NEO
2025-12-21 15:03:32
16725文字
Public NEO宅のDDA
 

anulus aureus

ダンリン。現パロ。定番の記憶喪失です。






会いたくて
話したくて
一緒にって

ただ それだけ







side D



 輪。まさか、こんな風に。廊下を忙しなく行き交う白衣の人々。こんなことになるなんて。行き場がなくて立ち尽くす。なんで逃げた?衝撃で砕け散ったデバイスの残骸。どうやって此処に?握り締める手が震えている。あの大通りじゃなければ。動悸が激しい。せめて足を止めていれば。呼吸が苦しい。喪う?痛い。後悔を?狂おしい。過ぎていく時間。僕じゃない。薬指。何故君が。灼けた金。どうして。堪え難い衝動。錯綜する記憶。飛び散った血痕。消えない灯。動揺。無音。焦燥。静寂。虚無。別離。嗚呼、
 確かに、間違いなく、届いていたのに。

「待ってダンピア!僕は……っ、」


 キキィ───ッ ドンッ!!!


 眩暈がするほど懐かしい、あの──







 初めて自覚したのは、物心付いた頃だったろうか。

 自分の中に、生まれてこの方生きてきた人生とは違う、もう一つの記憶があること。往生するまで長く歩んだ、誰か別の人の記憶だ。長じてからこの記憶が、大抵の場合『前世』と呼ばれるもののようだと知った。そんな定義を知るずっと以前から、不思議と違和感なく、自身の一部としてこの身に馴染んでいたのだが。

 前世の自分は海が好きで、随分長い間を船乗りとして航海した。

 海が、というよりは、海の先に秘められた未知が、と表したほうが正しいかもしれない。あの頃の自分は探究心が強く──実際は今も変わらない。魂に刻まれた性質ってこと?──上陸した土地の植生や固有種の調査、周辺図を記録したり、原住民の習慣や文化を教わったり、そういった様々な知識の収集を、人生の指針にしていたように思う。
 それというのも当時の自分は教育機関で学ぶだけの財がなく──これも今と大して変わらない。上流階級とはとことん縁がないらしい──実地での調査や研究が、所謂フィールドワークとして心の支えとなっていたのだ。
 学問へのあくなき憧れが、就いた職も転々と変えさせ、結果行き着いた先が、未知の土地へも果敢に挑む私掠船だった、というだけ。

 つまり──僕は、海賊だった。 

 後世に博物学者と評価されてはいるのは光栄だが、王立協会に与するようなご立派な学者らとは到底並べない、実態は粗野で気楽な好事家だ。しかも同僚たちはおしなべて海賊、という破天荒ぶり。振り返ってみれば、まるで戯曲や銀幕のような人生だった。

 因みに現在の僕は、あの当時、夢にまでみた大学生の身分である。

 かといって両手を挙げて感激するには、既にこの豊かな現代に慣れ過ぎてしまった。何しろ手元のデバイス一つで世界中の人々と繋がれるし、検索エンジンは歴史の裏側まで調べられるし、付属カメラで撮影しただけでその事象のなんたるかを事細やかに解説してくれるArtificial Intelligence──通称AI。いわゆる人工知能ってやつ──まで身近にある。生粋のデジタル世代と呼ばれる今生となっては如何ともし難い。

(便利過ぎて僕のやってきたことはなんだったのか……)

 そんな虚しさが脳裏を過ぎる日もあるが、あれから何百年と経ったことを思えば、人類の進歩を素直に称賛するしかない。それに、今でも既刊が残っている事実が、足跡は全くの無駄ではなかったのだと証明してくれている。

(ベストセラー……うん、まぁそうだよね)

 自分一人の力で今日まで辿り着いたわけではないけれど、生きた証が存在し続けてくれることは、純粋に誇らしい。あの頃の冒険の軌跡を認められているようで。

(僕らの航海は、今も息衝いてるよ──)

 幾度となく虚空へ語りかけてきた。
 こうして現代に生きているのが僕だけなんて、どうしていえる?自身という先例が存在しているのに、他の事例が一つもない、と断定するほうが不自然じゃないか。どちらかといえば現実主義の僕が理想論を語るのは筋違いかもしれないけど、僕が此処にいられるというなら、今此処に存在するに値する人が、それこそもっと大勢いるはず。
 この空は彼方と繋がっている。あの頃の海が今の海とも繋がっているように。いつか奇跡が繋がる時がやってくるかも。その時こそ、運命ってやつを信じてもいい。



 ねぇ、君は、何処で目覚めているのかな







「ええと、君はどなた?」

 精密検査のち24時間の昏睡を経た翌朝、再会した一言目がこれだった。
 太腿を何針も縫うほどの大怪我だったはずだが、思ったより元気そうな様子だ。頭に巻いた包帯は額の擦過傷が原因で、目立ちはするが重篤ではない。豊かな淡い金糸を緩く巻き、首元で纏めている。
 なんとなく前より金色が濃いかも。まぁ僕の癖毛も赤味が強くなってるけど。そういえば僕ら今のほうが当時出会った時より若いんだっけ……などと、とりとめのない考えが浮かんでは消える。が、正直面識のない相手に話せる内容ではない。立ち位置を見失って狼狽する。
 彼は──少なくとも今現在の彼には、僕への見覚えがないらしい。

「僕は……その、知人みたいな……ンンッ。えっと、これ、君のじゃない?」
「わ、スマホ拾って──ええっ?!粉々!こ、これは買い替えなきゃだね」
「大丈夫?あー、ほら、連絡先とか、色々」
「う〜ん、どうだろ?どこかにメモがあるかな……まだちゃんと思い出せないや。でも、君が事故現場から付き添ってくれたってことは看護師さんから聞いたよ。ご親切に、ありがとう」

 自動車にはねられ頭を打ち、脚には大きな切傷を負った。あの頃と同じ箇所で苦々しく思う。幸いにも手術は成功し、怪我さえ治ればまた問題なく歩けるようになるらしい。脳検査でも異常はなく、記憶の混濁はあるものの、経過観察措置ということで、週末には退院が許されている。テバイスは壊れてしまったが、幸い身に付けていたバックパックから身分証が発見され、無事帰宅の運びとなったらしい。

「迷惑を掛けちゃって、ごめんね。もう大丈夫だから。ここまで本当にありがとう」

 彼はあの、昔のように、少し眉を寄せた表情を見せて、微笑んだ。

「僕、また来るね」
「え?」
「週末、退院でしょ?歩くのも大変だよね。家まで付き添うよ」
「え、あの……いや、もう大丈夫……
「来るから。午前9時頃だよね?じゃ、また週末に」

 何も聞かずに踵を返す。断られても決意が変わることはないし、返事なんてどーだっていい。衝動的な発言に後付けで理屈を捏ねる。全て忘れてしまった君を放っておけない。そうだ、その通り。記憶を失ってしまったくせに、あの頃と同じ表情を僕に向ける君を、ただ放っておけないだけなんだ。







 約束の週末。行き着いた住所は綺麗めのフラットだった。5部屋を複数人でシェアして借りる形式で、そのうちの一つが彼の部屋、リビングやキッチン、トイレ・バスルームは住人共用となっている。
 先ほどまで同行していたオーナーにも事情を説明し、引き続き同契約で貸借ということで話がつき、付き添いとしては一安心だ。
 慣れない松葉杖でぎこちなく歩く彼の案内で、部屋までついていく。此処まで道に迷うことなく来れたし、建物の中でも足取りは確りしている。身体が覚えているのだろうか?まだ心許なさそうな顔をしているので、記憶が完全に回復したわけではなさそうだ。
 部屋の扉を開く。第一印象は、やけに物が少ない、ということ。そのせいか、雑談で聞いていた間取りより広く見える。ベッド、チェスト、積まれた本や雑誌類、クローゼットが一望できる。室内が整然としているせいで菓子類やインスタント、レトルト食品のストックが妙に目立つ。ただ、いくつかの家財は段ボールに入ったまま、放置された様子だった。

(引っ越し途中?)

 怪訝に思ったものの記憶が不確かな相手に問い質すわけにも行かず、部屋を確認する彼を黙って見つめる。不意にベッドサイドのチェストに置かれた写真立てを見て、彼が弾けたように笑った。

「見て、君だ!本当に知り合いだったんだね」

 心底驚いたのは、他でもない。その写真立てに、なんと自分の顔が写っていたためだ。今世で彼と面識はなかった。にも関わらず、この写真に写っているのはまさに今の自分の顔。つまり、この写真は知らぬ間に盗撮されていたことになる……

(いつの間に……君は、事故の時に会うのが初めてじゃなかった……?)

 困惑と疑念、掴みどころのない不安が押し寄せ、つい口が滑ってしまった。

「信じてなかったの?」
「えっ、や、そういうわけじゃないけど──」
「何?言って」
……君、僕の目を見ないから……もしかして、作り話なのかな?って」

 またあの表情で苦笑する彼の指摘に、カッと血が上る。図星だと理解していながら、それ認めるのはどうしても嫌だった。



 僕が、どれだけ恐ろしかったか、君は知らない。
 しかも今度は僕の目の前で、あんな──
 薄暗い加虐心が疼く



「逆だよ」
「え?」

 まっすぐ射抜く視線。君がそんな風でいたら、純真無垢なまま記憶すら手放して何もかも忘れてしまったら、あの頃の僕まで報われないじゃないか。

「僕らは恋人同士さ。病院では黙ってたけど」
「え」
「好きな人に忘れられた僕の気持ちが解る?悲しくて、辛くって、ああもう、目なんか合わせられるもんか!」

 自分でも笑ってしまうくらい滑らかな二枚舌。戸惑う君をみて、少しばかり留飲が下がる。けれどまだまだ。積年の澱はこんなもんじゃ晴れない。

「っ、あ……そう、なんだ……ご、ごめん」
「いいよ、事故だったんだし。でも少しでも憐れんでくれるなら、一緒に暮らそう」
「ええっ!」
「近くにいたほうが色々思い出せるかもしれないでしょ?もう大丈夫だって解ったら帰るって約束する。君が心配なんだよ」
「な!そんな……悪いよ……それに、いいの?け……っ、し、仕事とか!家族とか!!」
「僕は一応まだ学生だよ。研究職に就く予定だけど、それこそ論文なんてどこでも書ける。両親は他界してるし、兄弟も自立してる。退院したばかりの君を独りにするほうが不安なんだよ。勿論、君が嫌じゃなければだけど」
「嫌なわけないよ!!」

 あっという間に同居までの言質を取る。こんなに騙されやすくって大丈夫だろうか?今までよく無事に生きてこれたものだ。
 興奮すると頬を真っ赤に染め上げる体質も変わっていない。それを知って、急に平静を取り戻す。そんな些細なことで落ち着く自分に呆れてしまうが、事実そうなのだから致し方ない。物理的な距離を詰め、真正面から見つめ合う。

「けどっ……あの、こ、恋人っていうのは……っ、」
「分かってる。そっちは思い出してくれるまで待つよ。野外調査用のシュラフを持ってるし──僕はただ、君の側にいたいだけ」
「! ……あの、……ありがとう……これから、よろしくね」
「こちらこそ」

 内心の憂いをおくびにも出さず、差し出された手を鷹揚に握り返した。

(悪いけど、君が何を考えていたのか、このまま調べさせてもらうよ)

 いつから僕を知っていた?
 なぜ僕に接触しなかった?
 あの時、何を言いかけて──

 過去の別れからずっと欠けたままの僕を眺めているだけで、君は何を思っていたの、リングローズ?






 まずはジャガイモ。皮を剥いて一口大に切ってから水にさらしておく。鍋いっぱいの水で茹でて、柔らかくなったら湯を捨てる。そのまま鍋の中で大まかに潰したら、バター、牛乳、チーズを加えて更に潰していく。彼は口当たりが滑らかなほうが好きみたいだし。おっと、塩胡椒も忘れずに!
 塊肉を細かく刻み、熱したフライパンでしっかり火を通す。赤みが消えたら一旦別皿に移して、フライパンに残った脂へニンニクを一欠片投入。香りが立ったら、みじん切りにした玉ねぎと人参を炒める。玉ねぎが飴色になったあたりでお肉を戻し、ソース、ケチャップ、タイムにシナモン、塩胡椒で調味。ちょっと味見……フム、もう少し甘いほうが好みかも?ケチャップを足して、と。後は小麦粉、水を加えてとろみがつくまで混ぜながら煮るだけ。これでよし。
 さて、器はどうしよう?そうだ、この間蚤の市で買った大皿が丁度いい!
 ミートソースを敷いて、マッシュポテトをかぶせて、後は焼くだけ……あっ、オーブンの予熱!!

「わぁ、もう準備できたんだね、凄い!火、入れといたから、すぐ焼けるよ」
「ンンッ……ありがとう。すっかり忘れてたから、助かった」
「どういたしまして。あ、パイの模様、僕やっていい?」
「勿論。君に任せた!僕はキッチン片付けるから、火加減よろしく〜」
「了解。この旧式オーブン火力強いから15分くらいかな.」

 食事は大抵僕が作って、彼はその手伝いや後片付けを担当している。食材や日用品の買い出しは週末に2人でやっつけて、日々の掃除や洗濯、ゴミ出しなんかは当番制だ。二人暮らしの生活も随分と熟れてきた。
 彼は気が利く上に器用な男で、いつの間にか僕のスケジュールを把握し、必須講義のリマインドや、目録にある書物の手配など、助手のようなことまで担ってくれている。更にはお茶や珈琲やちょっとしたスナックなんか口実に、煮詰まったタイミングで休憩を促してくれるし、根を詰めすぎると強制的に彼のベッドへ追いやられた(そして眠るまで見張られてしまう……)。
 作業に没頭しがちだった単調な日々が、突然快適で健やかな暮らしに激変した。周囲を見渡すゆとりが出来、彼が苦手らしい料理を率先して引き受けるほど、この同居生活はうまくいっている。

 あれから半年。一人でも留守番を任せてもらえる程度には信用も築けた。

 だが、当初の目的は未だに果たせていない。彼の部屋をこっそり物色したが、手掛かりになりそうな日記や手記の類は見当たらず、関連がありそうなカメラや写真なども見つからない。医学書や学術誌、レポートは山程出てきたので、彼が医学を志す真面目で立派な勤勉学生だということは痛いほどよく分かった。しかも同大学に通う後輩だった。

(顧みて留守中に家探しする僕の疚しさよ……)

 駄目な人間の典型である。彼の信頼を真っ向から裏切る行為に良心が耐えられず、家探しは早々に打ち切ってしまった。
 あとは彼自身をそれとなく観察してみたりもしたが、ふらつく脚でうっかり卓や棚にぶつかっては物を落としたり、いつの間にか謎の切り傷や痣を増やしたりする天然ぶりが危なっかしく、逆に心配で目が離せなくなってしまった。とても腹に一物抱えてるような人物には見えない……例え何か含みがあったとしても、それは大して悪いことではないような予感すらしていた。

「シェパーズパイ、焼き上がったよ!」
「こっちもあらかた片付いた。夕食にしよう」
「取り分けるね」
「ありがとう。食後にトライフルもあるから食べ過ぎないように」
「やった、大好物!きっと全部食べられるよ。君の料理、美味しいから」
「んーッ」

 彼の甘い物好きは前世からの筋金入りだ。清らかな純粋さも変わってなくて、時折昔の気持ちが痛む。今世こそ守りたい、この笑顔……!!
 半年前の事故から彼はすっかり回復していた。
 今では食事の支度や買い出しを共にするだけでなく、近くの公園を連れ立って散歩したり、図書館で一緒に勉強したり、配信映画をみて感想を言い合ったり、新しい学術誌や論文を読んで意見交換したり、ありとあらゆる面で彼の健全さを知っている。交流が深まると思っていた以上に有意義な日々が送れることに気付いた。こうであれ、と僕が望んでいた暮らしそのものだ。この生活が楽しいと感じる度に、罪悪感がチクリと胸を刺す。今の日々は僕にとっては幸運だ。でも君にとっては災いなのかも──

……ま、好きにしたら」
「えへへ、ありがとう!」

 彼の記憶は今も、失われたままだった。








 昼もだいぶ過ぎたのに重い曇天で気が滅入る。今日は事故後の定期検診最終日。彼は午後の講義を早退しているはずで、帰りはいつになるか分からない。
 キャンパス内のカフェで久々に一人の夕食を摂りながら思索にふける。

 なぜ──半年も経つのに、事故前後の記憶が戻らないのだろう?

 あの事故でそんなに強い衝撃を受けたのか?だとしたらもっと日常生活に支障が出てもおかしくないと思うし、後遺症すらないのに記憶だけ抜け落ちるなんて、そんなことあり得るのだろうか?
 
 どうして──前世との関連が、見つからないのだろう?

 ただの誤解だった?勝手に思い込んでいただけだったのか。僕に記憶があるのだから、君だって憶えているはずだ、って。こんなに……名残を惜しんでいるのは僕ばかりで、君が言及してくれた試しはない。

(手詰まり、か……まさかこんな状況になるなんてね)

 せめて、事故以前の彼の本心を知る術はないのだろうか?あの事故の直前、僕を呼び止めて、何を告げるつもりだったのか?飾ってある写真の意味は?
 今日の検診で無理なら、もう外科的な解決は難しいだろう。そしたら次は心理学心療内科?それとも催眠療法とか、霊媒師に頼んでみる?

(そんなの、彼をどう説得すればいいんだか!)

 当惑顔が容易に想像できて、つい笑ってしまった。そう、笑い飛ばしてしまえるのだ。何の記憶もないのに。僕らの前世の縁は、消えてしまったのに。
 事故前の記憶が戻らず 、物証も得られず、だというのに、思っていたほど焦りがない。航路が決まらないまま惰性で揺蕩う船のように、気楽で心地良い日々に浸っている。穏やかで確かな幸福とともに。
 この暮らしを維持したい。この関係を壊したくない。例え彼が何も覚えていなくとも、もう、いいんじゃないか?僕のことを思い出してくれなくたって、ちっとも構わない。僕らはこのままでも、十分やっていけるはず──、 !

 カフェの窓外に見知った人影が見え、息を飲む。驚いたのは、彼が一人ではなかったから。同じ年の頃の男性と……談笑している?ほんのり頬を染め、見たこともないような柔らかい表情で話してる……相手の男は背を向けていてどんな顔で応えているのか分からない。分からないが、不意にぱっと輝いた彼の満面の笑みで、親しい間柄であることは確実と見えた。

 ぽつ、ぽつと、窓硝子に水滴があたる。ついに雨が降り出した。

 外にいた人々は雨宿りできる場所を求め近場の建物へ走っていく。雲は厚くなり、雨足も強まってきた。街路樹が降雨に叩かれ撓っている。
 彼らも、向かい側の施設へ吸い込まれるように見えなくなった。

 ほんの一呼吸おいて、立ち上がり、荷物を持ってカフェを出る。講義は終えた、夕食も済んだ、あとは帰って寝るだけ。雨が酷くなる前に──



 ──豪雨。雷鳴。暴風。荒れ狂う冷たい海。木っ端のような舟で高波に揉まれて、今しも転覆かと危ぶんだその時に、帆船の人影が割れ、現れた君が──



 ヴヴヴ、 チカッ チカッ

 バイブ音でハッと我に返る。デバイスの受信通知。その点灯色は青。彼だ。濡れ始めた手で確認する。メッセージが一言。

『今、何処?』

 日常に埋もれるような、他愛もない問い。なのに答えられなかった。


 ──僕は、何処に、行くつもりだった?


 道端に立ち尽くす。木立の隙間から落ちてくる雫が髪や服をじわりと濡らす。こんな雨、あの時に比べたら天と地の差。だけどあの嵐の方が、僕にとってはずっと大切な出来事だった。

(忘れていたわけじゃない……忘れられるはずがないじゃないか、片時も!)

 そのリングは、常に君の薬指で輝いていたから。けれどこの半年、それらしい相手の影は見えず、それどころか友人知人の類でさえ君と必要以上に深く関わる人はいなかった。広く、浅く、君は誰とでも仲良くなれたし、友達は多いほうだろう。けれど心を預けるほど親しい者はいないのではないかと──僕以外には──勝手に期待して、不安に目を瞑り、無理に思い込もうとしていたんだ。

(僕が渡したヤツじゃない、解ってる……なのになんで!よりによって!!)

 金の輪。あの頃の約束の証。マトロタージュ。あれは僕らの誓いだった。僕は君の遺産を引き継いで、それを今世まで遺した。なのに君は、君は何も、何もかも忘れて、約束も、思い出も、気持ちまで、失って。その金輪を一体誰と……さっきの彼?それとも僕の知らない他の誰か?どうして?どうしてそんなことが出来る?僕はずっと忘れられなかった。君も同じだと信じて疑わなかった。それなのに……

「あっ、此処にいたんだ!よかったぁ、会えて」
……どうして、」
「検診終わったから迎えに〜って君、濡れ過ぎだよ?!風邪引いちゃう。早く帰ろ!」

 傘を差し掛け、有無を言わせず手を引いて歩き出す君。

 躊躇なく繋いでくれた手が暖かくて、わざわざ傘を持って迎えに来てくれた心遣いが嬉しくて、健康を案じてくれる優しさが気持ちよくて……

(幸せなのが悔しい)

 雨天で助かった。酷い顔も雨のせいに出来る。君が健やかでいてくれたらそれだけで心が満たされた。そんな細やかな願いさえ前は叶わなかったから。

……検診結果はどうだったの、」
「問題ないって。無事終わったよ」
……、記憶は」
「あ、そっち?んー、それは聞かなかったな。でも別に平気だよ!普通に暮らせるし、君もいてくれるしね。それより週末だけど、ちょっと遠出しない?」

 あまりに幸せで目を逸らしていた現実が、深海に降り積もる砂のように、ゆっくりと夢を浸食していく。

「シーズンが過ぎたから空いてると思うんだ。まだ行ったことなかったでしょう?泳ぐのは無理でも、浜辺の散歩とか、貝殻拾いとか、探検したいなって」

 もう続けられない。これ以上は戻れなくなる。君のいない人生に。繋いだ温もりを手離すことすら惜しまれる。聡くて優しくて善良な君。僕の親友。僕の理解者。僕の……誰よりも大切な君。君のリングに敬意を払って僕は、僕が成すべきことを、するね。

「一緒に海に行こうよ!きっと楽しいよ」



 君にも掛け替えのない誰かがいるって、分かったから。



「僕、明日出ていくね」

 さらりと告げた別れの言葉に、君は過剰な反応を示した。

「え……、ええっ!?」
「こういうのは早いほうが良いから」
「な、なんでっ?どうしたの、急に!!」
「急じゃないよ。初めから云ってたでしょ、大丈夫になったら出てくって」
「っ……でも、そんな、」
「病院でも太鼓判を押されたんだから、安心だよ」
「──」

 急に足が重くなった彼に代わり、僕が先導して歩いていく。帰宅するまで、お互い一言も交わさなかった。彼が話し掛けてこないなら、こちらから話すことはもうない。俯きがちで表情もよく分からなかった。考えを整理しているのだろう。それでも差し掛ける傘を持つ手はブレないのが、彼の凄いところだ。
 思い返してみれば、昔のことを知らなくても、君は、変わらず魅力的で素敵な人だった。本当は前世なんて、どうでもよかったんだと思う。そんなの口実で、僕はただ君と一緒にいたかった。うん、それだけ。今までありがとう。長い間居座ってごめん。あの時……あの日の君を、助けられなくて、……僕は、ずっと……忘れられなかったんだ。

「おめでとう!明日から君は自由さ」

 部屋に辿り着き、彼が通れるように扉を押さえて待つ。これは未来への扉。君の新しい人生の始まり。僕はそれを垣間見に来た観客。夢を見せてくれてありがとう。君の物語の主人公は勿論、君自身なんだ。

(今度こそ、幸せにね)

 できるなら端役でもいいから君の舞台に立ちたかった。けれどそれも難しいみたい。せめて上手に笑おう。君の瞳に残る最後の僕が、ちゃんと笑顔であるように。

「や…………、そんな、……どうして?僕と暮らすの、……止めたくなった?」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ僕が何かしちゃった?教えて……謝るから。至らないところも直すし、もうしないよう気を付けるから……
「違うってば。心配しないで?君にダメなところなんてないよ。むしろすごく楽しかったから、離れ難いくらいさ」

 当然の質疑に目を合わせられない。良心が痛む。君と暮らし始めたのは僕の都合で、今離れようとするのもまた僕の我儘でしかない。
 これでも君にとって一番いいことを選んでいるんだよ。今も、それどころかあの頃だって。でも君はいつだって、純粋に悲しんでくれて、そんな君だから、僕は──

「僕だってそうだよ!なのに突然お別れなんて……やっぱり記憶が戻らないから?今の僕じゃダメなの?このままの僕じゃ……付き合うのも億劫だった?」
「!! 違うっ、そんなことない!!」
「ならなんで?!僕……僕は、君と、別れたくない……!!」

 勢いよくしがみつかれ、部屋の中へ倒れ込む。彼がこんな風に激情を表したのは初めてだ。不意をつかれて対応できず、縺れるようにして床に転がった。

「ねぇ、僕ら、恋人なんでしょう?なのに君は一度も僕に触れなかったね」
「そ、それは約束したから、」
「僕はとっくに覚悟が出来てたよ。いつでも君に応えられるくらい」
「!……、ちょ、な……っ?!」
「僕に触られるのは嫌?押し倒されるのは?キス……するのはどう?」
「っ、待って!ダメだよ、こんなっ、ぁ、ンンッ……!!」

 唇に押し付けられた熱。冷えた素肌を温める柔らかな感触。濡れるのも構わずに縋り付くしなやかな腕。湿った髪が頬を滑り落ちてゆく。僅かな沈黙。後ろめたさで狂いそうなのに昂揚するのを止められない。優しいキス。君のような柔和さで、奥ゆかしくて、品があって──思わず溢れた涙を、必死に腕で覆い隠した。

……ずっと、こうしたかったの。だって、ねぇ、僕は、」
「嘘だよ」
「え?」

 彼の言葉を制して白状してしまった。昂ぶった気持ちが舌を動かす。
 
「恋人同士なんて嘘。僕らは顔見知りですらなかった」
「!」
「全部茶番さ。幻滅したでしょ?もう終わりにしよう。僕は、」

 懺悔が償いになるだろうか。今の君には全く関係ないから、理解はできないだろうけど。喉が嗄れる。目頭が熱い。胸が痛む。こんなにも。僕は未だ囚われている。



「君をまた失うのが怖い」



 静寂……どこか遠くで雨音が響いている。硬くて冷たい床が今は救いだ。お蔭で正気を保てている。
 微かな溜息を残し、彼が緩慢に離れていく気配がした。

……そんなに身構えないで。僕はね、君と暮らせて本当に、嬉しかった……

 宥めるような囁きが耳に心地良い。落ち着いた声音。熱を感じない距離感。
 何かが──変わった?空気?雰囲気?表情?彼の……様子が、何か──

「君はもう、全部忘れたほうがいいみたい。僕のことも、君自身のことも。今まで付き合わせて、ごめんね。家に帰って、二度と此処へ来ないで。僕、もう……ううん、何でもない。今までありがとう!どうか君に幸運が舞い降りますように。今度こそ、本当に」

 カタリ、小さな物音。床に鈍く光るリングが落ちている。あの、金の輪が、

「さようなら、ダンピア」

 ずっと彼の左薬指にあった指輪を置いて、彼は、部屋を出て何処かへ去って行った。また、僕の前から、消えた──




「え?」








side R



 流木に座って、ぼんやりと沖合を眺める。夕暮れの海辺は静かだ。雨のせいか人も疎らで、物思いに耽るには丁度いい。緩やかな波音が動揺を凪いでくれるし、絶え間ない潮風は深い悲しみを癒やしてくれる。心は暗く荒んでいても、果なき海を眺めていたい……あの頃のように。

 記憶を失ったなんて嘘。彼を引き留めるための方便だった。

 何とか少しでも接点を持てば、思い出してくれるんじゃないかと期待した。
 思い出さなくても、また友人として仲良くなりたいという打算もあった。
 恋人だなんて突飛なことを云われた時は驚いたけど全然嫌じゃなかったし。
 けれど、彼は……全部分かってて……いつからあったのかわからない、もしかしたら始めから?前の記憶を持って、その上で、それでも……僕を拒絶したんだ。

 彼にとって僕は、不要だった。
 友達どころか、知人ですらなく、彼は独りを望んでいて、僕を拒否した。
 寧ろ僕の存在が彼の心的外傷になりかねない、既になっていたのかも。
 何もできない。何もしてあげられない。
 今の彼に、僕は、邪魔なだけ。

 ……穏やかな潮騒……

 僕は──僕はといえば。
 突然、空っぽになってしまって、途方に暮れている。
 真っ暗で、何も視えなくて、どうしたらいいかわからない……

(もう……君は、いないんだね)

 潮風が濡れそぼった頬を撫でていく。あの頃の君のような、軽やかさで。

 とっくにいなくなっていた。
 気付かないふりをしてただけ。
 もうどこにもいない。
 大昔に僕が置き去りにしたんだから。
 どれだけ傷付いたろう?
 あんなに言い募ったのは僕なのに。
 少しも実現できなかった。
 それでも独りで航路を拓いた。
 君は夢を全部成し遂げた……

(ダンピア)

 悲しい 苦しい 切ない 悔しい
 どうしようもなく ごめん ダンピア

 僕は何もできなくて、全て押し付けて、君を独りぼっちにした。
 寂しくて、辛くて、怖くて、悲しくて、涙が全然止まらない。
 僕は君に、なんて酷いことをしてしまったのか──

 これはきっと罰だよね
 君に酷いことをした罪だ
 自分の咎を背負わなきゃ
 本当にごめん ダンピア

 だけどね 僕は 忘れられない

(恋しい……どうしようもなく、あの日々が)



 会いたくて
 話したくて
 一緒にいたくて
 堪らない
 僕の 唯一の 君



(今世は、ちゃんとお別れが伝えられて、よかった……)



「見つけたっ!!!」



 聞き慣れた声。息せき切って駆けてくる姿に思わず立ち上がる。
 黙って出てきたのにどうして──いや、そんなことはいい、彼は僕を見つけてくれた。そして追いかけてきてくれた。それだけで──
 駆け寄ろうとして寸前で踏み止まる。

 (……や、ダメだ。思い出せ。僕の間違いを)

 未練を断たなきゃ。彼を解放すると決めた。繋がりなんて初めからなかった。僕が甘い夢を見ていただけだったんだから。

「来ないで!もう君の邪魔はしないよ。今度こそ、約束する──!」

 こんなことしか
 してあげられない
 ごめんね

「はぁっ、はあ、はー!あのさ!君は知らないと思うけど……いや僕が言わなかったのが悪いんだけ、どっ」

 また彼は人の顔を見ていない。変わってない。在りし日の影が重なり胸が一層締め付けられる。もっと仲間の顔を見てと何度も云ったのに。少しでも僕を見てくれたら──踵を返して去るのが賢明だと、君ならすぐに解るだろうに。

「今ね、僕のこと、ダンピアって呼ぶの……君だけなんだよ」
………………え?」

 思わぬ話題に一瞬思考が停止する。彼の名を呼ぶのが僕だけ……って、どういう意味?みんな愛称で呼ぶとか?それって重要なこと?理解が追い付かない。頑なだった彼の態度が一転して親しげなのもおかしい……どういうつもりなの?

「はあああ、疲れたぁ!体力落ちてるなー、あの頃に比べてずっと頭脳労働だから身体鈍ってるや。そう思わない?ジム行かないと。君も一緒に行こうよ」
「え……や、あの……えっ、?」
「はは。ごめん、混乱してるね。あのね、今の僕、あの頃と苗字、違うんだ」

 軽快な話しぶりが懐かしくて引き込まれていたら、突然の予期せぬ告白。言葉が出なかった。苗字、が……違う?あれ、待って。まさか……そんなことが──

「──ウィリアム・ダンピエラ。今世で名乗ったの、初めてだね。よろしく」

 なんてこと──!知らなかった。いや、知ろうとしなかったんだ。会えただけで頭と胸がいっぱいになって、嬉しくて、幸せで。あとは彼をどう引き留めるかしか考えてなかった。半年も一緒にいて気付かなかったとは。僕はなんてバカなんだろう!

「君、事故前の記憶、いつ戻ったの?」
「さ……最初から、失くしてない……
「え!なんだ、そうだったんだ。じゃあもしかして前世のほうも?」
「うん……ごめんね、黙ってて……
「はあああ?!アハハ!全然分かんなかった。君って役者になれるよ」

 弾けるように笑う彼に戸惑いを隠せず、恐るゝ問い掛けた。

……怒らないの?」
「怒る?なんで?」
「だって……君を騙してたから」
「気付かなかった自分の間抜けぶりは腹立たしいけど、君には怒ってないし、それを云うならお互い様だ」

 気不味そうに笑いながら、彼は僕の目の前に立った。

「僕だって嘘をついてたからね」
……そっか」
「それと、僕、君に聞かなきゃと思って。これ──」
……、!」

 必死に堪えていたのに、ダンピアが握り締めていた掌にあの、僕の浅はかな甘い夢の残骸が握られていて、つい、視界が歪む。

「"W.D……唯一の君"……これって──」

 差し出されたリングの銘。憧れ。尊敬。かけがえのない。僕の全て。嗚呼……
 あの頃から変わっていない。
 未知を追って好奇心を携えて独り黙々と挑んでいる探究者。
 僕にとって大切な恩人、焦がれ、慕い、どこまでも、追いかけたかった……

 そんなの、唯一人しかいない。

 涙が。嗚咽も。みっともなくて恥ずかしい。彼には……今の彼には負担でしかないのに。勝手に姿を重ねて夢を見て、こんなに戸惑わせて、邪魔をして。情けない。未練がましい。心苦しい。ごめんね。

「これ、ずっと君の薬指にあったやつだよね?」

 刻まれたイニシャルは、彼にとっては無価値で不快なもの。でも僕には。君との繋がりを見失ってしまった今世の僕にとっては、唯一の拠り所だった。
 忘れたくなくて。失いたくなくて。何年も探して。どうしても見つからなくて。でもいつかきっと何処かで会えると。信じて。信じた。それだけを頼りに此処まできた。長い間君の影を追ってようやく今の君に追いついた。君には無意味な邂逅だとしても。僕には。僕には必要なことだった……

 指輪が僕と君を繋いでくれたに違いないと思うんだ。

「ごめ……勝手に刻んで……でも、もう……棄てて……ごめんね……
「な!なんで?!これ──これっ!ずっと持ってたじゃん!いつも付けて──それって、少なからず君の縁になってたってことでしょ!なのにそんなっ」

 興奮した彼はあの頃のように僕に向かって大声で吼えた。

「そんな簡単に諦められるのか!?」

 耐えられなかった。砂地に崩れ落ちる。君はそうして……忘れられない。僕が励まされたあのままの言葉。これ以上の幸福があるだろうか?会いたかった。君に会いたかったんだよ、ダンピア。ありがとう。ごめんね。本当は、ただ会いたかっただけなの。
 言葉が出ない。感極まって四肢に力が入らない。涙だけが止め処なく溢れてゆく。僕には最早どうしようもない。君への想いで身動きが取れない。

「ねぇ、誤解だったんだよ。僕はてっきり──だから、その、君は良い奴だし、聡くて、優しくて、惹かれないわけがなくて、なのにもう決まった人がいるなんて、苦しくて耐えられなくて、気が狂いそうになるから──!」
「やっぱり、迷惑、掛けちゃったんだね……ごめん」
「ちがっ──違うんだよ、もう!!」

 君には必要ないものが、僕の生きる道標だった。今はもう見失ってしまった。何処へも行けない。君の行く末を塞がないよう努めるだけで、精一杯なんだ。

「──また、置いていく気?」

 絞り出された声音にハッと息を飲む。今、何と言った?

「もう……置いて、いかないでよ……

 呟かれる涙声。僕をそっと抱き締める手も震えていて、彼が心底恐れているのだと解る。まるで虐げられた弱者のように。何を怖がっているの?そんなに怯える君を見たことはなかった──心臓が跳ねる。まるであの頃のように。縦横無尽に海を渡り波に乗ったあの、懐かしい帆船の旅──

「バズ」

 前世の夢から現実へ引き戻す呼び名。彼が……今の彼が僕を愛称で呼んだことはない。その名を呼んでくれたのは、あの頃の君。昔のように、優しく呼ぶ──君は……

「いかないで」

 青褪めた表情から必死の懇願が伝わってくる。いく?何処へ?君を失った僕は何処へも行けない。けれど君は僕から解放されて自由に何処へも行けるはず。なのに僕を呼び止めるの?僕が何処へ行くというの?

「僕の側にいて、今度こそ」



発射音。怒号。悲鳴。飛び交う弾丸。混乱。硝煙の匂い。脚の激痛。被弾した衝撃。明滅する景色。梢の木漏れ日。青い空。遠退く世界。君との約束……霧散。



「バズ……

 先に逝ってしまったのは、前世最大の後悔だ。けれど君は、助かったと知ってる。夢を果たせた君は、幸せだったのだと信じて疑わなかった。でも、実は違ったの?
 あんなに自由だった君を、これほど萎縮させ変えてしまったのは──?

「バズ……!!」

 脱力した身体を掬い上げられ、口吻される。甘く、蕩けるような、けれど切実に、繋ぎ止めるように。息ができなくて喘ぐと涙を吸われ、濡れた瞼や頬にも舌が這う。猫みたいだ、と不意におかしくなって思わず笑うと彼もつられたようにふ、と息を抜いた。

「ねぇ、僕を呼んで。憶えてるよね?」

 鼻の頭に口吻けながら昔のように、と暗に促されて体温が上がる。勿論憶えている。もう二度と呼ぶことはないと思っていたけれど。期待に満ちた双眼が熱を称えて注視している。忘れたことなんかない。僕の中であの指輪のように永遠に美しく輝いている。

「僕も一緒に生きたい……ウィリ」



 今こそあの約束を果たすよ



fin.



anulus aureus【金輪】
20251226_finish_NEO@20neo24







後日談


「そういえば君、いつの間に僕の写真撮ったの?」
「あ!ごめんね!!それ、初めて君見つけた時……1年前くらいなんだけど、思わず撮っちゃって……本当にごめん、勝手に隠し撮りして」
「いや、まぁ、別にいいんだけど。1年前か……思ったより最近だね」
「うん。見つけて、嬉しくて、つい追いかけたら……大学に入っていったから、学生だって知って……近場のフラットに引っ越して来たの」
「え?!そんな理由で?あっ、だからまだ段ボールだらけなのか」
「ごめん……どうかしてるよね?ただ見掛けただけなのに、僕……勢い余って此処まで来たけど、やっぱりよくなかったかもって迷って、もし……もし君に誰か……その、……彼女とか、いたら、会うのやめてまた引っ越そうって思ってて……
「は?なんでそこで止めるの?」
「だって君の邪魔をしたくなかったんだもの」
「んーッ 君って変なとこで遠慮するよね!せめて声は掛けて欲しいんだけど?僕だってずっと君に会えるの待ってたんだから」
「えっ?あ……そ、そうなんだ……や、ほら、だから、あの時声を掛けたんだよ!」
「そんで僕が逃げたから事故ったんだよね……その節はご迷惑をおかけしました」
「ええ?!いや、それは僕が不注意だったからだよ!君には関係ない……あ、でも、なんで逃げたのか聞いてもいい?ずっと気になってて」
「あー。くだらない理由で申し訳ないんだけど、君の薬指に、リングが見えて……
……うん?」
「〜〜っ、だから、君が既婚者か、婚約中か、少なくとも恋人がいるんだって勘違いしたの!!」
「?」
「あーっ、もう!つまりね、僕は君のパートナーになるつもりだったんだよ」
「!!」
「先を越されて混乱したんだよ、今世こそきっと君を幸せにしようって思ってたのに、ソレ僕の役じゃなかったのかーって絶望したね!思わず逃げ出したくらい。勘違いだったけど」
「そ……それは……あの……ごめんね?」
「いやいやいや、ホントに誤解で良かったよ。お蔭でこうして君の隣を独占する今があるわけだし──あのさ、もう一つ聞いていい?」
「う、うん……なんでも聞いて」
「思い出したんだけど、君、大学に親友とかいる?仲良く話してるの見たよ」
「え?大学……あ!Dr.かな?」
「んん?」
「Dr.だよ。覚えてるでしょ?ウェーファ。彼も大学にいるよ」
………はあああ?!」
「まだ会ってない?今度紹介するね。きっと驚くよ、彼、今は大学教授やってるの!」
「は……ははあ……、ナルホドネー」

※謎が解けたの巻