kaede
2025-12-25 13:59:59
4729文字
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一彩くんに、恋をしたことがある?と訊かれる燐音くんのはなし

燐一
⚠️わたしの癖-ヘキ-がつよい
⚠️解いてほしい

「今なんつった?」
「釣りの話はしてないよ?」
……何と言いましたか?」

 勘違いしようもないくらいに完璧に丁寧に俺が訊くと、その真面目な口調が面白かったらしい。

「魚の方の鯉ではなくて。恋をしたことがある? と言ったんだよ、兄さん」

 一彩はくすくすかわいらしく微笑んだ。
 そんなこたァわかってるよ、かわいい弟よ。
 お兄ちゃんはな、おまえから『恋』なんて単語が出てきたから驚いたんだよ。

 昔は毎日、俺にべったりだったのに、生活環境が変わった今では一瞬顔を合わせるだけですら数日に一度、ということもある一彩だが、俺に向けてくれるかわいらしい笑顔は昔から少しも変わらない。
 変わらないとはいえ。
 さすがに十代後半ともなればもう立派に年頃の男の子だ。恋の一つや二つ、していたっておかしくはないんだろう。だが、この子のことならこの世の誰よりもよく知っている。ありふれた一般常識だけでなく、色恋にも疎いことくらい。何年、おまえのお兄ちゃんをやってると思ってるんだ。
 世界純粋王選手権首位の座に十七年連続君臨しているおまえが、恋に興味を持つなんて。

……何でまた」
「ウム。この間、みんなでドラマを見ていた時に、初恋はいつだったか、という話題になってね……このお菓子、とても美味しいね」
 見るからに、チョコレートを使っています、という色をしたマカロンを一口かじって、一彩がうっとりとつぶやく。
 そりゃそうだろう。おまえには、仕事先でもらった、俺はいらないから全部食べていい、とは言ったが。本当は、お兄ちゃん自らデパ地下に赴いて購入したマカロンなんだからよ。美味くなかったら詐欺だろう。おまえのお気に召して、なんちゃら言うパティシエも本望に違いねェだろうよ。
 俺はな、一彩。おまえの笑顔のためなら、一つ三百円もするお高いスイーツを買うことなんて屁でもねェンだ。
「こっちのピンク色のも、食べていいかな」
「おうよ。全部食っちまえ」
「本当に兄さんはいらないの? とても美味しいから、せっかくなら一緒に食べたいのだけれど」
「いいって」
 おまえが美味そうに食ってる顔が、俺にとっては一番のご馳走だからな。
 ……言っとくがマジで食ったりはしないからな。言葉の文、ってやつだ。
「じゃあ、いただくね。……これは、なんだろう。薔薇の香りかな? とても上品な味だね」
 ふんわり微笑むおまえの方がよっぽど上品だけどな。
「あー、確かローズなんとかとかそんなこと書いてあったなァ」
 ショーケースの数字の上に、そう書いてあった気がする。と、もうすでに消えかかっている記憶を手繰り寄せながら同時に、しまった、と内心頭を抱えたが、一彩がそれを聞き逃すわけがなかった。
「書いてあった? どこに?」
「あ、いや、えーっと……ああ、ほら、袋の中にミニパンフレットが入ってたろ。そこにだよ」
 多分書いてあるだろ。多分。
 いや、書いてなかったらマズいな。
 この子は人の感情に関しては微妙に鈍いところがあるが、論理に基づいた洞察力に関しては妙に鋭いのだ。少ない情報から一瞬で真理を突いてくる。相手の出方を探るわけではなく、純粋な好奇心という行動原理のみで問うているのである意味、容赦がない。
 つまるところどういうことかというと、このままだと俺の嘘がバレる可能性がある、ということだ。
 何も悪いことはしていないのに、バレることのどこに問題があるのか、だって?
 そんなの、愛する弟に恩着せがましいことをするなんてダサいから決まってるだろう。どうせ俺のことだから、スマートに渡せばいいのにああだこうだと余計な言い訳をして、弟から過剰な感謝を強奪する、みたいなかたちになるのは目に見えている。俺のことは俺が一番よく知っているし、そんなのは俺の本意ではない。
 俺の面倒くさい感情に弟が振り回される必要はない。
 俺はただ、この子が幸せに笑ってくれればそれでいいんだ。
「パンフレット……これかな?」
「で? 話の続きは?」
 これ以上深掘りされてボロが出るのは避けたい。という動機九割で話を元に戻す。一彩としても、自分から話題を振っておいて自分で宙ぶらりんにしてしまっていたことに気づいたんだろう。てへぺろ、という擬態語からはいささか外れるが、俺としてはつけてやりたい表情をして控えめに笑った。
「話の途中だったのにごめんね」
 言いながら、パンフレットを袋に戻す。よしよし。そのままそれの存在を忘れろ。
「うーん、弟くんはかわいいなァ」
「え? ウム、ありがとう。……話を続けていいかな?」
「おうよ」
 危ねェ危ねェ。
 言わなくていい言葉の代わりに、言うつもりのなかった言葉がうっかり出ちまった。危ないどころかもはやアウトだった気もするが。だが一彩が特に気に留めている様子はないのでセーフだ。助かった。いや、もうちょっとくらい照れるなりなんなりしてくれてもよくねェか? まあ、人の言葉を素直に受け止めることにかけては右に出る者がいないくらいに純粋なこの子に、それを求めるのは酷……というより無意味だろうが。喜んでくれてはいるからそれで良しとするか。
「ええと、どこまで話したっけ……そうそう、みんなでドラマを見ていた時に、初恋はいつか、という話になって」
 みんな、が誰だか知らないが、そっち方面のことには無頓着な真面目ちゃんばかりかと思ってたら、ちゃんと人並みに俗っぽい話もするんだな。いや、これくらい世間話の範疇なのか?
「みんなだいたい、義務教育期間中までには経験しているらしいんだ。まあ、中にはまだって人もいたけれど。僕と一緒だね」
 そうだよな。やっぱりおまえに恋はまだ早いよな。
「それで、みんなの話を踏まえて考えてみたんだけど、故郷には都会のような学習施設がなかったし、同世代の人間と過ごすこともほとんどなかったら、僕が恋を知る機会は得られなかった。とするなら、兄さんだって条件は同じだよね。でも僕が気づかなかっただけで、兄さんにはその機会があったかもしれないし、僕のそばにいなかった時の兄さんのことはほとんど知らないから、その間に経験した、という可能性もあるなあとか考えてたら、どうにも気になってしまって」
 ……さらっと傷を抉ることを言ってくるよな、おまえって子は。
 いや、夢と引き換えに覚悟して負った罪悪だから、俺には反論する権利はないんだが。それに、一彩は単なる事実を述べているつもりなんだろうが、それなら『故郷にいなかった時』と言えばいいし言うはずだ。それなのにそう言わなかった、ということは、意識的にしろ無意識的にしろ(この子の場合後者だろう)、少なからず俺を責めている、ということで、俺を責めることができている、という観点から見るなら、それはこの子が自分の感情を自分ごととして正しく捉えて正しく向き合っている、という成長の証でもある。
 弟を愛するお兄ちゃんとしては、嬉しい、の方に軍配が上がるってもんだ。
……ええと、兄さん?」
「ん?」
「その、頭を撫でてもらえるのは嬉しいのだけど、急にどうしたのかな」
 ほんとにな。
 びっくりしたわ。
 綺麗さっぱり無意識だった。
 自分が怖い。
「あー……
 何かしら言い訳をでっち上げても良かったが、弟くんの髪がふわふわで気持ちいいから、とかいうただの感想しか出てこなかったのでそれはやめて、軌道修正。
……で、お兄ちゃんの初恋について訊いて、どうすんだ? 恋バナでもしろってか?」
 突然正規ルートに戻った会話に一彩が虚を突かれたのはほんの一瞬で、持ち前の瞬発力を遺憾なく発揮して、すぐに体勢を立て直す。
「こいばな、というものには特に興味はないよ。プライベートなことだし、僕にはよくわからないし。僕が知りたいのは、初恋の経験の有無、それ以上でも以下でもないよ」
「知ってどうすんだ」
「どうもしないよ。言いたくないのなら無理に聞くつもりはないし」
「ある、って言ったら?」
「あ……
 それまで淀みのなかった会話がそこで一度途切れて、駆け足で追いついてくるみたいにまた、つながる。
……そう、なんだね」
「いや、ねェよ」
 事実ではないのですぐさま否定したが。
 おい、なんだ今の微妙な間は。
 唇はきゅっと閉じているのに、俺を見上げる瞳は広がっているその顔を、俺はどう解釈すればいいんだ。
「あるの? ないの?」
 一等星にも引けを取らない一彩の瞳が、惑うようにちかちかと瞬く。
 果てない空で輝いてこそのそれに、手を伸ばそうとする愚か者になりかけたことなら、何度もある。
 それを。

「恋は、したことねェよ」

 それを、恋だと思ったことはない。


 恋なんて生温いものじゃない。
 この気持ちは多分、もっと、手に負えないくらいに熱くて、だからこそ安易に触れてはいけないものだ。
 愛、というパッケージでくるんでリボンなんかつけたりして、綺麗にデコレーションしておくのがちょうどいい。そういうものだ。


 そのリボンを、おまえは今、解こうとしたのか?


……そうなんだね」
 ほっ、と。一彩の表情が緩んで、俺はそこで初めて一彩が珍しく緊張していたらしいことに気づく。
 おまえは何に緊張して、何に安堵したんだ。
……俺もおまえと同じだよ。故郷にいた頃はお勉強やら政務やらで毎日忙しかったし、都会に来てからはアイドルのことし考えてなかった。恋してる暇なんてねェよ」
 今度はちゃんと、明確な意図をもって一彩の頭に手を置く。
 俺は、一彩の兄だ。弟の感情が揺れているなら、それが凪ぐよう、宥めてやりたい。
「兄さん」
「ん?」
……兄さんは、僕と同じなんだね」
 そう淡くつぶやいて、珍しく、一彩が俺に身を寄せる。
 きっと本当はもっと言いたいことがあったのだろう。だが何らかの事情があって、あるいは膨大すぎて、それらすべてを言うことはできなかった。だから、一言に圧縮した。だから、妙に重たく響くのだろう。
 僕と同じなんだね。
 それが指し示すものは、初恋ではない。
 それなら何なのか。と問われたところで、正確に答える術など俺にはないが。
 俺と一彩は別の人間だ。
 同じじゃない。
 同じじゃないが、共にありたいとは思う。
 多分、そういうことなんだろう。
 一彩は、知ったその先を考えていなかった。知ることによる感情の動きを考慮していなかった。
 だから、聞いて初めて、恋を知っている俺に置いて行かれたような気がして不安になって、恋をしたことがない俺が本当の俺だと知って、安堵したんだろう。
 無邪気な好意。甘ったれた思慕。
 おまえはそれでいい。俺の大切な、かわいい弟なのだから。

「弟くんは高校生だし、まだワンチャンあるだろ」
「わんちゃん? 犬?」
「俺っちはもう手遅れだけどよ」
「手遅れ?」
「初恋の話だよ」
「そう? 大人になったら恋をしてはいけない、という決まりはないよね」
「俺っちは弟くんの面倒を見るので忙しいンだよ」
「兄さんの手を煩わせるようなこと、してないつもりだけど」
「はァ? なんでもかんでも人にものを尋ねないようにする、とか言いながらお兄ちゃんには訊きまくりじゃねェか」
「だって、兄さん以上にものを知っている人を、僕は知らないから」

 そう言って瞳全部に俺を映して、一彩が幸せそうに笑う。
 俺は、それだけで幸せだからよ。

 だから、リボンは解けないよう、お兄ちゃんがきつく縛っておくさ。