2025-12-17 23:27:30
5617文字
Public
 

👔

ばんりさんゆめ/大神既婚者不倫ネタ/夢主名前有り/R15くらい

 結婚してからの日々は落ち着いたものだった。
 元より半分同棲に近い状態だった生活は想像よりも変わらなかった。カレンダー通りの休みを取れないことは理解してくれていたし、社長が早めの退社や有給消化を促してくれるおかげでゆっくりと出掛けられる日も多い。相手も変わらず仕事を続けていたが、それでも俺が帰る頃には食事の支度をしてくれていることが大半だった。ドアを開けたときに当たり前に聞こえてくる「おかえり」という言葉や明るく照らされた部屋の温度に、言いようのない充足感を覚えていたことは確かだ。
 穏やかな日常。安定した幸福。かつて夢見たものとは違う、けれどやりがいのある仕事。
 地に足のついた生活は身体によく馴染んだし、家庭を持つことは父や義母を安心させた。今はトップアイドルとして活躍している元相方にだけは皮肉めいた言葉を吐かれたが、それ以外の知人や事務所の皆には盛大に祝福してもらえたことも純粋に嬉しかった。
 なんとなく出来上がっていた関係に名前をつけて、そろそろだろうというところで入籍した。ありふれた普遍的な選択だ。年齢を考えても間違いなく堅実で最良なもののはずだった。
 しかし、こんなものなのかという呆気なさを感じることがあるのは何故だろう。そしてそのたびに、まるでそれを先んじて知っていたかのように吐かれた言葉が脳裏を過ぎるのだから迷惑もいいところだった。
 ――結婚? どんな女? どうせまた適当に別れるんだと思ってたけど……ふうん、そう。言わなくてもわかるよ、可愛くていい子だって言うんでしょう。それで、結婚するって? お前らしいね。しないよ、別に。反対したらもっと意地になるじゃない。決めたなら、ちゃんとすればって言いたいだけだよ。ねえ、万。それで満足できるといいね。
 なんだよそれ、と言い返した記憶は薄れるどころか日に日に鮮明になっていく。
 俺はお前よりよっぽどちゃんとしてるよ。そのちゃんとという言葉の空虚さに気付いていたのは悔しいことに千だけだったのだろうと、結婚してから一年も経たずに他の女の子と繰り返し会って身体を重ねている今の状況を省みて思う。

 汗だけではない、互いの体液でべたついた身体をシャワーのお湯で丁寧に洗い流す。湯気で曇った視界のなかで、彼女の顔が溶けるように柔らかく崩れた。
「熱くない?」
「大丈夫です。きもちいい」
 泡を立てて肌に手を滑らせる。くすぐったさと気持ちよさの混じった顔で身をよじらせる姿が可愛くて、胸や背中をいたずらに触った。そうしているうちにやり返すみたいにこちらの脇腹や足の付け根をさすられて、自然と硬度が増していく。チェックアウトまでまだ十分な余裕があることを脳内で確認してしまえば、繰り返される快楽に身を投じるのは簡単だった。
 結局もう一度汚れた身体を今度こそきちんと洗って、ややぬるくなったお湯に二人で浸かった。入浴剤を入れてジャグジーをつけるとあっという間に白い泡で溢れ返り、チープな光景に従って彼女を後ろから抱きすくめる。そうして大人しく胸に預けられた体重に、何故か俺のほうが安心していた。
 いつも、なんとなくこの瞬間が好きだった。顔は見えないのにどんな表情を浮かべているのかわかったし、少し冷めたお湯は火照った身体で二人くっついているにはちょうどいい。
 白い泡で覆われた浴槽のなか、彼女のお腹の上辺りで手が重なる。左手の薬指の根本を、そこにある金属ごと撫でられる感覚がして現実に引き戻される。
 考えてみると、妻とはあまり一緒に入浴する機会はなかった気がする。無防備な姿を見せるのが恥ずかしいのか、一人の時間が欲しいのか、付き合ってから結婚するまで数えるほどしかない。
 自分も疲れた身体では一人でシャワーを済ませてしまうほうが楽だと思っていたが、この子とは毎回のように一緒に入浴しているのが不思議だった。俺に対してどこか顔色を窺うような様子はこれまでできた彼女たちと変わらなかったが、入浴も含めて何をするにもくっついて離れようとしない。やんわりと手を離す言動をとってもそれに気付いているのかいないのか、頑固にも思える仕草で「ばんりさんも一緒がいい」と言われてしまえばこちらが折れるしかなかった。
 面倒だと思ったことがないわけではない。それでも受け入れるばかりか、俺もまたこの関係を断ち切るつもりがないまま続けているのは、そうしてなりふり構わず求められることがなんとなく新鮮だからだ。そしてその感覚が嬉しいという感情であるということを、自覚する程度の時間は経っている。
「結婚指輪って、お風呂に浸けてても平気なんですよね」
「ああ……うん。入浴剤とかで汚れたりはするみたいだから、外したほうがいいみたいなんだけどね。そのままなくしちゃうのも怖くて」 
 本心だったが、半分は言い訳だった。紛失のリスクは持ち歩き用のジュエリーケースなどに保管しておけば防げたし、そういった細々とした管理は不得意ではない。
 ただ、そのままつけ忘れてしまうことを、俺は危惧していたのだ。指輪なんてこれまでも存在しなかったかのように、まるでそれが当たり前である顔で家に帰ってしまうことを。
「取れて、流れちゃったりしないんですか?」
「結構平気だよ。指って付け根より関節のほうが太いからね、そこで引っかかるようにできてるんだ。ほら」
 見せてやると、ほんとうだ、と泡のついた指に彼女の指が這った。自分だけが場違いな指輪をつけたままでいることに若干の後ろめたさが湧き上がるのを感じて、彼女の指をもう一度握る。
 覚えた罪悪感がこの場にいることではなかった事実から、目を逸らす。蓋をするみたいに彼女の手のひらを丸ごと包んで、再度後ろから抱きしめる。
「万理さん、手大きいですよねー。わたしも結構大きいのに」
「そうかな、そうかも。楽器弾くには良かったなぁ、ギターの上達も多分早かったし。手が大きいとそれだけでアドバンテージあるんだよ」
「あ、わたしもピアノ習ってる子とかに羨ましがられたりしました。確かに、単純に指が届く場所が広くなりますもんね」
「そうそう。今からでも何か楽器やってみたらいいんじゃない? 上達するのも早いと思うよ」
「えぇ……どうかなぁ。小さい頃ちょっとやってましたけど、あんまりうまくなかった記憶あります」
 言われてみれば、この子は器用そうに見えてかなりの不器用なのだった。髪を巻くのも纏めるのも、最近ではすっかり俺がやってあげている。そして俺はその時間が嫌いではないのだ。
 俺が手にしたのは求めていたものの一端か、はたまた全くの別物でしかなかったのだと、この子といると残酷なまでに浮き彫りになる。会わない間はそのことが苦しくなるのに、こうして過ごしていると柔くほぐれて消えていってしまう。
 もし何か始めるなら俺が教えてあげるよと言いながら、今から湯気で湿ったその髪をドライヤーで乾かしてやることを考えていた。



 これはカフェや居酒屋ではなく、ホテルで会うようになってすぐの頃のことだ。
「ごめん、指輪外したほうがいいよね」
 シャツを脱いだ万理さんに言われて、「あ、そのままでも、わたしは」とストップをかけるような言葉が反射的に口から出ていた。外してほしくない、わけではなかった。けれどそれを強制するような、わたしの存在が万理さんに負荷をかけるような可能性が僅かでもあることが嫌だったのだ。
「いや……、でも、流石に。嫌じゃない?」
 万理さんの困惑と気遣いの滲んだ視線が向けられる。本心を探られていることがわかったが、だからこそ、あ、えっと、と一緒になって自分の心を探る。
 だって本当に、指輪をしていること自体が嫌なわけではなかった。確かにその指を飾る銀色の輪を見る度にああこの人は結婚というものをしているんだなあ、とは思ったけれど、そこに乗る重みはわたしにはわからないのだ。
 まだしたことのないことは、わたしにはわからない。ただ二十四時間同じものを身につけているのはいいなあ、という子供のような羨ましさはあったけれど、この間デートをしたときにお揃いで買ったキーホルダーが鞄の裏側につけられているのを見つけてその嫉妬心も霧散していた。
「どうでもいいです。どうでもいいんです、本当に」
 強いて挙げるのならば万理さんが帰ってくることを家で待てる特権は憧れた。それはわたしにはないものだ。でもその代わりに、もうちょっとだけ一緒にいたい、と自分勝手に引き留めたときに、いいよと許して抱き締めてくれる喜びを教えてくれた。
「だって、今だけかもしれないけど……わかんないけど、少なくとも今は、万理さんはわたしを選んでくれてるんですよね」
 指を絡めて手を握る。その間に、まるでわたしの存在を拒絶するような硬く冷たい感触がある。
 しかしその輪郭は、鎖骨辺りに唇を寄せ、痕が残らないようにその肌を甘く噛んでいるうちに、互いの熱で滲んで溶けていく。それをはっきりと感じ取ってしまうと笑いが溢れるのを止められなかった。
 お守りを買うのと何が違うんだろう、と思う。むしろ形のない神頼みより、余程効果のない玩具みたいな虫除けだとすら。
 万理さんから提案された通り外そうと思えば簡単に外してしまえるものでしかなく、この場においてあってもなくても変わらない。ならば、わざわざ外してもらう必要性すらないと思うわたしはおかしいのだろうか?
 そんなものに誓うことでしか証明できないものに価値などない。約束や決意はむしろもっと形がない。見えない何かを、それでもあると疑わずに注ぐ。愛とはそういうものだろう。
「あ、でも、汚しちゃうかもしれないですよね。すみません、万理さんが気にするなら取ってください」
 はっとして慌てて言うと、万理さんからも強く手を握られた。「……ううん、大丈夫だよ」と、そのまま顔が近付いて唇が重なる。何度か触れ合うだけのキスが繰り返されてから、舌が絡んだ。快楽を直接口から飲み込まされているような、あまりの甘さと気持ちよさにぼうっとしているうちに、胸元も吸われて赤黒く痕が残った。
 万理さんがわたしのものなんじゃなくて、わたしが万理さんのものなんだ。
 それを万理さんもわかってくれていることが嬉しくて、膨れ上がった歓喜からお腹の奥から胸までが詰まるみたいな圧迫感に苛まれた。身体ごと押し潰されそうな感覚に陥って息がしにくい。
「ば、んり、さん」
 絡ませあったままの指が互いの熱で汗ばみ湿っていた。そこに嵌められた無機物も丸ごとに、なんの関係もなく。
 わたしが汚して上書きしている、と思った。そのことを、万理さんは許してくれている。わたしを受け入れてくれている。わたしが求めたとか、わたしが引き留めたとか、そういう何かがあったにしてもだ。わたしとの時間を、わたしとの関係を、万理さん自身が選んでいることに違いはなかった。
 ――わたしを見てくれている!
 何か言おうとしていた万理さんの口を今度はわたしから塞ぐ。ありがとう? 優しいね? いい子だね? それともごめんねだったのかもしれない。嬉しい、だったらわたしも嬉しいなとは少しだけ思った。わからないけどなんでもよかった。それだってどうでもよかった。
 わたしは万理さんから貰えるものならなんであろうと嬉しいって答えしかなくて、どんな言葉が降ってきたとしても同じようにキスしただろう。
「万理さん、好きです、大好き」
「うん……俺も好きだよ。って言っても、ごめん、説得力ないかもしれないけど」
「ふふ、そんなことないですよ」
 そうかな、と万理さん自身が万理さんを疑うような言葉を漏らすのがおかしかった。だからわたしはこの人の全部を肯定できるように言葉を尽くし、それだけでも足りない部分は全身を余すことなく使って気持ちを伝える。
「だって、こうしてられるのに。それってすごい、すごいです。あは、うれしい、万理さん好き。最高です、こんなことってない……ねえ、本当に帰らなくていいんですか? 本当に、いいの?」
「君は俺に帰ってほしいの?」
「帰ってほしくないです」
 即答する。試すように返された質問が愛しかった。少しだけ恥ずかしくなったけど、万理さんが笑ってくれたので相殺されたどころかプラスに変わる。
「うん。だからそれを叶えてあげたいし、俺も一緒にいたい」
 非常識的な優しさに、出会ってからこれまでの記憶が走馬灯のように巡る。
 既婚者であることは最初から気付いていた。万理さんもまたそれを隠そうとはしなかった。それでも話すようになったのは、連絡するようになったのは、繰り返し会うようになったのは、決して一方的なものではなかった。
 万理さんから結婚相手へ向ける感情がないとは思わなかったけれど、特別な恋慕や愛情があるとはどうしても思えなかった。それとも家族になるとはそういうものなのだろうか? それは、わたしにはまだ想像することもできない。ただ間違いないのは、わたしが万理さんを強く求めて欲しがったとき、この人は少しだけ嬉しそうな顔をしてくれるということだ。
「あはっ……。万理さんのこと、わたしが一番好きです」
 パズルのピースが嵌まるみたいに、わたしたちの視界がぶつかる瞬間が存在する。ふいに訪れる、一秒にも満たない刹那の時間だ。
 幻のような光彩に目を細める。万理さんがわたしを見ている。
 この鮮烈なまでの一瞬が、あなただけだと確信させる。
「これから一生、絶対、万理さんが誰といてもわたしとどうなっても、万理さんのことを一番好きなのはわたしです。だから万理さんは、俺のこと一番好きだったのってあの子だったなあって、わかっててくださいね」