インターホンの液晶の中から、気まずそうな顔でこちらを見ているのはレイシオだった。熱でぼんやりとした頭が見せた幻か、なんて思っていると、レイシオが右手を上げる。いつも使っている、買い物用のトートバッグだ。
「見舞いに来た。開けてくれるか」
マイクを通したせいでざらついているが、間違いなくレイシオの声だった。慌てて解錠のボタンを押して彼を迎え入れる。ドアが開いたのを見るなり、レイシオが歩き出す。
ぷつりと液晶が暗くなって、しん、と部屋に静寂が戻る。そういえば。ボサボサの頭をかいた。レイシオがうちにくるのは、これが初めてだった。
「お邪魔する」
「ああ、うん、いらっしゃい。ごめんね、こんな格好で……」
着替える時間もなく、髪を整える時間もなかった。顔も洗っていないし、歯も磨いていない。謝る僕に、レイシオは呆れたような、労るような顔で言う。
「風邪を引いているのだから当然だろう。食事は? 薬は飲んだのか」
「朝に飲んで……それからずっと寝てたからなぁ」
「なら、ちょうどいい。色々買ってきたから食べろ。薬もある。市販薬の中では一番……ああ、すまない。立たせたままで。熱はどのくらいあるんだ。君は、平熱が高くないから、辛いだろう」
ズラッと言葉を並べながら、額や頬、首筋にレイシオが触れてくる。熱はもう下がったと思っていたけれど、まだ高いようだ。彼の手が冷たいと感じたことなんて、なかったのに。
「……まだ、下がっていないみたいだな。寝室に戻って寝ていてくれ。キッチンを借りる」
「うん。あの、そっちのドア」
レイシオは頷くと、僕の頭をぽんぽんと撫でてリビングに消えていく。風邪のときに、というか、業者じゃない誰かが家にいるのは随分久しぶりだ。心細いなんてことはなかったけれど、じんわりと嬉しい。それが恋人なら、尚更。嬉しくて、撫でられたところから熱が上がった気がする。触ってみたけれど、わからない。
今日はもうずっと寝ていたから眠くないけれど、横になっていないと怒られそうだ。僕は大人しく寝室に戻って、ベッドに潜り込んだ。開け放したままのドアから、微かに水の音が聞こえる。自分以外の誰かの奏でる生活音。そわそわするのに、安心する。
起きていようと思ったけれど、これは、耐えられそうにもない。まだ自分の熱が残ったままのシーツに顔を擦り付け、目を閉じる。のろのろと這い寄ってくる睡魔に、僕はすぐに捕まった。
*
ヒヤリと冷たい感触に目が覚めた。目を開けると、レイシオの顔が間近にあって驚いてしまう。わ、と声を上げた僕に、汗をかいていたから、とレイシオが平然と返す。濡れたタオルで拭いていてくれたらしい。
「起こしてしまってすまない」
「いや……どのくらい寝てたのかな」
「三十分ほどだ。それより、食欲はあるか? スープを作ったんだが」
「うん、ありがとう」
先程から部屋の中に漂っていた美味しそうな匂いの正体はスープだったらしい。スープボウルが乗せられたトレーをレイシオから受け取り、膝の上に置く。野菜がゴロゴロ入っていて美味しそうだ。スプーンを手に取り、半透明のスープを掬う。ゆっくりと口に運ぶと、コンソメと生姜の香りが口内に広がった。こくりと飲み込めば、何も入っていない胃に優しく染みていく。
「おいしい」
しみじみとつぶやくと、隣のレイシオがほっと息を吐く。
「僕の家では、風邪を引いたときによく作ったんだ。これを飲むと誰でもすぐに元気になる。君の口に合ってよかった」
「そ、っか」
野菜の旨みが溶けだしたスープは確かに栄養がたっぷり入っていることだろう。生姜も効いているから、体も温まる。一口、二口と飲み進める度、忘れていた食欲を取り戻していくようだった。
レイシオに見守られながら、あっという間にスープを完食する。空になったボウルを見て、レイシオは満足げな笑みを浮かべていた。
「それだけ食べられるのなら大丈夫そうだな。すぐに食べられるものもいくらか買ってきたから、腹が減ったら食べるといい。それから、薬はこれを」
「うん、ありがとう。何から何までごめんね?」
「いや……その。勝手に来て、すまなかった」
薬と水のコップを受け取りながら、来る、という連絡を受けていなかったことを思い出す。
「いや、来てくれて嬉しかったよ。でもよくうちがわかったね。来たこと、なかっただろう」
「住所は教えてくれていただろう。……それに、ずっと、来たいとは思っていたんだ。でも、きっかけが」
「そんなの、言ってくれたらいつでも来てくれてよかったのに」
膝の上で手を組んだレイシオは、バツが悪そうな顔で目を逸らし、ぼそぼそと口を開く。
「緊張、するだろう。今回は君が熱を出したと聞いて、いてもたってもいられなくなって……勢いに任せることが出来たんだ」
「そんな、ティーンじゃあるまいし」
笑う僕に、レイシオは怒る。真剣なのだ、と顔を赤くして。あの気まずそうな顔は緊張していたせいなのか。堪えようとしても堪えきれない笑い声が、くつくつと喉から漏れる。レイシオは顔を赤くして、ああもうと唸っている。
膝の上に置かれた手に、自分の手を重ねた。熱は下がったらしい。熱いくらいの彼の体温を感じて、胸が高鳴る。風邪さえ引いていなければ、なんて思いながら手を握った。
レイシオにもその気持ちは伝わったらしい。熱っぽい目をしながら、駄目だ、と僕を咎める。
「わかってるよ」
すぐに手を離して降参のポーズをとると、レイシオはやにわに表情を崩した。僕の頬を撫でて、お大事に、と酷く優しい声で呟く。
「僕はもう帰る。ゆっくり休んでくれ」
最後、頭を撫でた手が名残惜しく離れていく。追いかけるのを堪えるために、僕は布団をぎゅっと握っていた。立ち上がったレイシオを見上げて、僕は口を開く。
「ありがとう。じゃあ、また、風邪が治ったらね」
「ああ」
もう少し寝室が広い家に住めばよかった。レイシオはすぐにドアにたどり着いて、僕に手を振り、部屋を出ていく。ばたん、とドアが閉まって、途端、寂しさが頭をもたげた。足元から、指先から体を冷やしていくようなその感情に飲まれないように、布団を被って耐えようとした。そのとき。
バン、と勢いよく扉が開いて、そこにはレイシオの姿があって、驚く暇もなく彼は近づいてきて、眼前、長いまつ毛と紅い瞳。後頭部の下、うなじのあたり。ベッドに乗り上げた彼に捕まって、身動きが取れなくなる。この間、数秒。熱い唇は一瞬触れて、すぐに離れた。
こつん、と額と額を合わせて、レイシオは深い溜息を吐く。
「……やっぱり、君が眠るまで、傍にいさせてくれないか」
イエス以外の回答はない。答える代わりに、ただ、ぎゅっと抱きしめた。
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