tsugomori0321
2025-12-27 14:51:43
32427文字
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荒唐無稽と侮るで勿れ


新規展示作品です!
イメソンプチオンリー2の参加作品となっております。
米zu玄shi様の「shini神」の楽曲をモチーフに、新規書下ろしさせて頂きました。

糖分ゼロでバッドエンド、ちょっと人を選ぶ内容かもしれません
お読みいただく際には、必ず冒頭の注意書きに目をお通しください。よろしくお願いいたします!

※今作は解説のおまけ話を付ける予定ですが、会場間に合わないので後日アップします



注意!
こちらは米zu玄shi様の楽曲「shini神」、並びに同タイトルの落語のお話をオマージュ・改変をさせて頂いております。
現代日本・昔の日本的な世界のパロディです。
全体的に暗く、甘さはありません。まともな恋愛もありません。また、バッドエンドのお話となっております。
リオセスリは人外の存在として登場致します。
夢主にリオセスリ以外の伴侶が出来る描写があります。

なんでもいいぞ~!という方のみ、どうぞよろしくお願いいたします!!

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 パチパチパチ、と拍手が響く。その音と共に一人の女性は、上手から舞台上へと姿を現していった。味のある木造建築に、静かで落ち着きのある景観。古くから伝わるその寄席は、ただその女性の姿をありのままに迎えていった。
 一歩、二歩、と足を進め、女性は静かな所作で高座へと腰を降ろしていく。そして深々と頭を下げた後に、片手に持っていた扇子をちょいと、膝の直ぐ傍へと置いていったのであった。
――さて、皆さまは『目に見えぬものの存在』を、どれほど信じておられますでしょうか。ああいえ――宗教勧誘なんて話じゃありません。この国には八百万の神なんて言葉もあるでしょう? 皆さまは今までに関心を持ったことがあるのかなと……ふと、そう思った次第であります」
 薄い黒の羽織の結び目を解き、自身の影になる背中側へとするりと仕舞い込んでいく。それはたった数秒の内に音も無く行われ、もし目を離していたとでもすれば、突然に装いが変わったと驚いてしまう程だろう。まるで闇夜を溶かした様な黒から――室内の提灯に淡く照らされた、白へと。
「視えぬ方が幸せなことも、視えることで識ることもあるでしょう。どちらが正しいのかなんて、私にはそんな大層な事は言えません」
 女性はにこりと困ったように笑い、身振り手振りと共に話を続けていく。
「ですがこれはそんな、『普段は目に見えぬものの話』。今まで視ることのなかった普通の人間が……ええ、多くの人と同じ、普通の人間です。ある日突然『識り得てしまった』――そんなけったいなお話なのです」


  ❀❀❀


 ふら、ふら、とおぼつかない脚が揺らぐ。これでも一応『歩いている』という事は、自分の頭が指示した事だから何となく解っていた。
 行く当ても、行ける場所も無かった。何処かへ向かう気力も、行きたい願望も無かった。……ならば、何故私の脚は動いている? それは多分、何処にも居られなかったから。居場所も、意義も、執着も無くなってしまったから……何処にも行けずに、ただ歩き続けていた。……これでも、まださほど遠くには行けてない。此処は私の知らない土地ですらなかった。
 父も、母も、姉妹たちも亡くした。最後に逝った母は病気が重く、ただでさえ無かったお金が更に無くなっていった。肌がひび割れても、髪が枯れ木のように痛んでも、たとえどれだけお腹が鳴ったとしても……母と話している時は気が楽になった。それはただ残された家族に対する、愛だけでは無かったのかもしれない……。私はただ介護人として、『必要』とされている事に生を得ていただけだったのだ。持ち合わせているような愛を……ただ美化するように、そう見ていただけなのかもしれない。
 結局お金も無くまともな医者も居ないこの村で、母はひっそりと息を引き取っていった。きっと自分が居なくなれば私が楽になると思ったのだろう――それは現実的には間違いでは無い。だが私の精神面はそれに耐えられなかったのだ……この何もなくなってしまった世界で、生きる指針を完全に失ってしまった。人々は口々に生きる為に理由は要らないと言うが――どうして生きなくてはならないというのだろうか。……どうして、生きることが正しいと言えるのだろうか。
「(…………)」
 じゃり、と乾いた大地の上を、私の草履が踏みしめて歩いていく。小さな石はそれに押し潰されたり、転がったり、何処かへと見えなくなっていった。
 ひゅうっと吹いていった風には、僅かな湿り気が感じられる。土手の下の川は数日続く快晴の為に干からびてしまっていたが、私はそれを見て特に何も思う事は無かった。
 背中を軽く丸めて俯いた状態のまま、私はふと反対側の土手の下へと視線をやっていく。村の外れのそこは閑散としていて、何日も前に使われたような、焚火の痕跡だけが残されていた。だが――――その傍にふと、一人の男性の姿が見られる。
「(……?)」
 特にこれと言って理由は無かったが、私はその男性の姿に目をやっていった。深い闇を溶かしたような紺色の着流しに、まだ同じく深色の紅の帯が締められている。髪は……一般的な黒のようにも思えたが、その合間には所々、白の差し色がうかがえていった。裕福な所の、青年なのだろうか……ハイカラだと感じるその様は、私の村に居ればさぞ浮いた存在となるだろう。
 だけれどぼうっとしたままにその男を見つめていれば――チラリと。男はわざとらしくこちらへ顔ごと視線を向け、私のことを見据えて声を掛けてきたのであった。

「やあ、お嬢さん。……俺のことが視えるのかい?」

 パチリと視線が合ってしまったその瞳は、まるで海や空のような澄んだ青色をしていた。外国人――なの、だろうか。明らかにその色彩は私たちとは異なっている。黒以外のそんな瞳を見たことが無かった私は、しばらく意識がその青へと惹かれるような気持ちになった。……この何もなく、終わるような現実を忘れるかのように。
 そう言えば近隣の山々を越えた先では、大きな港があり、土地が発展しているという。たしか外国との貿易もあるとかなんとか……。あまり情報が流れて来ない閉鎖的なこの田舎の村でも、それを知るくらいには大きな話なのだろう。しかし「俺が見える」とは……いったい、どういう事なのだろうか。
「あなたは……
 ちょいちょい。と片手で寝招きをされて、私はそれに導かれるように、土手の下へとずり落ちながら歩を進めていく。あともう少しで下へと辿り着くと思った頃には、その男性は私の手を取り、立ち上がるのを支えてくれたのだった。……こんな、お世辞にも綺麗とは言えない、痩せ細って病的な私の手を取って。
「どうした。なんだ……そんなに俺のことが気になるかい? 随分と熱烈な視線をどうも」
 さらりと黒の前髪が揺れて、その男は余裕そうな笑みを浮かべる。……非常に、様になっているように見えた。きっと過去数十年の村一番の好青年を集めようとも、彼には敵わないのだろう。……まあ私には、所詮関係の無い話だけれども。
「だってさっき、『俺が見える』かって……
「ああ、その話か。それは当然さ――本来ならば俺は、『人には視えない存在』だからな」
……?」
 当然のように語り続ける彼に、私は頭が付いて行かなくなってしまう。ただでさえ栄養素も水分も足りない体なのだ――突然に意味の分からない話をされても困るというものだ。
「あんた――『死にたい』って、思ってるだろ。そういう感情や認識がある一定の度合いを越えた先では、人間で言うところの『この世とあの世の狭間』が視える事がある。あんたが今、目の前にしている者は――『そういう側の存在』だ」
「ぇ……
 手に触れる彼の指先は暖かく、その胸元は呼吸に合わせて軽く上下している。……とても、人ではないだなんて信じられなかった。だけれどその見上げた瞳はどこまでも澄んでいて……まるで嘘をついているようには思えない。
「えと……あなたは、いったい……
……
「神様? それとも…………『死の使い』?」
――嗚呼」
 にこりと笑っていたその男は、私の言葉にふと口を開いていく。死にたいと思う者の前に現れるとなると、その存在はいくつか限られてしまうだろう。だけれど彼はいつか読んだ御伽のように、大きな鎌は持っていないようだけれど。
「人間は俺たちの事を、そんな風に呼ぶこともあるな……。まあ、好きに呼んでくれ。俺は対して気にしてない」
「はあ……
 何故だが好意的に話を続けるその男に対し、私はふと改めて……如何して彼と、こうして話を続けているかと疑問に思ってしまう。そう言えば彼の方が私のことを、手招きしたことが始まりの筈だ。私なんて存在は……それほど話したいと思える相手だとは思えないけれど。それでも自分を視認できる存在だというだけで、彼は話をしてみたかったのかもしれない。
「ええと……それじゃあ。私は、これで……
 特別何処へ行く当ても、何の用事もないのだけれど。それでも彼と話す道理も内容も無いとなれば……このまま彼の傍に居続けるのも何となく居心地が悪かった。何もなかった――何もなかったんだよ、私には。あなたとのお喋りに花も咲かせてやれない。
「ああ、もう行っちまうのかい? ――あんた、そのままじゃ死んじまうぞ」
…………
「俺には人の終わりが『視える』。あんたは此処でいっちまうべき魂じゃない」
…………っ、でも……
「希望が見えない未来ってのは辛いよな。生きることはそれ自体が苦しみの連鎖となる。一人で抱えていくには……重すぎて潰れちまうような責務だ」
――ッ」

「なあ…………助けて欲しいかい?」

 立ち去ろうとしていた私の肩に、ぽんと彼の大きな手が添えられる。暖かくて、ひどく安心させる他人の体温――それは久しく、私が欲しいと願っていたものだった。何故なら母は毎日……冷たくなるばかりだったから。
………………っ、助けるって、どうやって……?」
 くるりと、ゆっくり彼へと振り返っていく。こんな状況を打開できる助けなど、それこそ人の身では成し得ない事だろう。だけれど彼は……人ならざるその立場から、私を助けてくれるのだと言う。……そんな事、本当にあり得るのだろうか?
「古いまじないを教えてやる。これはあんたにしか出来ない事で、他の誰にも教えてはならない。――いいな?」
……
「返事は『はい』だ。まずは俺の言う通りにしてみろ」
「は、はい……
 黙っていればちょんと唇に人差し指を当てられ、そのまま返事を返せば「良い子だ」と笑みを向けられる。一体……私の何が彼をそんなに上機嫌にさせるのか、まったく見当が付けられない。だけれど彼はそのまま人の良い笑みで、こう説明を続けたのだった。
「ここらの人間の多くは戦でもない限り、病で亡くなってしまうのが殆どだ。そして病で亡くなる人間は二種類居る――寿命を全うして眠りにつく者と、そうでない者だ」
「どうして寿命を全うしていないのに亡くなってしまうの? ……病が、それよりも重かったから?」
 私は床に臥せっていった家族の事をふと思い出てしまい、その残り続ける儚い幻影を脳裏から追いやっていった。
「ああ、人間はそう思うだろうな。だが根本的にはそれは違う。――狩り取ってしまうのさ、『死の使い』がな。一番『死』に近付いた瞬間に、その余っている命ごと貪っていく」
「なっ……!」
 思わず目を見開いてその彼を見上げれば、彼はただ余裕そうにその空の瞳を細めるだけであった。
「もちろん俺は違うさ。だがそんな『不届き者』は確かに存在する。そういった奴らは、必ず病人の足元に居る――いいかい、足元だ。枕元の奴らは違うから、絶対に間違えないよう気を付けるんだ。足元に居るそいつらに向かって、あんたはただこう言うだけでいい――
 すっ、と男はそのまま私の耳に唇を寄せ。そして吐息がかかりそうなほどの距離で、低く馴染む声で私にまじないの言葉を紡ぐ。

 ――「亜蛇羅火目連、手卦裂津之破」と。

 そしてパンパン。と締める音のように、二拍手を軽く私に聞かせる。この拍手までを忘れないようにと、彼はそう囁いて私の耳から顔を離していったのだった。
「あじゃ……。あ……
「亜蛇羅火目連」
「あじゃら……、てけり……
「亜蛇羅火目連、手卦裂津之破」
「あじゃ、あ……。んん……――――亜蛇羅火目連、手卦裂津之破!」
 パンパンッ! とまるで早口言葉の練習をさせられた時のように、半ばやけになってそのまじないを唱えてみると……。以外にもすんなりと言えてしまったようで、私はその勢いのままに二拍手まできっちりと続けていった。
 だが「出来た!」と思ってハッと顔を上げてみても、その空の瞳の彼は何処にも見当たらず――。辺りをきょろきょろと見渡してみても、その黒い姿は見えなくなっていた。
どうして? 何故……? とふと思考を巡らしたその時。私は改めて彼もまた、その『死の使い』であったことを思い出していく。……そうだ、これは『死の使い』を追い払うまじないなのだ。彼は枕元の奴にだけは使わないようにと忠告をしてくれたが、それ以外の場合はこうやって効果があるのかもしれない。
「(でも……だからと言って、どう……)」
 消えてしまった彼の言葉を借りるのならば、私はそれこそ『死に向かっていた』のだろう。こんな状況で今更如何すれば良いのかとも思えたが…………彼は、このまじないが『私にしか出来ない事』だとも言った。
「(……一回だけ、試す……くらいなら……)」
 悪い死の使いが本当に寿命を狩り取ろうとしていたとして、もしそんな『悲劇』が少しでも防げるのなら……。私と同じように家族を失う人が、それで少しでも居なくなるというのならば。嗚呼――それなら私だって、まだ……。家族全員が揃っていた幸せな時に、このまじないを知りたかった、けれど……
………………
 ……帰ろう。と、ふとそう思えた。相変わらず土地は乾ききっていて、動かす手足は重く、やはり覚束なさは残る。何処に行く当ても、何をしたい希望もないけれど…………兎に角、なんだか疲れたから帰ろうと思ったのだった。
「(そういえば、名前……聞きそびれちゃったな……)」
 そしてその場所を立ち去ろうとする私の頭には、そんな初めての言葉が浮かんでいたのであった。


  ❀


 住み慣れた村に帰った私の目に飛び込んできたものは、人々が何かに慌てたように行き交う様子であった。それは私がひそりと消えるように村を去ったからではなく……村長の娘さんが、危篤状態になったからだそうだ。
 明るく、分け隔てなく接してくれる優しい女性だった。だが話したことがある時間はそう長くは無く――。村長は、あまりにも過保護であったのだ。そのせいで彼女は世間知らずな所も多く……だが誰も、それを止めることは出来なかった。それに彼女はいつもニコニコとしてたから、悪い印象なんてものはあまり感じなかったのだ。
 だが――そんな彼女が床に臥せたと聞いて。少なくとも村の人たちは動揺と悲しみに包まれていた。病状の状態は……嗚呼、私の母の時とよく似ている。だが母の時はこれほどの人が、動くようなことは無かったけれど。
 面会は自由とされていた事もあり、私は彼女の寝間へと向かって行った。……道中の廊下にて、泣き崩れたように動けなってしまった村長が、他の人に引きずられながら移動していく様子とすれ違っていく。愛している家族との別れはとても辛いだろう――それが溺愛していた娘とあらば、なおさら想いは膨れ上がるばかりであろう。
 だがそんな村長たち一行が立ち去った後に、襖を開いた室内の中は、しんと音を飲み込む程に静まり返っていた。コホコホと時折聞こえる咳の声はひどく弱々しく、細い……このままでは、本当に消えてしまいそうだ。
 私は彼女と二人きりの寝間の中で、そっとその布団の傍へと正座をしていった。……きっと他の人が言っていたように、これが彼女との最期のお別れになるのだろう。あまり深い仲ではなかったけれど、私はまだ若いその姿に言葉にならない眼差しを向けていく。――――だが、その瞬間。その一呼吸の後――。私は、私と彼女の二人だけの筈の空間に――『第三者』の存在を感じ取ってしまったのであった。
……っ! だ、れ…………
 咄嗟に口から出た声は弱く、あまりに小さすぎて言葉にもならなかった。だが私が直感的に感じてしまったその方向――その彼女の足元へと、視線を向けていけば。……こくり。こくり。とまるで舟を漕いでいるかのように、腕を組んだままに俯いて座り込む『誰か』が、そこには居たのであった。
「(誰……!? うそ……。だって、この寝間には私一人で……)」
 襖が途中で開かれた形跡は無かった。誰かが畳を踏みしめる足音も無かった。それほど静かな一室であったのだ……少なくとも私が、気が付かない訳など無いというのに。だけれどその人物……彼、だろうか。男性のように見えるその外見の人物は、まるで緊張感もなく眠りこけるように、彼女の足元でその頭を揺らし続けていたのであった。
「(村の人じゃない……それに、明らかに彼女の面会が目的でもない……!)」
 ただ其処に居るだけ、だった。病状が酷い彼女を気に掛けるでもなく、その姿を見つめる私に気付くことも無く……。自分が誰かに――いや、私たちのような『人間』に。視認される事など無いと解っているのだろう――まさしく彼こそ、あの、『死の使い』なのだろうか。
「(……ッ。居るのは、足元……)」
 息を飲むようにその場から体を動かすことなく、視線だけできょろきょろと辺りを見渡していく。――ドクン、ドクンと心臓が五月蠅い。目をやった枕元には他に誰も居そうには無かった。
 すっ……と自分の膝の上で、控えめに。両手の手のひらを開いて差し出し、胸元の辺りまでゆっくりと持ち上げていく。嗚呼――。でも、本当に……本当に? こんなことが、現実で起こりうるのだろうか?
「ぁ……羅火目連、手卦裂津之破」
 パンパン。
 小声で、ほんの小さく呟き……横になる彼女の眠りを妨げないように、潰れてしまう程の不格好な拍手を二回。……もう、おまじないも、御伽噺も信じない年だけれど。それでもあの青の瞳の言葉が何故か忘れられなくて、ここで一度試してみるのも悪くは無いと思った。ただ……其れだけだった。ほんの、それだけ……。好奇心に似た『何か』と……夢を見るかのような、浮足立った期待。「きっとそんな事は起きない」と大人ぶって口では言うものの……心の何処かでは、子供じみた絵空事を望んでいるのだ。
 だが、そんなどっちつかず私の、恥ずかしながら行った不格好な『まじない』に。――その『彼』はビクリとしたように大きく肩を揺らして、その場でバッと目を開いて起きた様子を見せたのであった。
……? ……!!』
 布団の傍に居た私には目もくれず、彼はひどく驚き、慌てふためくように、床に臥せる彼女の姿をまじまじと見つめ直していく――。そして何か聞き取れない言葉を叫ぶように発しながらも、シュルリと大きな影のようにその場から姿を消したのであった。…………き、消えて……しまったのであった……。其れは音も無く、一片の形も残さずに。
「(う、うそ……! ほ、本当に……消え……?)」
 思わず――ガクンと腰が抜けていく。正座をしたままであったから、私はそのまま足を崩してすぐ傍の畳に手を付いていった。……本当に。本当に人では無かったのだ。『死の使い』という存在を本当に私は視てしまい……そして足元に居た彼を、私はこの『まじない』で追い払ってしまったのだ。
 はっ……。は……っ、と呼吸が浅くなっていく。青い瞳の彼はあまりにも人間味が強かったから、人で無き存在であるという自覚が殆ど無かった。だけれど先程追い払った彼と、その行動はあまりにも人間離れし過ぎていて。『そういう存在』である理解の外の者への恐怖が、私の体を震え上がらせていく。
……ん。んん……、どなた……父上……? せんせい……?」
 だがそんな強張った体の私に向かって、あどけないような目覚めの声が一つ。確かに人間の血が通っているその声は、今にも凍り付きそうだったはずの体に、ゆっくりと暖かな息を吹き返していた。

「あなたが…………っ、たすけて、くれたの……?」

 はあっ、はあっ、と大きな熱い息を吐き続けながらも。もう二度と開かぬと思ったその瞳は――確かに私の事を見つめていた。声を発する事など不可能だと思われていた荒れた喉は、確かに言葉を綺麗に発していた。むくりとそのまま背を持ち上げたその娘は――――明らかに、体調の回復を見せていたのであった。


  ❀


 その後。私は村長から、まるで詰問のような質問攻めにあってしまった。まあ、彼からすれば私は娘の命の恩人で在り……同時に遠方の医者を雇ってまで救えなかった筈の命を、薬も道具も無く容易く救ってしまった謎の存在なのだ。いや……完全な謎でないからこそ、余計に彼の不安を煽ったのかもしれない。私はこの村の一員としてなんの変哲もない、医者を目指す事も無かったただの普通の人であったのだから。
 だけれど「勝手に治りました」と他人事のように振舞えなかったのは、あの娘さんが、私が治したと信じて疑わなかったせいだろう。まるで神様のように光り輝く、救世主にでも見えたのかもしれない。高熱でうなされて辛い中、似たような症例で亡くなった人を何人も知っている。医者に見限られたことも相まって……なおさらそんな想いが強まったのかもしれない。
 だがそのお陰で私はただ一つ、とても大きな、重い嘘を吐くことになってしまったのであった。しつこい村長はだんだんと迷惑に感じ、だけれどこの村で過ごすには一番に穏便に済ませたい相手であった。そこで、私がでっち上げた嘘は――自分はある『祈祷』を使ったという話だった。
 その祈祷は一族の中でも一人しか知ることが許されず、母が亡くなる直前に私に教えてくれた事。そしてその祈祷は一族の中なら誰もが使えるという訳でもなく、稀に現れる才のある者しか使えないという事――。嗚呼全く、吐き気がするほどに酷い話だ。母は才能が無かった為に他の家族を救えず、こうして私一人を残して無念のままに逝ってしまった事になる。……そして其れは皮肉にも私への同情を誘い、話し終わった頃には村長はもう何も言う事は無かった。ただ最後に「娘を救ってくれてありがとう」と、心からの言葉はそのままに受け取ることにしたのであった。
 そうして私の『祈祷』は村中に知れ渡ることとなり、次第に怪我や病で戸を叩く人が増えていった。だが私が出来ることはただ足元に居る、『死の使い』を追い払ってやる事だけなのだ。それとなくまた嘘を重ねて祈祷を断れば、彼らは肩を落として去っていった。だが時折――また本当に、居てしまうのだ。足元に彼らを纏わせてしまった者が。そういう病人ほど重篤な状態にあったからこそ、私の祈祷は『奇跡の所業』だともてはやされていった。
 彼らは次第に、私を『祈禱師様』と呼ぶようになった。『救ってくださってありがとうございます』と、お礼の贈り物と共に感謝されることが増えていった。
 何か。何か――大事な物が。私の中でズレていくような感覚に酔いそうになっていく。だがそんな中で私が救った人数が、もう片手では足りないくらいになった頃……あの薄い空の青を乗せた瞳は、私の元に再度現れたのであった。

「やあお嬢さん、調子はどうだい。……ああ、前に会った時よりも随分と血色が良くなったな」

 深い闇色の着流しが揺れ、暗い紅の帯に思わず目が留まる。――『彼』だ。私にあのまじないを教えてくれた、彼だ。彼はいつの間にか私の家に上がり込んでいて、開かれていた障子の向こうに広がる、晴れた庭の涼やかな午後の景色を見ていた。
「あっ――! あのっ……あなた! あなたっ!!」
 その姿を認識した瞬間――私はもつれるような足と共に、彼の傍へと一気に駆け寄っていく。話したいことも、言いたいことも、聞きたいこともいっぱいあり過ぎて、頭の中で言葉がどんどん埋もれてしまった。だがひとまず彼のすぐ隣へと正座をしていけば、その空の瞳は顔ごとこちらへと向き直ってくれたのだった。
「ハハッ、そんなに俺に会いたかったのかい? 焦らなくてもいいさ、しばらくは此処に居るつもりだ――あんたが俺を追い払わなければな?」
 茶化すようにクスリと笑って、彼は両手を挙げてその肩をくすねてみせる。その余裕綽々な様は相変わらずであるが……そう言えばあの時、最後に退けてしまったのは私の方であった。
「あ、えと……えっと……ごめんなさい?」
「別に気にしてないさ。それで――最近の調子は?」
「あっ! そう、おかげで何人か、病人を助けてあげることが出来て――
……ほう。『助けて』、ね」
「それで、私ずっと、あなたにお礼を言わなくちゃと思ってて……!」
「お礼? どうして俺に礼なんか……
 明らかに訝しげに目元を細めた彼に、私はずいと腰を浮かせて身を乗り出していく。
「だってあなたが、あのまじないを教えてくれなければ……! 私は、誰も救うことが出来なかった。この布も――ああ、このお野菜も、お米も……。お礼にって、私ばかりが受け取ってしまって……
 皆、私の祈祷の力だって信じ切っていた。私は奇跡を起こせると、誰もが疑わなくなってしまった。……でも本当は違う、この力は私のものじゃない。真にお礼を言われるべきなのは……きっと、あなたの方だというのに。
「良いじゃないか。救ってやったのは確かにあんたの意思だ」
「でも……
「礼の言葉も、貢物も。信頼も、世辞も、金も――全部あんたが得た、あんたのもんだ。違うかい?」
「でも…………それでも、私はあなたにお礼がしたい」
……
……っ、一人では……耐えきれないんです」
「なるほど」
 はあ、と大きめの溜息が聞こえてくる。それは彼がやれやれと目の前で吐いたもので、私の真摯な視線から逃げるように、目を反らされてしまったのであった。
 感謝の気持ちも、お礼も嬉しいけれど……それでも嘘をついてまで得る事には抵抗があった。だけれど断り過ぎると波が立ってしまいそうだし、逆に生きる為に進んで受け取る品々もたくさんあった。穏便に済ませたくて流れに身を任せているというのに……心が何処か疲れていくのを感じていく。この事を共有できる人物など他には居ない……ただ一人、この目の前の彼を除いては。
「とは言っても……俺は食い物も、そういった品も必要ないしな」
「(やっぱり……)」
 家に余ってしまっている物を話していっても、彼は少しも興味を引かれるような素振りを見せる事はなかった。だが私の『何かを受け取って欲しい』という引き下がれない想いを汲んでくれたのだろう――最終的に私の方へと視線を向け、「じゃあこいつをもらおう」と薄い笑みを浮かべたのであった。
「! 何か、見つかり――
「ああ」
「(えっ……?)」
 ぐいと、強く腕を引かれて前屈みになってしまい。――だが顔は下を向くよりも早く、その顎に手を添えられて上を向かせられる。
 そして……私の、その視界の中には。めいっぱいに広がる『彼』の、顔が――。その瞳を閉じた、表情と濃い睫毛が。其れをようやっと認識した頭と共に感じていったものは――唇に押さえつけられるように重なった何かと、暖かい……人の、体温。
「(ぇ…………)」
 それら全てが何か、どういう状況なのかを――停止した頭がやっとの思いで理解した頃には。唇に触れていたそれは強引に中を開き、うねるように私の中をまさぐっていったのであった。
「んっ!? ンン~~!! んぅッッ!?」
……、ふ……
「ん~~!! ンンッ!!」
 力の限りでその胸板を叩いて押しやったが、彼の厚い体は微動だにすることは無かった。それどころか後頭部へと大きな腕を回されて、絡み合わせられるようにその舌が無遠慮になぞられていく……。「フーッ、フーッ」と混乱した荒い息は、鼻から漏れるばかりで少しも吸えやしない。その行為に、熱に、頭の回らなさに――とうとうぐらりと意識と体が落ちかけてしまったところで。彼は私の腰を支えるように腕を回し、やっとこの身を解放してくれたのであった。
「はあっ、はあっ……、はぁっ……ぁ、…………?」
……なんだ。結構可愛い顔をするじゃないか」
 変な汗でびっしょりと濡れた私の体に触れ、垂れた髪を耳へとそっと掛けていく。
「男との口吸いは初めてかい? まあ……その様子じゃそうだろうな」
「なんか……目が、まわって……
 顔を覗き込んでくる彼と視線が合わなくなっていく。注視しようとすればぐらり、ゆらりと視界がブレるようで……。そのまま立って距離を取ろうとすれば、どうやら足にも力が入らなくなってしまったらしい。結局はまた彼に腕を取られて座るように、ゆっくりと腰を降ろす羽目になってしまった。
「あんたからの『礼』、これで受け取ったことにしておこう。まあもし続きをご所望なら? 布団まで運んでやってもいい。……と言うよりもあんた、腰が抜けて立てないんだろ。はあ……。一応、優しくはしてやったつもりなんだがな」
……っ、…………、めて……
「ん?」
 ぐるぐると、初めての熱に回らない頭の中で。彼の言葉だけが処理しきれずに右から左へと流れていってしまう。だけれど私の中で確かに一つ……取り返しのつかない物を失った事だけはハッキリと理解をしていく。
 それは、本当はとても大事にするべきもので……こんな風に、互いの確認も無しに行われていいことではない。ましてや想いも無しに、行われるものでもない。私が知っているのは夫婦となる男女が……。契りを交わして……。幸せに、互いの想いを通じ合わせて、初めて……

「私の……、はじ、めて…………っ。――ッ!」

 ぼろりと、受け入れ難い何かが……大粒の雫となって私の目から零れ落ちていった。だがそれに意外にも息を飲んでいったものは……そのすぐ対面の、人の姿をした人でなしの彼で。
「あっ――。わ――悪かった。悪かった、泣くなって。……レディ、涙を拭いてくれ。嗚呼、なんであんたには効かな――
「ふっ、う……、ひっく……ごめ、なさ……。でも、一言……する前に、せめて……っ」
「事前に言えば、あんたは誰とでも口吸いをするのかい?」
「ちが……っ! でも、お礼……なら……っ。…………私のこと、好いていたの……?」
…………
 ボロボロと止まらない感情に濡れた瞳で問いかければ、ぐっと押し黙るように言葉を飲む仕草が一つ。どうして即答できないのかと不思議に思って見つめ返せば、次第に苦虫を嚙み潰したような表情が見えていった。……ああそうか。きっと彼は私と違って口吸いでも何でも、誰とでも出来てしまうような人物なのだろう。いや……人物じゃない、『死の使い』だ。価値観が人の其れとは最初から違っていたのかもしれない。
……きらい。だいきらいです。…………ッ」
 それでも失った物は二度と戻ることは無く、私はせめてもの抵抗でなけなしの言葉を残していく。だがその言葉を聞いた彼は「そりゃあいい」と苦笑をするように笑って、また私の涙を拭ってくれるであった。


  ❀


 私の人としての尺度で考えてみれば、『責任』を取ることが真っ当であると思えるのだが。それを彼に問いたところでやはり返事は不可であり、せめて名前をと強く問いかければ……『莱欧斯利』と名乗ってくれたのであった。
 変わった名前だ、どんな意味があるのとさらに踏み込めば、彼は「さあな」とはぐらかすばかりであった。だがじとりとその目を見つめていれば――流石に先日の事を詫びる気持ちがあるのだろうか。彼は「新聞で偶然見かけた名前だ」と、素直に白状していったのだった。……どうやら意味が無いという事は本当だったらしく、彼自身としては呼び名というものも今まで必要なかったらしい。だがいつまでも『あなた』なんて他人行儀な呼び方はしていられないので、私はその名――『リオセスリ』という人名を、彼に刻み込むように何度も呼んでいったのであった。

 リオセスリはあの無理矢理な口吸い以降、私の前へと姿を現す機会が増えていった。最初は何の嫌がらせかとも思ったけれど、意外にも彼が手を出すような素振りは見られなかった。だが良く回る口は達者なようで、理由を聞けば「あんたの事が気になるからさ」、と……。そんな手には乗らないと冷たくあしらえば、それでも彼は私の後をついて回るようになったのであった。
 そして不思議なことに他の『死の使い』と同様、彼の姿は私にしか見えていないらしく。チラチラと視界の端に映る彼の姿に気を取られていれば、「祈禱師様?」と声をかけられる事が多くなってしまったのであった。……人の目が、増えた原因もあるだろう。近頃の村の様子はどんどん息苦しくなってきていて、今やたった数か月前の面影さえ無くなってしまっている。
 私の噂を聞きつけた人が、とうとう山の向こうからも来ることが多くなってしまった。重篤の患者であればあるほど受け入れてもらえるだなんて、いったいどこの誰が流した噂なのだろうか。山を越え、谷を越え、遠路はるばるこの村までやってくる頃には、本当の意味で満身創痍となりとても見ていられない。それなのに足元に『死の使い』が居なければ私は断るしかなく、それがかえって怒らせてしまう様な事件も多々あった。
 村長も、もともと出来た人では無かったけれど……最近は特に人が変わってしまったかのようだ。診て欲しいと訪ねてきた人たちから『診療費』を取って、私が祈祷を行えるかの判断をさせていく。そして可能であると私が言えば、またさらにお金を取るような事を始めたのだった。全ては村の発展の為、なんて言うけれど……少額で本当にまかなっていた頃はともかく、近頃は明らかに目的が変わってきている。だけれど誰もが確かに以前よりも安定した暮らしとゆとりを手にしてしまったせいで、村人は誰も異を唱える事が出来なくなっていた。
「(こんなのおかしいよ……)」
 その発展の裕福を一番に押し付けられたのは私で、とうとう『お付きの人』なんて存在も出来た。たった一人で祈祷を行う私のせめてものお手伝いにと言っていたが……その実は監視役も任されているのだろう。おかげで一人になれる時間すら貴重となり、その時は大抵リオセスリが傍に居るのであった。
 彼に聞いても意味の無い事だと解ってはいるが……一度、村の様子をリオセスリに相談したことがある。「金があるならなんでも良いじゃないか」とでも言われるかと思っていたが……案外、その予想は外れてしまったようで。リオセスリはその話の間、一度たりとも笑う事は無かったのだった。むしろ毛嫌いでもするかのように口数は少なく、重い声の返答ばかりであった。……怒っている、のだろうか。私はあまり人に対して上手く怒れない人間であったから、代わりにリオセスリがそんな風に怒ってくれることは……何故か、少しだけ居心地が良いと感じてしまっていた。
「(もう少しだけ、この人と話していよう……)」
 とん。と肩を寄せれば暖かいような気がして、私は誰にも見えないその姿に身を預けていく――。それからのリオセスリとの時折訪れる会話の時間は、私にとって気を張らなくて良いありのままの時間となったのだった。


  ❀


 以前、リオセスリに聞いたことがある。足元と枕元に居る『死の使い』……その差は、一体何なのかと。どうして『死の使い』は命を狩り取ってしまうのかと。
「あー……ふむ。例えるなら――
 彼は少しだけ悩んだ後に、『枕元の奴はひどく真面目』で『足元の奴らは途中でつまみ食いをする不真面目』なんだと言った。どうして命を狩るかと問われれば……「そういうモノなだけさ」だけ言葉を返される。
「あんたはどうして呼吸をする人間という存在で、どうしてこの村で生きてるんだ?」
「それは……
 答えの無い問いであることは、私にも容易に理解が出来た。
「じゃあ真面目と不真面目の差は?」
「本来、ヒトの寿命は人間が燃やし続けて終わらせるものだ。……だがそれを途中で摘み取ってしまい、あまった寿命を喰ってしまう」
……死の使い、が?」
「ああ」
 がぱ、と開かれたリオセスリの口は大きく、歯は人の其れと酷似しているものの、寿命を喰らうと聞いて背筋がゾッとしていった。もし……私が救ってきた人たちの、まじないを唱えなければ如何なっていたのだろうか。目の前で無残に貪られるその様を、目にすることになっていたのかもしれない。
「お……美味しいの? 寿命って」
……俺が知っていると思うのかい?」
「だって、リオセスリは食べたことないの……? 最近よく暇してるし、不真面目でしょ」
「おいおい……。これでも必死になってあんたに会いに来ているつもりなんだが……俺の想いは伝わらなかったかい?」
「はいはい。それで? やっぱり本当にないの?」
「あんたな……
……
……ないさ。俺はそういうのに興味が無い」
「(ああ。また、だ……)」
 ふいに反らされた瞳はまたあのひどく怪訝な色をしていて、リオセスリが本当に面白く思っていない事を、ありありとその青に映し出していた。
 ……時折、この死の使いには心があるんじゃないかと。ひどく聡明で、人を思いやる意思があるんじゃないかと思う事がある。まあ私の初めてのく……くっ、……口吸い、は。何も気にせず、簡単に奪ってくれちゃったけれど。だけれど誠実な人を正しいと思い、狡猾な人を嫌うような性格があるような気がするのだ。そして其れは他の死の使いにはない――『リオセスリ』だけが持つ、特別なもので。
「リオセスリって、意外と……優しいところ……とか、あったりするよね」
 普段気を遣わない態度で接している所もあって、真正面に褒めるのは少しだけ恥ずかしくなってしまう。だから少し俯いて指先をたどたどしく擦り合わせながらそう言えば……帰ってきたものはただの沈黙だけであった。
……?」
 きっとリオセスリの事だ、「そうだろ?」とか、「今更気が付いたのかい」……とか。自分を持ち上げてみせるような、茶化すような言葉を並べるものだと思っていたのだけれど……。何も言葉も行動も返さないその反応に、私は不思議に思って彼へと視線を持ち上げていく。

 だが――そこに在ったものは……。その瞳の色のように冷たく、感情も感じられない程の重たい声色だけであった。

「あんまり簡単に、人を信用していいものじゃない」
 ゾクリと……その冷酷な響きに、背筋が先程よりも震えあがったのを感じていく。なんで……なんで、そんな事を言うのだろうか。私はただリオセスリをちょっと……褒めてあげただけだというのに。思ったことを、ただ伝えただけだというのに。
「(やっぱり……まだよく、解らない……かも……)」
 少しだけ彼の事を理解出来たかと思えば、こうしてまた直ぐに解らなくなっていってしまう。自分と似通った所を見つけて親近感を覚えたかと思えば、もっとずっと遠くにある、全く別のものだったりもする。
 別に仲良くなりたいという訳じゃないけれど、ただほんの少し、好奇心がじわじわと私の背中を押していくのを感じていく。だがせっかくの彼から忠告であったにも関わらず…………。私は、彼が人とは相容れない存在であることを……しばしの間。けむに巻くように、忘れてしまっていたのであった。


  ❀


 それからまた月日が経ったある日。私の元へと……なんと婚姻の申し出があったのであった。
 相手は何度か会った事がある相手で、物腰も柔らかな背の高い好青年だ。印象も、とても穏やかで良かった。この村の人では無かったけれど……田舎の閉鎖的な村だったはずのこの場所は、今やいろんな人と物で溢れかえってしまっている。また新しい人が一人増えたところで、気にする人は誰も居ないような環境へと変貌していた。
 手を取られて、想いを告げられて……素直に言うと私は舞い上がっていた。自らの命を断とうとしていた頃からは考えられないだろう、私は今や、新しく共に生きていく人を見付けたのだ。ゆくゆくは、そう……子供も出来るかもしれない。そしたらまた『家族』と呼べる空間が帰って来るのだ。あの……もうずっと前に、私が無くしてしまっていた。二度と戻らないと思っていた『家族』と、過ごす暖かな時間が。未来が。
「あ、あの……リオセスリ。いいかな?」
「何がだい?」
「このお話をね、受けても。……その。この人と、一緒になっても……!」
…………どうして俺の確認をわざわざ取るんだ」
「だって……一応。一応、ね……? 私に口吸いしてきたじゃん、前に……
……
「だから、まあ、お伺いを立てておくべきと言いますか」
――クッ、ハハッ。あんたって、本当に……
「こっ、こっちは真剣なんだから! 笑わないでよ……もうっ!」
 自分の顔を片手で押さえて声を震わせるリオセスリに、私は怒ったように頬を膨らませていく。どうせリオセスリからしたらくだらないことかもしれないけれど、私にとっては大事な事なのだ。それにリオセスリとはもうそれなりに、長く一緒に過ごしてきている……出来れば彼からも受け入れてもらえるような、そんな暖かな言葉をもらえると良いのだけれど。
「俺が何を言ったってあんたはの意思は変わらないし、拘束させる力も無い。……だろ?」
「それは……まあ、そうだけど」
「だったら必要ないって話さ」
「リオセスリ!」
 まるで話はこれで終わりだと言わんばかりに、彼はくるりと背を向けてこの場から立ち去ろうとしていく。……だが私の声に少しだけその足を止めたかと思えば、またあの冷たく低い声でこう言ったのだった。

――やめとけ。俺からは以上だ」

「ぇ……
 シュルリと、黒の影が帯のように伸びていく。そして瞬きほどの一瞬のうちに、リオセスリはその場から姿を消してしまったのであった。……私に、その表情を見せることもなく。
「(…………)」
 まだまだやはりリオセスリについては、私には解らない事が山積みのような気がしてならなかった。それなのに彼は私の事をもう十分に知っているようで……例えその答えが何であれ、彼の言う通り婚姻の申し出を受ける事には変わりなかった。
 何もかもが順調に進み、幸せな未来が手に届くように現実味を帯びていく。一日、一日を過ごす度に、体が活気付いていくのを感じていった。……生きているとは、こういう事なのかもしれない。未来への計画を一つ、また一つと重ねるたびに、私は期待と高揚に胸を膨らませる毎日を過ごしていったのであった。



 ……だが、そんな素晴らしき日々は、そう長くは続くことなく。
 旦那様となった彼は山の向こうの遠方に畑と家があり、しばらくは往復を続けると言って村を出てしまった。帰ってきたときも滞在日数は短いもので……最後にゆっくりと話した会話はなんだっただろうか。確か私の祈祷について興味を持っていたはずだ……だが私はあまり話せることも無く、会話も陽気に弾むことは無かったけれど。
 そして僅かに期待していたような夫婦の営みも、彼とは一切行う事は無かった。それどころか……嗚呼、もしかして、私……。口吸いも、まだしていなかったかもしれない。それくらい朧げになってしまうくらいには、彼との接触は無かったのだった。そういうのは苦手だとは言っていたけれど……これでは、彼との子供は望めないかもしれない。
「(……っ)」
 暖かであった筈の未来への期待は、徐々に冬の寒さのように凍り付いていってしまう。だがそんなポツンとまた村で帰りを待つ私の前に現れたのは……笑みを欠かさない、一人の商人であった。
 祈祷師が子供を欲しがっているなど、いったいどこから仕入れて来た情報なのだろうか。だけれど彼はちょうど良い団体が近日中にこの近くを通りがかるのだという――それは孤児の子供を保護して回っている団体で、お気持ち程度……と言う名の多額のお金を払えば、引き取ることも可能であるのだと。つまりは……養子はどうだと言いたいわけだ。
 お金で子供を買うだなんて! と眉を吊り上げれば、それは誤解だと商人は慌てて私に言葉を付け足していく。支払ったお金はその団体や保護している子供たちに当てられるらしく、必要最低限の出費であることを事細かに説明されていった。……だけれど、どこか胡散臭さが残る。私がそんな視線を向ければ「もう機会は明日しかない!」と。「また明日、出直すからちょいと考えてみてくれ」と笑って、その商人は立ち去ってしまったのであった。
…………
 正直なところ。大変嫌な言い方ではあるが、村長のおかげで蓄えていたお金はたくさんあった。子供を一人引き取って、育てられる分には十分だろう。それに私以外の大人も何人か居る。育児は手伝ってもらえるかもしれない。だけれど……
「(だけど……本当に、それでいいの……?)」
 ――やめとけ。と脳裏で響く声が、あの日から――旦那の手を取ったあの日から、ずっと……。頭の中で反響するように響き、小さな余韻が絶えず揺れ続けている。……そう言えば、あの日からリオセスリは一度も姿を見せていない。忠告を聞かない私に愛想を尽かしたのかもしれないけれど……それ以前に、私も彼の言う通りにする必要だって無かった筈だ。
「(でも……)」
 それでも、私はただ『家族』を――『家庭』を、取り戻したいだけなのであった。優しく暖かであった筈の思い出の場所は、今や人の手が入り過ぎて本当の家とは呼べなくなってしまっている。……せめて子供だけでも、「母」と呼んでくれたのならば。旦那の帰りが遅く、寂しい日が続こうとも……子供たちと繋がっていられたのならば。家はいつだって帰る場所になれるし、人が住めば暖かな灯が灯されていくはずだ――

 だがその時――慌ただしくも小さく、必死になって私を呼ぶ声が一つ。もうじき陽も落ちて暗くなろうかという日没の間際に、その声は私の元を訪ねたのであった。

「お願い、急患よ……! こっちに来て、父上に見つかってしまう……!」
 それは私が初めてこのまじないで救った相手――。この村の村長さんの逞しく育った、あの時の娘さんなのであった。


  ❀


 私と彼女は不思議な縁から友達となって、この村の中でそれぞれの道を歩んでいた。だが村長の集金が度を過ぎ始めたころ……私たちはひそりと連絡を取り合うようになったのだった。
 せっかくこの村まで希望を求めて重病の患者を連れて来たというのに、お金が払えず帰るしかないだなんて、そんな話が現実にあってたまるだろうか。村長は私の機嫌を損ねないように噓を吐いたのだろうけれど、日を追うごとに祈祷に対する代金は釣り上げられているのだと……真実を教えてくれたのはこの娘さんであった。
 私は彼女を救った時から心境は変わらない――たかが一言唱えて、手を二回、叩くだけだ。こんな事にお金を取るだなんて馬鹿馬鹿しくて……だけれど村長の強制に逆らえない私たちも無力で。ただ、不甲斐なくて。申し訳なくて……だがせめてもの抵抗で私は彼女の手を借りながら、村長たちから追い返されてしまった人を、隠れて案内するように頼んでいたのだった。
 それでも全員を救えない私もまだまだ無力な存在だ。遠目から見て、足元に死の使いが居れば案内を頼む。だがそれ以外の多くの人は……ただ目を瞑ることしか出来なかった。そりゃ初めから私は嘘を吐き続けていたのだ――本物の祈禱師でも、医者でもないくせに。あたかも人を救えるような戯言を吐いてしまった。
 だがそれでも救われた人たちは彼女も含め……私の事を慈愛に溢れた人だと言う。安心したように、信頼と、その好感を向けてくれる。そして今も――私が本当に誰にも教える事の出来ない祈祷をするのだと信じ、部屋の外から中へと案内してくれたのであった。
「ごめん、移動できる場所が本当になくて……。この蔵だけが開いてたんだ……いける?」
「お願いします、お願いします、お願いします……! どうか……ッ、どうか私の息子を……!」
「うん、任せて。ありがとう。……すみませんが、こちらで少しお待ちくださいね」
 今にも泣きそうな程に祈る母親らしき人物と、彼女を外で待機させて中へと入っていく。連れてくる人は確か、何人か目星をつけてお願いしていた筈だけれど……。母親、息子、息子を連れた方……ああ! 確か二日前に頼んだ人だったかもしれない。確かあの時は親御さんに手を引かれていて――。と、私がその姿を思い出しながらも、蔵の中を覗いて目にしていったものは……

「(あれ……ちがう。この子じゃ、無い……)」

 ろくな明かりも無い中で薄く蔵の中を照らすのは、小窓から差し込む月の光だけであった。だがその姿だけでもハッキリと解る……体を包み込むほどに大きな防寒具を纏った、別の子供がそこには寝かされていたのであった。……しまった。色合いや全体的な印象が、遠くからでは難しかったのかもしれない。現に意図していない人を連れてきてしまうのは……これが初めてのことでは無かった。
 強いて言えば、死の使いが傍に居なければ、その人物の死期は近くないと言える。私では病気を治すことはできないけれど、直ぐに亡くなってしまう訳はない事は、私も伝えることが出来たのだ。噂を耳に私の事を尋ねに来る、そのほとんどがこれに該当をしている。だから今までの手違いはそれとなく流すことで、この場を切り抜ける事が出来たのだけれど……
………………
 ……ねえ。なんで。なんで? 絶対におかしいよ、そんなの……。だってこの子は服に着せられてしまう程に幼く、手足だって包まれたその布から出せないくらいに小さいのに。ここまで連れて来られる程に母親からの愛もあって、しっかりと生えている髪はきちんとご飯を食べさせてもらっている証拠なのに……。まだようやっと歩けるようになったくらいかもしれないのに――まだまだこれから、色んな成長と未来があるはずなのに――

 一か二ほどしか歳が感じられないその赤ん坊の傍らには――ただ静かに、そこに在るだけのように。ふうふうと見ていられない程に苦しそうな呼吸を続けるその表情――かの者の、その枕元の傍へと。ただ双方の瞳を閉じたままに、ひっそりと佇む姿があったのであった。

「(枕元の、死の使い……)」
 決して初めて見た訳ではないけれど、そこに佇む死の使い……その目を引くような特徴的な容姿は、明らかに出会ったことは無いと断言が出来るほどであった。
 白の長い髪がさらりと背を伝って流されていて、その中には二本の青い毛束のようなものも混ざっている。瞳は、今は静かに閉じられているが……その切れ長で繊細な美しさを纏う様子は、ありありとその白の肌の上から伝わってきていた。……一瞬、髪が長いので女性なのかと思ったけれど。その藍と白が混ざった和装は、男性の装いと体の作りをしていた。
 だけれどこんな美しい彼でも――死の使いとして、この子の命を狩ってしまうのだろう。枕元の彼らは追い払えないとされている――だけれど、まだこんなに……こんなにも、小さくて、幼い子供なのに。私の何分の一も生きられていない……まだ何も、何も知らない赤子なのに。
――ッ。あの……
……
 ……リオセスリは、枕元の彼らは真面目な奴だと言った。もしかしたら話に応じてくれるかもしれない。――何か特別な案が、聞けるかもしれない……
「あのっ。……ねえ、聞こえてるんでしょ? 私は、あなたの姿が視えています。白い髪の――『死の使い』、さん」
…………ふむ」
 そろりと、やはり美しいその瞳は開かれていく。中には紫陽花色のガラス玉のような瞳が覗き――そしてその鋭い眼光は目線だけでぎょろりと、強く私の方へと向けられたのであった。……まるで、屏風に描かれた龍のような瞳だ、と……。彼は龍でも人でもないと言うのに、そんな不思議な感覚に陥ってしまったのであった。
……君は、私が視えているのだな」
「あっ、は……はい」
「要件はなんだろうか。すまないが手短に頼みたい。……もうすぐ、この子の火種は潰える」
――ッ!!」
 静かに私からその子へと移されていく視線に、ヒュ……ッ、と息が詰まりそうな圧迫感を覚える。
「あ――待っ、待ってください……! この子はもう……、本当に、駄目なんでしょうか!? 何も、手立てはないのでしょうか……!」
 ふうふうと荒く続けられる呼吸は浅い。焦って息が吸えなくなる程の私の比じゃないのだ。……この子はまだ、まだここで生きている。ただ見ているだけで何もできないだなんて、そんな事があってはならないと言うのに……
「人は生まれながらにしてその長さが決められている。これは定めだ……この赤子もまた、己を全うしようと最期まで命を燃やし続けている。我々にはただ、見届けることしか叶わない」
――嘘だッ!」
 思わず大きめな声を発してしまった私に、彼はまたこちらへと顔を向けていく。……死を見つめる厳格な視線に、受け入れろと言わんばかりの落ち着いた声色。躍起になる私とはまったくの正反対で、思わず声が震えて……怯んでしまう。
「ま、まだ……試してないことが、ある……ッ! 全部をやらなきゃ、何も出来ないだなんて、言えないじゃない……!」
…………
 ぐっと握り締めていた手のひらが、手汗いっぱいになってしまってひどく指先が滑った。バクバクと心臓は飛び出てしまいそうな程に、体の内側から胸を叩き続けている。
 ――要は。要はこの目の前の彼が、この子の傍から居なくなってしまえばいいのだ。迎えに来る死の使いこそ居なくなってしまえば、この子はきっと、ここに在り続けるはず――

「亜蛇羅火目連、手卦裂津之破……!!」

 パンパンッ! と手を荒く叩いて、私はその背の高い死の使いの様子をうかがっていく。……もう私には、この方法、この武器しかないのだ。もしこれが通用しないのであれば、彼の袖を引っ掴んででも離させるしかない。
 だが私のそんなまじないの言葉に、彼は一呼吸の間の後に……ゆっくりと。だが、ハッキリと驚いたように……その瞳孔の鋭い瞳を見開いていく。
 一度、彼は子供に目をやっていき……そしてこちらを、まじまじと何も言わずに見つめ続けて来た。その探るような瞳は体の奥底まで正当に見透かすようで、どうにも嘘と罪の前では居心地が悪かった。……昔の無垢であったはずの私なら、堂々としていられたのだろうか。ふとそんな言葉を脳裏に浮かべたところで、彼は溜息も、諦めも、怒りの様子も見せず……。ただ憂いを帯びたような瞳で、私の事を見つめたのだった。

「嗚呼……。君で、あったのか……

……?」
 彼はそれきり子供の枕元から離れ、そのすらりとした長い脚を一歩、私の方へと近寄ってみせる。ずいと迫ってきた胸板は広く、彼はその流れる白の髪と共に、私の体へ影を差すように見降ろしてきたのであった。
「すまない。私の姿が視えると言った時点で、君を疑い、警告を出すべきであった」
「け、警告……?」
 思わず身構えて一歩後ろへと下がれば、すぐに蔵の壁へと背中が激突していく。だがその死の使いはそれ以上迫ることは無く、ただまた悲しげな瞳で私を憐れむだけであった。
「今となってはもう過ぎた話だ。……おめでとう、君の願いは成就された。この子はこれからも生き続けることだろう」
 喜ばしい事なのに、めでたい話なのに。彼は淡々と、そして降り続ける雨のような憂いを込めて話していく。それは命を狩り取れなかったその子に対してではない――『私』に向けて、彼はそう言い続けていたのであった。
「この子を見届けるという私の責務はこれで無くなった。私はこれで失礼する」
「まっ――、待って! 待って……本当は、なんて……言おうとしてたの……?」
 水のように流れる闇の渦を作り出し、彼は空間を滲ませて扉のような穴を造っていく。……明らかに、今まで出会って来た死の使いとは格が違った。この品を持ち合わせた口調もそうだが、明らかに力が抜きん出てしまっている。
…………
「警告! さっき言ってた、警告の話……!」
……ああ」
 その渦に身体をゆっくりと沈ませながら、彼は消え入る前にもう一度だけ……。私のことを一瞥して、こう言葉を残していく。

「我々と同等の存在を騙る、氷のような色を持つ瞳の男がいただろう……。彼の言葉に決して耳を傾けてはならない。甘い誘いは……その身を滅ぼす為だけに作用し続ける」

「え…………
――君とて、例外では無かったという話だ」
 トプン……。と彼はそのまま闇に溶け、その場から消えるように姿を消していった。残されたのは、茫然と立ち竦む私と――穏やかな顔で眠る幼子が一人。…………待って。彼はさっき、何と言った……? 氷のような瞳の男――まさか、リオセスリの事を言っているだろうか。
 だがそんな疑惑が脳に差し込んだ所で、ドンドンと蔵の扉が叩かれていく音が聞こえてくる。……きっと、あまりに普段よりも時間がかかっている私の事を、心配してくれたのだろう。「終わったよ」と明るく声を返せば、飛び込むように中へと入ってきてくれたのであった。
「ああ、あああ本当に……! 息子の病を治して下さったのですか……!?」
「うん。もうきっと大丈夫だよ。暖かくして、気を付けて帰ってね」
 何度も何度も下げられる頭に、私はひらりと手を振ってその蔵を後にしていく。早いところ、私はいつもの寝屋へ。彼女たちは普段の在るべき場所へと……戻らないと不審がられてしまうのだ。だけれどまあ……あの子を結果的には救えてよかった。あの死の使いも生き続けると言ってくれたし、誰も望まない結末を迎えずに済んだのだ。



 虫と、鳥や……生き物の鳴き声が、木々と闇夜に溶けながら聞こえてくる。辺りはもう真っ暗になってしまっていて、そのお陰もあって誰にも気づかれないように、ひっそりと村の裏の山道を辿っていった。
 いつもならそう遠くはない筈の帰路が……やけに今日は、長く感じる気がしてしまう。暗闇だとは言え視界もかなりぼやけているし、何処か息切れをした時のような、喉の辛さと燃えるような熱を感じてしまった。
「うっ――。ごほっ、ゴホゴホッ……ゴホッ、ゴホッッ!」
 酷い咳が、喉を突くように出ていった。其れと同時に戻してしまう時のような、口内のぬめり気と液体の違和感を吐き出していく。――ビチャ。と溢れた其れは、木々の根元に落ちて滴っていった。あまりの不快感に手の甲で口元を拭えば…………どうしてか、ひどく鉄臭い鮮血の香りがした。
「ぇ……
 手の甲も、汚れた口元も、吐き出した足元からも血の匂いが漂っている。これは指を切ってしまった時のような、ちょっとした出血とは比べ物にならない。明らかに桶で掬ってばら撒けるほどに……大量の血と、迫る死の匂いが充満していた。
「(あ……れ? わた、し……)」
――やあ」
 だが……そんな風にその場で立ち止まってしまった私を、なんてことないように迎える影が一つ。その男は闇夜に昇る月を背景に、にこやかな笑みを乗せて私へと声を掛けたのであった。
……氷のような色を持つ瞳の男……彼の言葉に決して耳を傾けてはならない……
「(ぁ……)」
「随分と久しぶりの再会だな。調子はどうだい? って聞きたいところなんだが――
 そろりと見上げたその空色であった瞳は……今や、深い闇に塗りつぶされたように――黒く。


…………あんた、俺に何か言う事があるだろ」


 ビクンッ――と、体が大きく震え上がった。それは全てを見透かした様な、既に『知っているぞ』という絶対的な圧力をかけられる瞳で。
「(――ッ、はあ……っ、はあっ、はあっ……!)」
 ドク、ドク、ドク、と心臓が肌を叩き、嫌な汗が全身をぐっしょりと濡らしていく。……そうだ。私は彼との約束を破ってしまった。枕元の死の使いには唱えてはならないと言われていたのに――そのまじないを使って、白い髪の彼を追い払ってしまったのだ。
「わた、わたっ……――――ウッ、ゴホゴホッ! う、ぉ、え……っ、カハッ……!」
 酷い咳と吐血が止まらず、胃と内臓がぐるぐると混ざり合うように気持ち悪くなっていく。貧血の時ように頭がふらりと揺れてしまったかと思えば――リオセスリはいつの間にか私の片腕を掴み、そして体を支えてくれたのだった。……いや、違う。引っ張られるように引きずられている。その足が向かう先は家の方角ではなく――さらに深い森の奥であった。
「待っ……て、リオ……セ、スリ……。どこ……
……
「帰らなきゃ……わたし、みんな、心配して……
……あんたを生きた金づるだとしか思っていない村長と、それを食い物にして肥えるあの村の住民がかい?」
「な……
 ぎり、と掴まれた腕に痛みが走る。そこまできつく締められたりでもすれば、指先の血管が止まってしまうかもしれない。だけれどリオセスリは強引に腕を引く力も足も休めず、ただ突き進むように森の中を進んで行った。
「だっ、旦那も……もうすぐ、帰るって便りが来たの。それに明日になれば、子供も……迎え――
「ハッ――。金と地位目当てに近付いた男に、居もしない子供の儲け話かい? なああんた、人を騙しているのは自分だけだと思っていないかい。少なくともあの男はあんたの他に数人……この村だけでも女性を掛け持ちしている」
「ぇ……
……あんなのであんたの男が務まるのなら、俺たちはもう熟練夫婦の域になっちまうな」
 少しだけ……リオセスリが腕を掴む力に、弱さが入って血管の血が巡っていく。だけれど私はそんなことを気に掛けている余裕なんて無くて……ただそのリオセスリの告げた、悪夢のような現実の話に。……自分でも何処か薄々、感じてしまっていた事実に。でもそれでも信じたくなくて――目を反らして、誤魔化し続けていた現状に。脳と追い付かない感情は理解を拒んでしまっていて、リオセスリのその言葉にただ沈黙を返すだけになってしまった。
「で――でも、それでも……帰らなくちゃ」
……
「私の力が、必要な、人たちが来るの。……明日も、毎日、毎日……
……ああ」
「ごっ……ごめん、なさい……。私、リオセスリとの、約束……破っちゃった」
「そうだな」
「も……、もうしないから。ちゃんと、気を付けるから……! だから……!」
 そこまで突き進んでいたリオセスリは初めて、その場でようやっと立ち止まっていく。……目の前には少し屈んだらくぐれる程の、岩場に出来た小さな洞窟があった。リオセスリはそのままゆっくりと私に振り返り、腕を掴んだままに見下ろしてこう告げていく。

「ああ……俺としてもとても残念だ。これが『ごめんなさい』で済む話ならよかったんだがな?」


  ❀


 ピチャン、ピチャン……と洞窟の中を、水滴が落ちる音がやけに響いていく。狭い入口のそこには月灯りすらも差し込まないというのに……その中は暖かみのある暖色で満たされていた。――――数千万ほどありそうな蝋燭の灯が、ゆらゆらと壁一面を覆い尽くしてしまっている。小さくても轟々と燃え盛る炎に肌を焼かれてしまう程のには、熱気が其処には揺らいでいた。
「さあ、お嬢さん。手のひらを出して」
……っ、……ッ!」
「いいから出すんだ。……そんなに怖がらなくていい」
「ヒッ……! は、い……
 有無を言わさぬほどの圧力と声色の変化に、私は大人しく震えた片手を差し出していく。手のひらを上に向け、その指先を緩く開かせていき……。ぶるぶると震えてしまった残像は、指先を数本に増やしているかのようであった。
「落とすんじゃないぞ。これはあんたの大事なもんだ……さ、受け取るといい」
 ――べしゃり。と何かドロドロに溶けたようなものが、白く、私の手のひらに落とされていった。其れは餅のように真っ白なもので、お粥のように粘り気があって。そして指の合間からボトボトと、零れ落ちてしまうようなものであった。

「それが、あんたに残された蝋燭の火だ――。蝋の長さはその人物の寿命の長さを表している。……もって数分、といったところだな。あんたの火は、もうこの夜を越えられそうにない」

……………………
 ――チリッ、チリッ。と裂くような痛みが、手のひらに焼け付くような感覚が襲う。おそらくすり減ってしまった蝋が、もう間もなく肌まで到達してしまうのだろう。そして火が消えてしまったその瞬間…………私は、この現世と別れを告げなければならない。
「いっ、嫌……! 嫌、イヤ――……あぁあ、ツッ!? 熱い、熱い、あつい……!!」
「気を付けて持つんだぞ。ふいに落として火が消えてしまったとしても、同じことが起きるからな」
「アァ、あッ……! なんで、――なんでッ!? わたし……!」
「なんでって……あんた自身が蒔いた種だろ。あんたってつくづく優しい女だよな……その今にも消えちまいそうな蝋と、親切に『交換』してやったんだから」
「は…………!?」
 手のひらで直に炎を掴ませられているかのような感覚に、今にも肉と骨が焼けて爛れるような気がしてしまう。手に穴が開いて……その中心部から、蝋が零れ落ちてしまいそうな幻覚に苛まれるのだ。……だが実際に目をやれはまだかろうじて蝋は残されているし、皮膚が焼けたような火傷の痕跡も無い。だが消え入る蝋と命の炎を持つという事は、痛みすらも超えた熱を与えてくるようであった。
「あんたは俺がやったこの呪い(まじない)を、奴らを追い払うための万能な呪文だと考えた。だが――実際には、それは違う。つまみ食いをしたくて目を掛けてた獲物が突然擦り変えられちまったから、驚いて逃げていっただけなのさ」
………………
 ジリジリ、ジリジリ、と。手のひらの命が焼け続けていく。
「だから枕元の奴らには使うなと、俺はちゃんと忠告をしたはずだ。だが…………まあ、結果は同じでも、あんたみたいな奴は調子が狂うな。大体は金に目が眩んで欲に従うんだが……たった数年の命の為に、その身を捧げちまうとは」
「しらっ――知らない、知らなかったの、私……! ねえ、お願い……リオセスリ……!!」
「だから『ごめんなさい』で済む話じゃないって言っただろ? ……な?」
 ぽんぽん、と。まるで子供でもあやすかのように、リオセスリはその大きな手で私の頭を撫でてくる。――だが燃え盛る手とガタガタと震える体は、確かな死の直面に恐れを抱き続けていた。
「ぁ、い――やだ、死にたくない……! 死にたくない……ッ! まだ……ガハッ……死にたく、ないよ……リオセスリ!」
 私は開いている片手で彼の布地を掴み、目一杯の涙と共にその顔を見上げていく。……ひどい頭痛が視界を眩ませていく。喉の熱の感覚はもう解らなくなってしまっていた。血を吐き、手を焼き、燃え尽きそうな蝋を抱えて縋る私の姿は……さぞかし無様で滑稽なものだっただろう。だけれど心の何処かでは逆にまだ『生きている』という心地がしていた――彼に出会った頃の私が見たら、本当に自分なのかと疑ってしまう程であろう。
 特に何かを成し遂げられるような、素晴らしい生では無かったけれど。その人生が幸せだったかと問われたら……少し返答に困ってしまうけれど。それでもまだ『生きたい』だなんて思えるくらいには、私は今の自分の居場所に何かしらの納得をしていたのかもしれない。『帰りたい』……ただそんな単純な願いが、ほろりと熱となって瞳から零れ落ちていく。だがそんな誰にも救えない私に手を差し出してくるのは…………またしても、この目の前の男ただ一人で。


「なあ……助けて欲しいかい?」


 いつぞやに掛けられたその声と同じように、リオセスリは少し背を丸めて屈み、私の耳元へその薄い唇を寄せていく。
『決して耳を傾けてはならない』
 ……わかってる。解っているんだ、ずっと……。だけれどそれ以外の選択肢なんて無くて、私はまた彼の言葉を耳に聞き入れてしまう。
「別の蝋燭に火を移すといい。ちゃんと火が移りさえすれば……あんたはその蝋の分だけ、また長く生きることが出来る」
 すっ、と体を起こしたリオセスリが教えてくれた方法は、それほど難しいと思えるものではなかった。何故ならこの洞窟内には山ほどの蝋燭立てられていて……そのほとんどに火が付いているものの、まだ灯っていない物もいくつか簡単に見付けられていく。
「そ、それだけで……いいの!?」
「ああ、もちろんさ。あんたが生き長らえたいのならな」
「(良かった……!)」
 案外、命の仕組みは簡単に出来ているようで、私は辺りを見渡してまだ火のついていない蝋燭を探していく。……だが、いくつか見つけてしまうと、つい人は選んでしまうものだ。それは八百屋で少しでも大きいお野菜を買うのと同じことで、私は火のついていない蠟燭の中でも……無意識に残りの長いものを探そうとしてしまう。
 あれ……? でも、待って……変じゃない? それなら蝋燭なんてみんな長いもので良いはずなのに、どうしてわざわざ最初から短い物もあるのだろうか――
『人は生まれながらにしてその長さが決められている。これは定めだ……この赤子もまた、己を全うしようと最期まで命を燃やし続けている』
「(あ――…………)」
 ……ぽと。と、私は手に取っていた未使用の長い蝋燭を、そのままその場所で低く、力なく落としていってしまった。コロコロコロ……とそれは静かに転がっていき、そして他のまだ火の灯っていない蝋に当たって、肩身を寄せ合うように並んでいく。……そう、それはまるで兄弟のように、仲睦まじく寄り添い合うように。
「どうしたんだい? あんたの火はもうじき消えちまう。急がないと、間に合わなく――

 その瞬間――――パンッ! と乾いた強い音が、その洞窟の中に一度だけ響いていった。


「この……ッッ、外道……!!」


 ゴフッ、と強く動いた反動で、また血の味が口内に広がっていった。彼に叩きつけた手のひらはジンジンと腫れたように痛み、またそれが心臓を締め付けてぐっと苦しくなっていく。手のひらでいまだかろうじて燃えていた火は……その動きに、奇跡的にも消えることは無かった。だがもう蝋は透明に溶けて肌を透かし、本当の『終わり』が直ぐそこまで近付いて来ている。
「これは……まだ、生まれてない、子供たちの……ッ、分だ……! これを、はあっ……使うだなんて……!! そんなのッ、出来るわけ――ないでしょ!!」
 私がどんな気持ちで家族を欲しがって。どんな気持ちで我が子を渇望して……。そして、例え己の身を捧げてしまったとしても、最後のあの子を『助けられて良かった』と思う気持ちなんて――。この人でなしには到底、理解することなど出来ないのだろう。
 だが人生の中で一番に怒りに震える私を前に、目の前の男は――この、リオセスリという存在は――。ただ呆けたように私に平手打ちをされた、自分の大きな頬に手を当てていく。…………そして、そろりと満身創痍の私を見下ろししていき――

 ――何故か、また楽しそうに口元を歪めるだけであったのだ。

「くっ……ククっ、はっ――ハハハッ! ハハハハッ!! あー……ったく、あんた…………本当に最高だな」
「はぁ……、はぁ……っ」
「俺に向かって『外道』とはね。――クッ、くくく……。ああ――ああ、そうさ。人間の道理から見たら、俺なんて、悪意と性悪に満ちているだろう」
「は……
「安心してくれ、さっきのは半分が嘘だ。自分以外の蝋に火を灯す事など最初から出来ない。あんたが死ぬ間際まで頑張ろうとする様を、ゆっくりと拝ませてもらうつもりだったんだが……
 長い脚が一歩、また一歩と辺りを歩き、そして私の前でピタリと止まる。……これが、彼の隠された正体なのだろうか。ああ駄目だ、だめだ……視界が眩む。瞼が眠くなるように重たくなっていった。
……気が変わった。あんたにコイツをやる」
 スッと、彼が袖の中から差し出してきたものは、真っ黒な蝋で固められた明らかに異質な一本の蝋燭であった。
「安心してくれ、これは誰のものでもない。あんたが望むならこれに火は灯るし、それのせいで他の誰かが犠牲になるような事も無い」
「はーっ、…………
 霞む視界の中でじろりと彼を見上げていけば、また人当たりの良さそうな笑みを向けられる。だけれど何だか……どこか、何かが今までとは違うように見えた。だけれどその些細な違いは、今の私には言葉に形容することが出来ない。
「それを、今更、信じろって……?」
「好きにすればいい。だが、あんたはきっと信じてくれる……。俺はそう信じているさ、あんたがここで死にたくないと思うんならな」
……ッ」
 悩む時間も、戸惑う瞬きすらも、一秒一秒が惜しくて私はその黒い蠟燭を掴んでいく。そうして痛みの感覚すら鈍くなってきた命の灯の手を掲げ、そこに糸の先を垂らすように寄せ合わせていったのであった。

 嗚呼――駄目だ。手が震えて、位置が少しも定まってくれない。
「俺が支えよう。頑張れ……落ち着くんだ、そう」
 火が踊るように揺れて霞む。ああやだ、やだ、嫌だ――! 死にたくない、死にたくないよ……
「大丈夫だ、まだ灯っている。……大丈夫、そう。大丈夫だ」
 ゆっくりと合わせて、糸に火を移らせて……
「火が付く様子を想像してみろ。この蝋燭にあんたの火が灯るんだ」
 やだ、消えちゃう。消えちゃう――! 付いて、付いて! 付いて、付いて、付いて――お願い!!
……
 お願い付いて! 消えないで、お願い――早く……!! …………………………

 その瞬間。――ボッ、と。小さな……本当に小さな音を立てて。片手に持っていた黒の蝋燭へと、同じ赤い火が灯されていく姿が目に焼き付いていく。
 だがそれと同時に――――ストン、と。何かが、私の体の中から抜け落ちていくのを感じてしまった。それは重さにするととても軽いもので…………例えるならば、二十一グラムほどの『何か』だったのかもしれない。
「(………………あれ?)」
 私は明らかに体を襲ったその喪失感に、何か大事な物を失ったような錯覚に陥っていく。だがそれが何かを掴むことが出来ずに、ただぼうっとその場で目を開いていれば……。リオセスリは私の今にも消えそうな火を灯す、白であった蝋燭を乗せていたほうの腕を、がしりと強く掴んで顔を寄せたのであった。
「おめでとう、あんたは本当によくやった。今日からあんたの蝋燭はこっちに切り替わることになる。新しい人生の門出とも言えるな」
 火が灯った黒の蝋燭を私の手からするりと抜き取って、彼は大事そうにその手の内に収めていく。

「ところで――海の向こうにはこんな文化が在るのを知っているかい。誕生日とされる日には甘い菓子の上に蝋燭を立てて、そのお祝いとして火を吹き消すんだ」

 ――――な。

「だからこっちの方はもう『要らない』だろ? 疲れたあんたの代わりに、俺が『お祝い』をしてやる」

「いや、いや――イヤ……!! 待っ――!!」
 何かが、少し、おかしいとは思っていたんだ。だけれど私はそれに踏みとどまることが出来なくて、結局言葉巧みに翻弄されてしまう。
「ヤダ! やめて……やめてっ!! リオセ……!」
 どれだけ力任せに腕を引っ張ってみても、ビクとも動かぬその腕は。まるで岩の中にでも埋められたかのように微動だにしなくて、彼はその消え入りそうな火に口付けでも落とすかのように……。だたゆっくりと目を閉じて、唇を寄せていった。

 ふっ……

 そしてその音を最後に、私の意識は暗転していく。落ちて――落ちて――どこまでも抜け落ちていくようなその意識の底で、辛うじて私の耳に届いた声は……。「あんたはもう俺の物さ」という、溶けて崩れた蝋よりも粘り付くような、爛れた感情を含んだ言葉であったのだった。


  ❀❀❀


 ブロロロ……と自動車が走っていく。空にはまっさらな快晴が広がり、電柱の電線がいくつも蔓延っている。ちょうど目の前の信号が青になるにつれて、人々は横断歩道をゆっくりと渡り歩いていった。――それは今日の思い出話なんかを語りながら、友人と肩を並べて帰路を辿っていく。
「ね! なんか、今日の噺家さん……すごかったよね!」
「なんて言うか、こう~マジで経験した、みたいな?」
「あ~、わかるわ~それ。俺なんか最後、怖かったもん。あれから起きなかったらどうしようって」
「あはは、馬鹿だな~。ちゃんと起きるにきまってるでしょ?」
「だけどよ~」
 ワイワイと騒ぐ若者たちは、そのままゆっくりと歩を進めていく。自転車はチリンチリンとベルを鳴らし、バイクは道路の脇を通り過ぎて行く。街のどこにでもあるような……一般的な、日常の光景だった。





 ……シン、と静まり返った高座の上で。一人の女性は前から崩れ落ちるように、その場でぐったりと横になっていた。しばらく人形のようにピクリとも動かなかったその体は……ある程度の時間と間を置いて、その指先を僅かに動かしていく。
 寄席のお客さんはもう誰も居らず、それが今回のサゲの演出としていた。噺の一番持ち上がる最後の場面に、噺家が、その登場人物と同じように崩れ落ちていく――。そしてピクリとも動かない照明を落とされた下で、寄席のお客さんたちに帰って頂くという大胆な発想であった。
 今回のトリを務めた女性の噺家は、そのまま暗い高座の上でゆっくりと腰を起こしていく。きちりと正座の所まで戻ったところで…………パチパチ、パチパチパチ、と。誰も居ないはずの寄席から、一人分の拍手があがったのであった。
…………
 女性はその高座の上から、じとりと重くなるような視線を向ける。だがそれを向けられた人影――男性は、そんな視線をものともせずただ受け流していき、そして満足そうに拍手を続けていくのであった。
 その手が、両の手のひらが重なるたびに、チャリチャリと鎖がぶつかる様な小さな音が鳴る。男は紺や深色をベースとしたようなスーツを身に纏い、その緩い胸元にはワイン色のネクタイが揺れていた。

「ああ――今回も面白かったな」

 男の絶賛の拍手の傍らでは、厳重に鎖に巻かれたランプが一つ。中では一本の蝋燭が灯されており――その紅い火は、今も、今も、揺れ動き続けている。そして全ての光を飲み込むような真っ黒な蝋は…………今日もただの少しも減ることなどなく、彼の傍らで燃え続けていたのであった。