来羅
2025-12-27 23:04:46
2384文字
Public トワウォ
 

ハグ(風信)

ワンドロライ第24回。




…………祖哥哥、いってらっしゃい」
 涙をいっぱい溜めた大きな瞳が龍捲風を見上げた瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。それを皮切りに次々とほろほろ流れる涙を拭うこともなく、信一が阿森の脚に縋りつく。大声を上げて泣くことはしない。それが龍捲風を困らせることを、幼いながらに信一はわかっている。泣くのを必死に我慢してひっくひっくとしゃっくりを上げる信一は、実に微笑ましく可愛らしかった。と言ったら怒られるだろうか。
 龍捲風は苦笑しながら膝を折り、阿森もやれやれと肩を竦めている。
 いったい自分の何がこの子供の気を引いたのかまったくもってわからないのだが、阿森の元を訪れ、帰るたび、泣いて別れを惜しむ信一にじわりと広がるこの胸の温かさを、どう言葉にしていいのかもまた龍捲風はわからない。
「信仔」
「祖哥哥……
「またすぐ会えるから、そう泣くな」
「ほんとう?」
「ああ」
「いつ?」
「信仔が良い子にしてたらすぐにでも」
「じゃあ、あした?」
「明日、は早すぎるな」
 大人たちの苦笑に、信一だけがまたほろほろと涙をこぼしてイヤイヤと首を振った。
 だから、そっと、その小さな体を抱き寄せたのは龍捲風だった。
 壊してしまわないよう慎重に、けれどもしっかりとその背を抱きしめる。
「信仔、約束だ。また絶対に来る」
「やくそく」
「ああ、約束だ」
 うん、と頷いて抱きついてくる信一の背を、何度も何度も撫でた。
 思えば、それが、信一との初めてのハグだったかもしれない。





「いってらっしゃい!」
 パタパタと駆けてきた養い子が両手を広げた。
 いつの間にか出かけるときはハグするということが習慣化された信一は、龍捲風がどこに出かけようとも飛んでくる。
 まるで外国かぶれだなと自分に呆れる龍捲風も、早く早くとキラキラした瞳で見上げる信一を見てしまえば、今さら否とは言い出せない。
「帰りは? 早い?」
「ああ。秋にこれを渡すだけだからな」
 手にした鞄を軽く上げれば、にたぁと笑う顔が祖哥哥と猫撫で声で近づいた。
「ね、もしかしたら、まだお店開いてるかな?」
 最近、知恵をつけた子供はそんな持って回った言い方をする。その意味はもちろん、土産の催促だ。
 呆れたように片眉を上げれば、信一は龍捲風の腕の中でへらりと笑う。
「まったく、うちの我が侭王子は何をご所望なんだ?」
「エッグタルト!」
 きゃらきゃらと笑う信一が「祖哥哥、大好き!」と叫ぶのを、やはり呆れた顔で龍捲風も笑う。
 そのくらいの我が侭は何でも聞いてあげたくなるのは、我ながら甘やかしすぎだろうか。
「良い子で待っていられたらな」
「もちろん!」
 大人しくはしていられないだろう信一をもう一度だけぎゅっと抱きしめて、あとは部下に任せて立ち上がる。いってらっしゃーいと手を振る満面の笑みに、龍捲風はいつだって弱い。





「んー……いってらっしゃい」
 唸り声と共に掠れた声が背中にかけられた。
 顔だけ布団から出した信一がまだ眠気眼でぱちぱちと目を瞬いている。
「大丈夫か?」
……うん、へーき」
「無理をさせすぎたな」
 久しぶりだったこともあって、大人げなくがっつきすぎた。寝たのは明け方ともあって、信一ばかりでなく龍捲風もまたこのまま布団に吸い込まれてしまいたい衝動と戦っている。
 ぼんやりとした瞳がふふ、と笑った。
 なんだと問えば、何も纏っていない肩が曝されて腕が伸びてくる。
「寝ぐせ」
 昨晩くしゃくしゃに搔き乱されたまま寝たからだろう。
 自分では見えないそこを手探りすると、そこじゃなくて、と信一の温かな手が髪を撫でる。
「格好良くない大佬は俺以外に見せちゃダメ」
 瞳を蕩けさせて、信一が得意げにぺろりと舌なめずりした。
 行きたくない、と思ってしまうのは、だからどうしようもない。
 けれどもしかめっ面の龍捲風に、信一は実に楽しげだ。
「このままここで待ってるから、早く帰ってきて、ダーリン」
…………信一」
「冗談だって、っうわ、」
 夜を彷彿とさせる色めいた眼差しは、もちろんわざとだろう。まんまと乗せられそうになっているのは、少し悔しい。
 悔しまぎれに布団の上からぎゅうぎゅうに抱きしめてやれば、ギブギブと笑い声が上がった。





「大佬」
 ドアの向こうから部下の呼ぶ声がして、信一は顔を上げた。思わず辺りを見回してしまい、ああ、自分のことかと眉を顰める。
 まだ、その呼び名には慣れない。
「どうした?」
「また問題が。仲裁が必要なんで来てもらえますか?」
「了解。先行っててくれ」
「わかりました」
 王九の襲撃と城砦の取り壊しによって、ここ数か月でも随分と住人は減った。それでも昔と変わらずトラブルは持ち込まれる。それを解決するのも城砦福祉管理委員会の仕事だ。主幹の仕事だ。
「大佬、だってさ」
 片付けていた手を休めて苦く笑う。
 こんな形で手に入れたいものではなかった。あの人の隣であの人のために生きたかっただけなのに。
「でも、わかってるよ」
 受け継がれた魂はこの胸の中にある。
 あの人のすべては今、藍信一という形をしてここにあるのだ。
…………祖哥哥」
 畳んだばかりの龍捲風のシャツを広げた。かなり昔に信一があげたものだ。愛用してくれていたのをくすぐったく思っていた。まだ使えるから、なんて言い訳で捨てられずにいるそれを抱きしめる。
 煙草の匂いはもうしない。
 温かさもない。
 それでも。
 出かけるときのハグは別れを厭う信一を宥める魔法で、早く帰ってきてほしいとねだる我が儘で、無事を祈る願いだ。またすぐに会えるという約束だ。
 だから。
「いってきます」
 頬を撫でる風はいつだってそばにある。