深夜3時のキッチン。不安な夜にホットミルクを入れてくれた兄はもういない。そんな事実を今さら噛み締め、空のマグカップを見つめた。
──復讐はやめたのか。禅にそう聞かれて言葉に詰まった。3年前のあの日、彼に兄を殺されてからずっと復讐に燃えていた。どうして兄は殺されなければならなかったのか。仕事だと、自分が今していることと何が違うのかと片付けられてしまえばそれまでの問い。そんなことわかっていながらも、この3年間、俺はその答えを探し求め続けていた。
そして、その答えは明らかになった。ウルティオ教団は、EVEの正義に反する組織だったから。兄は俺の記憶と引き換えに命を助けるように禅に縋り、俺の命は助かったらしい。
すべての記憶を取り戻した瞬間、あれだけ強く思っていた禅に対する憎悪は、記憶の濁流にのまれ行き場を失った。だって、これまで教団と関わりのない日々を過ごしてきた中で、教団がどれだけ非道で残酷な行いをしている組織かを知ってしまったから。
あの優しくて聡明な兄が悪い人間だったとは今でも思い難いし、殺されて当然だなんて思わない。ただ、禅の言い分も、それが彼の正義だというのも理解できてしまうのだ。
──俺のことだっていつでも殺せたはずなのに、律儀に兄ちゃんとの約束守って生かしておいてさ。一目惚れしたからとかなんとか、意味わかんねぇよ。
しかしあの時。差し出された猿楽の手を跳ね除けた時に、もう、俺の答えは出ていたんじゃないか。
「まだ起きてたんだ、魅雀」
禅がキッチンに顔を出す。
「なんとなく、眠れなくて」
手元のマグカップを見た禅は何かを察したのか、冷蔵庫の扉を開ける。
「入れてあげようか。ホットミルク」
「……ん」
大人しく禅に任せた。──今日は誰かに入れてもらいたかっただけだ。禅は冷蔵庫から取り出した牛乳をマグカップに注ぐ。ホットミルクと言っても電子レンジに入れて温めるだけの簡単なものだ。次いで戸棚から蜂蜜を取り出し小さなスプーンに一杯。湯気が立ちのぼるホットミルクに垂らしてくるりとかき混ぜる。ミルクと蜂蜜は溶けて、混ざりあってゆく。
「はい。どうぞ」
マグカップをこちらに差し出す禅の姿が、その穏やかな微笑みが一瞬だけ兄と重なって、泣きたくなった。
「……ありがと」
誤魔化すように、ふぅふぅと息を吹きかけ少し冷まし、カップに口をつける。ホットミルクを口に含めば優しい甘さが口内に広がる。牛乳本来の甘さと蜂蜜の甘さが染み渡る。じわりと胸の奥を蝕む不安感がカップの底に溶けてゆく。
兄を殺した禅を、今のところ殺す気はもうない。
それは決して兄より禅を選んだわけではない。許したわけでもない。すべてを知って、思い出して、一方的に禅を恨むのはなんだか違うような気がしただけで。元々、許すとか許さないとか、俺が決めることではないし。
「はぁ……あったけぇ……」
禅が入れたホットミルクに安心感を覚えている自分がいることに驚く。
「美味しい?」
「……まぁ。ホットミルクが不味くなるわけねーだろ」
そう言うと禅は満足そうに笑った。
この前、禅に「どうして復讐をやめたのに自分と一緒にいるのか」と聞かれた。確かに、命を狙わないなら一緒にいなきゃいけない理由なんてこれっぽっちもない。それなのに、俺は半壊した家でまだ一緒に住んでいて、飯も作って、生活の世話もしている。──3年間。そう短くない期間お前と一緒にいて、俺は知っているんだ。俺がいないと飯もろくに食べないし、生活力も無いし。兄も世話が焼ける人だったけど、ここまで酷くはなかった。
つまり俺は、そういう駄目人間を見るとどうしても放っておけないのだ。絶対早死にするし。かと思えば「俺が死んだら、魅雀は困るの?」そんなことを言う。別に困らないはず、なのに。
もう、ホットミルクを入れてくれる人がいなくなる虚しさを味わいたくないのかもしれない。自分の向かい側で美味しそうに飯を食べてくれる人を失いたくないのかもしれない。だから、これからも一緒にいてやろうと思った。
最初に俺から取り上げたのはお前なんだ。──だから、責任取ってもらわねぇと。
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