kokokisu
2025-12-19 00:27:36
6987文字
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ジョシュア泳げないってよ・1


 誰かを助けるという行為に、ここまで逡巡したのは初めてだった。
 立ちすくむ彼の眼下に広がるのは黒く濁った水面。歩けばすぐに届く距離で、白く激しく水しぶきが立っている。普段は風でしか揺れない水面が、まるで牙を向いた魔物のように、湖に落ちた人間を襲っていた。
 隠れ家の周囲に広がる黒い湖で、一人の少年が溺れていた。ジョシュアは彼がなぜ溺れたのかもわからなかったほど、一瞬の出来事だった。ただ水の中に入っていったように見えた少年が、気づいたら藻掻き苦しみ始めたのだ。
 彼の異常に気づいたジョシュアはすぐにデッキから桟橋へと飛び降りながら、大きな声で助けを呼んだ。同時に彼を助ける術はないかと辺りを見回す。すぐに駆けつけられそうな場所に人の姿はなく、少年に投げられそうな縄もない。隠れ家の船渡であるオボルスも、タイミング悪く外に出払っている。他に出せそうな船もない。
 ジョシュアは青ざめた顔で、無限にも思える時間、溺れゆく少年の姿を見つめていた。少年は声も上げられないまま、何もない空を掴むように手を何度も突き出している。顔だけでも水から逃れようと首を伸ばして、水を掻いて、しかし次第に彼の顔には諦めの色が滲み始めていた。
 溺れる少年の心境が、ジョシュアには手に取るようにわかっていた。まるで巨大な質量の水に意思が芽生え、自分に殺意を抱いたかのように襲い来る感覚。溶けた金属のように重くまとわりついて、体の自由を奪われる。息をただ吸うことがひどく困難で、いつまでその権利を与えられているかも分からない。
 彼が感じている恐怖が自分の神経に直接伝わってくるかのようだった。力尽きて腕も上がらなくなった彼を、水面がその一部に取り込もうとする寸前。ジョシュアは過去の恐怖も合理的な判断も忘れて、桟橋から水の中へと飛び込んでいた。

 ジョシュアが目を覚ましてすぐに視界に飛び込んできたのは、今までに見たこともないほど怒りを滾らせた表情の彼の兄だった。彼の背後に一瞬だけタルヤの姿が見えた。よかったよかった、と零しながら隣の部屋へと向かっている。桟橋にいたはずの自分がここにいるということは、とジョシュアはすべてを理解した。
 兄が何に腹を立てているかは聞かなくてもわかる。いくらでも叱責を受ける覚悟もある。だがそれよりも、ジョシュアには気がかりなことがあった。
……あの子は?」
 自身も危なかったというのに、ジョシュアはまず少年の身を案じた。その瞬間、クライヴは緊張の糸が切れたように息を吐いた。
「ジョスランなら無事だ。足の治療を受けて、もう医務室も出ていってしまったよ」
 クライヴの眉間には皺が寄ったままだが、その表情から受ける印象よりもだいぶ柔らかな口調で答えた。
 本当は彼が目を覚ましたら、小一時間は説教をするつもりだった。危機に瀕した少年を助けたかった気持ちはわかる。だからといって泳げない彼が湖に飛び込むなど自殺行為だ。
 しかしながらジョシュアに言おうとしていた言葉は、喉を震わせる前に消えていってしまう。クライヴはジョシュアの性格を誰よりもわかっていたからだ。
 弟が、眼の前で溺れている少年を見捨てられるはずがない。例え彼が少年よりも泳ぎ方を知らず、それが命を危険に晒す行為だとわかっていたとしてもだ。
 少年の無事を聞いて、ジョシュアは頬を緩めて笑った。
「そうか、良かった……
 穏やかにそう零した彼の唇は、うっすらと青くなり震えていた。兄のクライヴしか気づかないほどの揺れだったが、彼の目には微かに恐怖の色が滲んでいる。
 どんな強敵と対峙したときでも、ジョシュアは怯む素振りを見せたことはなかった。彼は見た目の柔和さに反して、戦士のような勇敢さを持っている。彼の立場で人に弱みを見せることの意味を教えられながら育って来たのもあるだろう。その彼が、ここまでも弱々しい姿を見せている。彼にとって水とは、抗うこともできずに自分の命を奪う、魔物よりも恐ろしい存在なのかもしれない。
 クライヴはジョシュアの手を握りしめて、もう片方の手で彼の手の甲を優しく叩いた。そして彼の青い瞳をじっと見つめる。一体何を不安に思う必要があるのか、と問いかけるように。
 今の彼にはナイトが傍にいる。その意味を肌で理解したジョシュアは、ようやく恐怖から逃れられ、落ち着きを取り戻していった。
「兄さんが助けてくれたの?」
 ジョシュアに問いかけられて、クライヴは頷いた。
「それも覚えていないのか」
「水に飛び込んだ後のことは、あまり。でも、冷たい水の中から強い力で体をすくい上げられる感覚はあったよ」
 少し嬉しそうに言うジョシュアを見て、クライヴは呆れたように頭を振った。
 クライヴはちょうど外での用事を済ませ、オボルスの船で隠れ家に戻ってきているところだった。他の大人たちが気づかなかったのは不運だったが、クライヴの帰還が間に合ったのは幸いだった。二人を助け出すとき、少年はまだ意識があって水面に顔を出せていたが、ジョシュアはまるで足を捕まれ引きずり込まれているように、水中に沈んでいくところだったのだ。
 少年は元々泳げるのだが、飛び込んだ弾みに足を怪我してしまい、うまく動けなくなって足掻いていたらしかった。沈みそうになりながらも、辛うじて息継ぎをしていた。対してジョシュアは、そもそも水の中で体を動かす方法を知らない。水に浮くということもできず、息継ぎのやり方もわからず、いくら人命のためとはいえ飛び込んだのは無謀としか言いようがない。二人を桟橋に引き上げた後、少年のほうがジョシュアを心配していたほどだった。
「心配をかけてごめんなさい」
「謝らなくていい」
 褒められたことでもないが、とクライヴは眉間を揉んだ。
 彼が子供の頃に溺れた日のことを思い出した。やはり彼は、克服していなかったようだ。今まで泳ぐ練習をできるような生活ではなかっただろうし、それはこの隠れ家に来てからも同じだったはずだ。だがそもそも、ジョシュアは自分が泳ぐ必然性を感じたことなどないのではないだろうか。
 彼は非常に聡明で、理知的だ。例えばそれが絶対に必要な技術だったら、どれほど辛くても、血の滲むような努力をしてでも身につける。剣術がまさにそうだ。魔法を使えても、それだけに頼っていてはならないと彼は早いうちから気づいていた。だがそうでないことに関しては、不必要な努力をしてまで乗り越えようとはしなかった。怠惰ではなく、彼は合理的なのだ。だから彼は泳げないし、絶対に人参を食べない。
 確かに彼は召喚獣に顕現したら空を飛べるし、ナイトが傍にいたら万が一にも溺れることはない。だが、水に囲まれた隠れ家で暮らしていて、大陸を渡る移動にも船を使う生活で、泳げて困るということもないはずだ。
 ジョシュアが無事であると確かめて満足したクライヴは、依頼の続きをこなすため、腰掛けていたベッドから立ち上がった。兄の多忙を理解しているジョシュアは、彼を引き留めようとすらしなかった。ただその後姿に、気を付けて、とだけ声をかけた。クライヴも微笑みを向けるだけで、足早に医務室を去っていく。既に先の依頼者の困窮した表情に意識を戻しつつあるクライヴだったが、その胸中には一つの新たな決意が宿っていた。


 ハルポクラテスの書庫には、隠れ家に暮らす子どもたちがよく集っている。主であるハルポクラテスが彼らに文字を教えるとき以外も、児童向けの本を読み漁る子や、ただそこを遊び場に使う子もいた。子どもたちを見守るハルポクラテスの優しい眼差しは、彼を彼ら全員の祖父にも教師にも見せていた。
 書庫のために広い部屋が使われていることに、クライヴが隠れ家をどのような空間にしたいと願っているかが現れていた。彼が第一に掲げている目的はマザークリスタルの破壊であり、それは必然的に各国の武力との衝突を生むのだが、隠れ家はただの要塞ではなかった。石の剣や、武器職人、武器商人の存在は確かに隠れ家の武力を底上げしている。だが戦うための備えだけでなく、ここには文化的な暮らしを営むための設備が充実していた。浄水装置に植物の研究機関、豊富な書物のある書庫には、児童書まで用意してある。クライヴは戦いを生き抜くことだけでなく、その後の世界のことを考えていた。
 ジョシュアは眩しそうな表情で書庫にいる子どもたちを眺めた。彼らが成長して、この隠れ家を引き継いだ光景を思い浮かべる。実際に見ることは叶わないだろうが、クライヴが願った世界を彼らが健やかに享受できる日が来るのなら、尽きかけている命を全て捧げても惜しくないと思えた。
 テーブルの上にうず高く積まれた本の隙間で、一人退屈そうに顎肘をついている少年を見つけた。連れの子供たちが本に夢中になっているなか、彼は読書に興味がないのかぼんやりと虚空を眺めている。クライヴから、彼は外で遊び回る方が好きだと聞いていた。書庫で大人しくするのは、性に合わないのだろう。
「ジョスラン、足の調子はどうだい?」
「あ、ジョシュア!ジョシュアこそ大丈夫?」
 少年は心の底から心配そうにこちらを見つめ返してきた。泳げないのに湖に飛び込んで、助けるどころかそのまま沈み、とても無様な姿を晒してしまったな、とジョシュアは少し気恥ずかしくなってきた。あれでは入水と殆ど変わらない。
 頬の熱さを感じながら、ジョシュアは少年の前にかがみ込んだ、包帯を巻かれた彼の足にそっと手を伸ばす。
「まだ痛む?」
「平気だよ、これくらい」
 足を軽く持ち上げて見せて、だがすぐに痛い、と零して膝を抱えた。強がる彼だが、まだ安静にしていなくてはならないほどには傷が深いらしかった。
 ここが黒の一帯でなければ、ジョシュアはすぐに彼の怪我を治療していた。しかし、それが出来ないことを不自由だと思うべきではないのだろう。傷はいずれ治るのだから、彼に魔法は必要ないのだ。少年にも魔法はなくて当然という考えが染み付いているように見える。
 魔法を放つように広げていた手を握りしめると、ジョシュアはにこりと微笑んで彼の隣に腰掛けた。
「怪我が治るまで暇だろう。せっかくだから、本を読むかい?」
 そう言われて少年はまるで苦虫を噛み潰したような表情になった。
「本、あんまり興味ないんだ……。分からない文字が多いし」
「読めないところは教えるよ。ボール遊びもいいけど、読書も良いものだよ」
 ジョシュアが児童書に手を伸ばし、パラパラとページをめくった。空から落ちてきた星を集めて、困った人たちを助ける少年が主人公の童話らしかった。子供向けの本を読んだことは殆どないが、これならジョスランも楽しめるのではないだろうか。
 しかし、彼はまだ渋い顔をしていた。
「教えてもらっても忘れちゃうし、いい」
 拗ねたように俯いて唇を尖らせている。初めから諦めているような頑なさだ。苦手だと決めつけてしまって、試そうとすらない。ジョシュアは子供の頃から病弱だったが、本を読むことで、不自由な身体を補うように見識を広げることができた。少し文字を覚えるだけで、足では届かない世界のことすら知ることができるのだ。まだ幼い少年が自ら広い世界を狭めて閉じこもってしまうのは、少し勿体ないと感じた。
 ジョシュアは少年と視線をあわせて、勇気づけるように目を優しく細めた。
「出来ないことは悪いことじゃない。でも、文字を覚えたらこんなにたくさんの本を読めるようになるんだ。周りの皆を見てご覧、辛そう人は誰もいないだろう。本を読むというのは、楽しいことなんだよ」
 ジョスランが顔を上げて周りを見回した。本を読む子どもたちは、皆が目を輝かせて文章を追いかけていた。分からない単語はハルポクラテスに聞いているようだが、その小さな障害があっても続きを読みたい、という熱意がその表情から伝わってきた。
「この本はハルポクラテスが君たちのために用意してくれた本だよ。きっと彼も、この世界に触れてほしいと思っている。彼からの贈り物はどんな話か、知りたくはないかい?」
 俯いていたジョスランが顔を上げた。その顔にはまだ陰りがあるが。ジョシュアが促すようにそっと本を差し出す。彼はその本を手に取りながら、ちらとジョシュアへ視線を向けた。
「じゃあ、僕はこの本を頑張って読むから、ジョシュアは泳ぐ練習をして」
「え」
 思わず声が出てしまった。予想すらしていなかった返答に、ジョシュアの思考が一瞬停止する。
「僕は文字を読むのが苦手で、ジョシュアは泳ぐのが苦手でしょ。せっかく頑張るなら、ジョシュアと一緒がいい。二人で苦手なこと、出来るようになろうよ。泳ぐの、楽しいよ」
 少年の目が今までになく輝いている。それまで頑なに読書を拒んでいた少年だとは思えなかった。楽しいよ、と進めてくる彼の表情に、先程までの自分が重なった。自分は彼にこんな思いをさせていたのか、と反省する程、少年には無邪気ゆえの残酷さがあった。
 ジョシュアが強張った笑みを浮かべたまま固まっていると、少年は更に追い打ちをかけてきた。
「シドも、ジョシュアに泳げるようになってほしいって言ってたよ。ジョシュアを助けるとき、泣きそうな顔してたもん。あんなシド初めて見た」
 助けてもらったときのことは、殆ど覚えていなかった。ただ兄がそこにいるとわかって、安心してしまっていた。彼にどれほど心配をかけたか、自分はちゃんと理解していなかったようだ。

 すっかり日が沈んだ隠れ家で、ジョシュアはクライヴと並んでデッキから湖面を見つめていた。白い満月が空を照らして、いつもよりも夜が明るく感じる。蝋燭がない外で話していても、お互いの顔が見える程だった。
 今日の昼のジョスランとのやりとりを、最後の下りを省いて打ち明けた。それまで微笑ましそうに傾聴していたクライヴが、最後の約束の下りで、耐えかねたように吹き出した。
「人参を食べられるようになる、のほうが良かったかもしれないな」
 冗談なのか本気か分かりづらい返答だ。ジョシュアは軽く肩を竦めた。
「僕にとって泳ぐのは命がけだからね……
 遠い目で湖面を見つめて、ジョシュアはぽそりと呟いた。人参を食べる、のほうが確かに良かったかもしれない。噛まずに飲み込んでしまえば終わりで、それには恐怖も命の危険も伴わないのだから。
 約束を取り付けたジョスランは、もう既に本の楽しさに目覚めていた。1,2ページ読み進めた時点で、話に引き込まれてしまったようだ。さすがハルポクラテスが選んだだけあり、色々な言葉を覚えられる良質な書籍でありながら、子供が楽しめる物語だった。彼が家庭教師をしていた頃に使っていた教材なのかもしれない。結局ジョスランは日が落ちるまで本にかじりついていた。
「不平等な取引だったと言いたげだな」
 内心を見透かされたような一言に、ジョシュアも苦笑を漏らす。ジョスランが読書の楽しさに目覚めてくれたのは喜ばしいことだが、その対価はあまりにも重すぎた。
 水に入る勇気があったら、という話ですらない。ある程度の深さのある水に入った時点で、命が脅かされてしまうのだから。そんな人間がどうやって泳げるようになればいいのだろう。例えるならば、水の中で暮らす魚に、陸上で走れというようなものだ。
 困り果てた様子のジョシュアを横目に、クライヴがデッキから桟橋へと降りていった。
「お前は泳げないんじゃなくて、泳ぎ方を知らないだけだ。本の楽しさを知らなかったジョスランと同じだよ」
 彼に手招きされて、ジョシュアも続いてデッキを降りた。後数歩で湖の水面に届くというところで、クライヴが立ち止まる。
 その後に彼が取った行動に、ジョシュアは息が止まるほど驚かされた。
 剣や防具で身を固めたいつもの旅装よりも幾分か身軽な格好をしていた彼が、ブーツを脱ぎ、ジャケットを脱いだ。寝るときと同じくらいの軽装になったかと思ったら、それだけでなくシャツと革のパンツまで脱いでしまったのだ。上半身は裸で、下着一枚の姿になった彼が、月光を背負いながらジョシュアを振り向いた。
「服を来たままで泳ぐのは難しいんだ。布が水を吸って重くなるし、身体も自由に動かせなくなるからな。お前が溺れたのは、それも原因の一つだ」
 彼はジョシュアに向かって微笑みながら手を差し出した。
「さあ、泳ぐ練習をしようか」
 彼の姿とその一言に、ジョシュアは頭が眩みそうになった。こちらがどのような心境になっているかも知らず、彼は自分にも服を脱ぐよう目で促している。抗いがたい衝動を抑え込みながら、ジョシュアも彼と同じ姿になった。それを確認したクライヴは、何故か楽しそうに笑いながら先に暗い湖の中へと入ってしまった。



 心臓が痛いくらいに鳴っていた。恐怖からなのか、興奮からなのかも分からない。水に濡れた髪をかきあげたクライヴが、ジョシュアを迎えるように両手を差し出している。ジョシュアは湧き上がる感情に名前もつけられないまま、彼の胸を目指して水の中へと足を踏み入れていた。