定時は過ぎてしまったけれどなんとか年内の仕事を終わらせ、俺は浮かれた気持ちで帰路に着いた。無事に仕事納めが出来たこともめでたいけれど、それ以上に俺の気分を上げてくれるものがあるから足取りは軽い。コンビニでお酒とデザートを買い、家へと足早に進んだ。
「ただいま!」
一人暮らしの部屋なのに玄関の扉を開けてそう言えば、明るい部屋の中から物音が聞こえ、足音が近づいて来た。リビングへ続く扉が開きひょこっと顔を覗かせたのは一つ年下の恋人、綾部喜八郎だった。綾部は昨日ひと足先に仕事納めをして、今日から年明けまで俺の家に泊まりに来ていたのだ。
「おかえりなさい。思ったより早かったですね」
「綾部が待ってるからめちゃくちゃ頑張った」
「それはそれは。お疲れ様です」
「……」
「先輩?」
「沁みる……」
「……ずいぶんお疲れのようで」
「そうだけどそうじゃなくて。……仕事、嫌いじゃないけどやっぱり多少は疲れるからさ、疲れて帰って来て、好きな子がいるのってすごくいいなって」
はぁと幸せのため息を吐けば綾部はちょっと固まった後、じっと俺を見つめた。照れてるのかと思ったけれどそれにしては表情が硬い。
「綾部? ごめん、こういうふうに言われるの嫌だった?」
「……いえ。他意はないようなので、気にしないでください」
「?」
「いいから、早く中に入ったらどうですか。いつまでも玄関にいたら寒いでしょう」
「あ、うん、そうだこれお土産。夜ごはんはもう何か食べた?」
「やった、ケーキだ」
コンビニの袋を受け取った綾部は中を覗いて笑みを浮かべた。可愛い横顔が手を伸ばせば届くところにある。でも俺はまだ上着を脱いですらいないで外の冷たい空気を纏ったままだし、最近は感染症も流行っているから、まずは手を洗って、アルコール消毒をして、それから。
「夜ごはん、先輩はたぶん一緒に食べたいかなって思ったので、待ってましたよ」
ふふんと得意げな顔をする綾部に、ポカンと殴られたように考えていたことが飛んでいった。
目の前に、可愛い恋人がいる。無意識に手を伸ばした俺は、指先についた黒いマジックの跡を見てハッとした。いやいや、まずは手洗い。せっかく年明けまで一緒にいられるのに、風邪なんて引いたらもったいない。
「綾部」
「はい」
「手を洗ってくるので、その後で抱きしめてもいいですか」
「……なんで敬語? 別に手を洗ってこなくても、僕も後で手を洗ってうがいをすれば大丈夫でしょう。ん」
綾部が持っているコンビニの袋がガサッと揺れて、目の前で腕が大きく広げられる。きっとどれだけ意思の強い人間でも、この誘惑には敵わない。
飛び込むようにぎゅうっと綾部を抱きしめると、綾部は俺の耳元で「先輩、今日は素直で可愛いですね?」と言ってふふっと笑い声を上げた。
「……俺はいつでも素直だよ」
説得力のない小さな声に綾部がまた楽しそうに笑う。こんな寒い玄関じゃなくて早く暖かい部屋の中へ入ればいいと頭では分かっているのに、俺の腕は少しも緩むことがなく、いつもなら適当なところでさりげなく手を離す綾部も今日は俺のことを抱きしめたまま、「甘えたですねぇ」とあやすように言って俺の頭を撫でたりしてくれていた。
一年間仕事を頑張ったご褒美だろうか。胸がいっぱいになってちょっと泣きそうな気がしたから、慌てて体を離して綾部から顔を逸らす。「先輩?」と言う綾部にうめき声のような曖昧な言葉を返し、ようやく靴を脱いで部屋に上がった。
「……照れてます?」
「いや、ちょっと、照れてるのとも違くて」
「ふーん? ちゅーはしなくていいの?」
「する。あ、いや、するけど、さすがに手洗いを先に」
「真面目だなぁ。まあいいですけど。僕も手洗お」
リビングにコンビニの袋を置いてから洗面所に戻って来た綾部は、鏡越しに俺と目が合うと嬉しそうに口角を上げた。ニヤッという効果音が聞こえて来そうな笑みにぎくりとする。
「先輩、もしかしてちょっと泣きそうですか?」
「うっ……なんで気付くんだよ……!?」
「そういう顔をしていたので。なるほどなるほど。ふふ、先輩って、僕のことだぁいすきですね?」
「……ああ、もう、本当に、……大好きだよ」
「ふ」
ふふふと溢れる笑い声の幸せそうな音に、釣られて俺も笑みを浮かべた。恥ずかしくないと言ったら嘘になるけど、綾部が笑ってくれるなら多少の恥ずかしさは飲み込もう。
綾部は隣に無理やり割り込んできて手を洗って、俺が手を洗うのを見届けてから「先輩」とからかう声で言った。次は何を言われるのだろうと、諦めと少しのワクワク感を持って「はい」と拗ねた声を返せば、綾部は俺の肩に手を置いて背伸びをし、ちゅっと頬にキスを落とした。
鏡を見ていた俺は目を丸く見開いた自分と、それから隣で楽しそうに笑う綾部を見て、すぐに体を半転させて綾部を抱きしめた。この子はどうしてこんなに、俺のツボをつくことばかり……。
「……綾部、今の部屋の更新はいつ?」
「え?」
「俺と一緒に住んでくれない?」
「……急ですね?」
「ごめん、でも、考えてほしい」
本当は付き合い始めた頃からずっと考えていたけれど、綾部は自分のペースを大切にする人だし、いくら学生時代からの顔見知りだからって付き合ってすぐ同棲の提案をするのは重いだろうと、これでもずいぶん我慢したんだ。
だけど、仕事から帰って来たらこんなに可愛い綾部がいて、綾部もいつもよりリラックスしていて楽しそうで、これ以上どうして我慢する必要があるのかと思ってしまったから。
「先輩」
「うん」
「……僕、仕事が忙しいとあんまり家のこと出来なくて、掃除もろくにしなかったりしますよ」
「綾部が嫌じゃなければ俺が片付けるよ。俺もわりと家の中だと適当だけど、綾部に迷惑かけないように努力する」
「先輩は適当でもそれなりにできちゃう人だからなぁ。僕ばっかり先輩に失望されちゃう気がする」
「失望なんかしないよ。そのままの綾部が好きだから、無理はしてほしくない。俺は帰るのが遅いことが多いし、休みの日は一日中寝て終わったりするんだけど、嫌じゃない?」
「それはもう知ってますから。先輩に無理させずに会える保証があるのは、僕も嬉しい」
「……それって、つまり?」
抱きしめていた腕を緩め、綾部の顔を覗き込む。まぁるい瞳はいつも以上にきらきらと輝いて見えて、その中に自分が映っていることが幸福だと思った。
「今度は僕がただいまって言うから、先輩もおかえりって言ってくださいね」
「……絶対言う。おかえりも、いってらっしゃいも、おはようもおやすみも、全部、毎日言う」
「うん、僕も先輩にたくさん言いたいです」
ぎゅうっと俺の首に抱き着いた綾部の心臓の音はいつもよりうんと早い。キツく抱き返した俺の心臓の音も綾部に伝わるかな。同じくらいドキドキしている俺たちは、きっと同じくらい幸せを抱えているだろう。
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