かぽーんと落ちた風呂桶を、おっとと拾って、湯を注ぐ。うっかりうっかり、溜まるのを待つ雅楽師の、その隣では、浮世絵師が腰掛けて、頭を洗い始めたところであった。
ふたりでの出張も珍しくはなく、宿に備え付けの浴室がなく、代わりに大浴場というのもまた、よくある話であった。なんらかんらと喋りながらの入浴は、なんだかんだで癒しのひととき。そんなこんなで、ふたりで風呂に入るというのもすっかり慣れっこであった。
桶にたっぷり溜まった湯を、頭の上でひっくり返し、ザパっと被ればふうと長い一息。ぐしぐし顔を洗っては、けれども。「ここは…片方からしか出ないんじゃのう…」と小さく肩を落としては、また桶に水が溜まるのを待つ。
こと、この雅楽師。毛量が凄まじいのだ。歌舞伎やなんやに見慣れた者なら鬘と思い込んでいるそう、頭を完全に覆い尽くしてもまだ余るその髪は、実を言えば自前のものであった。しかしそれを切る気などさらさらなく、なんならもっと伸ばそうとすら考えるほど。故に、雅楽師が髪を洗うには、とかく大量の湯が必要であった。一度かぶった程度では、全く髪に染み込んでいなかったのだ。
そうこうして、3度目の湯を被った頃。自分の世話を終えた浮世絵師が、「おら、手伝うぜ」とシャワーヘッドを手に持っては、雅楽師の頭に指を突っ込んだ。指先で髪をいくらか掬い上げ、じゃばあと吹き出る湯で、ゆっくり洗う。掌の中、泡がプクリ、プクプクと、髪を包む。そうしている間に、雅楽師もまた、少し溜まった湯で前側を洗う。
ふたりがかり、髪もすっかりしんなりして、あのボリュームもピッタリと。それだけでも重労働だが、大事なのはここからだ。絵師がシャワーを止め、持参のシャンプーを濡れたタオルに垂らして、ぐしゅぐしゅ泡立てる。湯とともにこぼれる泡を髪に移してやれば、雅楽師が塗り拡げる。絵師が髪を下から持ち上げて、泡でひとまとめにしていく。はじめは形を保てないそれを何度か繰り返していれば、ようやくしっかり持ち上がり、全体に馴染んだ。そのまま、絵師が頭皮をぐしぐしと擦ってやれば、雅楽師が「あー…」と肩の力を抜いた。「お加減はどうですかい」なんて絵師が訊ねれば、「えぇ具合じゃぁ」と雅楽師が笑う。その間にも、雅楽師は自分の体を洗う。
そうして頭を洗ってしばらく。じっくりじっくり、頭皮のマッサージを堪能すれば、次にはまた協力して洗い流す。最後に髪をぎゅうっと絞って、くるくる巻き上げ、タオルで包み、縛る。やっと終わった入浴の準備。ふうと一息ついてから、立ち上がっては歩き、湯気がふわりと湧き上がる浴槽へ、足を踏み入れる。幸い、今は貸切の様な状態。誰も居ない一角を2人で陣取っては、肩まで浸かれば……。
「はー……」。
「あー……」。
今日1日の疲れが、劇場支配人の悪態が、湯に溶けていく。知らず知らずに入っていた力がすべて、抜けていく。だらしなく身を投げだして、足を思い切り伸ばして、頭を縁に乗っけて。不意に降りてきたまぶたをそのままにすれば、体中にじんわり、じんわりと、骨の髄へと染み入る。おまけにもひとつ深呼吸すれば、隣の雅楽師がクククと笑った。
「リラックスしすぎじゃあ」、「他に居ないんだし、いいだろ」、なんて淡い言い合いも、伸びのためのあげた腕が起こした小波と共に、ちゃぱんと溢れる。ぐいと伸ばして、ばちゃんと降ろして。「お前、まぁた育ってきたのう」、と絵師の大きな肩を触った。日々鍛え続けている、ごつい肩。絵師はニヤッと笑った。「良いだろ」。「あぁ」。「セアミンやスパイダーと並んで、お前の曲に合わせんだ。相応しくならないとな」。「ならわしは、お前の絵に合わせるんだ。相応しくあらないとな」。……そんなことを口にしては、不意にふたりで吹き出した。「ガラにもなく、真面目過ぎた」なんて。
「そういやぁ娑楽斎」。ふと、雅楽師が口にした。「わしの頭を洗っとる時、何を考えとるんじゃ?」、と。絵師は頭を捻った。しばらく口を尖らせて、けれど突如顔を崩して、ふにゃり笑った。「なんだろうな。微笑ましい?」。「…微笑ましい?」。「あー…んー…、うん。微笑ましい」。「…そりゃまた、どうして?」。「なんかな。犬洗ってる気分になる」。
絵師の口から突如飛び出した『犬』。雅楽師は面食らった。「わしは犬かぇ!?」。「こう…強めに頭ガシガシしても割と気持ちよさそうにしてくれてるし、あと何より毛がすごいし」。「そ、そういわれると…なんか…あれじゃのう……」。気持ち湯に沈んだ雅楽師がじっとり睨んでは、絵師はまたぷっと吹き出した。
「ドライヤーも手伝うぜ」。喉の奥から込み上げる愉快を噛み殺しながら、絵師がそう呟けば、「犬みたいにかぇ」と雅楽師が返す。グッと湧き出た愉快が堰を切って、絵師が大口開けて笑えば、雅楽師もまた、笑い声を輪唱した。
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