ナガレ
2025-12-19 21:50:16
11562文字
Public
 

君に告ぐ(ぶぜまつ)※サンプル

2026/2/1開催のぶぜまつオンリーで頒布予定の小説ウスイホン――の先出しサンプル。とある本丸のぶぜまつが成立するまでのお話で、テーマは手紙と二振り目。
2025年冬のぶぜまつオンリーで発行予定でしたが書きあげることができず、一年越しに完成しました…!ハッピーエンドです。

 本霊である〝名物・松井江〟が刀剣男士というものに選ばれた事は知っていた。己はそこから分化したのだから。名物・松井江から生まれし存在、刀剣男士・松井江。千年、二千年と紡がれてきた歴史を守り、未来に繋げるのが刀剣男士の役割。ついに僕にもその役目を担う時がやって来たのだ。喜びと高ぶりと緊張を胸に、松井は光の糸を手繰り寄せてこの場所に降り立った。今しがたこの世界に生まれた刀剣男士の松井江は、今生の主になる審神者の姿を真っ先にその碧眼に映す――はずだった。
「よぉ。久しぶりだな」
 松井の目の前にいたのは審神者ではなかった。何故なら、目の前の存在からは近しいものを感じるからだ。人の子が纏う生気とは異なる気配。おそらくこれは神気や霊力と呼ばれるもの。だから目の前の存在は刀剣男士だ。それも、自分と同じ鋼の流れを組む男士。血肉という器に包まれた玉鋼がそう教えてくれる。とはいえ、同じ流れの刀は何振りも存在する。君は一体誰なのかと問う前に、その存在は松井に答えを教えてくれた。
「って言ってもわかんねーよな。豊前江だ」
 豊前江。その名に聞き覚えはある。あるも何も、同じ刀工の手によって鍛えられた鋼だ。――そうか、あの刀が人の子の形を取るとこうなるのか。江の刀で随一の華やかさと評されるだけの事はある。松井は目の前の男士に魅入ってしまった。
「恥ずかしいからあんまし見るなって。穴が開きそうっちゃ」
「! 不躾な真似をしてすまなかった……
 さほど気にしていない様子だが、初対面の相手をまじまじと見るのは失礼な行為だ。しかも食い入るように見つめてしまっていた。刀の時とは違うのだ。松井は己の行為を恥じた。そしてまだ自分が名乗っていない事に気がついた。僕としたことがうっかりしていた。リボンタイの曲がりや襟元の折れといった衣装の乱れを軽く直すと、松井は改めて己についての口上を述べようとした。しかしその相手が見当たらない。小さな社の本殿の中(と思わしきこの場所)には豊前と自分の刀剣男士二振りしかいなかった。主はどうしたのだろうか。
「ところで、僕の主になる人間はどこにいるのだろうか」
「あー、主な……
 口ごもりながら豊前がそっぽを向いた。もしかして聞いてはいけない事を聞いてしまったのだろうか。光の糸を選んで降り立つ本丸。選べるのは糸だけで、糸の先を選ぶ事はできない。なので、当然糸の先には男士と審神者の仲が良好でない本丸もある。この本丸もそうなのだろうか。今後を憂いた松井の表情が翳った。
「いや、松井が思っているようなもんじゃねーよ。俺がやらかしたというか、やらかしてきたというか、別にやらかしたつもりはねーけど、何言っても今から怒られそうだというか……
 どんどん豊前の歯切れが悪くなる。本丸で悪い事は起きていないみたいだが、要領を得ないにもほどがある。実はとんでもないところに来てしまったのだろうか。あと、もう一つ。まだ名乗っていないのにどうして彼は僕の名前を知っているのだろうか。同じ江の者だから? それとも、僕を選んで呼んだから? 翳りは消えたが、代わりに不審の色が松井の顔に浮かんだ。
「そんな顔すんなって。主ならもうすぐ来るだろ。……ほら来た」
 ばたばたと騒がしい音が近づいてくる。この音は刀の時にも聞いた事があるから知っている。雪駄を履いた人の子の足音だ。こんなにも騒がしいのはほとんど聞いた事がないけれど。その足音はすぐ近くで止まったかと思うと、ばん!と大きな音と共に扉が開いて何かが転がり込むようにして乱入してきた。――今度こそ正真正銘の人間だ。白衣に白色の袴、顔を隠すための面布。おそらくこの者が主となる審神者なのだろう。主との初顔合わせだ。失礼があってはならない。松井は背筋を伸ばした。何事も初めが肝心だ。……肝心なのだが、審神者は松井の存在に気づいていない。こういう時はどうすればいいのだろう。松井は困惑した。
「豊前江!」
「悪かったって。後でゆっくり怒られてやるから」
「そういう問題ではありません! 集めたものを勝手に交換して、一体どういうつもりですか!」
「どういうつもりって言われてもなぁ」
 はぐらかそうとする豊前の飄々とした態度に審神者のボルテージは上がる一方だ。僕、席を外した方がいいのかな。この状態では謁見も何もないし、落ち着くまで隅で待たせてもらおう。蚊帳の外に置かれた松井は豊前の袖をくいと引いた。
「あなた達の話が終わるまで、僕は隅で待っていようか?」
 松井のおそるおそるの声色の提案に、説教を始めようとしていた審神者の動きが止まる。このまま放置されたらどうしようかと思った。ようやく気づいてもらえたと、松井はほっと胸を撫で下ろした。
「名物、松井江。松井興長の持ち刀だ」
 一歩前に出て、名を名乗る。面布の向こうの審神者の目が丸くなった。
……よく来てくださいました」
 返ってきた言葉はそれだけ。これだけで量るのは浅慮かもしれないが、歓迎されていないのだろうか。松井と審神者の間に流れる張り詰めた空気を割ったのは豊前だった。
「改めてよろしくな、松井。お前の世話役は俺だから、わかんねーことあったら何でも聞いてくれ」
「豊前江!」
「そういうことだから、早速本丸の中を案内してやんよ。寝るところと飯食うところは早い方がいーだろ」
 まずは松井の部屋からな。次に飯食う広間と体の汚れを落とすための風呂場。で、そのあとは外に出て、道場に寄って厩に行って、畑のあたり回ってから屋敷に戻るぞ。
 このあとの予定が豊前から一度に告げられる。一度にたくさん言われても覚えきれないと、及び腰の松井に豊前がにっと笑いかけた。
「案ずるなって。俺もいるし何とかなるだろ」
「そういうものなのかな……
「そーいうもんだよ」
 豊前が大丈夫だと言うのだから大丈夫なのだろう。でも、審神者はいいのだろうか。松井は審神者に視線を向けた。待ちなさいと言われるのかと思いきや、審神者の反応は意外なものだたった。小さく首を横に振る審神者。もう何を言っても聞かないでしょう? と、その表情は面布で見えないけれどもきっと諦め顔だった。豊前のこれは日常茶飯事なのかもしれないなと松井は思った。それなら大変申し訳ない。同胞に代わってお詫び申し上げる。
「この件については後ほどじっくり聞かせてもらいますからね」
「ははっ。お手柔らかに頼むっちゃ。松井、行こうぜ」
「あ、あぁ。えーっと、言ってまいります……?」
「はい。行ってらっしゃい」
 松井の手を引き、意気揚々と先導する豊前。その速さに足を縺れさせながらも、松井の心は確かに躍っていた。
 今ここに、刀剣男士・松井江としての生が始まった。



「ここが松井の部屋。調度類は一通り揃ってるけど、何か他に欲しい物があれば言ってくれ」
「いや、これだけあれば十分だ」
 まず初めに豊前が松井を案内したのは、松井の自室となる空き部屋だった。空き部屋と言いつつも掃除も定期的にされており、設備は整っていた。どの個室にも備え付けられているという収納と文机以外にも、飾り棚や柳行李、全身が映る大きさの鏡も用意されている。リネン類はすべて新調し、布団は綿を打ち直したそうだ。すべて新品である必要はない。文机の上に置かれた小さな傷のある蒔絵の硯箱なんて、好みど真ん中の意匠だ。部屋にある品々はどれもこれも松井好みだった。もしかして豊前は僕の好みそうな物がある空き部屋を選んでくれたのだろうか。それなら嬉しい。松井の口角がわずかに上がった。
「他の部屋もこんな感じなのかい?」
「あー……ま、それぞれだな。俺の部屋はわりと殺風景だし。多分気に入るとは思っとったけど、気に入ってもらえて良かったっちゃ。屋敷の中で迷子になんてなりたくねーだろ。この場所は真っ先に覚えろよ」
「承知した。次は広間だったかな」
「そう。基本的に飯はそこで食べる。朝と夜は当番が作ってくれっけど、昼飯は各自で用意。最初のうちは俺が作っちゃるから、適当に覚えろ」
 適当に覚えろとは、豊前もなかなか難しい事を言う。しかし食事ができるというのは楽しみだ。刀の身分では決して体験する事のできないものだから。刀剣男士にとって摂食は絶対ではないけれど、この人の子を模した血肉の器を最大限活かすためには食――動力が必要だ。広間への道すがら、今夜は松井が〝食〟に慣れるための献立を用意しているはずだと豊前が教えてくれた。
「朝飯は朝五つ(八時)、夕飯はだいたい暮六つ(十八時)から始まる。時間になったら広間に来いよ。ついでに厨も行くか。すぐそこだし」
 朝餉の厨当番は日の出と共に朝食の準備を始めるそうだ。この本丸で生活する男士の数は三桁に近い。そうしないと、とてもじゃないが準備が間に合わないのだとか。ちなみに朝の畑当番はそれよりも早くに集まるらしい。松井のこめかみがぴくりとひくついた。まだ外が暗いうちから起きて働く事が嫌なわけではなく、畑仕事そのものが何とも言い難いのだ。人の子に得手不得手や好き嫌いがあるように、刀剣男士にも当然ある。だって人の子をモデルにしているのだから。
 それは豊前も同じらしく、「何事にも適材適所ってもんがあるのに聞き入れてもらえやしねぇ」と遠い目で小さくぼやいた。どうやら自分が畑当番だとこき使われるそうだ。遠慮というものを知らないらしい。畑仕事で遠慮のない同胞。松井には思い当たる節があった。絶対にあいつだ。心当たりしかない。自分も彼に遠慮なくこき使われる事になるのだろうか。先を憂いた松井は重たい溜息をついた。
「先が思いやられる……
「ははっ。やっぱ同じだな。っと、厨に着いたな。夜中に小腹が空いたら、そこの共用って書いてある棚のものなら好きに食べていいぞ」
 廊下の突き当りにある暖簾をくぐって厨の中に入った豊前は、これ俺が好きなやつと言って棚に置いてあった小分けの袋麺を一つ松井に渡した。この包装は見たことがある。世話になった人の子達がよく食べていた。しかし食べ方までは知らない。どうやって食べるのだろうかと、松井はひっくり返してみた。袋の裏面に調理方法が書いてある。
 ――鍋で湯を沸かして、茹でる。これなら自分で作れそうだ。松井は慣れたら食べてみる事にした。
「じゃ、戻るぞ。ちなみに風呂場はあっち。屋敷の中で迷ったらこの廊下の辻まで戻れ。場所によっては遠回りになるかもしんねーけど、ここで全部交わるようになってるから」
「なるほど」
 松井は屋敷の造りを概ね把握した。男士の居住区域と審神者のプライベートスペースと共用区域はきっちり分かれていて、それぞれの区域を結ぶのがこの辻。共用区域から外にでると、厨や畑、道場に行けるそうだ。さっきは道場や厩や畑にも行くと言っていたが、一度に案内しても混乱するだろうと思い直したそうだ。明日以降改めて連れて行ってもらえることになった。
「今日の晩飯は当番じゃない奴らも張り切ってるからな。食事に慣れるための献立とは言え、かなり豪勢になるんだろーな。きっと松井の好きな赤い色の料理もたくさん出るぜ」
「赤い色……それは楽しみだ」
 色彩は知っている。赤色とは己が身に着けている防具の紋の色、豊前の瞳のような色。松井はうっとりとまだ見ぬ夕餉に思いを馳せた。
「ま、何にせよ明日からしばらく忙しくなる。覚えることばかりだし、強くもならねーとな。あと、書類仕事は嫌いじゃねーだろ? 主っつーか、事務方に泣きつかれるだろうから覚悟しとけ」
「実務は得意だから戦力になれそうで嬉しいよ。豊前はこれからどうするんだ?」
「主ん所に戻って怒られてくる。夕飯の時間になったら呼びに行くから、部屋で待ってろ」
「わかった。また後で」
 松井を部屋の前まで送り届けると、豊前は来た道を引き返していった。審神者が後からじっくり聞かせてもらうと言っていたから、じっくり聞かれに行くのだろう。角を曲がった豊前の姿が見えなくなると、松井は自分に宛がわれた部屋に改めて入ってみた。
 先ほども思ったことだが、今すぐ寝起き可能なくらいに設備の整っている部屋だ。飾り棚にはすでにインテリアとして小ぶりの香炉が置かれているし、床の間には花鳥風月を描いた掛け軸まで掛けられているじゃないか。この中には何が入っているのだろうかと押入れを開けると、半分は丈の長い洋装も吊る事ができるスペースにリフォームされていた。背が低くて細身の三段チェストも置いてあった。しかも一番上の引き出しは可動式のアクセサリートレイが付いている。これは細々とした装飾品を収納するのに使えそうだ。
 文机の上には見たことのない小さな長方形の白い電気機器が置いてある。ボタンがいくつかついた機械だ。恐る恐るボタンを一つ押してみたら、天井からモーターの稼動音が聞こえてきた。空調機器のリモコンだった。これの詳しい使い方は豊前に教えてもらおう。
 使い勝手がとても良さそうな部屋に松井は満足していた。たまたまこの部屋が空いていたのか、それとも自分が気に入ると思って選んでくれたのだろうか。後者なら嬉しい。豊前が夕飯の時間だと呼びに来るまで、松井は六畳二間の我が城を堪能していた。


 *** 中略 ***


 時間遡行軍が頻出する場所の一つに〝厚樫山〟がある。かつて鎌倉の幕府軍と奥州藤原氏が激突した、陸奥国阿津賀志山。その後の歴史が示すようにここは時の政府にも歴史修正主義者にとっても重要な場所で、この地に出陣して無事に帰る事ができれば刀剣男士として一人前と言われている。確実に帰還できる戦場に出陣して武功を一つずつ積み重ねきた松井も、ついにこの場所に出陣する部隊の一員に選ばれる日がやって来た。
 ここに至るまで、長いようで短かった。投石を使った戦を覚え、夜戦での立ち回りを覚え。当番や日課の合間を縫うように遠征も行った。刀だった頃には日ノ本を自由に旅して回る事は出来なかったから、すごく新鮮だった。それらすべてを糧にして、松井は一つの区切りを迎えようとしている。共に出陣していた豊前も今はいない。世話役こそ続いているものの、もう一振りでも大丈夫だといつしか豊前は松井を送り出す立場になっていた。
「ついに松井もここまで来たかー。お疲れさん……っていうのはまだ早いか」
「そうだね。明日無事に戻ってきてからまた聞かせてくれ」
 このまま順調にいけば、練度(刀剣男士には決められた数値があるらしい。この数値に達するとそれ以降どれだけ体力測定をしても変わらないのだとか。鍛えても意味がないわけではないそうで、上限に達しても自己研鑽に励んでいる)も早いうちに上限に達するだろう。
 松井は上限に達したらしばらく実務に精を出す予定だ。猫の手改め管狐の手を借りて回している状態だから早く来てほしいと、事務方から熱いラブコールを受けていた。
 刀として生まれるよりもずっと前の時代の地を駆け抜け、襲い来る敵の軍勢を蹴散らして、高みに上り詰める。それが今の松井の目標だ。
「ここを難なく切り抜けられるようになる頃には松井もかんすとっちゃ。そう思うと、俺がお役御免になる日も近そうだな」
「かんすと? あぁ、上限のことか。そう、だね……
 上限まで成長した男士に世話役はいらない。豊前が松井の世話役を外れるのも当然だ。人の身の立ち居振る舞いや刀剣男士としてのあれこれを一から教えてくれた豊前。初めて誉を授けられた時は我が事のように喜んでくれた。特がついた時は、お祝いだと言って万屋街にある食事処に連れて行ってくれた。松井はそこで初めて鮮やかな赤色のスープを飲んだ。その色に反して優しい味わいで美味しくて、帰ってからすぐに作り方を調べたくらいだ。豊前もやっぱり好きだと思ったと、会心の笑みを浮かべていた。何故か三色団子の赤色の団子だけを集めた団子を貰った時もある。その時の豊前の顔は得意気だったと思う。味は何色の団子でも同じだけれど、赤い色は好きだからありがたく頂戴した。その心が嬉しかった。
 ここまで来る事ができたのも、すべては豊前のおかげだと松井は思っている。本丸で過ごした記憶、思い出。そこには存在の大小問わず豊前がいる。だから松井の口からこの言葉が出てしまうのも当然だった。
「寂しいな」
 松井の今の心境を実直に表現すればこの一言に尽きる。次に新たな刀剣男士が来たら、松井に手のかからなくなった豊前はその男士の世話役に手を挙げるのだろう。松井の世話役に名乗りを上げたのも、豊前の江の者達を束ねる〝りいだあ〟だから。君の優先事項は僕だったのにな。
「何で?」
「え?」
「何で寂しいんだ?」
 何でと聞かれても困る。松井は困惑した。答えに窮する松井を豊前は無言で見ている。松井は居たたまれなかった。豊前は僕よりもずっと人の身に慣れていて、感情の機微にも聡いだろうに、なんて難しい事を聞いてくるんだ。無理して言わなくてもいい言ってくれた事もあったのに、今は答えを聞くまで放す気が無い様子。この寂しいは君が僕の世話役を離れて他の誰かの世話役になる事が残念だなという気持ちであって、決して僕が君を――
「好きだから」
 というわけではない。
 覆水盆に返らず。二振りの間を流れる沈黙に、松井は己が口を滑らせた事に気がついた。もう取り消す事も、時を戻す事はできない。松井は腹を括った。だって彼は僕の理解者なのだから大丈夫、わかってくれる。そう信じて。
「君のこと、慕っているんだ。たぶん、顕現した時からずっと」
「そっか。あんがとな」
 御白砂に引きずり出され裁きを待つ被疑者の心境というものは、まさに今の自分が抱えているものなのだろう。松井は視線を逸らして顔を伏せ、豊前を恐れた。何を言われるのかとびくつき憂いている松井に掛けられた豊前の言葉は、松井がまったく予想していないものだった。やっぱり豊前は僕の理解者だ。わかってくれたんだ。僕の胸の内を。悲喜交々。松井は喜びでぱっと顔を上げた。豊前は何事もなく平然と、然らぬ顔を見せているだけだった。
「豊前……?」
「何て言えばいいいんだろうな。そういうの、よくわからんくって」
「そうか。わかった。今のは忘れてくれ」
 豊前にもわからない事があるんだな。それもそうか。豊前だって人の身になってから数年しか経っていないのだから。松井はあっさりと引き下がった。これは完全な失言で、事故。元から伝えるつもりはこれっぽっちも無かったのだ。でも君を好きになったという事実を消す事はしない。僕は消さないけれども、どうか君は忘れてほしい。松井は豊前にそう願った。
 君を一振りひっそりと想い続ける。それが松井の選んだ道だった。



 松井が忘れてくれと願った完全な事故。そんな出来事があっても豊前と松井の距離は変わらなかった。変わったのは松井の習慣だけだった。元から覚え書きのような日記を書いていた松井だったが、その日を境に帳面が二冊に増えた。一冊は今までと同じ備忘録としての日記、もう一冊は宛先のない文をしたためるための日記だった。それはもはや日記というよりも手紙だった。
 豊前との出来事に絡めて彼に対する感情を書き散らし、封をするための儀式。無理に抑え込む事も考えたが、いつまた溢れて口を滑らすかわからない。それなら外に出してしまった方がいい。日課の備忘録を書き終えると、松井は今夜も手紙を書いた。

 ――某月某日(くもりのち晴れ) 今日は畑当番で一緒だった。適材適所というものがあると僕も思う。君は畑の畝を作る傍ら、僕は野菜の収穫に勤しんだ。畑や大地が絡むとあいつは本当に容赦ない。特に僕達は身内だからか、手心というものを知らない。かなり無茶ぶりされていたみたいだけれども、大丈夫? 今夜はゆっくり休むといい。僕も日差しにやられたから、今日は早く休もうかな。日差しといえば、つば広帽を貸してくれてありがとう。本当に貰ってしまっても良かった? 丁度いい大きさだったからありがたく貰うよ。次の当番の時も使おうかな。君はあっても使わないからと言っていたけれど、そうだろうね。だって君の好みじゃないだろう、これ。どう見ても僕好みだもの。君は僕の好みを本当によく知っている。もしかして、誰かに聞いた? ……なんてね。文句を言いつつもきっちり働く君のことが好きだよ。畑仕事をする姿も様になっている。内番着の袖で汗を拭う姿もかっこよかったと言ったら笑われるかな。これはここだけの話にしておく。

 最後の句点を書き終えると、松井は静かに帳面を閉じた。人の子の技術にはいつも驚かされる。使ってみて実感したが、墨を乾かす手間が無いというのは素晴らしい。墨を摺って書くのも趣深いがそれはそれ、これはこれ。この帳面を埋めるのはこちらの筆記具の方が合っている。うっかり誰かに見られる前に、閉じて隠してしまいたいものだから。電子機器を使う事も考えたけれど、自分の手で記したかった。
「明日は昼が遠征か……。戻ってくると夜だ」
 明日は何を記すのだろう。時間があれば土産話を聞かせてもらってそれを書き留めたいところだが、明後日は松井が早朝から遠征に出てしまう。今度非番が被った時にでも聞かせてもらおう。松井は帳面を机上の本立てに戻した。

 ――某月某日(晴れ)遠征お疲れ様。土産もありがとう。お茶請けとしてありがたく頂戴するよ。今さらなのだけれど、遠征先の草花を持ち帰っても歴史は改変されないのだろうか。実はその花を摘み取ったという記録が残されていたり、とか。何か問題があれば通達が出ているだろうから、問題ないのだろうけど。一緒に貰った花は押し花にして、押し花になったら圧着加工の機械を借りて栞にしようと思う。この部屋に来た時から書棚に何冊か本があったけれど、まだ読み切れていないんだ。ところで、遠征はどうだった? 君はよく遠征に出るけれど、僕はまだ遠征に出たことがない。いつか僕も遠征をすることがあるのかな。その時は君も一緒だと心強い。そういえば、今日こんなことを言われた。どうやら端から見ると君は僕に対して過保護らしい。そんなことはないと思う。でも、否定できないのも事実だ。世話係だからと甘えていたのかもしれない。君に迷惑をかけるわけにはいかないから、もう少し視野を広げてみようと思う。と言っても、どうすればいいのだろうか。江の者たち以外の刀とも交流を深めてみるとか?事務方の刀とは一応交流があるけれど、それ以外はほとんどないから、まずはここから始めてみるのもいいよね。手始めに親睦会に参加してみようと思う。

 過保護だと言ってきた男士に他意はない。松井もそれは理解している。しかし、言われてみればと思ったのもまた事実だ。親しくしている男士といえば、江の仲間達、事務方の男士達、あとは旧知の刀くらいだろうか。合縁奇縁という言葉があるように、ここで交わったのも何かの縁だ。刀の時には触れ合う事ができなかった者と交流してみるのもいい。顔の広い男士から一度くらいは親睦会に来てみたらどうかと誘われていたところだ。早速明日話をしに行こう。親睦会には豊前も参加するのだろうか。それなら心強い。
 松井は帳面を脇に寄せると、支給されている電子端末を開いた。親睦会の日は午前中が内番で、翌日は非番。参加に差し支えるスケジュールではない。豊前はどうだ。松井は画面を切り替えた。支給当初は覚束ない手つきで操作していたが、今ではすっかり慣れたものだ。
……また遠征か」
 豊前の予定は遠征で、行先は奥州。丸一日かかるから親睦会に参加する事は不可能だ。少々緊張するが一振りで行く事にする。甘やかされてばかりではいけない。そろそろ自立しなければ。電子端末から声を掛けてくれた男士宛に参加の旨を記したメッセージを送ると、松井は脇に寄せた帳面を閉じて本立てに戻した。


 *** 中略 ***

 ここ数日、松井は近侍の任を務めている。好む好まないは別として、何事も経験が必要だという審神者の方針だった。これは自分に向いていないと数時間で根を上げる男士もいるが、松井に近侍の仕事は合っていた。事務仕事も書類仕事も特に苦にならない性分だし、畑仕事よりもこっちの方がずっといい。近侍を外されて畑当番を命じられては困ると、松井は審神者が交代を告げるまで何も言わずにいることにしていた。
 前日の戦績の確認、誤字脱字のチェック、加筆修正。それが終わったら方々から上がってくる書類の仕分けをし、審神者の決裁が必要なものは回す。その合間に部隊編成や出陣計画の見直しを行い、次週の内番を考える。ここで決めた大枠を基に、各番長や事務方が詳細を詰めていくのがこの本丸のやり方だった。
 実務が得意ゆえに手が早いので、今日も時間が空いてしまった。松井は暇つぶしも兼ねて刀帳を見せてもらう事にした。この帳面には本丸に所属する刀剣男士の様々な情報が記されている。古株であればあるほど情報も多く、初めて知る仲間の姿もあった。
 その中には当然自分のページもある。松井は己についてどんな事が書かれているのか、恥じらい混じりの好奇心でページを捲った。顕現の口上、これまでの研鑽内容。撮られた覚えのない写真もあった。松井の手が止まった。
(これはどういうことだ……?)
 刀帳の項目はすべて埋まっている。松井の視線は一点に注がれていた。撮られた覚えのない己の写真だ。自分で言うのもなんたが、蝶よ花よと育てられてきた。出陣の時は行く先がどんな戦場であったとしても必ずお守りを持たされたし、疲労が溜まってきたと判断されたらすぐ部隊から外された。中傷になったことも殆ど無い。
 顕現以来、所々で違和感を感じていた。もし、今自分の想像している事が真実なのだとしたら。顕現から今までの違和感を振り返ると、ジグソーパズルのピースが一つずつ嵌っていく。どうして今まで気づかなかったのだろうか。一度も疑わなかったのだろうか。全部これで説明できるじゃないか。
……馬鹿みたいだ」
 強く噛んだ唇からは血の味がした。

 ――某月某日(雨)今日、主に刀帳を見せてもらった。あの帳面はすごい。ありとあらゆる記録が載っているのだから。姿絵もたくさん載っていたよ。僕が重傷を負うとあんな感じになるんだね。重傷になったことなんて一度も無かったから初めて知ったよ。僕はこの本丸における二振り目の松井江だった。部屋の調度品が僕の好みだったことも、最初の食事の献立が後に僕の好物になるものだったことも、全て前にいた松井江がそうだった。そういうことなんだろうね。僕が赤色が好きだと自覚するより前に、君は僕が赤色が好きだと断言した。すでに松井江のことを知っていたからそう言えたんだ。書棚にあった書物は備品ではなくて松井江の持ち物だったのかな。僕の前にこの部屋を使っていたのは松井江だ。そうだろう? 誤魔化されていると感じていたことは、僕の勘違いではなかったというわけだ。さらに言えば、前にいた松井江は折れて帰らぬ刀となった。だから君は二振り目の松井江である僕が折れぬように鍛えた。周りが過保護だと思うくらいに手厚く。もしかして君と松井江は好い仲だったのかな。だったら申し訳ない。僕ら姿形は同じだけれど、中身はまったくの別物だ。君が土産だと言って渡してくれた数々の品、本当に嬉しかった。喜んで受け取ったけれども、本当は違う相手に渡したかったのかな。僕は松井江の代わりだった? 僕も松井江なのだけれど。でも君にとっては違うのだろう。好いた相手に見てもらえないというのは辛いものだね。無理して言わなくていいと言ってくれたあの時、僕の抱えているものに気づいてもらえたんだと思った。僕を理解してくれているんだなと。半分正解、半分外れだった。松井江と同じやり取りをしたから気づくことができたんだ。僕も松井江だから。豊前、僕は君のことを好いている。だから言わせてもらう。君の気が知れない。

 最後の一文はやけに荒々しい筆になった。握り締めた帳面に皺が寄る。本当に馬鹿みたいだと呟くと、松井は乾くよりも前に帳面を閉じると本立ての間に押し込んだ。

--------------------
色々あるけど、丸く収まります。A5二段組み・表紙等込み32ページの予定。


【Wavebox】https://wavebox.me/wave/dt3sbq0apzlnkkwl/
↑ Waveboxです。匿名メッセージを送ることができます。何かあればどうぞ!