shirajira
2025-12-22 18:46:20
36293文字
Public
 

犬猫&飼い主ビマヨダ本サンプル

2月新刊のサンプルです。一章まるごと。基本犬猫のビマヨダはイチャイチャしてます。終章の結果によっては冒頭まるっと書き直します……。

 人理は救われた。若きマスターの手によって。
 喜ばしい、誇らしいことだ。役目を終えて後は去るのみの兵器の身でも、何か心が弾むようなものがある。はちきれんばかりの安堵と喜びを、仮初めの身でも感じる。
 ただ一点の曇りを除いて。
「泣くなよ」
 目元を拭われて、自然と眉が寄った。
「泣いとらんわ。お前こそ、目が潤んでおるのではないか? わし様とのお別れがそんなに寂しいか。お前はこの体に随分とご執心であったものな」
 ぼろっ、と崩れるように、目の前の男が表情を変えたから、ドゥリーヨダナは口を噤んだ。
 下げられた眉に細められた目、けれども弧を描く口元。そんな表情を見るのは、初めて繋がった時以来だった。
「そう、だな。寂しい。寂しいな」
 静かな声に、ドゥリーヨダナは腹が立った。素直に認めるな。意地を張ったこちらの立つ瀬がない。
 自分たちはサーヴァント、座の影法師。今を生きる者、あるいは人理に喚ばれて役目を与えられ、ようやく存在できるモノ。
 此度の召喚は何もかもが特殊だった。人類最後のマスター。人理を救うための旅。悲鳴のような呼び掛けに応えた、数多のサーヴァントを乗せた舟。
 そんな特殊な環境だったから――ドゥリーヨダナは、足を踏み外した。本来起こり得るはずのない奇跡を掴んだ。
 生前いがみ合い、殺し合った宿敵、パーンダヴァ五王子が一人ビーマと、情を交わす仲になった。
 夢のような日々だった。友がいて、マスターがいて、愛する人がいた。生前必死に手を伸ばしても掴み取れなかった、世界全てを手にしたような心地だった。
 だがそれも終わりだ。明日には多くのサーヴァントたちがマスターとの契約を解かれ、座へと還る。例外はない。
 最後の夜だ。
 大きな手が伸びてきて、ドゥリーヨダナの髪を掴むでも引っ張るでもなく、優しく梳いた。
「でもな、別にこれっきりってわけじゃねえだろ。形が変わればまた……全く同じとは言えねえかもしれねえが、俺たちが同じような関係に落ち着くことも、あるかもしれねえ」
「そんなこと……本気で思っているのか? わし様とお前だぞ」
 サーヴァントは兵器だ。基本的には争うためにしか喚ばれない。特にドゥリーヨダナとビーマであれば、顔を合わせたら最後、殺し合いしかないだろう。
 ここだけだ。ここだけが、特別だった。
 しかしビーマはそう思ってはいないらしい。にかっと、安心させるように笑いかけてくる。
「何言ってんだ、俺とお前だから、信じられるんだろうが。……だって、ここではこうなれただろ」
 頬を撫でる手にすり寄る。目を瞑れば、低く落ち着いた声が鼓膜を叩く。
……信じろよ、ドゥリーヨダナ。信じてくれよ」
 目を開ければ、思っていたよりずっと真剣な顔があって、何だか笑ってしまった。
 思っていたよりずっと、自分はこの男に愛されていたのかもしれない。
 衝動のまま、相手の唇を奪う。首の後ろに手を回して引き寄せ、胸と胸をくっつける。温かい。
……なら、信じさせてみろ。お前をこの玉体に刻め。わし様という至高の味を、決して忘れるな」
 キスの合間に告げれば、相手の目の色が変わって、ドゥリーヨダナはまた笑った。
 最後の夜だ、湿っぽく穏やかであるよりは、こちらの方が自分たちらしい。
 この熱を、座に持ち帰ることは叶わないが。別にいいのだ、今ここにいる自分だけのものだから。
 羨ましかったら、また手に入れてみろ。祈りに近い挑発が座に届いたのかどうかは、わからなかった。

     ★

 ふわああ、と口から出たあくびは、誰に咎められることもなく宙に溶けて消えた。秋の訪れる気配をようやく感じられるようになったわけだし、早朝散歩の開始時間を少し遅らせてもいいかもしれないと、スヨーダナは既に明るい空を見上げ、それからリードの先に目をやった。ちょうどこちらを振り向いた、つぶらな瞳と目が合う。
「お前は朝から元気だなあ、ビーマ」
 ワンッ! いかにもそうだぞと言わんばかりに一声吠えて、愛犬は尾を上機嫌に振りながら力強くスヨーダナの前を歩いている。ぼてっとした輪郭の影を、スヨーダナは見るともなしに眺めた。
 スヨーダナの愛犬ビーマは、恐らくポメラニアンである。恐らくというのはポメラニアンにしてはやたらとでかく、本当にポメラニアンなのか疑わしいからだ。中型犬、いや少し小さめの大型犬くらいには大きい。
 まさかこんなでかくなるとはなあ。折に触れスヨーダナは思う。ビーマが膝に飛び乗ってきたりとか、動物病院でスタッフと一緒に取り押さえたりしている時なんかに。
 元々スヨーダナの人生設計に、犬はいなかった。スヨーダナは動物好きでも何でもない。飼いたいと思ったこともなかった。
 そんなスヨーダナの世界にある日突然押し掛けてきたのが、ビーマだった。
 それはまさに押し掛けてきたとしか言いようがなかった。たまたま知人の家のパーティーに呼ばれた先で、子犬が産まれていたのだ。
 キャアキャアと、特に女から持て囃されている生後一週間の子犬たちを、スヨーダナは興味本位でちらりと覗いた。毛玉が蠢いているとしか思えないでいると――そのうちの一匹と、目が合った。
 キャン! 明確にその子犬は、スヨーダナを見て鳴いた。それから毛玉の群れから飛び出すと、一目散にスヨーダナの元へと駆けてきて、足元に纏わりつき、スヨーダナが子犬たちから離れて椅子に腰掛けようとすれば、膝までよじ登ってきた。
 犬、それも子犬、更に言えば知人の愛犬の子、そんなものの扱いを知らないスヨーダナは途方に暮れた。更に子犬は飼い主である知人が引き離そうとしても、必死にスヨーダナのジャケットに噛みつき爪を立て、離れようとしなかった。
……元々、もらってくれる人を探す予定ではあったんだ。スヨーダナ、どうだい、これも何かの縁だと思って、犬を飼ってみるのは? とりあえずお試しで一ヶ月、とかでもいいし」
 子犬の頑固さに肩を竦めて、知人はそう言った。子犬はぶんぶん尻尾を振り、冷たい鼻先をスヨーダナに押し付けてくる。つぶらな瞳をキラキラさせて。
 スヨーダナは、それを見てもやはり特に可愛いとは思わなかった。可愛い子ぶっているな、とは思ったが。
 ただ、周囲の人間が羨ましそうにこちらを見ているのは、何だか気分がよかった。こんな風に人間以外の生き物に懐かれたのも、生まれて初めてだった。
 犬を飼っているというのは話の種になるし、金は十分にある。何なら最近ちょっと退屈していたし、いい暇潰しになるかもしれない。番犬になるかはちょっと怪しいが、まあ飼って損もないだろう。
「ふむ。いいだろう。わし様がこの犬っコロをもらってやろうではないか」
 スヨーダナは両手で子犬をそっと抱き上げた。軽く、しかし思っていたより熱かった。ぐにゃりとした肉の柔らかさに一瞬ぎょっとしたのを隠して、知人に尋ねる。
「で、クリシュナ。この犬は何と言う名前なんだ?」
「名前はまだない。君がつけろ。ちなみにオスだ」
 尾をちぎれんばかりに振る子犬を見つめる。自然と、最初からその名前を知っていたかのように、口から声が零れた。
「ビーマ。お前の名前はビーマだ、犬っコロ」
 キャン! 甲高く子犬が鳴く。どこか誇らしげに。スヨーダナを見つめ、尾を振りながら。
 それが、スヨーダナとビーマの出会いだった。


 あの頃は手のひらに乗るくらい小さかったんだがなあ。ふりふりと揺れる尾と尻を見ながら、スヨーダナは遠い目になった。
 ポメラニアンという犬種は小型犬だ。ビーマの父母だという犬もクリシュナの家で見たが、小さかった。このくらいならまあ、食費だ何だもそうかからないし、一日の散歩も大してかからないだろうと、スヨーダナは思ったのだ。
 それがビーマはみるみるうちに大きくなった。そもそもよく食べる。今まで犬を飼ったことがなかったスヨーダナは、そういうものかと思いビーマに餌をやり、時間が許す限り散歩をし遊んでやった。
 あれっ何かおかしいな? と思ったのは、初めてビーマを連れてドッグランを訪れた時だ。
 昨今は小型犬がブームなのもあり、ドッグランにも多くの小型犬が訪れていた。当然ビーマと同じ犬種であるポメラニアンもいる。
 でかいのである。ビーマが。普通に他のポメラニアンと比べて二倍近くサイズが違う。縮尺が狂っている。
 ビーマより後に産まれた子犬なのだろうか。思いながらポメラニアンを連れた中年の夫婦に尋ねれば、お婆ちゃん犬だと返ってきた。全然ビーマより歳上だった。なおビーマが元気よく吠えて挨拶したため、お婆ちゃん犬は飼い主の後ろに隠れてしまった。
 犬をくれたクリシュナは一度だけビーマの様子を見にスヨーダナの家にやってきて、大笑いした。
「はは、いやあすごいな。大きすぎる。うーん、さすがにこうなるとは思わなかった」
「おい、これは病気ではないのか? 太りすぎとかそういう……
「心配するな、こいつはただ先祖返りで大きく育っているだけさ。犬にはそういうことがあるんだ」
「そうなのか? ならいいが……
 その頃にはスヨーダナの生活にはすっかりビーマが居座ってしまっていた。ビーマはポメラニアンにしてはでかすぎたが、愛想もよく賢かった。自分の犬にふさわしいと、スヨーダナはそう思っている。
 今やビーマも立派な成犬である。通常のポメラニアンの何倍も大きいビーマは、ふわふわの毛を誇らしげに風に遊ばせている。
「ん? 誰か越してきたのか?」
 とある一軒家の前を通りがかり、スヨーダナは瞬きをした。
 半年ほど空き家状態だった家に、バイクが置かれていた。築浅ではあるが相場より高いし売れるのだろうかと思っていたが、買い手がついたのだろうか。
 横目で見ながら通りすぎようとし、けれどもスヨーダナは足を止めざるを得なかった。
「ビーマ?」
 愛犬は立ち止まり、一点を凝視している。ビーマの視線の先を、スヨーダナは確認した。
 そこには多分、猫がいた。多分というのは猫にしてはあまりに大きいからだ。ぬいぐるみだろうか。それかビーマのようにやたらでかいだけか。
 窓際で眠りこけるような姿勢の猫が生きているのか作り物なのか、スヨーダナにはわからなかった。あんなでかい猫いないだろと思うけど。
「ビーマ、ほら行くぞ」
 ワン! とビーマが鳴いた。窓際の猫に向かって。
 ワン! ワン! わふっ、わふっ! ワオォ~ン!
「こらビーマ! やめんか!」
 猫が珍しいから興奮しているのだろうか。最近は室内飼いが増えているので、散歩中に猫と遭遇することはほとんどない。
「行くぞ! こらっ!」
 リードを引っ張っても、ビーマは動かない。致し方ないので、スヨーダナは無理やりビーマを抱き上げた。
「ぐおおおお、重い……! ビーマ、お前また太ったか!?」
 とにかく猫から引き離そうと、重荷を抱き上げ足早にその場を離れる。最初は未練がましく鳴いていたビーマは、やがて落ち着いたのか静かになった。やれやれとアスファルトの上にビーマを下ろす。
「まったく、朝から重労働させおって。わし様がジムに通っているのは体型維持のためであって、お前を抱っこするためではないぞ」
 冗談めかしてスヨーダナは愛犬を叱ったが、愛犬は鼻先を下に垂らして、きゅーんとか細く鳴いた。どうも落ち込んでいるらしい。珍しいことだ、いつもはスヨーダナが怒ったところで多少申し訳なさそうにするだけで、ケロッとしているのに。
「む。……そんな強く怒っておらんだろうが。ほら、帰るぞ」
 リードを引く。ビーマはとぼとぼとスヨーダナの少し前を歩いた。たまに振り返っているのが、スヨーダナがもう怒っていないかを確認しているのか、それともそうではないのか、スヨーダナにはわからなかった。

     ★

 わし様は猫である。名前はドゥリーヨダナ。
 どういう理屈で何の因果かわからんが、死後英霊として座に召し上げられたはずのわし様は、今は猫をやっている。
 最初にこの世界で自分を認識した時は、大層驚いたものだ。身に覚えのない猫化。霊基異常でも何でもない、魔力も不思議な力もな~んにもない、ただの猫。
 おまけにわし様には確かな記憶があった。クル族の高貴な王子として生を受け、偉大なる戦士として死した後に座に召され、その後カルデアにサーヴァントの一騎として召喚され、人理救済に一役買った記憶が。
 覚えている。覚えているのだ。
 座に召された英霊の魂は輪廻しない。だからこれはおかしなことである。しかしなってしまっている以上、どうしようもなかった。
 そもそもわし様、猫だし。猫に大層なことを求められても困るぞ。何? 猫の手も借りたい? マスターよ、お前はいい加減その向こう見ずに片足突っ込んだ、若さに任せた働き方をだな……
 むにゃ、と目が覚めた。何だか外が騒がしかった気がして窓の外を見るが、普段と変わらない往来――早朝の往来は時折ジョギングするおじいさんだの、犬の散歩だのが通りかかるだけで、基本的には閑散としている――があるだけだ。
 わし様はうーんと体を伸ばした。時計を見る。飼い主を起こすにはまだ早かった。
 つけっぱなしにしてもらっている、もはやわし様専用のパソコンの前に移動する。猫の手はキーボードも押しにくいしクリックも難しいが、わし様の手にかかればほれ、この通り。
 パスワードを打ち込んで、パソコンにログイン。まだ株価を確認するような時間ではないので、ニュースなんかを見る。テレビだと音が流れて飼い主が起きてしまうかもしれんからな。わし様は最高の猫なので、飼い主にも気を遣ってやれる。ああ、なんて賢く健気な猫なのだ!
 そうこうしていたら、そろそろ飼い主を起こしてやる時間だ。わし様は階段を軽やかに上って、寝室の前に移動した。よっこらせっと立ち上がり、ドアノブに手をかける。
 飼い主はまだ夢の中のようだった。わし様はその顔をそっと覗き込む。
 褐色の肌に、すっと通った鼻筋。意志の強さを表す力強い眉に、今は閉じられている目蓋の向こうには、透き通った玻璃のような瞳。桔梗色の髪が目元にかかっているのを、鼻先でどけてやる。
 ビーマ。わし様がそっと呼んだ声は、にゃあ、という音になって口から飛び出した。
 あーあ。本当に、この世ってやつは不公平だ。わし様はちんちくりんの猫なのに、ビーマのやつは人間に生まれた。バッラヴァだなんて名前を変えて。
 わし様はてっきり、ビーマのやつも猫に生まれ変わっているのだと思ったのだ。だから母猫の乳を飲まなくてもよくなって早々に、飼い主の家から逃げ出した。飼い猫のままではビーマに会えないと思ったからだ。
 信じろと、わし様を抱きしめ言ったあいつのことを、信じたかったのだ。もう一度奇跡が起きるのを、信じたかった。奇跡がほしかった。
 どうせビーマのやつのことだから、どこかで野良で楽しくたくましくやってるとかだろ。そう思って、あちこち歩いた。しかしビーマは、なかなか見つからなかった。
 いくらわし様が元高貴な王子で最優最高のサーヴァントだったとは言え、当時は産まれたばかりの子猫、それも猫をやるのは初めてだ。わし様が現実の厳しさを知るのに、そう時間はかからなかった。
 人間に捕まりそうになったことも、他の猫と喧嘩になったことも、カラスに襲われたこともあった。
 まあ、そもそもがわし様は高貴な生まれで高貴な育ちだからな。野蛮な生活は、合わなかった。
 いつからか、左足が動かなくなって。何日も食事を取れなくて。せめてどこかで休みたくて、朦朧とした意識のまま、暗くて狭いところに潜り込んだ。
 それが今の飼い主と出会った馴れ初めだ。ビーマの馬鹿はわし様のことに気づきはしなかったが――どうも記憶がないらしい、まったくふざけている――わし様はビーマを手に入れたというわけだ。
 わし様は眠りこけるビーマの胸の上に乗った。そのままふみふみと、前足でパン生地をこねるようにビーマの胸を揉む。そうするとビーマが呻いた。
「んんっ……。ん、おい、その起こし方、くすぐったいからやめろって言っただろ……
 寝起きの掠れた声で囁いて、けれどもビーマの口許は笑っている。伸びてきた手がわし様のふわふわの毛を撫でる。
「おはよう、ドゥリーヨダナ」
 みゃお。わし様が応えると、ビーマが体を起こした。うーん、と伸びをする。
「っし。まずは飯だな」
 ベッドから降りたビーマに、わし様はついていった。調理中にキッチンに入るとうるさいから、朝食の用意中はおとなしくクッションに座って待っていてやる。
「ドゥリーヨダナ、できたぞ」
 声を掛けられて、わし様専用の皿の前に移動する。捌きたてのアジの刺身と、味はまあいかにも大衆向けだが食感は悪くないカリカリ。ビーマのやつが人間のくせに味見して選んだやつ。
 みゃあ、と鳴いてから、わし様は皿に鼻先を突っ込んだ。おい行儀が悪いとか言うなよ? わし様は猫としてのマナーを守っているだけだ。
「いただきます」
 ビーマも食事を始めたらしい。ちらりと見れば漫画みたいにドカ盛りにされた白米が視界に入った。食事を終えたわし様はテーブルに近づいて、ビーマの隣の椅子に飛び乗る。
 テーブルの上にあるのは味噌汁と白米、それから卵焼き、それだけだった。馬鹿の量ではあるけれど。
 ビーマのやつは相変わらず料理が好きで、今だって仕事は料理人だ。猫のわし様にすら毎日何か作って出そうとする。
 けれども自分一人しか食べないのであれば、ちゃんとした料理をしようという気にはならないらしい。量さえ食べれればいい、そんな料理が大半だ。
 仕事がある日は昼に賄いを食べているらしいが、さすがに栄養とか大丈夫か? とわし様はこいつのことを心優しくも心配しているわけだ。なんせこいつにはわし様の飼い主として、末長くわし様を崇め養う義務がある。倒れられては敵わん。
 誰かこいつと一緒に食事を取ってくれるやつがいればいいのかもしれない。というかわし様がそうできればよかったのに。わし様はテーブルの上の味気ない料理を眺めた。手を出すとビーマに椅子から下ろされてしまうので、見るだけにする。
 昔。昔って言っていいのか? カルデアに召喚されて、ビーマと恋仲になった時。あいつはやっぱり馬鹿の量の料理をよく作ってきたが、それはこんな味気ないものではなかった。見てるだけで腹が空いて欲が刺激されるような、そんな料理をあいつと一緒に食べるのは、悪くない時間だった。
 今のこいつと一緒に食事を取ってくれる誰か。それって恋人とか? そんなのは嫌だ。
 お前はわし様のだぞ、わし様がいればそれで十分幸せだろ? そうだよなビーマ? そういう気持ちを込めて食事中のビーマの膝の上に頭を乗せて寝そべれば、ビーマは低く笑って、それからわし様の頭を撫でた。
 数年掛けて仕込んでやったビーマの撫でテクはわし様も十分満足できるものだ。喉が勝手にゴロゴロ鳴る。うっとりとした気分になって、わし様は目を瞑った。
 まあ、今のところビーマは昔と変わらない、不健康とは縁がなさそうな体をしているし。
 もうちょっとだけ。先延ばしにしていたって、罰は当たるまい。
 温かくて大きな手に身を委ねる。素直に甘えられるのは猫の特権だった。


 ビーマが仕事に向かったのを見送って、わし様はパソコンの前に移動した。株価とニュースをチェックする。そろそろ決算資料も出てくる頃だ。
 本来わし様は高貴な身であるし、そもそも猫であるので、労働なんてもっての外である。が、全てを任せるにはわし様の飼い主はあまりにお財布が寂しすぎた。
 なんせわし様を拾った時、やつは定まった住居すら持っていなかった。職場兼自宅としてキッチンカーで寝泊まり生活をしていたのだ。そのキッチンカーだって知り合いから譲り受けた中古だとかで、結構ガタが来ていた。
 お前の料理の腕前ならもっといい生活ができるだろ! 原価を見直せ! わし様が訴えてもビーマのやつには届かない。
 仕方ないから看板猫をやってやろうとしたら、最初はよかったがわし様のあまりの可愛さ美しさに目がくらんだ不埒者に誘拐されそうになることが立て続けに起き、ビーマのやつはわし様を目の届かないところに出すのを嫌がるようになった。甲斐性なしのくせに束縛が強いとか最悪だぞ。
 猫の身でできることは限られている。わし様がビーマのその日暮らしにもほどがある生活にやきもきしていたある日、こいつの兄がやってきた。
 のほほんとしたお坊ちゃんフェイスはどこからどう見てもユディシュティラだったが、ビーマは「カンカ兄」と呼んでいた。ユディシュティラのやつも、ビーマと同じで以前とは違う名前を名乗っているらしい。ビーマの兄はわし様を見ると「おや、猫を飼い始めたのかい?」と小首を傾げた。
「おう。うちのキッチンカーの下で倒れてたんだよ。その時はまだ俺の手のひらに乗るくらいだったんだが、みるみるうちにでっかくなってなあ。今じゃこんなだ。前に兄貴がうちに来たすぐ後のことだったから……三ヶ月前くらいかな」
「三ヶ月!? それでこんなに大きいのかい!? ……すごく大きくなる種類かもしれないね、このキッチンカーじゃ狭いんじゃ?」
 いいぞ! もっと言ってやれ! わし様にふさわしい家を用意しろと! わし様がにゃあにゃあ鳴いて訴えると、ビーマは「つってもなあ」と腕を組んだ。
「狭いアパート借りたところで、大して変わらねえだろ? だったらこうやって俺と一緒にあちこち外を回る方が、こいつも楽しいんじゃねえかと思うんだがなあ」
「まあ、確かに猫に住みやすいような一軒家ってなると、すぐには難しいかもしれないね……
 これだから貧乏パーンダヴァは! 金を稼ぐポテンシャルはあるんだから、ちゃんと稼いで買えばいいだろ! 家を買え! わし様のために!! そのくらいの甲斐性は見せろ!
「何かすごい鳴いてるね、この猫。名前は何て言うんだい?」
「ああ、ドゥリーヨダナってんだ。何でかその名前がぴったりなような気がしてよ」
 へえ、と言いながらビーマの兄が手を伸ばしてきたので、わし様はシャーッと威嚇してやった。しょんぼりした様子のユディシュティラを、ビーマが「兄貴は犬の匂いでもついてるんじゃねえか?」と慰めている。こいつ犬飼いなのか。余計にシャーッだ。
 別に犬は嫌いじゃないが、今生のわし様は猫である。当然、犬好きより猫好きの方が好きだ。わし様はわし様のことが好きなやつが好きだからな!
 その後ビーマはユディシュティラの持ってきたパソコンを開いて、何やら説明を受けていた。どうも資産運用を勧められているようだったので、わし様もビーマの膝の上に乗って一緒に聞く。
「これなら少額からでも始められるし、ほったらかしでもいいからね。生き物を飼うなら尚更、将来のことは考えておかないと」
 ふーむ? 証券会社の口座の開設? これがビーマの銀行の口座? 設定するパスワードは……む。わし様がこいつに拾われた日か。
 投資信託かあ。説明を聞くに、確かに知識がなく時間もない、要するにわし様の飼い主のような男にはうってつけだろう。だがしかし、これで稼ぐには時間がかかるであろうことは目に見えていた。
 わし様は猫だ。でもってビーマは人間。歩みが違いすぎる。わし様に与えられた時間は、こいつよりずっと短い。
「このパソコンはあげるよ。メニュー表を作れるように、画像処理ソフトも入れておいたから。印刷はコンビニでやりなさい」
「ありがとな、兄貴」
 お礼にテイクアウトメニューをどっさり持たされたユディシュティラが帰っていくのを、わし様は見送らなかった。代わりに何を見ていたかと言えば、パソコンだ。
 試しにキーボードを叩く。うーん、どうしても複数のキーを同時に押してしまう。マウスも……自由自在とは言えんなあ。
「おいこら、遊ぶんじゃねえ」
 遊んでおらんわ。わし様はお前のためにひと肌脱ごうとしたところだぞ。抗議の声はにゃーんという愛くるしい声になってわし様の喉から出ていく。
 その日から、わし様の特訓が始まった。ビーマの仕事中はとにかくパソコンをいじっていた。ビーマは「壊すなよ」としか言わなかった。壊さんわ、お前じゃあるまいし。
 そして苦節二週間でわし様は非常にゆっくりではあるがキーボードの操作ができるようになり――ビーマの口座に入っていた有り金を全部使って株を買った。ちょうど底値を叩いていたのだ。ニュースサイトを見ても、二週間もすれば上がるであろうことは確かだった。
 実際、一週間せずとも株価は戻った。わし様は株を売った。そうして得た利益でまた別の株を買った。小さな利益を雪だるま式に増やしていき、三ヶ月後には元々ビーマの口座に入っていた額を二倍にした。
 よしよし、この調子で増やしていけば、マイホームも夢ではないぞ! お前はわし様のような賢い猫の飼い主になれてさぞ誇らしいだろう! この幸せ者め! もっとわし様を崇めたて褒めたたえろ! おやつの献上頻度を増やせ! わし様はビーマに訴えてやりたかったが、我慢した。どうせならあっと驚かせるような額を貯めて、ビーマのやつを驚かせたかったのだ。
 しかしその作戦はうまくいかなかった。ユディシュティラのせいだ。
 あいつがビーマがちゃんと資産運用をやっているか、確認しに来たのだ。ビーマのやつが自分の口座にいくら入っているかも把握していないと知って、ユディシュティラのやつは呆れた。そしてその場で口座を確認しようという話になった。
 わし様は邪魔しようとしたが、所詮は猫だ。ビーマにおやつ――見た目はどろっとしていてよくないが、鶏やツナが煮込まれて鰹節の匂いまでする、わし様の大好きなやつ――を出されてわし様が夢中になっている間に、わし様がせっせせっせとやっていたデキる猫としてビーマをメロメロにしよう作戦は、中途半端なところで全てが明るみに出てしまった。
 身に覚えのない株取引にビーマとユディシュティラのやつは慌てていたが、ふとビーマがこちらを見た。
「まさか……ドゥリーヨダナ、お前なのか? 俺の代わりに資産運用をしていたのは……?」
 にゃあ。わし様はそうだぞ今頃気づいたかビーマ! とそう応えてやった。ばれてしまっては仕方ないからな。ほら褒めろ。なでなでしろ。おやつを出せ。
「バッラヴァ、お前は動物に嫌われがちだったから知らないのかもしれないけど、猫は資産運用なんてしないんだよ」
「でも兄貴、俺はこいつが日中パソコンをいじっているのを見たぜ。それにサイトの閲覧履歴は俺には覚えがないものばかりだ。ってことはやっぱり、こいつがやったんじゃねえのか?」
 ビーマがわし様を抱き上げた。抱っこはあまり好きじゃない。こいつの胸がでかすぎてわし様が潰れそうになるからだ。ええい無駄に発達した胸筋を押し付けてくるな! パンチパンチ!
「それによ兄貴、こいつすげえ賢いんだ。ただの猫とは思えねえ。それにすげえ我がままでプライドが高いくせに、店に客を呼んで俺の仕事を手伝おうとするんだよ。だから……俺の代わりに資産運用しようとしても、おかしくはねえ」
「いやおかしいよ。おかしいんだよバッラヴァ。それはもう猫じゃなくて妖怪、化け猫だよ……
 はぁ~? 人を化け猫呼ばわりとは何事だ! わし様ほどのパーフェクトキャットはいないだろうが! わし様はユディシュティラをパンチしようと暴れたが、ビーマの発達した胸筋と丸太のような腕に阻まれ、叶わなかった。
「兄貴が心配してくれるのはわかるけどよ……でも俺は大丈夫だ。俺はドゥリーヨダナを信じるぜ」
 わし様はビーマを見上げた。ビーマがわし様の喉を撫でる。勝手に目が閉じて喉が鳴った。
 信じる、か。そうか。お前がわし様を信じるのか。
 かつてお前はわし様に、信じてくれと言ったけど。わし様を信じるとは言わなかったな。そのお前が、わし様を信じると言った。それならば。
 ドリタラーシュトラの息子、百王子の長兄でありクル族の正統な後継者である王子としては――応えないわけにはいかん。
 というわけでわし様は奮起した。途中何度もビーマの兄弟やら友人やらに「猫が資産運用なんてどう考えてもおかしいですよ」だの「中におっさんとかが入ってるんじゃ? お祓いにでも行ったら?」なんて言われたが、屁でもなかった。ビーマはわし様を信じているわけだからな、それが全てだ。
 そんなわし様の涙ぐましい努力の結果、中古ではあるが一軒家を手に入れた。猫好きが建てた注文住宅で、キャットウォークや猫用の出入り口、キャットタワーも備え付けだ。ま、わし様には全体的にちっとばかし小さかったが。何でも前に住んでいた者は海外に移住することになって、家を手放したらしい。
 価格も中古にしては高かったが、わし様が二年半かけて積み上げた資金で何とか買えた。ビーマに家を買わせるためにホームページを見せたり見学会に申し込ませるのは骨が折れたが――今となっては済んだことだ。
 とにかく、わし様は狭苦しいキッチンカーよりはましな家を手に入れたわけだ。ついでにビーマはわし様のお陰で一軒家を手に入れた。まったく、幸せ者の飼い主だ。
 証券会社のマイページで買い注文を入れた後、わし様は一人きりの家で、ごろんとカーペットに寝そべった。今やビーマのやつはキッチンカーでの営業は週一に留め、基本は飲食店勤めをやっている。いつかは自分の店を持ちたいのだろうから、わし様の次の目標はあいつの開業資金集めだ。集客が見込めるいい土地は高いからな。
 ……寂しいと、思うことがないと言えば嘘になる。あのキッチンカーは狭苦しかったが、でもビーマとは四六時中一緒にいられた。そんなことはカルデアにいた時だってなかった。
 でもまあ、仕方ない。わし様というものがありながら、ビーマに貧乏暮らしをさせるわけにはいかん。あいつよく食べるし。わし様は最賢く最美しいお猫様なのだ。ビーマの一人や二人、養える甲斐性を見せねばな。
 ビーマの帰りまで、七時間ほどあった。わし様は昼寝でもしようと、目を瞑った。

     ★

 今日は来るだろうか。店じまいの準備を進めながら、バッラヴァは顔を上げた。オフィス街の小さな公園には、ほとんど人通りがない。少し離れたところでコーヒーやクレープを売っているキッチンカーの店主も暇そうにしている。
 閉店時間を後ろ倒しにすれば早めの夕飯、もしくは泊りがけが確定したシステムエンジニアなんかがやってくるかもしれないが、バッラヴァにはそこまで遅くまで働くつもりはなかった。家に待たせているやつがいる。
 スマートフォンを取り出す。アプリからペットカメラを確認するが、動くものは何も映っていなかった。今はリビングにはいないらしい。
 残念に思いながらアプリを閉じれば、待ち受けにしてる飼い猫の写真が映る。バッラヴァは目を細めた。
 ドゥリーヨダナは不思議な猫だ。ドゥリーヨダナと出会った当時、ビーマはこのキッチンカーを職場兼自宅とし、あちこちを渡り歩く根無し草だった。
 その日は冷たい雨が降っていて、客入りも悪かったのをよく覚えている。そんな中、赤ん坊を抱いた若い母親がやってきた。彼女は現金を出そうとし、手を滑らせて小銭を落とした。ビーマは自分が拾うからとキッチンカーから飛び出し、車の下を確認して。
 小銭と一緒に、全身びしょぬれでぐったりしている子猫を見つけた。
 それがドゥリーヨダナとの出会いだった。急いでタオルでくるんでチャイ用のミルクを飲ませれば、子猫は小さく鳴いた。息があるのを確認して動物病院に駆け込めば、栄養失調と後ろ足に怪我をしていると診断が出た。バッラヴァが飼い主でも何でもない、通りがかりの人間だと知ると、獣医は言った。
「どうされますか? 猫に限らずですが、ペットに保険は効きません。あなたが飼うのであれば当然治療費は支払っていただきます」
……飼わないって言ったら、その猫はどうなるんだ?」
「保護団体に預けます。安心してください、殺したりはしませんよ。里親が見つかるまでは、シェルター暮らしですが」
 それが子猫にとっていいことなのか、バッラヴァにはわからなかった。ただ、その時バッラヴァは、子猫がじっとこちらを見ているのに気付いた。
 バッラヴァは昔から、動物には好かれなかった。犬には吠えられ猫には警戒され、鳥も逃げる。ふれあい動物園ではバッラヴァが触ろうとした途端気絶する小動物までいた。
 家を先に出た兄が、子供の頃からずっと飼いたかったのだと犬を飼い始めたのを知った時、バッラヴァは何も言えなかった。
 別に動物が好きなわけでもない。好かれずに困ることもなかった。動物園にも水族館にも興味はないし。
 でも。子猫はこちらを見ている。そこに恐れはなかった。ただこちらを見て、子猫が小さくみゃあと鳴いた。それはどこか、挑発のように聞こえた。
 それを聞いたら、バッラヴァはもう、子猫の幸せを想う気持ちより、別の気持ちに背を押されてしまった。
「俺が飼う」
 自分の口から飛び出た言葉にまずびっくりして、それからもう一度、バッラヴァは言い直した。
「俺が飼う。金も払う。だから、治してやってくれ」
 獣医はそうですか、と言った。それから名前はどうするのだと聞いてきた。カルテを作るから、子猫の名前を決めてほしいと。
 バッラヴァは子猫を見た。何故だか昔から知っているかのように、自然と名前が浮かんだ。
「ドゥリーヨダナ。こいつは、ドゥリーヨダナだ」
 みゃあ、とまた子猫が鳴いた。だから猫の名前は、ドゥリーヨダナだ。
 出会った頃はバッラヴァの手のひらに乗るくらい小さかった子猫は、みるみるうちに大きくなった。何だったら猫じゃなくて虎かライオンなんじゃないかと思うくらいには大きい。そういう猫だから、初めて会った時からバッラヴァを怖がらなかったのかもしれない。
 その大きさと異様なまでの賢さ――気がついたらバッラヴァのパソコンで勝手にバッラヴァの預金を資産運用し、住む家を探してくることまでしていた――から、バッラヴァの兄弟や友人たちからは化け猫だなんて呼ばれているが、バッラヴァには可愛い愛猫でしかなかった。別に化け猫でも何でもいい。あいつが俺の、大事な猫であることに変わりはない。
 昼は給餌器で餌をやっているが、朝と夜はバッラヴァが手づから食事を用意している。バッラヴァより猫の方がいいものを食べていると呆れるものも周りにいるくらいには、バッラヴァはドゥリーヨダナに時間と手間を注いでいた。夜が遅くなるのは避けたい。
 そうしたわけで、今では本業となった雇われ料理人も昼のシフトがほとんどだし、週に一度のキッチンカーも夕方には引き上げている。
 今日は来ないか。スマホに映る時間を確認して、バッラヴァは看板を片付けるため、キッチンカーから出た。するとどたどたと騒がしい様子で公園に飛び込んでくる男がいた。
「お~い待て待てまだ閉めるな! お客様だぞ!」
「自分で自分のことお客様って言うやつがいるかよ」
 思わずバッラヴァが言い返すと、男は「それがお客様に対する態度か!」と不機嫌そうに下唇を突き出した。
「まったく、ちょ~っと料理の腕が良くて顔もいいからって調子に乗りおって……。おい、とにかく料理だ料理。ビリヤニはまだあるか?」
「チキンならあるぜ。ちょっと待ってな」
 キッチンカーの中に戻って、容器にビリヤニを詰める。乱れた前髪を整えながら息をついている男は、走ってきたからだろう、頬に赤みがさしているのもあって、どこか子供っぽい顔をしていた。
 うまいものを前に期待する顔。これがあるから、態度がでかくてうるさい客だなと思いつつも、バッラヴァは男のことが嫌いになれないでいる。
 この名前も知らない客が初めてバッラヴァのキッチンカーにやって来たのは、二ヶ月ほど前のことだ。連れの女に連れられてやってきた男は、あまりバッラヴァのキッチンカーには興味がなさそうだった。
「ここ! ここのカレーがすっごくおいしいの! セットにするならチャパティがおすすめ! スパイスも効いてて……きっと気に入るわよ!」
「キッチンカー? おいおい、ちゃんとした店のテイクアウトならともかく、こんな設備があるだけ屋台よりマシみたいな店で、まともなものが出てくるのかあ?」
 随分と失礼な客が来たものだ。バッラヴァはよく通る声に目をやった。そうして、男が自分と変わらぬくらい体格がいいことに、少々驚いた。
 バッラヴァは高身長で、人を見上げるようなことをほとんどしたことがない。おまけに昔から食べれば食べるだけ筋肉になる質なのか、スポーツ選手と間違われるような体をしている。失礼な客候補は、そんなバッラヴァと同じくらい身長と肩幅があり、体だって鍛えているのが服の上からでもよくわかった。
 おまけに男はなかなか整った顔をしていた。イケメンというよりは往年の男優とでも言おうか、垂れ目がちの目はどこか甘く、しかし山なりの眉にきちんと整えられている顎髭のせいか、決して女性的な印象はない。アンバランスで、けれども完成された顔立ちは、黙っていればさぞ多くの者をうっとりさせただろう。
 しかしながら男は黙っていなかった。何やらずっと連れの女に文句を言っている。
「そもそも何でわし様が貴重な昼休みにテイクアウトを買いに出ないといかんのだ? アーユス、お前はわし様の秘書ではないのか? 金はいくらでも出してやるから、お前が買ってくればよかっただけではないか」
 わし様。あまりにトンチキな一人称にバッラヴァが我が耳を疑っている間に、アーユスと呼ばれた女性が言い返す。
「私が買ってきても好みじゃないとか言って途中で食べるのやめたりするでしょ! たまには自分で好きなもの選んで最後まで食べなさいよ、もう」
 昼時だ。既に並んでいる客の一番後ろについたその二人を、接客の最中バッラヴァはちらりと確認した。
 女の方には見覚えがあった。二週間ほど前に来た客だ。それこそ周囲の分も買い込んでいたのか、大量に買って行ったのでよく覚えている。細い腕でパンパンになった袋を両手に提げて帰っていくものだから、少々心配したものだ。
「この間はね、バターチキンカレーにしたの。でも今日は違うのにしようかな。本日のカレーはナスだって。おいしそう。でもシーフードも気になるのよね。あ、辛さはレベル五まであるんだって! 私はこの間は二にしたけど、今日は三にしちゃおうかな!」
 楽しそうに女の方は話していたが、男の方はどこか心ここにあらずの様子で「ああ」だの「うん」だの適当な返事をしていた。来たばかりの時はあんなにやかましかったのに。
 顔を見れば、見るからに疲れが出ている顔をしていた。目は虚ろで、よく見れば顔色もあまりよくない。それに気づいたのだろう、女の方が心配そうに男の顔を覗き込んでいる。
「ちょっと、大丈夫? やっぱり午後の予定はキャンセルした方が……
……ん。何を言っておる、大事な商談だぞ。キャンセルなんてするわけなかろう。うまくいけばお前もボーナスチャンスだ。しっかりわし様のサポートをしろよ!」
 すぐに男はにぱっと人好きのする笑みを浮かべた。女の方はまだ、心配そうな顔をしている。
「本当に大丈夫なのね? ならいいけど……。土日に予定が入らないようには絶対するから、土日はゆっくり休んでよね。ビーマくんだっけ、ワンちゃんも寂しがってるでしょ?」
「ん~? そうだなあ、まあ、わし様のようなパーフェクト飼い主を持ててあの犬っコロは今でも十分幸せだと思うが……たまにはあいつに一日割いてやるのもいいか。最近散歩もアシュヴァッターマンに任せてばかりだったしな……
 列が進み、女と男の番がやってきた。ビーマは浮かべ慣れた営業スマイルを向ける。
「いらっしゃい! 何にする?」
「私は本日のカレー、セットはチャパティで、辛さは三で! それと……
 どうする? とでも言いたげに、女が男の方を見た。男はぼんやりとメニューを眺めている。
……あんた、うちは初めてかい?」
 バッラヴァが話しかけると、男がこちらを見た。近くで見た男の瞳は珍しい色をしていた。色鮮やかな花弁のような、ショーケースの中の宝石のような、ピンクサファイア。ずっと見ていたいような、慌てて目を逸らしたくなくなるような、不思議な色合いをしていた。
「人気なのはバターチキンカレーだ。これにナンのセットが定番だが、俺としてはチャパティの方が自信がある。あとはビリヤニのセットもあるぜ。今日は肉は使ってなくてな、じゃがいもと卵だ。つってもスパイスはちゃんと効かせてあるし、食いではある。少量だがカレーもつける。米の気分なら、おすすめだ」
……なら、それで」
「カレーはバターチキンカレーでいいか? 辛さは? 初めてなら二を勧めてる。辛いのが好きなら四だな。五は……上級者向けだ」
「いや、わし様は辛いのが好きだからな。ここは五で……
「二でお願いします」
 女が口を挟んできた。男が顔を顰める。
「おい、何勝手に口出しとるんだ」
「少し胃を休ませた方がいいわよ。ここ、十分スパイスが効いてておいしいから。そんなに辛さを上げなくたって大丈夫」
「せめて四にさせろ」
「三ならいいわよ。あなたが口に合わなかったって騒いでも、私の本日のカレーと交換できるし」
 男が唇を尖らせた。拗ねた子供のような顔だ。バッラヴァは確認した。
「本日のビリヤニ、バターチキンカレーの辛さ三セットでいいな?」
 否定する言葉が返ってこなかったので、料理を詰める。男が「今時現金のみ? 遅れとるなあ」とケチをつけているのが聞こえてきた。いちいち癇に障る客だな。バッラヴァが思っていると、男が小さく悲鳴を上げた。
「いだだだっ、おい今わし様のお尻をつねっただろ! わし様お前の雇用主よ? 普通つねるか、こんな公共の場で!」
「公共の場でお尻をつねられるようなことを言うのをやめなさいよ! まったくもう! こういうお店は手数料の負担だって大変なこと、知ってて言ってるんでしょ!」
 男も男だが、女もなかなかだった。バッラヴァは手際よく本日のカレーセットとビリヤニセットを袋に詰め、人数分のスプーンとお手拭きを入れ、差し出した。
「おまちどう、注文の本日のカレーセットとビリヤニセットだ」
「どうもありがとう」
 女の方から金を受け取る。さすがに荷物は男が持つのかと思いきや、これもまた女が持った。と思いきや、男が奪い取る。
「あ、ちょっと!」
「昼休みは貴重だ。荷物持ちのお前の速度に合わせておけん。とっとと戻るぞ」
「私そんな足遅くないでしょ! 歩幅が違うのはしょうがないじゃない! あっ、こらー!」
 足の長さに物を言わせて男がすたすたと去っていくのを、女が小走りで追いかけていく。あっという間に公園から出て行った客を、バッラヴァは見送らなかった。次の客がもう目の前に立っている。
 妙な客だったな。そう思って終わりだったはずの話が変わってきたのは、その日の店じまい前のことだった。
「テイクアウト、まだやってるか? じゃがいもと卵のビリヤニだ」
 息を切らせてやってきた男は、心配そうな、けれども期待をするような、そんな目をしてキッチンカーの中を覗き込もうと、つま先立ちをしていた。
「ああ、まだあるぜ。カレーはもう、今日はラムしか残ってねえけど」
「それでいい。ビリヤニがあればいい。大盛りにできるか? 二人前買ってもいい」
 目を輝かせた男に、バッラヴァはビリヤニの残りを確認した。二人前には少し足りないが、一人前を大盛りにできるくらいにはあった。自分の晩御飯にするつもりだったが、誰かに食べてもらえるならそちらの方がいい。
「今日はもう店じまいだから、サービスで大盛りにしてやるよ。ちょっと待ってな。……ああ、カレーの辛さはどうする? 四にしてみるか?」
 少しの逡巡の後、男が「三でいい」と言ったので、カレーの辛さを調整するために、既に消していた火をつけ直す。少々待たせる代わりにと、バッラヴァはマンゴーラッシーを男に出してやった。
……これは? わし様、ドリンクは頼んでおらんが」
「人気商品の一つでな。こいつもサービスだ。うまかったら次来た時に頼んでくれ」
「そういうことなら遠慮なく」
 プラスチックのコップに、男が口をつける。途端、男の目が見開かれ頬が緩むのを、バッラヴァは見た。笑ってしまいそうになるのを堪える。
 キッチンカーの営業の難点は、目の前で自分の作った料理の反応が見れないことだ。大概の客は家や職場、離れた場所に移動して、バッラヴァの作った料理を食べる。そういう意味では、店舗での調理の方が、合間に客の様子を見たりSNSで反応が見れたりと、バッラヴァには合っていた。
 けれども未だに週一でキッチンカーの営業を続けているのは、やめてしまうのは惜しいと言われたのもあるし、こうして目の前で反応を見れることもあるからだ。来てくれた客と雑談するのも楽しい。
「あんた、昼に買って行ってくれた人だよな? おいしかっただろ、ビリヤニ。最近人気なんだ」
 バッラヴァが尋ねると、男ははっとした顔をして、「あー、うん」と曖昧に頷いた。かと思いきや、ペラペラと話し出す。
「まあ食材は大したものを使ってはおらんが、スパイスの調合と食材の火の通り加減は絶妙だったし、何より食べ応えはあるのに重くない。ぺろっと食べ終わってしまってな。わし様は美食家で高級食材をふんだんに使った高級料理店なんかもしょっちゅう行っておるわけだが……キッチンカーだなんていかにも庶民向けな店にしてはうまいものを出す。褒めてやってもいい」
「普通においしかったって言えねえのかよ。その失礼さで店を出禁になったりすることもあるんじゃねえのか?」
 思わずバッラヴァが呆れて言えば、男は「褒めてやったのに、何が気に入らんのだ」と不思議そうな顔をした。
「だいたい、こうやって閉店間際にわし様が駆け込んできた時点で、うまかったなんて言わずともわかるだろうが。というかわかれ! ていうかさっきから何でタメ語!? わし様、お客様だぞ!」
「お客様精神が強すぎだろ。……あー、喋り方は申し訳ない。ついこっちの方が楽でな。できれば慣れてほしいもんだが……
 と言っても、不愉快であれば男は二度と買いに来ないだろうから、それで終わりの話だ。バッラヴァが思っていると、男は「ふん。わし様は寛大ゆえ、うまい料理に免じて許してやる。ありがたく思え!」と尊大に笑った。
 どうも俺は変わった常連を新しく手に入れたらしい。思いながら、バッラヴァはビリヤニの入った袋を差し出した。
「ほらよ。夕飯にでもするのか?」
「ああ。今日は早帰りで会合もないからな……。久しぶりに飼い犬も構ってやりたいし……
 一瞬、男が心ここにあらずの顔をした。疲れの滲んだ顔。バッラヴァがかける言葉に迷っていると、男が万札を出してきた。結局何も言わず、会計を終える。
 去っていく男の背を見送って、その日のバッラヴァは営業を終えた。
 それから毎週、男は閉店間際にやってくる。昼はアーユスと呼ばれていた女性が買いに来るが、男は来ない。アーユスは二人分だけ買うこともあれば、十人分以上買っていくこともあり、男が何を食べたのかはわからなかった。
 閉店間際にやってくる男はいつもビリヤニを頼む。それがわかっているから、最近バッラヴァは多めにビリヤニを作っている。閉店間際まで持つように。余れば自分の晩御飯にするだけだから、別に困らない。
「ほらよ。チキンビリヤニだ。今日は少し辛めの味付けだからな、ライタもつけてる」
「ほほう。わし様は辛いのが好きだからな。この期待をお前の料理は超えられるか?」
「お前の期待は知らねえが、良ければ来週感想を聞かせてくれ」
 バッラヴァが言うと、男はきょとんとした顔をして、それから唇を尖らせた。
「前にわし様の感想を失礼だ、出禁だ、と言ったくせに」
「あ? んなこと言ったか? 何にせよ、感想聞かせろよ。また来週も来るだろ?」
……ふん。飽きないうちはな」
 言い捨てて去っていく背中を、いつも通りバッラヴァは見送った。ぼんやりと考える。
 つい、感想をねだってしまった。どうせ口うるさいんだろうなと思いつつも、あの話し方だけでなく中身まで随分と個性的でこだわりの強そうな男が、毎週バッラヴァの料理をどんな気持ちで買いに来ているのか、知りたくなってしまった。
 美味しいと思っているから、来るのだろう。それは間違いないと思う。
 では具体的にどこが気に入っている? どうすれば男をもっと満足させられる? そんなことを考えてしまう。
 自分は料理人で。たった一人を満足させるような自己満足の料理ではなくて、大勢の舌を喜ばせ腹を満たす、そんな料理を作るべきなのに。
 店じまいをして、運転席に乗り込む。何にせよ、来週を楽しみにしている自分がいることだけは、事実だった。

     ★

 俺は犬だ。名前はビーマ。
 どういう理屈で何の因果かわからんが、死後英霊として座に召し上げられたはずの俺は、今は犬をやっている。
 風神の力も何も使えねえ、ただのちょっとばかしでかいだけの犬。
 しかし俺には記憶があった。かつて風神ヴァーユの息子であり、パーンダヴァ五王子が一人であり、クルクシェートラで誓いを果たしヒマラヤで生を終えた後に座に召され、その後カルデアにサーヴァントの一騎として召喚され、人理救済を手助けした記憶が。
 覚えている。覚えていた。
 それがどういうことか。考えることに意味はねえと思った。もうこうなっちまってるんだから、今更四の五の言ったって仕方がない。とりあえずは人理の危機ってわけでもなさそうだったし。
 何かの手違い、あるいは気紛れかもしれねえが、本来転生しねえはずの俺が、記憶を持ちながら犬として転生した。であれば、やることはわかっていた。
 ドゥリーヨダナを探して見つけるのだ。
 俺の生涯いがみ合い、競い合った幼馴染にして好敵手、でもって、カルデアでは情を交わし合った恋人。
 俺とは切っても切れねえ、そんな仲のあいつ。
 カルデアを退去する時、俺は信じろとあいつに言った。あいつは信じさせてみろと言った。であれば、俺は期待に応えてやらなきゃならねえ。
 きっとこの世界にもあいつがいるはずだ。だって俺がいるんだから。犬としてこの世に生を受けてすぐに、俺はドゥリーヨダナを探すことを決意した。
 幸いドゥリーヨダナはすぐに見つかった。生後一週間の俺を覗き込む人間たちの中に、あいつがいたのだ。
 その時の俺の興奮ったらない。あいつはスヨーダナと名前を変えていて記憶もなかったが、確かにドゥリーヨダナだった。俺は絶対に離さないと強い意志であいつにしがみつき、ちと複雑ではあるが、あいつの飼い犬という立場を手に入れた。
 だが、飼われ始めてすぐに俺は気づいた。
 こいつは確かにドゥリーヨダナだが、俺のドゥリーヨダナじゃない。
 名前が違うとか、記憶がないとか、そんな上っ面の部分の話じゃない。うまく言葉にできねえ、言ってしまえば勘みたいな部分で、俺はそれを察した。
 とは言え、ドゥリーヨダナはドゥリーヨダナだ。俺は相変わらずプライドばっかり高くて犬にさえいちいち偉ぶらないと気が済まねえらしい飼い主のことを、家族として愛している。ま、こいつから身内扱いされるのが面映ゆくはあるが悪くねえってのもある。
 そんな俺の飼い主は、ここしばらく新しい事業でも始めたのか、帰りは遅いし家にいてもぐったりしていることが増えた。食事も外ではいいものを食べているようだが、家じゃ菓子や酒のつまみみたいなもんばかりつまんでいる。全体的にろくなもん食ってねえだろって見ればわかるような面をしている。
 俺が人間だったら、うまい料理を作ってやったり、マッサージでもしてやったり、気晴らしにどこかに連れ出してやったりできたんだがなあ。犬じゃできることは限られている。
 せめて電子レンジが使えりゃあな。俺はでかいのもあって――熊と間違われて散歩中の俺を見たじいさんが腰を抜かしたことがある――冷蔵庫くらいなら頑張れば開けられるが、鼻先は短いし手足もそんなに長い犬種じゃないのもあって、電子レンジの操作は難しかった。
 本当は。こいつの隣に、誰かこいつの生活を支えてやれるやつがいればいいんだろうなと思う。恋人とか、妻とか。でも、それはあんまり嬉しくねえなって思ってる俺がいるのも事実だ。
 こいつは俺のドゥリーヨダナじゃねえが、でもドゥリーヨダナであることに変わりはないし、何より今の俺にとってはただ一人の飼い主だった。俺はまだ、こいつが俺を撫でる手だとか、俺の名を呼ぶ声だとかを、独占していたかった。
 そんな飼い主はますます多忙を極めているのか、最近は平日の散歩の大半をバイトに任せている始末。俺は心配半分、落ち込み半分ってところだった。
 あいつの邪魔はしたくないと思う。幸せになってほしいとも思う。最近のあいつは見てられねえとも思うし、もっと一緒にいたいと思う。
 犬になっちまったことはどうにもできねえことで、歯がゆいが俺は俺にできることをするしかないとも思う。でも、やっぱりなんつーか、寂しいよな。
 言葉のやり取りはできないし、俺は料理を作ってやることもできない。精々あいつのために布団の中を温めておいてやって、帰って来たあいつにおかえりって擦り寄る、それくらいしかできない。
 そんな日々だったが、最近少々風向きが変わって来た。
 週に一度、水曜日にあいつが早く帰ってくるようになったのだ。いつも機嫌よく、スパイスの香りのする袋を持って帰ってくる。
 こいつは犬相手にもいちいちうるさいので、俺は早々に最近気に入りのキッチンカーがあって、そのキッチンカーは毎週水曜日だけこいつの職場に近いところにやってきて、こいつは夕飯に毎週ビリヤニを買うことにしたのだということを知った。
 匂いをかいだだけで、ドゥリーヨダナの買ってきたビリヤニはなかなかの一品だということがわかる。ライバル心を燃やす俺が毎週ビリヤニをチェックしようとテーブルの上に前足を乗せれば、毎週ドゥリーヨダナは文句を言った。
「こらビーマ。これはお前の食事じゃない。お前には高級ドッグフードと、たまに煮込んだ肉も食わせてやってるだろうが」
 わかってるよ。犬には毒なものが入ってるって言うんだろ? さすがに俺も毒無効かわからん今の体じゃ、試そうとは思えん。
 まだお前を置いて逝くわけにはいかねえし。
 しかしこのビリヤニを作ったのは、どんな料理人だろうか。単純に同じ料理人として――今の俺は料理人じゃねえけど――興味がある。毎週ドゥリーヨダナのやつが、それはもううまそうにビリヤニを頬張るのを見せられるからだ。
 俺に料理ができたらな。同じ顔をさせてやれるんだが。
……む。あいつ顔も出すのか」
 空になった皿を前に満足そうにビールを飲んでいたドゥリーヨダナが呟いた。俺が顔を上げると、「ほれ見てみろビーマ」とスマホの画面を見せてくる。
「お前が毎週気にしているビリヤニを作っているのはこいつだ。こいつ、態度は信じられんくらいでかいが、こいつの料理はわし様好みでどれもうまい! 何かヤバイ薬でも入っておるのかもしれん……。しかし顔もまあ悪くないからって、調子に乗って顔出しとはな。これで店が繁盛してわし様の分がなくなったらどうしてくれると言うのだ!? まったくこれだから……
 何やらぶつぶつと自分勝手なわがままを口にする飼い主を無視して、俺はスマホ画面に鼻先を近づけた。
 そこに映っているのは、俺だった。いや俺ではない。
 犬の俺ではなく、人間の姿をした俺だ。
 俺は飼い主を見た。ドゥリーヨダナだけど、俺のじゃないドゥリーヨダナ。
 こいつのビーマは、俺じゃなくてこっちだ。スマホ画面の中で大きなチャパティを広げて笑っている、人間の俺。
 ああ、やっぱり。俺のドゥリーヨダナは、この飼い主じゃないのだ。こいつには、ちゃんと俺じゃないビーマがいる。それを認めるのは難しくはなかったが、一抹の寂しさがあった。だが同時に、俺は思う。
 ということはだ、俺のドゥリーヨダナも、どこかにいるんじゃないのか?
 もしかしたら、あいつも犬になっているのかもしれない。そしたらどこかでまた出会えるかも。
 この姿でも、話して、触れ合って、過ごせるかもしれない。カルデアにいた時みたいに。俺と同じように、記憶もあるかもしれない。
 興奮のあまり俺はその場をくるくる回った。ドゥリーヨダナは俺が構ってほしがっているとでも思ったのか、「どうした? ちょっと待ってろ、歯を磨いたら遊んでやるから」と俺に嬉しいことを言ってくれたので、俺は尻尾を痛いくらいに振った。自分じゃどうにも制御できねえんだよなあ、これ。
 俺にとって嬉しかったことがもう一つある。ビリヤニの作り手が誰だかわかって、もうどこの誰だかわからん料理人に嫉妬する必要がなくなったことだ。
 俺じゃねえとは言え、俺が作ってるんだ。そりゃあドゥリーヨダナのやつを満足させるに決まってる。ま、このまま胡坐をかき続けなければの話だが。ちゃんと精進しろよな、もう一人の俺。


 水曜日は早く帰ってきてうまい料理を食べた分エネルギーがチャージされるのか、最近木曜日の朝はドゥリーヨダナが自ら俺の散歩をしてくれる。アルバイトに散歩させられるより断然そっちの方が嬉しいため、俺は俺じゃない俺に心の中でお礼を言った。もし今後実際に会うことがあったら、俺を撫でさせてやってもいいくらいだ。
 さて。そうやって機嫌よく散歩していた俺だったが、衝撃的なことがあった。
 ドゥリーヨダナを見つけたのだ。俺の、ドゥリーヨダナを。
 それはいくつかある散歩コースのうちの一つでだけ通る、住宅街を歩いている時だった。しばらく空き家になっていた家に、新しく人が入ったのかバイクなんかが置かれていて、俺は同族がいたら挨拶をしたいものだとちらりと目をやった。
 そしたら窓際にいた。猫――猫だよな? なんかすげえでかく見えるけど――の姿をしたドゥリーヨダナが。
 姿かたちはすっかり変わっちまって、目を瞑ってるからこちらを見る目もわからないし、声だって聞いていないけど。それがドゥリーヨダナだって、俺には一目でわかった。
 ドゥリーヨダナ! 俺はあいつを呼んだ。けれども猫はぴくりともこちらを見なかった。どうも爆睡しているらしい。
 ドゥリーヨダナ! おいドゥリーヨダナ! 俺だぞ、ビーマだぞ! 起きろ!
 ワン! ワン! わふっ、わふっ! ワオォ~ン!
 俺は必死に鳴いた。気づいてほしかった。あの欲にまみれた、けれど強く輝き大地を照らす陽光のような瞳が見たかった。
 確認したかった。本当に、俺のドゥリーヨダナなのだと。信じさせろと俺にそう言ったあいつに、教えてやりたかった。俺の言った通りになっただろって。
 けれども窓際の猫は目を開けなかった。俺が騒ぐからだろう、飼い主は慌てた様子で俺を抱き上げて、重い重いと文句を言いながらその場を離れた。
 俺はしょんぼりと家に帰った。もしかして、と思う。
 あの猫のドゥリーヨダナも、俺の飼い主のドゥリーヨダナと一緒で、記憶がないんだろうか。
 別に、記憶がないならないでやり直せばいいだけだけどよ。でもそれは、俺とあいつが自由に会えるのであればの話だ。
 俺は飼い犬で、多分あいつも飼い猫だ。自由になんてとても会えない。
 あいつが気づいてくれて、外に出て来てくれたらいい。でも俺のことなんててんで覚えてなくて、犬が嫌いで、外にも出てきてくれなかったら? どうにもしようがねえ。
 ああ、俺は自分で思ってたよりずっと、あいつとまた会えるのを楽しみにしてたんだなあ。
「どうしたビーマ。お前なんかおかしいぞ? 病院に連れていくか……?」
 心配そうな飼い主を安心させるために、俺は尻尾を振って、飯を食べた。それで安心したらしい、飼い主のドゥリーヨダナは俺の頭を撫で、「週末にはドッグランに連れて行ってやるからな」と言い、家を出て行った。
 ドッグランよりももう一度ドゥリーヨダナのいる家まで行きたい。あいつが起きるまで名前を呼びたい。俺は思ったが、くぅんという鳴き声にしかならなかった。


「おいビーマ、またお前、あの家の前に行こうとしてるんじゃないだろうなあ!?」
 週末。俺は必死にドゥリーヨダナを、この間猫のドゥリーヨダナを見かけた家の方へと引きずっていた。朝の散歩中のことだ。
 ドゥリーヨダナは俺が吠え騒いだからだろう、違う散歩コースを選ぼうとしていた。いつもだったら俺は素直に飼い主の言うことを聞いてやっていたが、今回ばかりはそうはいかねえ。
 落ち込もうが何しようが、俺が犬であることも、あいつが猫であることも変わりやしねえんだ。でもって、俺は諦めるなんてこともしたくなかった。
 もう一度、いや何度だって、あの家の前に行く。ドゥリーヨダナが窓際にいるかどうかはわからないが、もしかしたら起きていて、俺が鳴いたら顔を出すかもしれない。
「あっこら!」
 抱き上げられそうになるのを察して、俺は飛び跳ねるようにステップで飼い主を躱し、そのまま人通りのない住宅街に駆け込んだ。後ろから飼い主のドゥリーヨダナが走ってくるのが聞こえるが、最近ジムにも行けていない様子のあいつじゃ、俺には追いつけない。
 誰かに通報でもされたら面倒だったが、幸い誰にも遭遇せずに、俺はこの間猫のドゥリーヨダナを見かけた家の前までたどり着くことができた。
 窓際に、猫の姿はなかった。俺は吠えた。
 ドゥリーヨダナ! ドゥリーヨダナ!!
 ワンッ! ワフッ!
「ビーマ! この馬鹿犬! 事故にでもあったり通報されて保健所行きにでもなったらどうするつもりだ!」
 俺が吠えていると、息を切らしながら飼い主が追いついて来て、俺を後ろから抱き上げようとした。俺は必死に四肢に力を込め、アスファルトに爪を立てながらドゥリーヨダナを呼び続けた。
 おいトンチキ王子! ドゥリーヨダナ! 聞こえてねえのか! 俺だ! お前の、ビーマだぞ!
「ビーマっ、お前いい加減に……!」
 その時。がちゃり、とドアが開いた。俺を地面から引きはがそうとしていた飼い主が、動きを止める。家の中から、男が一人出てきた。
「ん? お前は……
「キッチンカーの失礼店主ではないか! ここ、お前の家だったのか!?」
 今だ。俺は飼い主を振り切って、目を丸くしている人間の俺の横を素早く通り過ぎ、家の中に飛び込んだ。床を汚しちまうが、緊急事態だ、許してほしい。
 ドゥリーヨダナ! いるんだろう!? ドゥリーヨダナ!
 ワンワンッ! ワンッ!
 開いていたドアの隙間に体をねじこむ。そこはリビングのようだった。ダイニングキッチンが併設されたそこにはうっすらとスパイスの香りが漂っている。
 そのリビングに置かれた大きなクッションの上に、もたれかかるようにして、一匹の猫がいた。
 そいつは猫のくせに、熊と間違われることもある俺と遜色ないくらいには大きかった。もふもふした毛並はちょっとそこらじゃ見かけないくらい毛ツヤがいい。濁りのない綺麗な目をまん丸に見開いた猫は、頭を上げた姿勢で硬直している。
 ドゥリーヨダナ。俺は呼んだ。その声はワフッという音になって、猫へと飛んで行った。
 にゃー……。猫が控えめに鳴いた。
 ビーマ、と。俺は自分の体が破裂したかと思った。
 覚えていた! 覚えているんだ、俺のことを! やっぱりこいつは、俺のドゥリーヨダナだ!
 大はしゃぎで猫に飛びつけば、勢いよく顔を叩かれた。痛え。
 びっくりして目をやれば、ぺしぺしと何度も叩かれる。爪は出てねえみたいだが、ひたすら顔面を狙ってきやがる。
『おま、お前! ビーマ! 何だそのちんちくりんの姿は!? おまけに犬だと!? というかどういうことだ!? 何でお前が二人いる! ずるいぞ、わし様には弟たちもいないのに!』
 ンナーッ! 猫が怒りの声を上げる。俺はえいやっと鼻先を突き出した。ぴとりと相手の鼻先とキスをすれば、向こうが固まる。
『落ち着けよドゥリーヨダナ。お前のビーマはあっちじゃねえ、俺だ。あっちの俺には、お前じゃないドゥリーヨダナがちゃんといる』
……どういうことだ? わし様にもわかるようにちゃんと説明しろ!』
 説明するより見た方が早いだろ。ちょうどこいつの飼い主と、俺の飼い主が部屋に飛び込んで来た。それを見たドゥリーヨダナが大声を上げる。
『え!?!?!? あの百人中百人が認めるであろうイケメンフェイス……わし様ではないか!? おいどういうことだビーマ!』
「ドゥリーヨダナ! ……よかった、怪我はしてねえみたいだな」
 さっと人間の俺がドゥリーヨダナを抱き上げた。おい何も引き離さなくてもいいだろ。俺たちようやく出会えたんだぞ。抗議をする前に、俺はぺしんと尻を叩かれた。俺の飼い主の方のドゥリーヨダナだ。
「この馬鹿犬! 何を考えとるんだお前は! わし様は謝るのなんて大嫌いなのに、お前のせいで謝らざるを得ない状態だぞ!」
 でかい声で何言ってんだお前は。人間の俺も同じ意見なのだろう、呆れた顔をして俺の飼い主を見ている。
「お前マジで今までよく社会人やってこれたな」
「何だそれ、どういう意味だ? ……あー、とにかく、うちの馬鹿犬が迷惑をかけてすまんかった。とりあえずこれは迷惑料だ。この馬鹿犬が汚したものがあったら、請求してくれてもいい」
 財布の中から万札を三枚取り出して――持ち合わせがそれしかなかったんだろう――ドゥリーヨダナが突き出すと、人間の俺は首を横に振った。
「いらねえよ。うちの猫に何かしてやがったら、その犬を肉団子みてえに丸めてたかもしれねえが……何もなかったみたいだからな」
 にゃあ。そうだぞ、わし様は最強お猫様ゆえ、犬になんぞ負けんのだ、と猫のドゥリーヨダナが鳴いた。かと思えばうねうねと体をうねらせ、人間の俺の腕の中から抜け出すと、制止されるより前に俺に擦り寄ってきた。
 みゃ~ん。みゃ~ん。誰が聞いてもわかる甘えた声に、頬に頬を擦り寄せてくる、これまた甘えた仕草。突然のデレに俺が硬直していると、ドゥリーヨダナが囁いた。
『おい何固まっとる。ここは仲良しアピールだ。このまま人間のわし様たちがこちらの仲を勘違いして険悪になってみろ、もう二度と会えんかもしれん』
 なるほど。そいつは困る。俺は毛づくろいをしてやろうと、ドゥリーヨダナをぺろぺろ舐めた。みゃあ、みゃあん……とドゥリーヨダナがか細く鳴く。
『あ~そこ……もうちょっと左……そうそう……
『ここか? ここがいいのか?』
 気持ちよさそうで嬉しい。俺は尻尾をぶんぶん振った。「あー……」と人間の俺が気まずそうな声を出す。
「なんか……まあ、うちのドゥリーヨダナはお前のとこの犬…………犬だよな? これ? 熊じゃねえよな?」
「ポメラニアンだ」
「ポメラニアンってのはこんなでかくなるのか、知らなかったぜ。とにかく、うちのドゥリーヨダナはお前のとこの犬を気に入ったらしい。……ちなみにこいつ、メスか?」
「いやオスだ。お前のとこの……何だこれは? 猫なのか? 何て種類だ? こいつはメスか?」
「猫だよ。こいつもオスだ。種類は知らん。野良だったからな」
 野良? こいつが? 俺は猫のドゥリーヨダナを見た。ドゥリーヨダナはぶすくれた顔をしている。
『お前が悪いんだぞ、ビーマ』
『あん?』
『わし様はお前も猫になっとるのではないかと思ったのだ。どうせ貧乏パーンダヴァにふさわしいその日暮らしをしておるのだろうと。だからありがたくもこのわし様がお前を迎えに行ってやろうと……
『俺のこと、探してくれたのか? お前が?』
 雷に打たれたような衝撃だ。だってこいつだぜ? ドゥリーヨダナだぜ? 基本自分のためにならない努力はびた一文ともしたくない、自分の欲のためにしか働きたくない、そんなやつがだ。野良なんてこいつには似合わない生き方をしてまで、俺を探してくれていただなんて。
『ドゥリーヨダナ! ドゥリーヨダナ!!』
『うわあ何だお前、いきなり興奮するな!』
 鼻先に鋭いパンチを食らった。思わずキャンッと声が出る。俺の飼い主が呆れたような声を出した。
「おいビーマ、諦めろ。お前はその猫に一目惚れでもしたのかもしれんが、そいつは犬じゃないし、メスでもないぞ」
 そんなことは知っている。でもこいつは俺のメスみたいなもんだし。そうだよなドゥリーヨダナ?
『勘違いするな、わし様がお前のではなく、お前がわし様のオスなのだ』
 ぺろぺろとドゥリーヨダナが俺の鼻先を舐めた。合間に軽く甘噛みされて堪らない。
 ああ、本当に嬉しい。それしか言葉が見つからない。さっきから俺の尻尾は勝手にぶんぶん振られて、そのまま千切れてどこかに飛んでいってしまいそうだ。
 だが、いつまでも幸せな時間は続かない。飼い主のドゥリーヨダナが言った。
「ほら、もういい加減帰るぞ、ビーマ」
 そんな。まだ来たばっかりだろ。
 俺を抱き上げようとする腕から俺が逃げようとした途端、間の抜けた音が響いた。
 ぐきゅるるるるる~……
 俺は音の出所――飼い主のドゥリーヨダナを見た。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
 そう言えばこいつは昨晩遅くに帰ってきて、夕飯も食べずに寝ていた。てっきり俺は外で食べてきたんだろうと思っていたが、そうではなかったのかもしれない。
「ははっ」
 笑い声がして、そちらに目をやる。人間の俺だった。
 気持ちはわかる。俺だって笑うだろう。でもドゥリーヨダナ相手にそれはよくない。現に猫のドゥリーヨダナもあちゃーって顔をしている。
 どうすりゃいい? 俺は猫のドゥリーヨダナとの逢瀬をこれっきりにしたくはない。しかしここで俺の飼い主のドゥリーヨダナがへそを曲げちまったら、冗談ではなくもう二度と会えないかもしれない。
 俺が人間の俺に噛みつきでもしてやるか、それとも俺の肉球を飼い主のドゥリーヨダナに提供してやるか――たまに飼い主は俺の手をぷにぷにと握りたがるのだ――逡巡していると、人間の俺が口を開いた。
「俺もこれから朝飯を食べるところだったんだ。よかったら食べていかねえか? 今から作るから、ちょっと待ってもらうが」
「いや……わし様は別に、お腹ぺこぺこってわけじゃ……
 口ごもる飼い主に、人間の俺が重ねて言った。
「お互いのペットもまだ離れたくなさそうだしよ。俺としちゃ、せっかく友達ができたんだから、もう少し一緒にいさせてやりてえ」
 二対の視線が俺たちに向けられたので、俺は素早くドゥリーヨダナをぺろぺろと舐めて仲良しアピールをした。ドゥリーヨダナも心得たもので、腹をこちらに向けてにゃあん、にゃあんと演技くさいが甘えた声を上げている。
……まあ、いいだろう」
 俺の飼い主が肩を竦めれば、人間の俺はにかっと笑った。
「っし。じゃあ、適当にかけてくれ。……あー、あんたは俺のキッチンカーの常連ではあるが、俺の名前は知らないよな? バッラヴァだ」
……スヨーダナだ」
『キッチンカー? おい、何の話だ』
 不思議そうなドゥリーヨダナに、俺は知っていることをかいつまんで教えてやった。二人が人間の俺がやってるキッチンカーで出会ったらしいこと。俺の飼い主のドゥリーヨダナは、人間の俺の料理が気に入っているらしいこと。
『ふぅん。つまり人間のわし様は、わし様の飼い主という名の下僕であるビーマに脈ありかもしれんということか……ハッ、閃いたぞ!』
 俺に腹を見せていたドゥリーヨダナが、勢いよく立ち上がった。かと思いきやものすごい勢いで部屋を飛び出していく。俺も追いかけようとしたが「おいビーマ、足を拭くぞ」と飼い主に捕まってしまった。人間の俺はキッチンでフライパンを取り出している。
 後ろからぬいぐるみみたいに抱き上げられて、ウエットティッシュで手足を拭かれる。あんまりドゥリーヨダナに見られたくはない光景だ。俺にだって多少は格好つけたい時がある。
 幸いにも俺の手足が拭き終わった後に、ドゥリーヨダナは戻ってきた。口に何かを咥えている。ドゥリーヨダナは俺を無視して俺の飼い主、人間のドゥリーヨダナの方へと向かった。
「ん? 何だ?」
 口に咥えていたものを、人間のドゥリーヨダナの目の前にポトリと落として、猫のドゥリーヨダナはにゃあ、と鳴いた。おもちゃでも持ってきたんだろうか。俺も近くに寄ってみる。
 預金通帳だった。人間の俺の。
 俺は猫のドゥリーヨダナを見た。ドヤ顔だった。人間のドゥリーヨダナを見た。ぽかんとしている。そりゃそうだ。
『おいドゥリーヨダナ、何考えてんだお前』
『何って、甲斐性をアピールしとる。わし様の飼い主は歳の割に貯金がある方だぞ。何せこのわし様が、資産を運用してやってるからなあ! この家だって、わし様のお陰で買えたんだ』
 猫が資産運用? いやこいつならやるか。
『いいかビーマ』
 ドゥリーヨダナが俺を見る。猫になってもその瞳の輝きは変わらない。貪欲で全てを飲み込もうとする、強い光。
『このままではわし様とお前はせっかく会えたのに、また離ればなれだ。飼い猫をやめればいいのかもしれんが、わし様はお前も、飼い主のビーマも、どっちも欲しいのだ。いや、どっちもわし様のなんだから、欲しいというのはおかしいか。手放したくないのだ』
 だから。ドゥリーヨダナは言った。
『人間のわし様と人間のお前をくっつけて、全てを手に入れる! どうだ賢い作戦であろう!』
 言わんとしていることはわかった。俺の飼い主とこいつの飼い主が同棲でもすれば、俺とこいつも一つ屋根の下、一緒に暮らせる。誰も不幸にならない、いい案だ。
 人間の俺たちは、かつて幼馴染みで従兄弟同士だった俺たちと違って、店主と客以外の関係はないようなのは懸念事項ではあるが――ま、そこは俺たちがうまくサポートしていけばいいよな。
 アイディア自体は悪くない。俺だって前向きに協力していこうって気持ちになる。だが。
『いきなり預金通帳はねえだろ。そういうのはもっと、段階を踏んでからじゃねえのか』
 現に人間のドゥリーヨダナは訝しげな顔をして、預金通帳に手を伸ばそうともしない。だが猫のドゥリーヨダナはそうは思わないらしい。
『何を言う! このわし様はお前のことなんてただのお料理ゴリラだと思っておるのだぞ、現代じゃお前の強くて格好いい戦士なところなんて、見せようがないではないか! わし様にふさわしい男であると証明するには金しかあるまい!』
『お前、俺のこと強くて格好いい戦士だって思っててくれたのか?』
 尋ねた途端にドゥリーヨダナがピシリと固まった。すぐに『違う違う違う!』だの『わし様よりは劣っているがミミズよりはそうだ、という話だ!』なんて喚きだしたが、どうしたってにやけちまうだろ、こんなの。
『ええい、とにかく! わし様はデキる猫なのだ! 朴念仁の飼い主に代わって優良物件アピールだっ!』
 人間のドゥリーヨダナが通帳に手を伸ばさないからだろう、ドゥリーヨダナは器用に前足で通帳を開いて、俺の飼い主の方へと通帳を押し出した。人間のドゥリーヨダナは通帳よりも猫のドゥリーヨダナを見ている。
「待たせたな! ……どうした?」
 人間の俺が皿を持ってやってきた。人間のドゥリーヨダナが振り返る。
「おい、お前の飼い猫が預金通帳を持ってきたんだが、これは何の芸だ?」
「預金通帳? あ、こらっ!」
 事態に気づいた人間の俺は一旦皿をテーブルに置くと、素早く通帳を回収した。抗議するように猫のドゥリーヨダナがニャーッ! と鳴く。人間の俺が頭を掻いた。
……悪いな、賢いやつなんだが、たまにこうやってわけわかんねえいたずらとかするんだ。気にしねえでくれ」
「賢いやつなあ」
 半信半疑の目を、人間のドゥリーヨダナが猫のドゥリーヨダナに向ける。すると人間の俺が言った。
「俺のドゥリーヨダナはすげえぞ。何せ猫なのにパソコンも触るし、資産運用だってできる。この家だってこいつが見つけてきたんだ」
「はあ?」
 人間の俺が言うには、猫のドゥリーヨダナはパソコンを使い人間の俺の預金で株だの何だのを勝手に買って資産運用しているらしい。この家もその金で買ったそうだ。インターネットでドゥリーヨダナが見つけてきた家なのだという。
 そりゃあ猫と言えどもドゥリーヨダナだ、こいつは昔から器用なやつだったし、そのくらいはやるだろう。
 でも普通の猫はしねえだろ、そんなこと。
「お前……もしかして何かヤバい薬でもやっとる? お前のカレーってやけにうまいけど、やっぱり何か薬とか入っちゃってる系?」
 俺の飼い主が怪しむのも無理はない。すると猫のドゥリーヨダナがとことこと、リビングの端に置いてあるパソコンの前に移動した。椅子からパソコンの置いてある机の上に飛び乗って、ポチリ。電源が入っていたらしいパソコンの、ログイン画面が表示される。
 ポチ、ポチ、ポチ。一つ一つの動作はそう早くはないが、ドゥリーヨダナがキーボードを押す。最後にエンターキー。ログインが成功した。
 更にマウスをぐーっと動かして、インターネットブラウザまで起動する。確かにこれだけの動作ができれば、猫でも資産運用が可能なのかもしれん。何をどうすればいいのか、いまいち俺にはわからんが。
 にゃあ。こちらを振り返ったドゥリーヨダナはドヤ顔だ。俺の飼い主が悲鳴を上げる。
「賢いとかいうレベルを越えとるだろ! 何だこの化け猫!?」
「おい、酷いこと言うなよ。こいつはただちっとばかし賢いだけの猫だ。化け猫じゃねえ」
「いやおかしいだろ! どこかにチャックでもあるのではないか!?」
 人間のドゥリーヨダナが猫のドゥリーヨダナを抱き上げて長い毛をかき混ぜるように撫で回す。猫のドゥリーヨダナは一応相手が自分でもあるからか、にゃああ~と抗議の声は上げていたが、されるがままで暴れはしなかった。ちょっと意外だ。
 人間の俺も同じ意見だったらしい、「ドゥリーヨダナがおとなしく触られてるなんて、珍しいな」と瞬きをしている。
「俺の兄弟なんかには、絶対触らせてくれないんだが。てっきり化け猫呼ばわりするからだと思ってたんだが……
「ううん、チャックはない、妙な機械音もしない、マジでただの猫なのか……?」
 俺の飼い主はちっとも人間の俺の話なんて聞いておらず、ドゥリーヨダナのことを撫で回している。ドゥリーヨダナはだんだん気持ち良くなってきたのか、『あ~そこ。さすがわし様、テクニシャンだ……』とうっとりしていた。うっとりすんなよ。
 だが、そんな時間は突然終わった。
 ぐきゅるるるる。間抜けな音に、俺の飼い主が手を止め、顔を赤くする。人間の俺が「悪い、少し冷めちまったが、食べてくれ」と申し訳なさそうにしながら、皿を人間のドゥリーヨダナの前に置いた。
……その前に、手を洗わせてもらってもいいか?」
「もちろん」
 俺の飼い主が立ち上がる。解放された猫のドゥリーヨダナが、俺の方にやってきた。
『どうだ? 少しは人間のわし様から人間のお前に対する興味が深まったのではないか?』
『お前に対する謎が深まっただけだと思うぜ』
 確かにあれは化け猫って言われても仕方ねえだろ。人間の俺はよくこいつを受け入れているもんだ。
 思っていると、人間の俺が「お前たちはこっちな」と別の皿を運んできた。猫のドゥリーヨダナと、俺の分。床の上に置かれた皿の前に移動する。
『おっ今日は当たりだ! ラッキーだな、ビーマ!』
 ドゥリーヨダナが嬉しそうに言うので、俺は皿の中身を覗き込んだ。
 カリカリの上に掛けられているのは……液状の猫用おやつか? 匂いを嗅いだ感じ、材料はささみに鰹節、砂糖も使ってそうだな……
『うちのビーマお手製だ、市販のものよりずっとわし様好みの味付けで、ここでしか食べれん! これが朝食に出るのはレアだぞ~!』
 自慢げにドゥリーヨダナが言うものだから、何だか俺は複雑な気分になっちまった。どうも人間の俺はすっかりこいつの身内扱いらしい。
 俺だって犬じゃなきゃ、お前好みの味付けで色んなもん作ってやれるのにな。人間のドゥリーヨダナに対して思うようなことを思いながら、俺は用意された朝飯に口をつけた。
 で、一瞬で食べ終わった。いや、気がついたら食べ終わっていた。
 すげえうまい。さすが俺だ。あまりのうまさに味の分析を忘れちまった。何せ犬になってから複雑な味のものなんてほとんど食べれなかったからな……
 俺が空になった皿をペロペロ舐めていると、ちょんちょんと肩をつつかれた。顔を上げる。
『何だ? んむっ』
 むにゅ、と柔らかいものを口元に押し付けられた。そのまま舌と一緒にどろりとしたものを流し込まれる。おいしい。
『特別だぞ、んちゅ、食いしん坊のお前に、ちょっとだけ、わけてやる』
 至近距離で揺れる瞳に、カッと体が熱くなる。口移しで与えられる味と舌の柔らかさに、どうにかなっちまいそうだ。
「まさかドゥリーヨダナのやつに友達ができるなんてな」
 夢中になってドゥリーヨダナとペロペロと舌を擦り合わせていると、人間の俺が感心したように言うのが聞こえた。すっかり忘れていたが、人間の俺たちも朝食を取り始めたらしい。ちょいと後ろ足で立ち上がってみれば、テーブルの上にはサラダやオムレツ、ベーコン、それからチャパティにカレースープが並んでいるのが見えた。
 チャパティは出来合いのものだろう。俺の飼い主が腹を空かせていたものだから、できるだけ早く用意できるメニューにしたんだろうな。もし時間があったなら、俺ならもっと凝ったものを作るはずだ。
 黙々と食事をしているらしい飼い主の顔は、俺からは見えない。だが人間の俺が浮かべる笑みを見れば、どんな顔で食べているのか、だいたい想像はつく。
「うまいか? いや、顔見りゃわかるぜ、うまいんだな? おかわりもあるぜ。少し待たせるがチャパティも生地はあるから追加で焼けるし」
 俺の飼い主が無言でカレースープの入っていた器を差し出した。人間の俺はにこにこ笑って、おかわりをよそいにキッチンへ入っていく。俺は飼い主の側へ行って、顔を覗き込んだ。
 ああ、これは人間の俺も嬉しいだろう。一目でそうわかる顔で、人間のドゥリーヨダナは食事を頬張っている。
「ほらよ、おかわりだ。温めなおしたから、少し熱いかもしれねえ。気をつけな」
 人間の俺が差し出したカレースープに、人間のドゥリーヨダナの瞳の輝きが増した。さっそくスプーンで掬ったものを口に運んで「あちっ」なんて言うものだから、人間の俺は笑って、それから席について食事を始める。
 我ながら惚れ惚れするような食いっぷりだが、俺にはわかるぜ。食事よりも目の前で自分の料理をうまそうに食べているやつで腹が満たされてる顔だ。言ってしまえば、ドゥリーヨダナをおかずに食事してるってところだな。
『うまそうだな』
 いつの間にか俺の隣に来た猫のドゥリーヨダナが、ぼそりとそう言った。俺はてっきりドゥリーヨダナは人間の自分が羨ましいのだと思ったが、その視線は人間の俺に向けられていた。
『うまそうで、楽しそうだ』
 ドゥリーヨダナが重ねてそう言った。どこか優しい声音だった。それはかつて、ようやく戦いを終えられたことを喜ぶマスターを遠目に見ながら『ふん、わし様が骨を折った甲斐もあったというものだ』と呟いたのと同じ声音だった。
 俺はただ『そうだな』と言ってドゥリーヨダナに寄り添った。肩でも抱ければよかったんだが。それをやるには今の腕は短すぎる。
 人間の俺たちが食事を終える。俺の飼い主はコーヒーを啜りながら、「朝からこんなにしっかり食べたのは久しぶりだ」とどこか夢心地の様子で呟いた。
「普段は簡単に済ませてるとかか?」
「まあな。抜くこともあるし。シリアルは飽きるし味気ないからなあ。食べたいとも思わん」
 何でもないことのように俺の飼い主が言う。人間の俺の眉間に皺が寄った。
……昼や夜は?」
「昼はテイクアウトが多いな。お前のキッチンカーもそうだが、秘書に買いに行かせてる。夜は会合が入るから飲み屋が多いか? 何もなくても外食だなあ。まあ、最近は水曜だけお前のところのビリヤニをテイクアウトしてるが……
 もにゃもにゃと言って、人間のドゥリーヨダナがコーヒーを呷る。人間の俺が何やら考え込むような顔をしているのを他所に、猫のドゥリーヨダナは『こっちのわし様は随分多忙なようだなあ。さすがわし様、世界が放っておかんのだ』なんて言っていた。
『こいつ、最近仕事がうまくいってねえらしいんだよ』
『何ぃ!? 何故だ、ライバル会社でもあるのか!? 教えろ!』
『いや詳しくは知らねえけど』
『知っておけ! でなきゃわし様が何もできんだろうが!』
 何かするつもりなのかよ。猫のくせに、とは言えなかった。猫である前にこいつはドゥリーヨダナなのだ。ますます教えられねえな。
 一方で人間の俺たちは、そろそろお開きって空気になっていた。俺の飼い主が「馳走になったな」と言って立ち上がる。
「ほら帰るぞビーマ」
 ああ、やっぱそうなるよなあ。俺は猫のドゥリーヨダナを見た。するとドゥリーヨダナが俺の横顔に顔を埋めてくる。ふわふわの毛が俺の頬をくすぐり、熱を持った鼻先が当たる。くぅーん、と俺の喉から勝手に声が出た。
 寂しい。俺が感じているのか、ドゥリーヨダナが感じているのか、わからねえけど。寂しいなあ。
 またすぐ会える、なんて気軽には言えなかった。立場、って言い方は変だが、今の俺たちは自分の意志だけでどうこうできるような状態じゃねえ。
 改めてリードを首輪につけられる。俺はドゥリーヨダナにせめて何か一言、言ってやりたくて、口を開いた。だがそれより先に、人間の俺が立ち上がって、ドゥリーヨダナを抱き上げた。人間の俺が、俺の飼い主に声を掛ける。
「あのよ。……お前、この近くに住んでるんだろ? たまにでいいから、飯を食いに来ないか?」
「何だと?」
 きょとんとした顔を、俺の飼い主がする。全ての視線を集めながら、人間の俺が言う。
「昼は仕事で出てるが、朝と夜なら俺は家で料理を作ってる。自分で言うのもなんだが、俺はすげえ食べるから、お前の分が増えるくらい、どうってことねえ」
 それはマジでそうだろう。誤差の範疇だ。俺は頷いた。人間のドゥリーヨダナは訝しげな顔をしている。
「それは……まあ、わし様としては悪くない話ではあるが……何が目的だ? 金か?」
「いや、こいつがな。猫だから、外に散歩に連れ出すこともねえだろ? 友達なんて今までいなかったんだよ。それがお前のその……ビーマだったか? そいつと嬉しそうにくっついてるの見たら、やっぱり寂しかったんじゃねえかって、そう思ってよ」
 人間の俺が、猫のドゥリーヨダナを撫でた。猫のドゥリーヨダナは物言いたげな顔をしていたが、何も言わなかった。俺の飼い主が言う。
「つまり……目当てはわし様ではなくビーマか。お前の猫、ドゥリーヨダナのためにビーマを連れてくる代わりに、わし様には食事を、と」
「まあ、そういうことだな。……嫌か?」
 人間のドゥリーヨダナが俺を見た。俺は尻尾を振った。俺の気持ちが伝わるかはわからんが、俺は大賛成だ。
「ビーマのやつの散歩がなくなることはないし……わし様に損はない、か。わかった、いいぞ」
「っし! じゃあ連絡先、教えてくれ」
 飼い主同士が連絡先の交換を始める。人間の俺に抱っこされたままのドゥリーヨダナが、鳴きもせずに『ビーマ、ビーマ!』と俺を呼んだ。
『おう、やったなドゥリーヨダナ。またお前と会える当てができた』
『うむ。だがそれよりも、これはチャンスだ! 
人間のわし様と人間のお前をくっつけて、ハッピードゥリーヨダナ&ビーマタイムを始めるぞ!』
 次会う時まで作戦を考えてこい! 一発で二人が恋に落ちるようなやつ! 無理難題をドゥリーヨダナが言う。
 けれども次の約束ができることが嬉しかったので。俺は元気よくワンッと鳴いて応えてやった。