異能で外傷を治す力を目の当たりにした。同時に外科医としての、そしてひととしての限界も知った。純粋な知識と技術を持つ人間が人間を救うという医療の領域に踏み込まれたことに、多少なりともむなしさを感じた。が、それがどうだというのだ。それでも、やらねばならない。助けようとすることをやめてはいけない。それが医者という道を選んだものの責務だ。
「飛白センパイ、どうしたんですか? そんな深刻そうな顔して」
あごを上げると、こちらを覗き込む慶がいた。短い前髪がすこし、跳ねている。そのようすを眺めて、デスクに肘をついた。
「……便利な力もあったもんだと思ってな」
モニタに、動画が流れている。まるで時間を巻き戻すように傷口が塞がれていく。もはや、あとかたもない。慶もそれを眺め、「そうですね」といった。
「医者って職業、お役御免にならなきゃいいんだけど。まあ、俺にできることをやるだけだ。今はな」
長いまつ毛を細めた目で見つめながら、席をたつ。慶のとなりを通り過ぎ、エスプレッソマシーンに手をかけた。
「なんか飲むか」
「飛白センパイ、元医者だって言ってましたけど、まだ諦めてないんですね」
手が止まる。
彼と再会したとき、「元医者だ」と伝えた。そのときの自分は、どんな表情をしていただろうか。もう、忘れてしまった。つい最近だというのに。さまざまなことが、起こりすぎて。
「諦めてないよ」
ふいに口をついてでたのは昔のような、なだらかな声であった。
「諦めてない」
そっと、マシーンを撫でる。銀色と赤色のそれは、うっすらとマルタの顔を映していた。
「母を殺すことも医者でいることも、諦められない。……俺は、傲慢かな」
エスプレッソのよい香りが漂う。水蒸気が手にふれ、しっとりと濡れた。
「先生」
彼も、いとけない子どものような声で呟いた。
まるで時が戻ったかのような。そんなありもしない幻想を、とおいところで眺めていた。
「俺がやらなければならない。他のだれかに、やらせるつもりはない。殺しに慣れたサカナであろうと」
「大丈夫」
思いもよらず、やわらかな声だった。ゆっくり振り向くと、彼は微笑んでいた。
「はは、そうか。大丈夫か」
昔と逆だなと思う。大丈夫、大丈夫とまだ幼かった慶に笑いかけた。けれど時間を重ねるにつれて自分に言い聞かせていたことに気付いてしまった。
――今はもう、あの時のように彼へ笑いながら大丈夫と言えるはずもない。
嘘は、言わない。この目をもつ自身が嘘を吐くことは、すべてへの冒涜であるから。
「そうだな。大丈夫なら、やらなけりゃな。医者の俺が」
背中を押された気がした。ここにいていいと、まだここに在っても許してもらえる、そんな気がした。たとえ楽々の力で傷を癒すことはできたとしても、今、自分はここに立っている。やると決意したなら、最後までやり通さなければならない。
エスプレッソが入ったカップホルダーを持ち、慶に渡す。素直に受けとった彼の頭をくしゃ、と撫でてみた。あいかわらずふわふわとしていて触り心地がいい。
「いつも思うんだけどお前の髪、手入れラクそうだな。俺も短くするかな」
「え、短くするんですか」
「……そのうちな」
に、と笑ってみせる。
慶がぱちぱちと瞬きをする仕草を見届け、自分のぶんのコーヒーを飲んだ。少々苦い。が、そのくらいでちょうどいい。
「疲れてるなら、少し休んでけ。緊張しっぱなしはよくない」
彼の武器や異能ならばなおさらである。
ひと呼吸おき、そっとくちびるを開いた。懺悔するように。
「お前にはいろいろ、知ってもらってるな。……親のことも、ここの研究員になった理由も。あと、そうだな。月イチの煙草のこととか? 知ってもらえてるだけで、幾分か軽くなった」
「それは……よかったです」
まつ毛が伏せることで、ほおに影ができそうだった。
――もう、昼も過ぎる。
「もちろん、お前が背負うことじゃない。絶対に。それだけは言わせておいてくれ」
窓の外を眺める。青白い空だった。
「齋穏寺」
「はい」
「すまなかったな」
いろんなことが変わってしまって、とは言えなかった。昔の自分ならもっとうまいこと言えただろうに。ずいぶんと、口下手になった。
目線を合わせることも少なくなった。合わせてはいけないと思うようにもなった。それがつらい、など、口が裂けてもいえない。自分が選んだ道だ。否定することは母の命を見捨てることになる。齋穏寺慶、彼への裏切りにもなるのだ。だから、言わない。
ただ、ほんのすこし眉根をさげて昔のように笑ってみせた。
あのときの花の香りが、ただよった気がした。
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