」
「運転自体はできなくもないのですが、高低差のある移動がままならず……彼女にも悪いことをしました」
「こればかりはしょうがないさ」
 目線で勧めてくれた椅子をライカンの近くに寄せて腰を下ろした。日頃ホロウで容赦なくエーテリアスを叩きのめし、日常生活ではライカンの優雅な立ち居振る舞いを支えている義足は、今はただの鉄塊でしかない。
「このような格好で失礼」
「ああ、ありがとう。だけどどうぞおかまいなく」
 温かい紅茶の満ちたティーカップに口をつけながらも、目線がどうしてもライカンの太腿に落ちてしまう。アキラもかつてはわんぱくな男の子であったため、やはりこういった武器への興味はまだ胸にくすぶっている。
 おそらくライカンにもその気持ちが伝わってしまったのだろう。彼はそわそわするアキラに困ったような顔で釘を刺した。
……アキラ様、ご無礼をどうかお許しください。私の脚はアキラ様には少々……負担が大きいかと愚見しました。怪我をなさってはいけませんから、お手は触れませんよう」
「怪我って……今は動いていないんだろう?」
「左様でございます。ですが重量がかなり」
 と言いながら、ライカン本人は片手でかるがると持っているから信憑性がない。体と椅子の隙間に義足を押しこむ様子は、子どもから刃物を取りあげる大人そのものだった。
……そこまで子ども扱いしなくてもいいじゃないか、ライカンさん」
「そのようなつもりでは……本当に重いのです。万が一あなた様の体に落ちてはなりません」
「どのくらいあるんだい?」
……そうですね」
 ふむ、とライカンが目を細めてアキラを眺める。礼儀を保った丁寧な視線を上から下まで走らせてから、彼はひとつ頷いた。
「私の両脚とあなた様とで、おそらく重量的に同等になるのではないでしょうか」
「さすがにそれは……
 生真面目顔のライカンを笑い飛ばそうとしたアキラは、ちなみにこれは片脚でこのくらいの重量が、という説明を聞いてそっと口を噤んだ。反論の根拠を失ったためだ。思わず目を逸らす。
……ご理解いただけて何よりでございます」
 妹からもたまに体の薄さをからかわれている。今後はもう少し体づくりを意識するべきだろうか、と腕などさすってみるアキラだ。
「まさかライカンさんの脚に、いつも僕が絡まってるくらいの負荷があったとは思わなかったな。……機械のほうは諦めるから、ライカンさんの脚に触ってみてもいいかな?」
 ライカンはちょっと瞬いてから、どうぞ、と口元で微笑んだ。
「触って愉快になるものでもありませんが」
「いや、実は前から興味があって……おお、硬い」
 ぐ、ぐ、と両手に力を込めてもちっとも沈まない。これだけの筋肉が彼の優雅な所作を支え、維持しているのだと思うと、敬意すら湧いてくる。
 興味深く撫でたり叩いたりを繰り返すアキラのつむじを、苦笑の吐息が湿らせた。
「おかけになりますか?」
「うん?」
 ライカンはなんともいえない顔でアキラを眺めていた。よちよち歩きの仔猫を見守るような目のまま、ひるがえした手のひらでアキラへ自分の腿を示してみせる。
「それほど興味をもっていただけるのでしたら、ぜひご体感ください。あなた様おひとり程度でしたら、この片脚で持ち上げてご覧に入れます」
……本当に? できるのかい?」
「はい」
 涼しい顔で頷くライカンを見て、好奇心が羞恥に勝った。アキラがいそいそと脚に跨るなり、ライカンは溜めもなく、かるがると、膝下のない脚をアキラごと椅子から浮かせてしまった。
 わあ、とはしゃぐアキラの眼下にライカンの顔がある。普段とは反対の位置が新鮮で、そして少しこそばゆい。
「凄いなライカンさん!」
「ありがとうございます。……それにしても」
 ライカンは肘置きを使って頬杖をついている。顔いっぱいに浮かんだ苦笑は、普段の洗練された彼よりもどことなくくつろいで見えた。
「私も、まさかこれほどたやすく持ち上がるとは思いませんでした。……アキラ様、今日はぜひ私どもの夕餐に同席していただかなければなりません」
「それはありがた……ちなみに食事を作るのは」
「もちろん私でございます。ご安心くださいませ」
 ゆらゆらとライカンの脚に跨ったまま、真摯な安堵の息をついたアキラである。
 それを見上げるライカンの苦笑がさらに柔らかくなったことには気づかない。
「こうして手を出しすぎるのは良くないことだと理解してはいるのですが……本当にあなた様は多くの顔をお持ちだ。目を離すのが惜しくなります」
 小さな囁きも、彼より高い位置にいるアキラの耳にはもちろん届かなかったのだ。