ホロウとは財宝の山であり、死毒の河でもある。ほんの一歩を誤っただけでこの山河はたちまち荒れ狂い、のみならずどこからか怪物の群れまで呼び寄せるのだ。
そんな場所に生業をもつエージェントに必要なのは、常に変動する場をリアルタイムで更新できる地図と、それに対応できる冷静で優秀な案内人だ。
当然値が張る。だがそれはいい。ライカンはヴィクトリア家政に所属するしがない執事であるが、サービスと報酬はイーブンでなければならないことを理解している。
ホロウの探索は文字通り命懸けなのだ。そこを安く見積もるような人間は信用に欠けるし、こちらからの要求の水準も低くせざるをえなくなる。サービスと報酬はイーブンであるべきだからだ。
だからライカンは、案内人がたとえ調査協会非公認のプロキシであったとしても、その能力に見合った支払いを惜しまない。
「あなたたちと仕事をした日の夜は、ちょっと贅沢ができて助かるよ」
バレエツインズの広場を海へ向かって歩いている。すぐ横にほくほく顔で並び、にんまり目を細める青年は、今のところライカンが知るうちでもっとも優れたホロウ案内人のひとりだ。ちなみにもうひとりは彼の妹君である。
「さようでございますか。プロキシ様がたご兄妹の団欒にささやかながらご協力させていただけますこと、私どもも実に光栄にございます」
「うん。最近あんまり贅沢ができなくてね。妹にたまにはご馳走してあげたいんだ」
痩身で、ライカンより頭ひとつぶん視線が低い。おそらく生身でホロウに落ちればただでは済まないだろう彼の先導には常に万金の価値があった。可能であったならヴィクトリア家政と専属契約を結んでほしいと思ったほどだ。
敬意はおのずとライカンを慇懃にさせる。
だが、彼が妹を思ってはにかむ横顔の幼さが、ライカンをして気安くもさせるのだ。
「……プライバシーに関わる、非常に不躾な質問をどうかお許しください、プロキシ様。あなた様がたはおふたりで力を合わせ、立派にビデオ店を経営しておいでです。加えて今回私めがそうしたように、プロキシとして依頼もこなしておられる」
「まあね。おかげさまでどっちの仕事もそこそこうまくいってる」
であれば、とライカンはすばやく瞬いた。
「散財とまではいかずとも、倹約なさる必要がおありだとはとても思えないのです」
青年は困ったように微笑んだ。ライカンのあまりに礼を失した好奇心を不愉快に思ったふうではない、気取らずくつろいだ表情だった。
「ここしばらく電気代が僕たち兄妹の生活費を逼迫していてね……だけど事情があって、どうしてもここを切り詰めるわけにはいかないんだ」
「電気代……とおっしゃると、プロキシ業務方面の問題なのでしょうか」
「ああ……うん、まあ、そんな感じかな」
青年は……アキラは、涼しげな目元にうっすら苦笑を乗せてそっと目を逸らした。その横顔へなおライカンが向ける視線を黙殺し、陽射しできらきら輝く海面に気を取られるふりをする。
仮にも背後に控えて立ち回る業種であるライカンよりも、アキラのほうがよほどひっそり他人とのあいだに距離をとる。プロキシだからなのか、もともとそういった性格の人物なのかをライカンでは察することができない。電気代の高騰と同じ気軽さで踏みこんでよいものかがわからない。
なぜそのことをライカンがもどかしく感じているのかもわからない。厚顔にも、懐に秘匿するものがあるのはライカンも同じだというのに。
「そんなにじっと見られると緊張するな。別に生活に困ってるってほどじゃないよ」
「そうでしょうとも」
海を見ていたはずのアキラの視線が瞬きのうちにライカンへ向けられていた。塩からいしぶきとともに舞い上がった光が、遊ぶような瞳にきらめく。
努めてゆっくりと、内心のうしろめたさなどすっかり包み隠して、ライカンは彼へ真摯に微笑んだ。
「大変失礼いたしました。決してあなた様の金銭的事情を邪推したいわけではないのです」
「構わないよ。あなたと仕事ができて助かってるのは本当なんだし」
風が少し強くなったようだった。柵にもたれかかるアキラの鼻先に砕けた海水が光を含んでぱらぱらと散る。
立派に独立した若者に対してあまりに無礼だったかもしれない。だが高く上がった水しぶきにぎょっと目をまるくするアキラの様子がいやに幼く見え、ついライカンの手が動いてしまった。
「申し訳ありません。プロキシ様、少々失礼を」
アキラの額を手で覆い、くっと軽く引き寄せる。ライカンの片手で掴めてしまう頭は小さく、引き寄せる体は冗談のように薄っぺらく、ほとんど抵抗がなかった。
綿人形を抱きこむような頼りなさ軽さはライカンをひそかに、しかしふかぶかと驚愕させた。
こんな青年が、あの財宝と死毒に満ちた山河を完璧にナビゲートしてみせる不思議さを思う。彼ら兄妹との邂逅は、ライカンおよびヴィクトリア家政にとって間違いなく奇貨であった。
手放してはならない。手のひらからこぼれ落とすことなど、その可能性すらあってはならない。手に入れたのなら大切に握りつづけているべきだ。片時も離すことなく。
「ライカンさん! ライカンさん、ちょっと頭が痛いんだけど……!」
「……これは大変失礼いたしました。プロキシ様に対してこのようなご無礼を……お怪我はございませんか?」
「大丈夫、そこまでじゃないから……だけどライカンさん、急にどうしたんだい? 何か危険なことがあったかな?」
手の骨が当たってしまったのかもしれない。アキラは眉間から鼻筋にかけてを何度もさすっている。
「いえ」
それが申し訳なく、ライカンも揃えた指の背でまろやかなカーブを描くアキラの鼻筋に触れた。
何をためらうこともなく、自然に手がそう動いた。ライカンが、ライカンとして、そうしてやりたかったのだ。
「あなた様が波に連れ去られてしまうと思ったものですから、つい力が入ってしまいました。申し訳ございません」
するりと撫で下ろした手を離すと、その陰から目どころか口までまるくしたアキラが現れる。
普段の大人びた顔つきがすっかり消えてあどけないようなその人へ、ライカンは心からの謝罪とともに頭を下げた。
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