村椿と渡瀬さん

慣れようとしない。

 村椿はこの歳になるまで煙草を吸ったことがなかった。
 未成年の学生時代、周囲に悪い先輩はいなかったし、多少大人びてはいたけれど大人振った性格でもなかったので率先して吸おうともしていなかった。
 なので、初めて吸った煙草はSugarになるし、初めての煙草に媚薬作用があるというのはなんとも面白い話だな、と村椿は時折思うのだ。
「京ってさ、不器用だったりする?」
 がちがちと音を立ててライターに火を灯すところを見ていた渡瀬が、カウンターに頬杖を突きながら言った。
 一旦、火を止めた村椿は唐突な質問にきょとんとして、記憶を探るように宙へ視線を向けた。
……裁縫をしろと言われたら釦付けぐらいが精々でしたが……図工の成績は悪くなかったですよ」
「へえ、そっか。じゃあ、やっぱり慣れかな」
「慣れ?」
 どういう話向きだろうかとライターを持つ手を下げて聞き返したけれど、渡瀬は薄く微笑むだけで答えない。
 慣れ、とは渡瀬に言われると村椿にとっては特殊な意味を持つ。
 ──慣れないでね。
 煙草に不慣れな村椿の唇をなぞる細い指。オーバルの爪は滑らかで、やわく舌を撫でていく感触を覚えている。
 慣れたくないな、と思った。渡瀬とのキスは甘いりんごとひやりとしたミントの香りがして、味は苦い。喫煙者とのキスに経験はあるけれど、自分の唇と渡瀬の唇で行き来する紫煙は感じたことのない酩酊を誘った。その甘くて苦いキスに、村椿は慣れたくない。
 慣れたら、渡瀬はもうその味を教えてくれないと言うのだから。
「ふふ、気にしないで」
「そう言われると気になるのですが……
 渡瀬は微笑を崩さず手を伸ばし、村椿の手からやんわりとライターを取り上げる。
 渡瀬の勤め先である此処、PinkAshで買ったライターだった。各国の紙煙草だけではなく、繊細な意匠の煙管など煙草に関連する商品を扱っているPinkAshの棚に並んでいたオイルライターはつるりとした銀色で、しっかりとした重さを感じるものだ。このライターに惹かれた際、渡瀬が話していた内容が印象に残っている。香水を少量入れると火を点けた際にふわりと香るのだという。村椿は洒落ているな、と思ったが、渡瀬が「手入れが大変だし、煙草が不味くなるけどね」と続けたので試したことはない。専門家の忠告には従うべきである。
 それに、香りは記憶を強く想起する。これ以上、渡瀬を思い出させるものが増えれば、村椿は渡瀬と会えないときに寂しいと心に空白ができるような感覚を覚えるようになるだろう。その空白はSugarを吸ってもきっと埋めることはできない。
 渡瀬ががちん! と音を立ててライターに火を着ける。
 咥えた細身の煙草。ほろりと吸いながら先端をライターの火に近づければ、すぐに穂先がじりじりと赤く燃えていく。キャップを閉じて火の消えたライター。渡瀬がふう、と吐き出した紫煙の烟る向こうで村椿をつい、と指先で呼んでいる。
 近づけた顔。バニラの香り。村椿が咥えたSugarと煙草の穂先がつ、と触れ合う。ふ、と優しく吸えば煙草の火がぢぢ、とSugarに移っていき、アップルミントが香る。
 肺喫煙はまだ得意ではない。少量送り込んだ煙に胸の支えを覚えていれば、渡瀬が煙草を持たぬ手で村椿の服の裾を引いた。喉を反らすように見上げてくる渡瀬の耳元でピアスがちか、と光っている。
 無言で誘われるままに村椿は渡瀬の唇に自身の唇を重ねる。薄く開いた唇からほろほろと流し込み、交わし合う紫煙。ちゅ、ちゅ、とやわく触れ合った唇と、それだけでは足りなくなった舌。絡めて、擦り合わせて、唾液をぢう、と吸えば香りが嘘のような苦味を感じる。でも、もっと口付けを交わしていたい。
 体に回ったSugarは少量。まだ頭を蕩かすには足りないが口付けは激しさを増すばかりで、じゅるじゅるとはしたない水音が耳を犯す。
「ん……ぅ♡」
 合間に零れた渡瀬の声が腰にずん、と重たく響く。離れた唇、名残惜しく繋がる細い唾液。色素の薄い渡瀬の目がとろりと潤んで見えるが、これはきっと村椿自身も同じであった。
 手探りに手繰り寄せた灰皿で渡瀬が煙草を揉み消す。村椿も続こうとしたけれど、それは渡瀬が取り上げていった。
 つい一瞬まで村椿が吸っていたSugarを咥えてひと吸い。ふ、と滲むように笑った渡瀬が唇から細く紫煙を村椿の顔に吹きかける。意味は、知っている。喫煙者でなくとも多様な文化に触れてきた大人だもの。
 カウンターの奥へ入る。案の定、怒られはしなかった。しなやかに伸びる渡瀬の腕が村椿の首の後ろへ回される。抱き締め返して、背骨を辿って、細い体を手のひらでじっくりと撫でるうちに下半身はSugarを吸ったのもあって容易く熱を持っていく。それを渡瀬も分かったのだろう。それとも彼も同じだからか。くす、と笑った渡瀬は灰皿にSugarを置いてから、なんの躊躇もなく村椿のボトムのベルトを外していく。
 カウンターでゆらゆらと燻らせられるSugarの紫煙のなかに、僅かな衣擦れとあえかな声が混じる。
 濡れた音、肌のぶつかる音。視界が極彩色に変わるような快楽。カウンター奥の床が濡れていく。
 客が来たら困ることになるだろう。でも、村椿は止められなかったし、止めようとも思わなかった。渡瀬も止めなかった。
 互いに達して満足するまで求め合う時間を過ごし、冬場にも関わらず汗ばんだ肌。熱っぽい息を吐く村椿の隣で渡瀬が煙草を一本取り出す。
 がちん! と音を立てるライター。
 あ、と思った。
「慣れかな」と言った渡瀬の言葉がよみがえる。
 これだ。ライターだ。
 村椿はまだ一度で火を着けることが下手である。がちがちと何度かホイールを回す様を見て、渡瀬は「不器用?」と訊いたのだ。
 思い至れば気恥ずかしく、村椿は渡瀬が「ありがとね」と返してくるライターを無言で受け取った。
…………葵さん」
「なに?」
 紫煙を緩やかに解くように渡瀬が首を傾げる。
……ぼくがいつまでもライターを着けるのに慣れなかったら……どうしますか」
 なにを訊いているのだろうか。ほんとうに不器用でもあるまいに、ライターの扱いなどきっとすぐに慣れる。
 けれど、渡瀬は目を細めて煙草を灰皿でとんとんと叩きながら言うのだ。
「教えてあげる」
 村椿は一度目を伏せて込み上げるまま小さく笑った。
「今度、マッチを買わせていただきます」
 言ってから渡瀬の唇に口付ける。
 甘さのない、渡瀬の香り。
 けれども、不思議とその舌は村椿に甘かった。