村椿と鏑木さん

患者とお医者さん。

 短くない人生を生きていれば「何故、こんなことに」と途方に暮れる出来事は幾度か経験するものである。しかし、それは率先して経験したいものではなく、直面すれば頭を抱えたくなるものである。
 村椿は現在、必死に頭を抱えたくなるのを堪えていた。
「はい、名前と生年月日は?」
「村椿京です。生年月日は……
 カルテに間違いはないかきちんと確認しているのは、モールにある病院のお医者様である鏑木先生だ。時折、赤い前髪を横に払いながら色素の薄い目でカルテをかつかつとペンで叩く鏑木先生に、村椿は以前もお世話になったことがある。
 奇しくも、現在と同じ理由で。
「媚薬による発熱ね。詳しい症状は? ああ、前後になにしてたかも聞きたい」
 前回と同じ症状だが、鏑木先生は安易に当たりをつけて省略などなさらず、きちんと患者の声に耳を傾けてくださる。それが村椿には非常につらいのだが、鏑木先生は真面目にお仕事をなさっているだけである。村椿は粛々と答えるのみだ。
…………複数の方との耐久セックスをする際に媚薬を服用しました。事が済んで休んだあとも倦怠感と微熱が続き、本日熱のほうが上がったので伺いました……
 なにが悲しくて己の性行為事情を事細かに説明しなければならないのだろうか。人間関係というのはもっと個人間のものとして閉じた部分があるものではないだろうか。それは追い詰められた村椿の悲観である。基本的な人間関係を詳らかにすることになんの恥じらいがいるであろうか。繰り返すが鏑木先生はお仕事を至極真面目に全うしてくださっているのだ。この連続で媚薬に当たったあほ患者にも慈悲深く。看護師さんが白衣の天使と呼称されていたのはもう古い話かもしれないが、この人の出来たお医者様はなにと呼ぶべきなのか。白衣の聖人かしら。常人ならば村椿を「馬鹿か、お前は」のひと言で放り出すだろうから、聖人で正しいだろう。きっとそう。
 ふむ、と頷いた鏑木先生は村椿に含むところの一切ない透徹とした目を向けると、印象に違わずくっきりとした発音で仰る。
「お前、媚薬が根本的に合ってないんじゃないか。やめろ」
 ご尤もすぎるご判断である。
……問題ないもののほうが多くはありまして……
 嘘ではないし、間違いなく事実である。旅行代理店に勤め、性行為を主とする旅行企画に同行した回数はもう数え切れないが、このように体調へ支障を来たすことは滅多にない。Sugarという媚薬煙草も喫煙していて問題はなく、その点は鏑木先生には申告済みだ。
「それなら使った媚薬の成分が前のと近いものなのかもしれないな。実物あるか?」
「それはこちらに。成分表もコピーを取ってきました」
「よし」
 短くも僅かに満足そうな鏑木先生の声。村椿はなんだか飼い主に褒められた犬のような気持ちである。村椿がわんぱく小僧であったなら鼻の下でも擦っていたところだろう。
 成分表を渡せば鏑木先生は真面目な顔で目を通し、時折PCのキーボードを叩く。その横顔には薄っすらと疲れの影がある。年末での駆け込みや、インフルエンザなどの患者が多いのかもしれない。そんなところにやってきて申し訳ないな……と村椿は反省した。遊び半分どころか全力で仕事として飲んだ媚薬であるが、飲まないに越したことはないものだろう。煙草や酒のようなものである。鏑木先生の「やめろ」のひと言はどこまでも正しい。
「確認した限り、これとこれが被ってる。今後、使う媚薬はあらかじめ確認しておけ」
 成分表に赤ペンでしゃっと丸を描いた鏑木先生に頷き、村椿は返してもらった成分表を丁寧にしまった。媚薬の実物はそのまま提出することにした。治療の一環として性行為も担っているという鏑木先生なので、いいように利用してくださるだろう。まったく、お手数をおかけして申し訳ないことである。
「そういや」
「はい」
「前に貰ったスライム。あれ便利だったわ」
 村椿はぱちり、とまばたきをして叱られた犬の顔からやっと彼らしい微笑を浮かべた。
 前回、お世話になった際に媚薬の他にどんなものを用いて性行為をしているのかという、とても気まずい話題になったのだが、その際に村椿は使い捨てスライムを挙げて、持ち歩いている一つを鏑木先生に差し上げたのだ。
 村椿は主に事後処理の精液吸引用に相手へ用いており、その用途もしっかりと鏑木先生にお伝えしたのだが、どうやら先生のお役に立てたようである。
「あれ、普段はどこで買ってるんだ?」
「通販でまとめ買いをすることが多いですが、モールの雑貨屋にもありますよ。そちらだと通販よりやや高いですが」
「ふうん。今度見てくるわ」
 自分のおすすめが受け入れてもらえるのは嬉しいことである。
 ほのぼのと笑う村椿へ他に困りごとはないかと訊ねられた鏑木先生に「大丈夫です」と答え、本日の診療は終わりとなる。
 だが、椅子から立ち上がった村椿に鏑木先生が「おい」と声をかける。
「はい」
「お前、会社に逆らえなくて媚薬飲んでるなら医者の意見書出すぞ」
 ──鏑木先生は大変に素晴らしいお医者様である。
 村椿は丁寧に会社から強いられての媚薬使用ではないことをお伝えし、裏返すとどこまでも己の判断で媚薬を飲んで当たったと説明申し上げ、鏑木先生から再度の「潔く媚薬飲むのやめろ」というお言葉を賜った。
 きっと、三度目があったら今度こそ大変に厳しいご意見をいただくことになるだろう。
 そんなことにならないように、お忙しくお疲れの鏑木先生のお手を煩わせないように、と村椿は用法容量を守った媚薬の使用を心に決める。
 二度あることは三度あるという先人の言葉から全力で目を逸らしながら──