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きなこ湯
2025-12-18 00:05:24
7035文字
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愛とは未完
カネブラ、3rd後に記憶リセットが入るヒロインと情緒が不安定になるトキシンの話。
何もかも捏造かつ、トキシンの「感情が不安定」を大幅に強化しています。
お前が体調を崩すことは珍しいことじゃない。ただ、高熱を出して寝込むのは最近だとあまりなかった。季節柄流行りの感染症の可能性もあり、昨日ネィトに連れられて病院で検査を受けたみたいだけど、どうやらそういうわけでもないらしい。熱でぼんやりと虚ろな目をしているお前は痛々しくて、けれど今の俺にできることがあるわけでもなく、たびたび看病に顔を出す以外で彼女と触れあう機会はなくなった。
他にすることもなくリビングで本を読んでいたけれど、どうにも気持ちが落ち着かず、時計を確認して立ち上がる。休日の18時半。冬至も近く、窓の外はほとんど夜も同然の暗さだ。昼間から寝ている彼女もそろそろ起きて来る頃合い頃合いかもしれない。少し様子を見るだけだから、と彼女の部屋へ向かった。
リビングと廊下の間にある扉を開けて、あれと思う。彼女の甘い匂いが濃く漂っていた。自分の嗅覚が、この匂いは彼女が部屋の外に出ている形をしていると明確に捉える。お手洗いにでも行ったのかな、と思いつつ、なぜか根拠のない不安が胸の中に立ち昇る。
足を早めて彼女の部屋に向かう。一応ノックして、返事を待っていられず扉を開けた。
――
いない。想像通りだ。だってお前の匂いがしない。
ベッドはもぬけの殻。家具や雑貨が荒れているわけではないが、なぜか窓が開けっぱなしだった。冬の冷たい風が吹き込んで、カーテンの裾を揺らしている。漠然とした不安が、嫌な予感に切り替わる。
頭の中は酷く混乱していたが、俺の嗅覚はお前の匂いを確かに辿っていた。お前は部屋の中にはいない。けれど、窓から外に出たわけでもない。匂いの先は廊下の先、家の外へ向かっている。高熱で苦しい状態だろうに、一体なぜ?
着の身着のまま家を飛び出す。マンションの廊下から突き当りに出て、階段の方へ。高層階だから、外に出たいなら普通はエレベーターを使うはずだ。お前の考えることがわからない。けれど匂いは確かに濃くはっきりと輪郭を描いて、ますます俺を混乱させる。
そうして二、三階ほど降りた階段の踊り場で、お前を見つけた。
昼頃見たのと同じパジャマ姿だ。足元は裸足にスニーカー。相変わらず虚ろな目をしている。体温の高さと外気の寒さが嚙み合わないのか、薄い肩が震えていた。ずいぶんつらそうだ。一体何があったのだろう。
「
……
いた! ねえっ、いきなり外に出てどうしたの!」
咄嗟に声をかけると、お前は弾かれたように顔を上げた。まっすぐに俺を見上げる目に浮かぶ
――
明らかな恐怖と困惑の色に、思わずこちらが立ち竦む。見たことのある眼差しだった。俺がお前を見つけたあの1stライブの日、楽屋から逃げ出したお前の腕を掴んだ時の、あまりにも冷たい温度によく似ていた。
まさかと首を横に振る。一体どうして、今になって俺をそんな目で見るのだろう。まるで追いかけてきた俺に怯えているような表情だ。そんなはずないのに
――
少なくとも今の俺は、お前に怖がられるようなことはしないのに。
「ちょっ
……
と、待って! なんで逃げるの⁉
――
ああもう!」
急いで追いかけて腕を掴む。服の上から触れただけでわかる体温の高さに、これじゃあお前だってつらいだろうにと思いつつ、暴れる両腕を掴んで拘束した。それでも、お前はがむしゃらに抵抗する。いやだ、はなして、と絞り出した声はどこか舌足らずで上擦っていた。
「っでも、離したらお前、逃げるだろ。そんな格好で外にいたらまた体調悪化するよ。それに、今のお前を放っておくなんてできるわけないし
……
」
力の差は明白で、お前が俺に勝てるわけがない。そんなことはお前だってよく知っているはずなのに、抵抗はますます強くなるばかりだった。これ以上力を込めたら華奢な腕を折ってしまいそうでぞっとする。
せめて、お前がこんなにも取り乱した理由が知りたい。
「ねえ、本当にどうしたの? 何か怖いことでもあった?」
熱で寝込んだ時、人間は悪夢を見ることがあるらしい。俺たちキメラが人間と同じように身体を壊すことはほとんどないが、お前は違う。お前と一緒に暮らすようになって、俺たちはずいぶんそういうことに詳しくなったと思う。
相手が正気かどうか確かめたいなら、まずは目を見て脈拍を確認する。彼女にも同じようにすればいいだろう。ネィトの指示を思い出し、俯く顔を覗き込む。
あの廃墟で、唯一、俺たちの音楽を聴いてくれた人。ステージの上からは暗い客席の中から、俺が見つけた人。まっすぐに俺を見てくれるところが好きだと思う。だからこそ、お前の両目に明確な恐怖と警戒の色が浮かんでいるとわかった瞬間、思わず怯んでしまった。
どうして、そんな目で俺を見るんだ?
足元がぐらりと傾くような、猛烈な不安に襲われる。
お前は怯えに顔を引き攣らせながら
――
俺を見上げた瞳に、一瞬、ぎらりと強い光が灯った。
「
――
い゛ッ⁉ ぐぅっ
……
!」
ゴンッ、と鈍い音が頭に響く。物理的に脳が響くような衝撃に、思わず右手を離して鼻根を押さえた。ぶつかった場所がじくじくと痛む。指先がぬるりと滑った。
――
途端、脳を貫くような甘い匂いが嗅覚を支配する。お前の血の匂いだ。
ハッとして正面を見ると、お前の額には薄らと血が滲んでいた。遠慮なく俺に頭突きしたせいだろう、反動で若干フラフラしている。それでも首を振って俺を見返す据わった目には敵意があった。
どうあれ、人間のお前が俺に敵うわけがない。それでもお前は手段を選ばずに抵抗してみせた。これ以上暴れられたらお前がもっと傷付くかもしれない。そう思い至り、身体の内側で停滞した息を吐く。
「
……
怖がらせてごめん。でも、お前が悪いんだからね」
右手の拳を握って、お腹に一発。うっ、とお前は息を詰まらせて、そのままぐったりと倒れこんできた。発熱の収まらない身体をそのまま抱き上げ、俺だってこんなことしたくないけどと内心呟く。
額の傷は少し血が滲む程度で、出血はそこまで酷くなかった。相変わらず漂う甘い匂いに耐えられず、顔だからと牙は当てないように舌先だけで舐める。
……
お前の血の味は、前よりもずっと美味しく感じる。ヴァンパイア相手にだって思ったことのない気持ちだ。喉が渇いて血が欲しくなる衝動と、お前の血を飲みたいと思う心は、似ているようで少し違う。その理由はまだわからない。こんなにもお前のことが大好きなのに、何もかもわからないことばかりだ。
「熱せん妄かもしれない」
——
俺の説明を聞いたネィトはそう言い、彼女が起きるまでは交代で様子を見よう、ということになった。見張りなんてお前が知ったら嫌がるだろうという気はしたが、あの状態で目を離す方がまずいことになりかねない。しかし、俺が彼女をどうやって眠らせたのかを話したら、ヨルに「アンタはしばらく頭を冷やせ」と交代の順番を最後にされてしまった。
彼女がもう一度目を覚ましたのは、クレハがそばにいたタイミングだった。リビングに戻ってきたクレハは「あの子、もう逃げないって言ってたよ」と言い、それきり足元をじっと見つめる。
「そうなんだ。なら、ひと安心かな
……
ねえクレハ、どうして彼女があんなに取り乱していたのか、わかった?」
「
……
それは
……
うん、たぶん」
浅く頷くも、それ以上の言葉は続かない。落ち着かない様子で服の袖を握るクレハの妙な態度に、不安の色が濃くなる。
「あいつと話したんだろ。何て言ってたんだ?」
じれったくなってヨルが続きを促すと、クレハはようやく顔を上げた。色素の薄い目が揺れている。昔はよく見たことのある、迷子になって途方に暮れるような、俺たちが守るべき末弟の目だと思った。
「
……
わかんない、って。俺たちのこと」
「どういうことだ?」
「だから
……
覚えてないんだって。俺たちと一緒に過ごしたこととか、自分が何者かとか。目が覚めたら突然知らない部屋にいて、怖くなったって
……
だから逃げたって、そう言ってた」
「えっ、それって
……
、せんせが記憶喪失になっちゃった
……
って、こと?」
「ハア⁉ ンなことあるかよ、ただの風邪なんだろ?」
「いや
……
トキシンの話を聞いた時は、まさかとは思っていたが、やはりそうか。原因はこれから探ってみるしかないが
――
まあ、事情が事情だからな」
ネィトが深くため息を吐く。彼女の事情
――
ファーターによって作り出されたホムンクルスであるという問題は、あの島から無事に帰ってきた後も、依然として解決しないものだった。
昔、ファーターが作っている器の存在について聞いたことがある。これまで記憶を引き継いで作られてきたホムンクルスは、脆弱で不安定だったらしい。つまりお前がここまで生きていられたことが例外で、ファーター亡き今、お前の身体に何かあった時に対処できる存在はどこにもいない。
それでもこれまでは特に問題が起きなかったから、全員が先延ばしにしていた。お前はこれからもずっと俺たちのそばで、ようやく勝ち取った自由と一緒に生きていくのだと、そう根拠もなく信じていた。たぶん
――
全員が浮かれていたのだと思う。もうファーターの命令に従う必要はなく、俺たちははじめて手にした自由な日々を生きてゆくことで精一杯だったから。自分たちで掴んだ未来を、お前という希望を、どう音楽にしていくか
――
そんなことばかりに夢中で、新鮮に眩しい日常の影に何があるか、今はまだ正面から向き合う気持ちになれなかった。
「
……
」
追いかけてきた俺を振り向いた、お前の顔を思い出す。明確な敵意を宿すお前の眼差しがまぶたの裏に焼き付いていた。口の中に苦いものが広がる。お前に怖がられることがこんなにも悲しく、こんなにも鮮烈に痛むだなんて知らなかった。
前にも、お前に嫌われていると知って悲しくなったことはある。けれど、あの時はその痛みをどう噛み砕いたのか、うまく思い出せない。あの時よりも、俺がお前に向けるこの心は大きくなっている。お前のことを大事にしたいし、お前も俺の隣で笑っていてほしい。あんなに冷たい目じゃなくて、俺の歌を楽しそうに聴いてくれるお前でいてほしい。
どうすればあの温かさを取り戻せるだろう
――
そう考えながら記憶を遡り、ふと気が付いた。お前が俺を忘れてしまうのは、はじめてのことではない。あの時、俺はどうやってお前に俺の存在を思い出させたのか。
あの時と同じことをすれば、きっとお前は俺のことを思い出してくれるはずだ。
・
クレハの言う通り、お前は逃げ出すことなく自分の部屋にいた。部屋の中は暗い。どうやら眠っているようだ。
眠るお前の顔を覗き込む。まだ熱があるのか、頬は普段より血色が良いように見えた。カーテンの隙間から月明かりが差し込んで、お前の顔に薄らと白い線を落としている。
これから何をするかは決めている。けれどなんとなく俺はその場に座り、お前の寝顔をしばらく眺めた。前にもこんなことがあった。クリムゾンガードからお前を庇って帰り、どうにか足の怪我を手当てした後のことだ。あの時のお前は、俺を受け入れてくれたけど
――
今はどうだろう。一瞬、背筋がぞくりと冷える。お前に拒絶された時のことを想像すると、自分がどうなるのかわからなかった。ただ、嫌な予感ばかりが胸の内側に貼り付いている。
そんなことをぼんやり考えていると、目の前にある気配が身動ぎした。
思わず息を呑んでお前の顔を見つめる。まぶたの薄い皮膚が震え、やがてゆっくりと目を開けた。暗闇を探るように黒目が左右し、それからこちらを向く。
その瞬間、空気がピンと張り詰める。
お前は飛び起きてベッドの端へ逃げようとした。その腕を掴み、片手で口を覆って塞ぐ。お前に悲鳴を上げられたら、すぐに他の兄弟に気付かれるだろう。それだけは避けたかった。これ以上、俺の知らないお前に行かせたりしない。誰にも俺の行いを止めさせるわけにはいかない。
「怖い思いをさせて、ごめん。俺だってあんなこともうしたくなかったんだけど、お前が逃げるから」
お腹のあたりをそっと撫でると、手のひらの下でお前の口元が強張る気配がした。俺を見上げる瞳孔が揺れている。クレハは彼女に事情を説明したと言うが、その時はどうだったのだろう。思い返せば、なぜか俺はずっと怯えられているような気がした。
一体どうして? お前の目に、俺はどう映っている?
底の見えない不安は時間が経つごとに膨らみ、下り坂を転がり落ちるように加速する。俺の手を離れ、取り返しのつかない重力を引き連れてゆく。
「ねえ。俺のこと、本当にわからない?」
お前は俺の顔を見返したまま
——
その雄弁な眼差しで語った。警戒、恐怖、それから嫌悪を。その現実が、俺の背中を押した。
「
……
そっか。そうなんだ」お前の肩を掴む手に、どうしても力が入る。お前の首筋をなぞる指先が、微かに震える。「
——
忘れちゃったなら、何度でも思い出させてあげる。お前の身体が、俺のことを覚えてるはずだよ」
あの時と同じことをすれば、きっとお前は俺のことを思い出してくれるはずだ。お前を連れ込んだ旧校舎で、俺はお前の血を飲んだ。そうして、お前は俺を思い出してくれた。だから同じことをすればいい。簡単なことだ。そうわかっているのに
——
指先が、少し躊躇う。前なら、こんなに迷うことはなかった。
お前と笑い合える日々を知ってしまったせいで、お前の瞳に映る俺が“怪物”であることに、耐えがたいほどの恐怖を感じる。怖がらせたくない。怒らせたくない。俺の隣で笑っていてほしい。だから、お前の嫌がることはしたくない。お前の冷たい眼差しが俺を刺し貫くたび、今すぐお前を抱き締めてあげたくなる。無理やりその首筋に噛みつけば、お前は俺を拒絶して抵抗するだろう。その事実に胸が痛くなる。
それでも。俺を見ないお前のままでいられるよりは、ずっといい。
お前の身体をベッドに押し込み、その上に覆いかぶさる。逃げ場を塞ぐ俺の腕の中で、お前は酷く震えていた。見覚えのある震えだ。あの島で、城に乗り込む直前の光景が脳裏に蘇る。それでももう、止まれない。胸の奥が焼けるように熱い。お前に怖がられることが、俺をこんなにも狂わせる。
「ねえ、俺を見て。俺から逃げないで。
……
お前の中にいる“俺”を、今から呼び戻してあげるから」
島から帰ってきてからの日々で、俺はお前に愛される男でいようと決めたつもりだった。けれど今、その同じ手でお前を組み伏せ、自由を奪っている。その矛盾が胸を掻き毟るけれど、他人を見るようなお前の瞳に耐えることの方が、俺には何倍も不可能だった。
首筋に顔を埋める。高熱に浮かされた肌から、暴力的なまでに甘い匂いが立ち昇る。
「ほら、力を抜いて。
……
俺に全部預ければ怖くないよ。痛いのは最初だけだ。お前は、俺にこうされるの、すごく気持ちよさそうにしてたんだから。だから、きっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、その首筋に噛みついた。
喉を通る熱い液体は、最初の頃よりもずっと、脳が痺れるほどに甘い。もしお前を愛していると自覚するたびに、血の味が美味しくなるのだとしたら
――
俺が感じているこの味は、そのまま俺の罪の重さだ。
俺の服を掴んでいたお前の指先からフッと力が抜ける。強張っていた身体が次第に弛緩し、俺を拒絶していた熱が、少しずつ甘やかな受容へ変質していくのがわかった。俺を受け入れ、俺の嚥下に合わせて震えている。
「
……
っふ、あ
……
。
……
はは、すごいな。お前の血、こんなに美味しい。俺を忘れてても、身体はこんなに俺を求めてるんだね。
……
ねえ、聞こえる? 俺の声、思い出してきただろ?」
首元から顔を上げ、唇を拭ってからお前の顔を覗き込む。
お前の瞳は虚空を泳いでいた。やがて、焦点の合わない視線がゆっくりと俺を捉える。
それから
——
お前の指先が、迷うように俺の頬を撫でた。
「
……
はは、やっと俺を見た。
……
そうだよ。ねえ、俺の名前を呼んで。まだ呼べなくても、俺のことだけ考えて」
お前を抱き締めると、その細い肩はまだ小刻みに震えていた。しばらくして、掠れた声で「トキシン」と呟く。ただそれだけで、冷たく凍えていた心が溶けてゆくような気がした。
抱き締めたまま動かない俺を慰めるように、ぎこちない手付きが背中を撫でる。それから、お前はぽつぽつとこれまで記憶が混濁していたことを話してくれた。とても怖い夢をみていたと言って、お前はそれきり口を閉ざす。
「そっ
……
か。そうなんだ。でも、お前が俺のこと思い出してくれて
……
よかった。本当に」
そうでなければ、きっと俺は
——
一体、どうしただろう?
頭の片隅で、まだ冷たい予感が俺をじっと見下ろしているような気がした。
何度お前が俺を忘れても、俺はきっとまた同じことをする。たとえお前を壊してでも、俺の隣に繋ぎ止めておこうとする。けれどお前のいない世界で生きていくなんて、絶対に無理だ。
お前の首筋に残った血の跡を指先で優しくなぞる。俺がお前を愛していること。今はまだ、それだけが唯一の真実だった。
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