My Sweetie(かしへい)

現代で伊東先生と藤堂君が同居している話。現パロ女体化にょたゆりかしへい。

1,

 伊東甲子太郎という勇ましい名前の通りに、彼女は凡百の男なぞ遥かに及ばない才色兼備の女だった。
 頭脳明晰、秀外恵中、文武二道。非の打ち所のないように見えて、少々の悪癖——正論で人を逆撫でするような物言いが人心を損なわせたが、元来人はそれぞれに欠点のある生き物である。むしろ伊東に限っては、そこはかとなく人間じみたユーモラスな愛嬌を生み出していた。
 今川財閥の子息付き秘書となって重宝されること八年、三十路を超えたいまもなお多忙を極め、常につややかな濡羽の髪は夜会巻きに結い上げ、糊の効いたタイトなスカートスタイルのスーツをまとい、ハイヒールの音高らかにオフィスを闊歩する。
 そんな彼女に浮いた話はとんとなく、社内ではひそやかに行き遅れとささやかれ、生涯を仕事で埋めるつもりなのだろうと褒めそやした。もっとも、十把一絡げの異性は伊東とまともに応答することすらままならない。口巧者な伊東に矢継ぎ早に丸め込まれて、肩を落としてすごすごと立ち去るか、あんな女らしくない女なぞ願い下げだと怒り出すかのいずれかであった。



「ただいまぁ〜」
 三十階建てタワーマンションの二十七階、高層階の自宅に帰ってきた伊東は、扉が閉まるなり疲れ切った声をこぼした。ハイヒールを転がすように振り切り、その場でスラックスとストッキングも脱ぎ捨てる。身に着けていた女の鎧を剥がしながら洗面所に入り、籠に洗濯物を乱雑な手さばきで投げ捨てていると、ぱたぱたと足音がやってきた。
「おかえりなさい。お先お風呂入られますか? 沸いてますよ」
「ありがと、藤堂君。そうする。あ~疲れた」
 ひょっこりと顔を出したフリルエプロン姿の少女——のように見えるのは彼女がひときわ童顔だからで、れっきとした成人女性である——が化粧を落としている裸体の伊東を見てきゃっと顔を背けた。裸くらい何度も見慣れているくせに、いつまでも初心で可愛らしい。伊東は手早く肌にクレンジングオイルを塗り込みながら苦笑する。
「きょ、今日はシチューなので! あっためてきます!」
「はぁい」
 伊東が返事をすると、またスリッパの軽い音をかき鳴らして藤堂は駆けていった。
 ほかほかになった伊東がバスルームから上がってくるころには、ダイニングの方向からはシチューと、焼きたてのパンの匂いが漂ってきていた。
「お疲れさまです。できたところですよ」
 すでに夕食はセッティングされている。伊東が匂いにつられるようにして着席すると、角切りのチーズがころころと乗ったサラダも出てきた。伊東は半分夢見心地のような頭で温かなバゲットにバターを塗り込み、シチューをひらりと掬う。
「あちっ……。いただきます」
「いただきます」
 向かいにエプロンを外した藤堂が着く。たちのぼる湯気に彼女がけむったように霞んで、伊東はまばたきをする。ささやかな幸福は少しも変わらず目の前にあった。
「しあわせ……
「今日はジャガイモ二種類も入ってるんですよ! ……と云っても、残り使ったら足りなかったから新しいの開けただけなんですけど。デストロイヤーっていうすごい名前の、皮が紫色だったんですけど剥いたら中は普通で」
「ああ、ちょっと色が違うね。より黄色い方がそうかな?」
「ええと、たぶん。そうです。スーパーの特売品になってたんです」
 藤堂が嬉しそうに語るのを伊東は軽快に相槌をうつ。どんなに遅くなっても夕食を一緒にとる取り決めだった。
 秋口のシチューはほっこりと温まった。藤堂が食器の洗い物をしている間に伊東は就寝前の習慣でストレッチとスキンケア、メールチェックをこなしていた。明日の予定は社長に合わせ出張だ。新幹線で移動するので日帰りだが朝が早い。分刻みのぎちぎちのスケジュールを頭に叩き込んでいると、片付けを終えた藤堂が二人分のルイボスティーを運んできてくれた。
「明日、僕早いから。六時出発」
「お弁当お作りしますか?」
「会食だから結構です。お見送りしなくていいからね」
……はい」
 なんとなく不満そうな藤堂にありもしない白い尻尾がしゅんと落ちる。伊東は仕事用のしかめっ面をやわらげて藤堂の手を引いて座らせ、あやすように顔中にキスを降らせた。恥ずかしそうに享受してくれる藤堂がいじらしくて、いくらでも甘やかしてやりたくなってしまう。
「ケーキを買ってきてあげる。何食べたい?」
「チョコがいいです」
 素直に希望を告げてくれることに伊東は喜びを隠せない。チョコレートケーキは藤堂のとくに好きなもののひとつだ。
「わかった、チョコね」
「小さいのにしてくださいよ? 太っちゃうので」
「藤堂君なんて、もう少しやわっこくなったっていいんだよ」
 日頃の運動量のわりに小食なせいか小柄なまま、華奢な腰回りを遠慮なく鷲掴みすると、くすぐったそうに腰が揺れた。膝に乗せても天使と見まがうほど軽い。寝るならベッドにしてくださいとたしなめる藤堂の身体をやすやすと抑え込み、桜色の唇にかぶりつく。
 舌を差し込むと藤堂はおとなしくなる。歯列をなぞって鋭敏な上顎のあたりを舐めてやると熱っぽいような吐息がこぼれた。お茶の味じみたどちらとも知れない唾液を飲み込み飲み込ませながら、耳たぶを執拗に撫でていると、おずおずと腕が背中に回されて背中が痺れる。
 ちゅっと音を立てて離したときには、藤堂の唇はリップクリームを塗ったように艶やかに濡れていた。色素の薄い頬がほてっている。
「ううん……だめ?」
「明日早いんじゃないですか、だめです。僕もバイトあります」
 きっちりと釘を刺された。仕方ないな、と伊東は最後に鼻を擦り合わせるような触れ合いをして、身体を離してやる。
 藤堂はひと息の呼吸を置き、意を決したようにいっそう頬を染めた。
「そのぶん、週末空いてましたら……サービスしてあげなくもないです」
「言質取ったよ?」
 意地悪に云い放つ伊東にもひるまず、藤堂は緊張を帯びた顔で首肯する。九歳も歳下の可愛い恋人がお誘いをしてくれている。伊東は週末こそ何が何でも休日を確保することに決めた。





2,

 藤堂のバイト先のファストフード店の朝はとても早い。ただ、藤堂は小学生の頃から夜明け頃に起き出して勉学に向かっていた癖が抜けきらず、夜番よりは朝番のほうがいくらか楽だったので、朝一で出て昼頃に上がるサイクルでいまも回している。それに、いつも多忙な同居人は、藤堂が帰りを迎えてくれることをとみに喜んでくれる。
 いつものように昼下がりに帰宅した藤堂は、玄関の真ん中にハイヒールのパンプスが脱ぎ捨てられていることに気づいた。背後でオートロックのドアが自動的に鍵をかけるメロディが鳴った。藤堂は自分のスニーカーを脱ぎ、パンプスも揃えて靴箱に立てかけて、スリッパに履き替えた。洗面室の洗濯籠は出勤前と変わっておらず、藤堂は首をひねりながら手洗いうがいをこなしてリビングに行った。
「伊東先生? お帰りでしたか?」
 はたして呼びかけの返答はない。エアコンは暖房がつけっぱなしだったので消した。
 藤堂は通勤用のリュックを床に下ろし、少々もてあまし気味のだだっ広いワンルームの、テレビの前のL字ソファに忍び足で近づいた。伊東のお気に入りの定位置なのだ。
 いつもならそこには、ガラス製のローテーブルがある。藤堂が地べたに座るときにはちょうどよい高さで、伊東には少々低い、同居前にいつのまにか増えていた家具のひとつだ。
 しかし今日は違うものが置いてあった。先週取り替えたばかりのホットカーペットの上には天板も毛布も真っ白なこたつがどんと鎮座していて、そこにふわもこな着る毛布のルームウェアをすっぽりかぶった伊東が突っ伏して寝落ちていた。
 藤堂がそばにうずくまって覗いてみると、化粧も落としていない寝顔は険が寄って、窮屈で苦しいせいだろうなあと藤堂はため息をつく。首元からシャツが見え隠れしていた。直前まで着ていただろうダークバイオレットのジャケットはソファにひっかけられている。
 ついと視線をずらすと、テーブルには四本のビール缶が転がっている。パック寿司の空箱と、煮干しとアーモンドのつまみ袋がゴミのまま乾いていた。
 突然現れたこたつの存在感は気になるが、いつまでも放置しておくわけにはいかない。藤堂は伊東の肩を揺らした。
「伊東先生ー? 寝るならベッドにしてください、風邪ひきますよー」
……んぅ」
 いつもはきっちり結い上げている髪がほつれて端麗な顔にかかっている。くたびれた大人の色気が匂い立つようで、藤堂は口内につばが溜まるのを感じた。
「せんせ、……キス、しちゃいますよ」
 精一杯の甘さを乗せてささやいても、伊東はぐっすりと寝息を立てている。
 よほどお疲れなのだろうと、藤堂は息をつく。昨日からの朝帰りなのだ。身長差がありすぎて寝室までは運べないので、せめて追加の毛布をかけてあげよう。と、立ち上がろうとしたとき、裾を引っ張られて藤堂はたたらを踏みそうになる。
「もうー……あぶないですよ、先生」
「おはようのキスは……?」
「はいはい、おはようのキスですね。ちゃんと自分の足でベッドに行ってくれるならいくらでも」
 身をかがめてみどりの黒髪の適当な箇所に口づけてやると、ミントの飴玉のような眼がとろんとむくれたように藤堂を見上げてくる。
「もっかい」
「起きて着替えてくれたらします」
「ちぇっ。すっかり図太くなっちゃってさ。昔はキスしてあげるだけでミニトマトみたいに膨れて大騒ぎだったのに」
「残念でしたね。お目覚めになったんでしょう、お洗濯して差し上げますから、そのしわくちゃのシャツ出していただけるとたいへん有難いんですけど」
「わかったよ、起きるよ……
 伊東はのっそりと身体を起こすと、毛布の袖を落とし、タイトなスカートを蹴って捨て、下着やストッキングも、まるでストリップのように皮を剥いでいった。案外に乱雑な仕草はさっぱりしたものだ。総レースのブラジャーとショーツも取り払い、生まれたままの姿になると風呂場へと消えて行った。
 ややあって、藤堂が用意してあげたオーガニックコットン素材のパジャマにふたたびの着る毛布をかぶった伊東はドリンク専用の冷蔵庫をあけていた。藤堂は一人半前のうどんの出汁を作って、気持ち自分の分を多めによそってダイニングテーブルに持っていこうとして、先にこたつに着いていた伊東が手を振ったので、そちらに到着する。ねこはこたつでまるくなる、だろうか。しなやかな黒猫、もとい伊東。ゴミは片付けられて、目の前にはみかんの籠、純米吟醸の瓶と氷を入れたガラスのとっくりとおちょこ。まだ呑む気なのかと藤堂は呆れた。顔に出ていたのか伊東はくふくふと笑う。
「いいじゃない、今日はもうお休みなんだし」
「呑んで寝落ちされても運べませんからね。おうどん食べられますか」
「食べる」
 いつの間にかまた暖房もつけられていて、キッチンに立っていた藤堂には少し暑いくらいだった。藤堂は膝にこたつの布団をかけて正座する。
 いただきます、と口をそろえる。
 薄味のかきたまうどんを口に運びながら、藤堂は完全にオフモードの顔で酒をかたむけている伊東に訊ねた。
「伊東先生、これって」
「冬はおこたでしょ~」
 頬をほてらせている伊東は間延びした返事をする。そうじゃなくて。藤堂は眉を寄せた。
「こたつとみかんとお酒、他に何を買われましたか」
「藤堂君の好きなチョコアイスでしょ、コーヒーとはちみつでしょ、塩レモン鍋の素もあるから今夜は鍋でよろしく。白菜とレモンは買ってきたから。あとは藤堂君のカーディガンと、ブーツと、イタリア製のバンダナ何枚かと、ブレスレットと、あ、冷蔵庫にシュークリームあるから後で食べよ」
「なるほど、よくわかりました」
 また買い物欲が爆発したらしい。今回はこたつ以外はものが小さいぶんいくらかマシだなと藤堂は思うことにした。金銭感覚が完全に毒されていることについて適格なツッコミをしてくれる理解ある友人の服部はこの場にいない。
 伊東は月休み七日以下プラス定期的な法律大幅超過残業という激務と引き換えの給与に際して、いつからか有り余る金を使った趣味にシフトチェンジしたらしい。つまり、仕事のストレスが溜まると買い物に走る。ストレスの値が増すごとに買い物金額も比例していくらしく、いつぞやに二十連勤をこなした気分転換に旅行しよう、と云われて連れ出された先が豪華客船のスウィートルームのクルーズだったときは藤堂もさすがに恐れおののいた。なお、いちばん大きな買い物といえばいま住んでいるタワマンの一室である。他にも株式やマンションの投資などに手を出しているらしいが、とくに藤堂が通帳を見た覚えはない。
 ときどき虚ろな眼で「ジェット機あったら藤堂君はどこ行きたい?」などとほらには聞こえない声色で呟くのに比べれば、今日の買い物くらいは可愛いものだ。夕飯が勝手に決められていることには解せないが。
 後で白菜ひと玉入っているにちがいない野菜室に鍋の材料が揃っているか確認しなきゃなあと夕飯の計画を立てながら藤堂はうどんをすすった。その間に少なめのうどんを食べ終えている伊東は、みかんを剥いてひと房ずつにきれいに割っている。
「やっぱりおこたにはおみかんだよねえ。藤堂君、甘くて美味しいよ」
「鍋の具材、豚と鶏とタラならどれがいいですか」
「鶏肉かな~」
「冷凍庫から上げとかなきゃ……春雨あったかな……
 むぐ。ぼんやりと考えていたら、口の中に甘酸っぱい味が押し込まれた。
 ゆっくりと咀嚼して、藤堂はご機嫌にアップルグリーンの眼を細めている伊東をじとりと見やった。
「美味しいよ~」
……僕、食べてる途中なんですけど」
「だって上の空なんだもん。せっかく買ってきたのに。それともチョコアイスがいい?」
「チョコアイスもシュークリームも食べますけど、ああもう! 晩ごはんのリクエストは前日までにっていつも云ってるじゃないですか!」
「ごめんごめん。忘れちゃってた」
「それに、僕だって好みくらいあります。服とか家具とか、買ってくるのは止めませんけど、ひとつ伺い立ててくださいって何度云えば」
「うん、ごめんね。藤堂君が喜んでくれるの早く見たくていっぱい買っちゃった」
 しゅんと幻覚の猫耳を垂らしている伊東に、藤堂はまるで自分が悪いような気がして息をつめた。なにせ二人が住まうマンションも家具も服も、藤堂が管理を任されているキッチン回りも藤堂が身に着けるものもぜんぶ、伊東の稼ぎが支えているのだ。
 藤堂は冷静に事実を思い返して、しかしなにもかも伊東がしたいように甘やかされているのはおおいに不服だと幾度目かの主張をした。
……伊東先生の稼ぎなんですから、だめとは云いません。ただ、除け者にはしないでほしいんです。同居してるこ、恋人、なんですから」
 同居して五年目、いまだ慣れないような、恥ずかしさのある呼称を口にして、藤堂は伊東を見据える。
 垂れ眉をますます垂れさせて、伊東は一目反省したような顔をした。
「そうだね。藤堂君の云う通りだ。いつも負担かけてごめんね。次は選ばせてあげるから」
「わかったならいいんです。それで、今夜は鍋ですけど——
「藤堂君いま欲しいものある?」
 アップルグリーンの瞳がいたずらに輝いた。
「僕はそろそろ藤堂君にフォーマルを仕立ててあげたいなあと思ってたんだけど、お着物とドレスと、何がいいかな。三、四着はあっても困らないよねえ」
 恐ろしいような願望をさらりと零した伊東に、みかんに手を伸ばしかけていた藤堂は固まる。ようやく呑み込めてくると、藤堂はあわてて叫んだ。
「せ、成人式で振袖仕立てていただきましたから!」
「それはそれ、これはこれ。それに、在学中は控えていたけど、今後はちょっとしたパーティーにパートナーで招かれると思うから。ああ、いっそのこと僕も新調しようかな。色違いでお揃いってのもいいよね」
「ちょっとしたぱーてぃ」
「氏真様……うちの社長が藤堂君ならぜひにって。そんなにかしこまらなくてもいいよ、案外おちゃめな方だし、ちょっとご挨拶するだけだから。みんなにわかるように藤堂君は僕の恋人ですって紹介するからナンパなんてさせないよ」
「ひえ」
 たたみかけられて藤堂は一杯いっぱいだ。伊東が重要なポストに就いているのは知っていたが、いきなりパーティーとは別世界すぎる。伊東から与えられるものはとどまることを知らないのだと、藤堂はまたも思い知らされた。
 見る者すべてを魅了しそうなほど蠱惑的に伊東は微笑んで。ゆるく結んだ黒髪が肩から落ちる。
「藤堂君の好みが知りたいな。一緒に選んでくれる?」
——はい」
 言質は取ったとばかりに満足そうな顔で、伊東はみかんの小さな房を藤堂の口に差し出した。





3,

 会議はつつがなく進行していたが、伊東はわずかに身じろぎをした。常に屹立して座っている伊東にはめずらしいことで、同僚の服部は目ざとくも気づいたらしい。常人よりも大柄な身体を縮め、声を落として伊東に訊ねる。
「どうかなさいましたか」
「ん、……いや、プライベートの方のスマホに着信。たぶん迷惑電話だから気にしないで」
 二人の席は会議室でも後方だ。二人とも身長が並み以上であるし、社のトップの側近が間近で監視しているというのも圧迫感を与えてよい結果を出さないという主義だ。そのおかげで発表者は伊東と服部が私語をしているのには気づかず、淡々とパワーポイントの画面は切り替わる。マイクでくぐもった声が室内に響いている。
 答えた端からふたたびポケットのスマートフォンは振動をうねりだした。伊東は首から社用スマートフォンを提げ、ポケットに私用を入れている。どちらが動いているのかは服部にも明白だった。出られた方がいいのでは、と服部が念を押した。
 気は進まなかったが、伊東は頷いて席を立った。発表者がどもったような動きを見せたが伊東は手を振って続きをうながし、一番近い扉から退出した。
 気がかりがまったくないとは云えなかった。
 廊下を歩きながら適当な個室を求めて使用していない部屋に入室する。伊東のカードキーならどの部屋にも認証は通り、明かりをつけてから伊東は着信履歴を確認した。二回目の着信も切れていたが、市外局番からかかっていた。乾いたような唇を舐め、伊東は折り返し電話をかけてみる。
 コール音からまもなく、相手が取った音がした。
『お電話ありがとうございます。——女子中学校事務室です』
 無意識に、伊東はスマートフォンを握る手に力がこもった。
「今しがた、そちらからお電話いただいたんですが。伊東と申します。……たぶん、三年の藤堂平助君のことで」
『かしこまりました。確認いたします。少々お待ちください』
 ありきたりな童謡が流れ始める。伊東は肩で息を吐き、吸った。たしかに、伊東は「困ったらいつでも電話しなさい」と云って彼女に電話番号を教えたのだ。けれども昼日中から電話がかかってくる相手ではない。彼女はとても真面目で優秀な生徒で、理由もなく学校をサボることもなければ、まさか学校から保護者でもない伊東に連絡があるはずもない。
 きっと、藤堂が伊東を望んだのだ。
『お待たせしまして申し訳ございません。お電話代わりました、学年主任の佐藤です。藤堂さんの保護者様だとうかがったのですが。少々お時間頂戴してもよろしいでしょうか』
「どうも、伊東です。すみませんが、正式な保護者ではないんです。彼女の保護者——母親が入院中で、いざというときの代理ということで」
『では、ご親戚の方でしょうか』
 淡々と事実確認のために訊かれて、伊東は詰まった。親戚ではない。ただ、昔からの知り合いだ。しかし、懇切に説明したところで理解してもらえるかどうか。それどころか親か親戚でなければ話ができないと断られてしまうと困る。
 学年主任は何か悟ったらしく、いくらか声質がやわらいで念押しをした。
『本人から、伊東さんが保護者だとうかがっています。よろしいでしょうか』
——はい」
『ありがとうございます。藤堂さんですが、たいへん申し訳ないのですが、お怪我されまして、養護教諭とともに——市民病院に向かわれました。処置中とのことで、終わり次第ご自宅までお送りしたいのですが、本人から伊東さんのご自宅がよいとの希望で、いまご在宅でしょうか』
……怪我」
『ええ、頭をぱっくり。藤堂さん曰く水場のそばですべったからだそうですが……
 学年主任は一旦言葉を切った。
……状況をかえりみて、カッターか何か、鋭利な刃物で切られたと思います。私どもの眼が行き届かず、結果藤堂さんにたいへんなお怪我をさせてしまい、申し訳ございません。近日中に調査し、ご連絡いたします』
「いえ。……状況はわかりました。自宅まで、というと一時間後でもよろしいですか。私はいま出社中で」
『かしこまりました。お忙しいところ、重ね重ねお詫び申し上げます』
 すでに藤堂が伝えているだろうが、念のため住所を伝え、伊東は電話を切った。
 気づけば手に冷や汗をかいていた。
 伊東はポケットにスマートフォンを滑り込ませ、代わって社用で社長に連絡を取った。

     *

 伊東はいつも足腰の鍛錬の目的もあって電車通勤を選んでいたが、社長がわざわざ私用の車を貸し出してくれたのでありがたく法定速度ぎりぎりを飛ばした。おかげさまで先回りして必要なものを整えてから、藤堂と養護教諭を出迎えられた。
 自宅はとくに思入れもなく駅近物件であるという点で選んだ築二十年の家族向けアパートの二階で、現職に務めて一年、身が固まったのでそろそろ引っ越しを視野に入れているところだった。昼下がりの時間帯、どこからか年少の子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
 養護教諭に古めかしい革鞄を持ってもらい、紺色の膝丈セーラー服にローファーといういかにもお嬢様学校の優等生風の藤堂は、いつもと違って括っている髪を下ろしていた。額には真新しいガーゼと包帯が巻かれ、流星のようにきれいな双つの青のうち片目は隠されてしまっている。
「伊東先生……
 絶句した伊東を見上げ、気を張っているような表情の藤堂が唇を噛む。人目はばからず、伊東は両腕で藤堂を抱きしめた。なぜかそうしてやった方がいいと思った。まだ傷が開いたままらしく藤堂が痛がるようなそぶりを見せたので、腕を緩めてやる。
 玄関の内側に招き入れ、平身低頭の養護教諭から病院の診断結果を伝えられた。額の傷は縫われたこと、明日は安静にするようにとの指示。それから、と養護教諭が続きを口ごもったので伊東は藤堂に声をかけた。
「藤堂君、疲れたろう。キッチンにあったかいチャイを用意してあるから飲んでなよ」
 こくり、と藤堂はおとなしく頷いて部屋の奥に去った。物分かりのいい子だと、伊東はいっそ気の毒に思う。大人たちがどんな噂をしているか知らないような世間知らずでもない、本当にいい子だ。
「それで? 藤堂君は転んだと主張している、実際は誰かに刃物で切りつけられた、そううかがったんですが」
 伊東が言質を取りたいときにそうするように猫なで声で訊ねると、可哀想に養護教諭は膝を折りかねない勢いで頭を下げた。言葉ばかりの無意味な謝罪は要らなかった。
「いじめですか? 中学生だろうと、これは立派な傷害罪ですよ」
「おっしゃる通りです。申し訳ございませんでした」
「いいや、謝らないでください。先生は相手を教えてくださればいいことです。犯人はわかっているんですよね?」
「それは……私にはお答えできかねます。その場を見ていないもので」
「もちろん。事件が起きてから呼ばれて駆けつけたであろうあなたはそうでしょう。でも目撃者はいた。凶器の出処だって持ち物検査をすればある程度は検討がつく。藤堂君が標的にされたのには当然犯人にとってのしかるべき理由があるはずだ。クラスの生徒たちのことなら担任の先生がよくご存じでしょう」
「はい、そうだと思います」
「じゃあ藤堂君が母子家庭で、母親は心労が祟って入院中で、しばらく一人暮らしで実は今学期の学費を一時滞納していたことを先生が知らぬはずはないし、どういうわけか、まあどうせどっか校内の身内あたりから漏れたんでしょうけど、生徒たちの間でそれらが噂になっていて藤堂君が肩身の狭い思いをしていたこともまたご存じでしたよね。まあこれまでは陰口程度で済んでいたから無視するように云いつけてましたが、実力行使に出られるならこちらも対抗せざるを得ない。学年主任の先生はよくよくご理解されているようでしたが、はたして担任の先生は電話も代理、付き添いと謝罪にもあなたを寄越す、これがどれだけ重大なことか、お考えなのでしょうか」
 養護教諭はすっかり青ざめていて、伊東は冷めた眼で養護教諭の小さくなったような姿を見下ろしていた。なにも伊東は諍いがあったと断言できる証拠は持っていない。だが、養護教諭の態度は自白したも同然だった。
 学校ぐるみで隠されるよりはましか、と考える。切創となれば原因を隠し切れないと踏んだのだろう。おそらくは些細な揉み合いがあったことにされ、相手とその親から謝罪を受け入れれば話は終わる。ただ、藤堂の母親には期待ができないだけで。きっと藤堂の側が委縮して平和的解決に至るのを見越していたのだろうが、伊東はむろんそんな安牌なルートにはさせるつもりがない。
……すみませんね、熱くなりすぎちゃって。先生にはご苦労かけました。後日詳しいお話が聞けるそうなので、そのときにじっくりおうかがいしますとも。ところで、病院代を肩代わりしてくださってるんじゃないですか? 領収書をいただければお出ししますよ」
 養護教諭は眼を泳がせ、診断書を取り出した。安くはない病院代を請求するのははばかられて自費で出そうと考えていたのかもしれない。伊東はあらかじめ用意してある小銭のストックからぴったりの金額を封筒に入れて押しつける。再度頭を下げた養護教諭が帰ったのを見届けると、伊東はさっそくキッチンに行った。
「藤堂君、待たせたね。お腹空いてる? 冷凍庫にチョコアイスあるけど食べる? なんなら出前でも取ろうか」
……せんせい」
 藤堂はチャイの鍋の前に突っ立っていた。藤堂専用に買ったハムスター柄のカップは空のまま。心あらぬような視線が伊東を認識し、またも泣きそうに歪む。涙のあとは見受けられない。
……ごめんなさい、伊東先生」
 ぽつり、と。藤堂は顔を落として消え入りそうな懺悔をつぶやく。伊東は沸き立つような怒りを笑顔のままに抑え込んだ。いまやるべきことは藤堂を叱ることでも何があったのか追求することでもない。助けを求められたのだから手を差し伸べるだけ。
 以前家庭教師についていた、ただそれだけの理由で肩入れするには世間的には弱い繋がりなのかもしれない。だが藤堂は伊東にとって特別だった。母親の期待に懸命に応えようとする強く美しい彼女が、ある夜に世界にひとりぼっちで精一杯に立ち尽くしているかのような顔で伊東の前に現れ、空っぽな心のうちをさらけだしてまで頼ってくれたことに、伊東も心から応え守ってやりたかった。
「僕に謝る必要なんかちっともないよ。たいへんだったろう。指先まで冷え切ってるじゃない」
 白く細い、けれども幼少期からバレエを習っていたので案外に筋肉質なてのひらを持ち上げ、両手で揉んでやる。藤堂はされるがままだ。唇が震え、何かを云おう云おうと開きかけて、ためらいのうちに閉じられる。
 藤堂の謝罪は手に取るようにわかる。急に呼び出してしまいごめんなさい。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。学費も肩代わりしてもらっているのに治療費も支払ってもらって。この後母に連絡をしなければならないけれど、母がどんなに嘆き悲しむか、伊東にまた慰撫してもらってそれで落ち着くかわからない。こんなふうに迷惑をかけるなら自分がじっと耐えていればよかった。
 ぐるぐると考え込んでいるに違いない藤堂の身体を抱き込み、背をさすってやる。こわばっていた身体はだんだんと伊東に体温を預けてきた。すがりついても涙のひとつもこぼしてはくれない。いまは泣いて吐き出してしまえば楽になるだろうに、困難な選択肢を選び続ける彼女はとてもまばゆいようで、寂しい闇を内包していた。
……せんせ、ごめんなさい」
「うん。よくがんばったねえ。具合はどう」
「ちょっと痛いです……
「麻酔切れてきたかな。今日と明日は学校休みにしよう。僕もお休みにする。そしたら土日挟んで、月曜になったらどうしたいか考えようか」
「伊東先生、会社、あるんじゃないですか」
「有休取れって人事がうるさかったんだよね。ちょうどよかったよ、僕お休みって何したらいいかわかんないし」
「僕もです」
「あらお揃いだ」
 くふくふと藤堂がやっと笑みをこぼした。胸元に藤堂の小さな頭を押しつけると、息苦しいと呟かれる。
「僕、伊東先生と勉強がしたいです」
「お休みなのにお勉強でいいの? 藤堂君くらいの若い子なら、映画観たりとか、タピオカ飲んだりとかするんじゃない」
「じゃあ、洋画がいいです。字幕版で。先生に解説してほしいです」
「オーケー。ごはんは何がいい? 日曜まで藤堂君が食べたいもの尽くしだからね」
「伊東先生の力うどん。おもちがどろどろの」
「それ失敗したやつじゃない?」
「あれがいいんです」
「う~ん。わかったよ。とりあえず今日のところは材料ないから明日お買い物行こうか。晩ごはんはピザか牛丼かお寿司か……
「ピザ!」
「オーケー、ピザ出前ね。そら、チャイ飲もうか。ちょっと冷めちゃったから温め直そう。おやつのチョコアイスはいるかな」
 身体を離して視線を合わせるようにかがむと、藤堂はいくらか気は晴れたような顔で頷いてくれた。伊東はスマートフォンでピザ店のサイトを立ち上げて藤堂に手渡し、その間に鍋の火をかける。スパイスの香りが漂い始める。チョコアイスをくわえた藤堂がカラフルなピザの写真を眺めているのを伊東は見下ろして、痛々しげな白い包帯が右目を覆っているのを惜しく思った。
 視線がうるさかったのか藤堂が首を上げる。
「あの、伊東先生」
「なぁに」
「眼球は大丈夫だったみたいなんですけど、この傷、一生痕が残るかもしれないらしいんです。女の子なのに可哀想だって病院の先生に云われました。伊東先生も、可哀想だと思いますか?」
 残された青い眼が凍ったような色合いを混ぜてまたたく。
 可哀想——そんな陳腐で不幸であるかのような言葉で藤堂を覆い尽くしたくはない。苛立ちを内心にしまいこみ、伊東はウインクをして見せた。
「傷があろうがなかろうが、僕は藤堂君をとびきり可愛い女の子だと思ってるよ」
 みるみるうちに藤堂君の頬は熟れた桃のようなピンクに染まる。伊東はうりうりと藤堂の頬をつつき、胸の内に芽生えた感情をきれいに押し込めた。