2 その顔を知っている
「このあたりの問題は苦手そうだから重点的にやろう。ほら、次のページを開いて」
教科書にマークをつけてやって、ページの上でトントンと指を弾いた。しかし、目の前にいる男の手はペンを握ったまま全く動く気配がない。
「おい、聞いているか
……っん」
不審に思った邱子軒が顔をあげると、もうすぐそこに夏宇豪の顔が迫っていた。瞠目した瞳が近づいたやさしい微笑みをとらえて、それから。
「
…………宇豪、おまえはどうしていつも」
柔らかな感触を残して去っていく唇を目線で追いかけて、無意識のうちに喉仏がくだる。はにかみを口角に残しててやけに爽やかな顔をした宇豪が、嬉しそうな顔で自分を見つめるから文句がそれ以上喉から出ることはなかった。しかし子軒の顰められたまま動かない眉に、宇豪はすぐさま気づいて不安げに眉尻を垂れた。宇豪は子軒の感情にやけに敏感である。
「え、嫌だった?」
「いや、
……」
どうしていつもいきなりなんだ、と。
宇豪のスイッチはあまりわからない。変哲のない会話をしている時でも、こちらに何の作為がなくても、いつの間にか宇豪は目を垂れて自分を見つめていることが多々あった。今日も、話を聞いているのかわからないような、やけに機嫌のいい表情を自分に向けているし、だいたいキスしたいときは決まって同じ顔をした。
夏宇豪、おまえはその顔が合図になっていることに気づいているのか?
重なる経験則に裏打ちされてしまうから、このままでいるのは少しまずいのだ。覚えてしまったその合図に、鼓動の脈拍が膨れ上がる。爽やかな好意と心底嬉しそうな微笑みに負けているうちに、子軒は己がうっすらとした期待を抱えていることを知っていた。
「『どうしていつも』、なんだよ?」
何も言わない子軒をじっと見て、宇豪は唇を尖らせる。じっと見られていると、自分の言わんとしていることがあまりにも赤裸々で恥ずかしくなる。
「なんでもない、続けるぞ」
ほら、と教科書を指で叩いてやると宇豪は渋々といったように勉強を再開した。子軒は気を取り直して背筋を伸ばす。うっすら膜をはる己の期待の先に何があるのか、教えてやるにはまだはやい。彼の、嬉しそうな瞳に映る、自分の顔に浮かぶ本意を頭のなかで反芻する。
授業終わりの宇豪の教室を覗くと、彼はひとりバレーボールを抱き込んだまま机に突っ伏して寝ていた。はじめて餌を与えられた雛鳥のように、宇豪は子軒のボールをずっと持っているらしかった。教室には他に誰もいなくて、子軒はすたすたと彼に近づいていくとその腕のなかに閉じ込められた、ボールをじっとみつめてみる。なんだかそこで鎮座しているものが自分の身代わりであるような気がして、子軒は照れたような、呆れたような笑みを頬に浮かべた。
「夏宇豪」
ちいさく、名前を呼ぶ。近づいてみると閉じられたまぶたと半開きの口がまぬけで、ずいぶん愛らしかった。子軒はゆるゆると自分の口角があがっていくのを感じた。この口や目が、頬の起伏が自分に与える幸福を知っている。ひどくわかりやすいこの男の表情を想像しては、すやすやと寝息を立てる目前の光景を愛しく思わないはずはない。
隣の椅子を引き出して、そっと腰掛ける。起こさないようにつとめて寝顔を眺めていると、彼がむにゃむにゃと譫言のように「子軒、
……」とつぶやいたので驚いた。
「
……どんな夢を見てる?」
指先を彼に伸ばして、彼の短く刈りそろえられた前髪の淵をなぞるように滑らせる。中指の背でまなじりを撫でてやると、彼の顔が多少みじろぐ。
「好きだ
……」
眠ったままの彼の、尖らせた唇からそんな言葉がこぼれて、子軒は一気に脈拍があがるのを感じた。宇豪という眩しい男は、こちらの身が焦がれるような純情を簡単に向けてくる。わなわなと胸が起伏する。照れや驚き、それだけじゃない無数の感情に脳を支配されて、子軒は顔を上気させた。
立ち上がった子軒は震える指をのばした。まだ夢を見ている宇豪の耳をつねって、顔を近づける。刺激に眉がぴくりと動いて、宇豪のまぶたが薄ら開かれる。そこへ覆い被さるようにして上半身をかがめ、半開きの彼の唇に吸い付くように口づけた。
「んむ、!?」
目が開いて目の前に子軒をみとめた瞬間、宇豪はびくりと体を跳ねて椅子から崩れ落ちた。大きな音を立てて椅子が倒れる。宇豪は子軒から目を離さずに瞠目した瞳をむけ、状況が理解できないという顔である。すると、ぼんやりしたまま子軒を見つめていた宇豪がいきなりばちん、と自分の頬を軽く叩いた。
「!?おい」
「いま、おれ、夢見てた」
痛みから現実だとわかったのか、ぼんやりしたまま彼はそう言った。
「え、これって現実?子軒、いまの、夢じゃない?」
頭のなかで事実を反芻したらしく、床に座り込んだまま彼の頬がゆるゆるともちあがって、耳まで赤くしながら心底嬉しそうな顔をする。
なんて顔、してるんだ。
つられて自分まで赤くなるような気がして、子軒は目を瞬かせる。経験則に裏打ちされた、感情の起伏がぐらぐらと実感を伴っていく。頭のなかに、キスをする直前の宇豪の顔が浮かんでは消えて、目の前の彼に集約していく。
心臓の鼓動と共にちかちか瞬く目元をおさえて、子軒は手を伸ばした。その手をとって、嬉々とした宇豪が立ち上がる。目線の高さに彼の純の感情が迫りやってきて、子軒は息がうまくできない。満ちていくときめきに呼応するように、彼の顔もたゆんでいく。
……そして、あの顔。
子軒は深く息を吸い込んだ。
赤裸々を隠すように、子軒は目を閉じた。合図を受け入れる意思表示として。
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