タロ文庫の作品置き場
2025-12-17 14:01:52
28054文字
Public 作品
 

アンチヒーロー

2023-06-09
WinTeamWeek2023 Day6(2023/5/6)『SuperHero AU』
ヒーローオタクなティームの Boy Meets Hero
それに巻き込まれるウィン

 彼は太陽から降り注ぐようにやってきた。
 
 今から五年前。
 東北地方のとある村に突如、闇色のモンスターが現れた。空間に出来た歪みから現れたそれはすぐさま破壊行動を始めた。他国の軍事兵器なのか自然界の生命体なのかまたは地球外生命体なのか、わからないままにこの国は抵抗を試みるものの全て何も効かなかった。
 スピードは遅いものの圧倒的な攻撃力で村を破壊し続けるその巨大な闇を絶望と共に見上げていれば、そこに居た者達は眩しい太陽の中に黒点が見えたと言う。それは猛スピードで大きくなり黒点と同じ色の翼を持った『何か』だと認識出来た。認識すると同時に『何か』は闇を引き裂き、それまで全ての攻撃が無効だった闇は大きな水蒸気爆発の音を立てて跡形もなく蒸発していった。
 後には背中に翼が生えた人型にも見える『何か』が浮遊しており、黒色の翼を一度ぶわりと羽ばたかせ、熱風を巻き上げながらまた太陽へと戻っていった。
 破壊する闇と、闇を消し去る『何か』。
 どちらも出現し始めて五年経った今でも解明が進んでいない。何もかも効かないモンスターに対して唯一対抗出来るのがその『何か』だったが、姿を捉えた映像はほぼ無く、生存者の目撃証言により人の形をしていたとのことで便宜上『彼』と称するようになった。
 闇を消すためだけに現れる彼。
 太陽から降り注いでくる彼。
 いつしか彼はこの国のヒーローとなっていた。
 
 
 
「お前、またそんなもん見てんのか」
 セルフォンの画面を食い入るように見ていると、つむじに呆れた声が当たり、同時にぎゅむっと指で強く押された。集中力を断ち切られたティームがムッとした表情を露わにして顔を上げた。
「痛いな、先輩! 今いいとこだったのに邪魔すんな」
「何がいいとこだ。飯食いながら同じ動画何十回も見やがって、行儀悪いぞ」
 声と同じ顔をしたウィンがランチプレートと人差し指だけを立てた器用な持ち方でプラカップを持って立っている。長い脚でベンチを跨ぎ、隣のスペースに収まるのを見ながら、ティームはいぃーっと白い歯を剥いて憎まれ顔をした。
「ウィン先輩、もっと言ってやってください。食べ終わってから見ればいいのに、そんな姿勢で食べてるからさっきからこぼしまくってるんですよ」
「うるさいな」
 ティームの正面に座るマナウがこれ幸いにウィンに告げ口するのでそちらにもキッと鋭い視線を投げた。ティームにとって食事は日常の幸福の表れで、それを後回しにすることなど出来ない。しかし今朝アップされたニュース映像も見ていたい。優先順位が同列なら同時にこなさないといけないじゃないか。
 ただ朝食時も同じことをして、同じようにウィンに怒られているのが若干気まずい。
 隣の男がストローから水を吸い上げながら物言いたげな目線を向けてふよりと眉を動かすから、ティームはやっとセルフォンをテーブルに置いてスプーンで大きく米を掻き込んだ。
 だって、何十回も見るに決まってるだろ。
 ティームが見ていたのは、政府と軍の許可がおりて報道に流された映像だった。古い監視カメラの荒い画質の中、何もない風景の中から這い出てきて画面を覆いつくそうとしていた闇が一瞬で蒸発した。後には何もない風景だけが映るはずの画面にはこの国のヒーローが映っていたのだ。真っ黒な身体は四肢のラインがはっきりと分かる。画面いっぱいに黒い翼が広がって、軽やかに羽ばたき、左斜め上へと消えていった。スーパースローを施して何とか目視出来るようになったたった二秒ほどの映像だったが、今日のトップニュースとして独走している。そしてティームはその再生回数に貢献しまくっていた。
「今までほどんど写真や映像に映らなかったんだ。それが二秒も映ってるんだよ。二秒! それも動いてるの。二年三か月ぶりの新規映像だよ」
「細かい……
「ティームは本当に彼が好きなんだね」
 思い出しているうちにテンションが上がってしまい、気づいたら興奮が口から出ていた。この言葉も朝一の講義が始まる前から何度も聞いているであろうに肩を竦めるオーバーリアクションなマナウの横でパームは変わらず朗らかにティームに笑いかけてくれる。
 ティームは目を輝かせ、パームが見やすいようにセルフォンを彼の眼前に突き出した。ニュース映像を画面録画して目一杯拡大したぼんやりした黒いものが映っている画面を見せながら、喉奥からくぅうと唸り声をあげる。
「好きだよ! 大好き!! 全長約二メートル、羽を広げると四メートル! 身体つきは成人男性とほぼ同じだが人間の筋肉構造では考えられない動きを空中でやってのける。滑空スピードは有翼動物の比では無く、世界一早い戦闘機ミグ二十五のマッハ三をも優に超えている。闇を消す時に繰り出される熱エネルギーは太陽の黒点と同じと推定されており、あれ以上の時間放たれると地上のものはすべて同じように蒸発して無くなってしまうとも言われている。それを知っているかのように最小源の力と時間で闇を倒して颯爽とまた太陽へ帰って行く。何を考え、何を理由に現れるのか、正体不明なミステリアス生命体。いや、生命体かも分からない、太陽からの恵み。めちゃくちゃかっこいいよな! おれのヒーロー!」
「あ、あぁ……うん。そうだね」
 この国で彼を嫌う人間はいない。が、その中でもティームは熱心なヒーローオタクだった。難しい論文の理解が及ぶ部分を自分の中の知識として構築して、普段はむにゃむにゃと喋るティームがパキッと快活に言い放つ。一点集中なエネルギーにパームは圧倒されてハハハハと湿度の低い笑い声をあげた。どさくさに紛れてティームのセルフォンを指先で押し返す。それから「大好き……」とティームの発言を小さく反芻しながら茶色い丸い黒目をさりげなくティームから自分の正面へと流すと、何かを確認するようにパチパチと瞬いた。
 何をしているんだろうと小首を傾げれば右耳には盛大なため息と呆れた掠れ声が入ってきた。
「どんだけミーハーなんだよ、落ち着け。米粒がマナウの顔にまで飛んでるだろうが」
「お、おれはミーハーじゃない!」
「はーん。一年スキップしてバンコクの大学に来た目的は水泳だけじゃないって、言ってたのは誰だったっけ?」
「う……
「お前がSNSでファンアートをいくつもブックマークしてるのも知ってるからな」
「わーわーわー!!」
 さくさくと揚げ鶏を切り分けて、ジャスミンライスと共に大きな口に運ぶウィンの言葉に悲鳴をあげた。
 闇の出現率が一番高い都市がバンコクだった。闇が出ればおのずと彼も現れる。水泳で代表入りを目指しているティームはもともと水泳部が強豪なことで有名な今の大学へ進学するつもりだったが、奨学生の権利を取得し入学を一年早めたのだ。映像などの媒体には残らない彼でも目撃証言はある。SNSで語られる彼は真偽不明だがヒーローに相応しいものばかりで、あわよくばの気持ちがティームの中にないわけがなかった。それを入部してすぐの新入生強化合宿でうっかりぽろりとウィンに漏らしてしまった。それ以来、ティームが彼のことでヒートアップしそうになるとこうして少し揶揄って水を差してくる。
 ただウィンも他のメンバーも、ティームの彼を好きな気持ちを蔑んでいないことは重々承知しているので、拗ねるポーズをしていた。
 このメンバーのこういうところが、とても居心地がいい。
 プラカップの底の水をずぞぞぞと音を立てて吸い、自分を生暖かい目で見てくる友人たちを今日も変わらずジト目で見返すと、頬杖をついたマナウが目と同じ温度で問いかけてきた。
「じゃあ、ティームはもし彼と会えたら、どうしたいの?」
「え」
 いつもなら違う話題に移るタイミングに思わず細めていた目を子供のように丸く開いて正面の親友をじっと見つめ返す。表情筋の柔らかい彼女は眉と瞼をクイクイと動かして促してくる。
 考えていないわけではない。そんなこと、五年前から何百回と想像している。それはずっと変わらない。
 だがティームはそれを口にはしなかった。四人からの注目を受けてうっすら笑い、白くまろやかな指を前に突き出す。
「そうだな、まず握手でしょ、サインでしょ。あとツーショット?」
 一本、二本と立てながらおどけるティームにマナウは大きな目をぐるりと上に向けて肩をすくめた。
「本当にミーハーなのね」
「だからミーハーじゃないって! 誰だって憧れの人に会ったらそうなるだろ」
 自分だって演劇部に入部手続きに行った時にアレックス先輩にはしゃいでいたじゃないか。今はもうそんな気持ちが無くても当時のマナウの鼻息の荒さは忘れられない。
 な? と自分に向けられた指を軽く払えば、マナウは唇を突き出して頷きながら引き下がる。パームからはまた柔らかい笑い声が響いた。
 これでこの場は落ち着くだろうと、親友との軽やかなやりとりがひと息ついた時。
「ティーム」
 今までずっと黙って見守っていたディーンの低い声がぽとりとティームの前に落ちた。
「は、はい」
 緑がかった深色の黒目がまっすぐにティームを見据える。怒っているわけではないのは短くない交流の中で分かっているものの、条件反射で少し背筋が伸びる。
「彼に会うということは、闇とも遭遇するということだ」
 ディーンは案の定怒ってはいない。当たり前のことを釘指しただけ。
 闇は街を破壊するだけでなく命も奪っていく。誰が好き好んで遭遇したいというのか。だが世の中には彼に会いたいが為に闇の出現を願う不謹慎な発言をする者もいる。ティームにそういうつもりが無くても、会いたくて上京している事実にディーンは弁えろと言っているのだ。
「分かってます」
 少しはしゃぎすぎた気持ちを落ち着かせて、ティームはぺこりと頭を下げた。マナウも気まずそうに髪を耳にかけながらちらりとディーンを見るも、間に座っているパームがにっこり笑ってフォローに入る。
「ま、あいつはいつも終わったらさっさと帰っちまうからな。お前がミーハー行動を起こす隙なんてないだろ」
 ディーンにたしなめられても会いたいという気持ちが消えない胸元を制服のボタンを直すふりをして掴むと、呑気な声でウィンが軽口を叩いた。
「ディーン、お前は相変わらず硬いよな。ファン意識が全く分かってない。水泳部のファンサービス用の写真だって俺がいなきゃクレーム殺到だぞ」
「ウィン」
 ついでにディーンに対しても揶揄って空になった皿とプラカップを手に立ち上がった。ティームが見上げた先の顔はディーンに喋ってる内容そのままのおどけた表情を向けていて、ディーンもまた親友とよく似た仕草で眉を上げている。
 これはウィンなりのフォローなのだろうか。真意を知りたくて見つめていれば、墨色の目はティームの上に流れてきて柔らかく細まった。
 瞬間、ヒーローに会いたいと願う胸元が違う切なさに締め付けられ、ティームは迫り上がってきた動悸を唾と一緒にこくりと飲み込んだ。
「にしても今日のティームは気が緩みすぎなのは間違いない。なぁ、その、今のところ行き場のない有り余るヒーロー好き好きエネルギーをぶつける先を部長様が用意してくれるってよ」
「へ?!」
 細まった目は気づけばチェシャ猫のようにニンマリと弧を描いていて、ランチタイムに聞くにはまだ早い恐ろしい事を言ってのけた。出来ればプールサイドに着いてから聞きたかった内容だ。午後の講義へのモチベーションが格段に下がる。
「動画を再生する指すら上げられないほどのメニューを組んでやるって、なぁ部長」
「勿論。好きなだけプールの中で発散しろよ、ティーム」
 先ほど釘をガンガンに打ち付けてきたディーンもウィンに乗っかった。
「え、え? ディーン先輩、うそでしょ? あ、ちょっと! ウィン先輩、もう行くの?!」
「本の返却、今日が期限なんだよ。お先」
「この、悪魔っ」
 ティームは今しがた上がった動悸はどこへやら、ウィンとディーンの顔を高速で交互に見ながら血の気が引いていく音を聞いた。
 親友たちの「ティーム、スースー」という優しい声も聞こえてきたのだけが救いだった。
 
 
 
 さすが強豪校たらしめる双璧、水泳部の三大名物のワン・ツーである。見事なまでの有言実行にティームは案の定ロッカールームのベンチの座面と友達になっていた。
 頬の圧で唇が突き出るくらい顔をめり込ませ、長い手足をだらりと床にはみ出す。制服に着替えたところで力尽きた。一度そうしてしまうともう指一本動かせない。ウィンを待っている隙間時間に癒しと励ましである彼の映像を見たかったが出来そうにもないので代わりに目を瞑って頭の中で思い返す事にした。
「おい、寝るな」
 大きく呼吸を繰り返しながら黒い翼の広がりを瞼の裏に丁寧に描いていると、不粋な声がベンチの足を蹴った。
「先輩、何すん……
 ガツンという衝撃に大好きなヒーローの姿がかき消える。舌打ちをしながら実はウトウトと少し重くなっていた瞼を上げた先、また黒い翼が見えて文句を言う口がぴたりと止まった。ティームのハードメニューに付き合って共に泳いでいたウィンがティームに背を向けて着替えているところだった。
 ウィンの背中には黒い翼のタトゥーが彫られている。
 滑らかなバタークリーム色の肌の上に元から存在していたかのように綺麗に折りたたまれている翼。プールの中に入れば墨色に濡れて、腕や肩甲骨の動きに合わせて水面を飛ぶように泳ぐ。最初にティームがウィンの翼を見た時は、なんて熱烈なヒーローのファンなのだろう流石バンコクだ! と興奮して体当たりする勢いで話しかけにいった。勿論そうじゃなくて、人を揶揄うことに長けた男の餌食、新入生第一号になったのは言うまでもない。
 それにウィンの身体には他にも沢山のタトゥーで彩られていた。頭をワシワシと拭いている両腕には勇気や生命力といった意味合いのトライバルがいくつも彫られていて、背面からは見えない腹部の肌にも墨色がのっている。それらはウィンがウィンである為に、自分の身体は自分のものだと知らしめる為に彫ったとティームはウィンから聞いていた。だから背中の翼もウィンのもので、憧れたり真似て彫ったものなんかではない。ウィンにぴったりと合っていて、すらりとした長い腕や鍛えられた肩周りが動く度にゆったりと息づいているようだった。
 無意識のうちにうっとりと目で追い、頭で反芻していて、流れで「全部触ったことがあるのはお前だけだ」と言われた時のことも思い出してしまった。ティームは上気する頰の熱さを取り払おうと慌てて身体を起き上がらせてベンチに座りなおす。
 泳いでいない時のウィンの肌をじっくり見てはいけない。
「お前、本当に好きなんだな」
「なにがっ?!」
 ティームに背を向けたまま着替えていたウィンが楽しそうに振り返った。ティームは最初から先輩なんて見てませんよという振りをして背けていた顔をウィンの方へ勢いよくぐるりと向ける。不自然な動きに聡い副部長にはお見通しかもしれないが、笑っている形のよい唇はティームの図星をやんわりと外した。
「あいつの事。熱烈に見つめられ過ぎてそろそろ背中が火傷しそうだ」
「あ……え、っと……そう、そうだよ。うん。だって同じなんだもん」
 よもやウィン自身の翼や他のタトゥー、そこから派生した記憶を巡っていたとは言えず、ヒーローオタクとしても決して嘘ではない指摘の方にティームはコクコクと首を縦に振った。それと共に胸の奥がツキリと締まる。昼間と同じ。今日だけではない。
 ウィンの口から彼の事を聞くと何故か少しだけ堪らない気持ちになる。
 ウィンはヒーローに対して、限りなくフラットな状態だ。ヒーローオタクのティームの事も他のネタで揶揄い倒してくる時よりもずっと軽いものである。いつからか、ふと、ウィンが決して彼の名前を言わない事に気づいて、ずっと気になっていた。
『あいつ』と呼ぶ距離感が国民的ヒーローを呼ぶにはどこか突き放していて、そのくせ近すぎる気もするのだ。相反する音は、他の友人とも同じヒーローオタク達とも違っている。
 そしてそういう時のウィンは、表情もとてもフラットだ。
 整った顔から繰り出される無表情の圧ではなく、もっと穏やかな波立たぬ湖面を見ているようで逆に落ち着かない。
 ウィンは彼をどう思っているのか。今日こそ訊ねられないかと、ティームが薄く息を吸ったタイミングでウィンが先に口を開いた。
「なぁ、どっちのが格好いい?」
 綺麗なアーモンド型の二重が揶揄いを存分に含ませてキラキラしている。その丸い目にティームは反射的に舌を出していた。
「そんな分かりきったこと訊くな」
 べぇと声に出して突っぱねる。やってしまってから、またタイミングを逃したと内心舌打ちをした。
 どっちかを明確に言っていないのにウィンは勝手に下した自分の敗北に大きな口で苦笑して、のろりとティームに近づいてきた。人差し指でバイクの鍵をちゃりちゃり回しながら大げさな思案顔でティームを覗き込む。
「そうかー、さっきプルック先輩から美味しいパッタイの店の情報を貰ったから、格好いい翼のタトゥーを持った先輩が疲れて液状化が進んでいる後輩を連れて行ってやろうと思ったんだけどな」
「行きます! 先輩の翼も格好いいです!」
「も、かよ」
「も、だよ!」
 空腹でエネルギー不足の頭で余計な事を考えていたからか腹の虫がウィンの発した食べ物に反応し、教室で発言する時のように姿勢を正し挙手までしてしまった。自分でも調子良いなと思っていたところに、ウィンの大きな手で頭をくっしゃくしゃにかき混ぜられて半乾きの黒髪が顔周りに跳ねる。長い腕で首根っこをホールドされてベンチからつり上げられると、喉奥で楽しそうに笑う音と「しょうがねーなー」という柔らかい掠れ声が聞こえてくる。
 ティームはまた堪らない気持ちを抱えたまま癒やしのヒーロー動画を見ることが叶わなかったセルフォンをズボンのポケットに捻じ込み、そのままずるずるとウィンに引きずられてロッカールームを後にした。
 
 
 
 その店は、学校とコンドミニアムのちょうど中間ほどのところにあった。
 ウィンとの登下校で走る道を一本ずれてしばらく行くと、寺の壁沿いに簡易テーブルとプラスチックの椅子が並べられ、こじんまりとした屋台が見えてくる。もうすぐ夕飯時の為、テイクアウトの客も含めてかなりの行列になっていた。それにも関わらずティームとウィンの番は意外と早くおとずれ、調理スペースすぐ前の二人用のテーブル席に座ることが出来た。
 座った途端、店員が水の入ったコップを置いていく。テーブルにはメニュー表がなく、ティームはキョロキョロとあたりを見回した。
「ここのメインはパッタイホーカイだけだ。だから提供も早いし回転率も早い」
 少し斜めになっているテーブルをガコガコと調節しながらウィンが粛々と大鍋を振るっている店主を顎で示す。いちいち注文を聞いて、具材を変えて調理する必要がない。何か飲みたければ調理場の横にある大きなクーラーボックスから自分で取ってくるセルフサービスの方式だ。
「飲みたければ持ってきてもいいぞ」
「うん。先輩は?」
「お前と同じ、」
 基本的にウィンとの食事はウィンが払う。最初こそ訝しく眉を顰めたり、突っぱねたりしていたティームだったが毎食繰り返されるウィンの世話焼きに根負けして、今はありがたく享受している。たまにコーヒーの差し入れや部屋にストックしているお菓子をシェアして、イーブンだと自分で自分を納得させていた。
 ウィンの分を律儀に訊くティームに変わらぬウィンの回答。二人の日常会話は着席して三分もかからずテーブルに置かれた二つの皿に阻まれた。
……でいい」
「うわぁ、もう来た! 了解! すぐ取ってくるね!」
 ドンと置かれた皿からは甘塩っぱい湯気がほこほこと上がっている。出来たてのパッタイとその提供スピードにこくりと喉を鳴らしたティームがぴゅうと風の早さでクーラーボックスからペットボトルを二本掴んで戻ってきた。白いキャップの甘くないお茶はノーシュガーで、ウィンがコンビニでよく買っているものだ。
 パッタイのような甘めの食事にと選んだティームにウィンが小さく笑い、ティームから受け取ったボトルの蓋をパキリと開けるとティーム側に置いた。そしてティームの皿の横にあったペットボトルの蓋も開けて自分の手元に置く。これも大概見慣れたウィンの行動だったがいつまでもくすぐったく感じるのは皆の前ではやらず二人きりの時にされるからだろうか。ウィンはなんてことない顔で既に目の前のパッタイを興味深く見ているので、ティームもくすぐったさを脇にどけ、割り箸を割ると「いただきます」と早口で言い終わると同時にパッタイを思い切り頬張った。
 センチャン麺はしっかりめのもちもち感が噛み応え抜群で、たっぷり絡んだタレはタマリンドソースの優しい甘さがじゅわりと染み出してくる。絶妙な炒め具合は麺と完全に融合している具材も一緒で、もやしは火が通っているのにシャキシャキしていて、干しエビの香ばしさは鼻から抜ける。揚げ豆腐のボリュームも麺以上に染み出してくるタレがまた食欲を増進させる。全体を包み込んでいた薄焼き卵を崩しながらこれらと絡めて食べると、部活終わりの男子大学生の箸が止まるわけが無い。
 付け合わせの生もやしやニラ、バナナのつぼみも噛み続けるパッタイの合間に口に放り込み、ティームの皿は提供されるまでの時間と同じくらいのスピードでピカピカの空っぽになった。この店の回転率がよく分かる。味わって食べているが美味しすぎて箸を置く間がないのだ。
「おい、ティーム。パッタイ飲んだのか?」
「ちゃんと噛んで食べたよ! というか、ここのお店すごく美味しいね。それも値段見たけど、コンドの近くの店より安いよ」
「値段のことはいい。気に入ったか?」
「勿論!」
 皿の上で丁寧に具材を混ぜ合わせて食べていたウィンはまだ三分の二も食べていない。ペットボトルをあおるティームが瞼をすっと細めてウィンの皿を覗いているのが分かったのか、ウィンは鼻で息をついて鍋を振るっている店主に向かって手を挙げた。すると店主が顎をしゃくり、指示を受けた店員が新しい皿をティームの前に置きにくる。ほこほこのパッタイにまたティームの口にはじゅわりと唾液がたまる。いつもティームの『ちょうだい』に応えてくれるウィンだったが、こちらも部活終わりの男子大学生には変わりは無く、譲れないことがあった。
「ありがとう。ウィン先輩」
 ぽしょりとお礼を言って、今しがた知ったばかりの至福の料理を再び口に入れる。「おいひーねー」と頬を膨らませたまま笑ってみせれば、ウィンもまた大きく咀嚼しながら幸せそうに目を細めていた。
「流石プルック先輩だな」
「マナウが言ってたよ。プルック先輩が選んだお店は屋台でも全部美味しいって」
「あの人、結構食道楽だよな」
 一皿目で空腹の悲鳴を黙らせたので二皿目は会話する余裕が生まれていた。明日プルックに会ったらお礼を言おう。もちもちの麺をゆっくり噛みながら、朗らかが眼鏡をかけて歩いているような先輩の笑顔を思い浮かべると、その最上級生が顔を曇らせながら話していたことも思い出した。
「そういえば……プルック先輩がマナウと行こうとしてたノンタブリーの水上マーケット、この前の闇の事件での復旧がまだ終わってなかったんだって」
「そうか」
 今回出たニュース映像の一つ前に闇が発生したのがバンコクの隣県のノンタブリーだった。人的被害はほぼ無かったが、水上での営みが盛んな地域であり運河沿いに並ぶ屋台やボート、観光スポットの損害が大きかった。勿論、彼がやってきて闇は消し去られたものの復旧が思ったよりも進んでいない。
 マナウの部活が一段落ついて久しぶりのデートだったんだけど仕方ないね。むしろ遭遇しないで良かったよ。早く現地の生活が元通りになれば良いな。と、眼鏡の先輩は言っていた。
 カタリと割り箸が鳴った音にティームはパッタイを頬張りながら目を上げた。ウィンが箸を皿の上に置いていてこちらを見ていた。
「ティーム」
 昼間のディーンと同じような音で名前を呼ばれる。少しだけ柔らかく聞こえるのは心の距離だろうか。
「お前はなんで、あいつに会いたいんだ?」
 もっちりした平麺を嚥下して、口の中を清めるようにペットボトルの緑茶を一口飲む。
 ウィンはティームのヒーローオタクを知っている。この学校に入学して最初にそれを知ったのもウィンだ。新入生歓迎合宿で共に迎えた朝、ベッドの中でセルフォンの待ち受け画面を見られてしまい、気まずくなるはずの空気は別の気まずさで上書きされてしまった。ウィンの尋問は巧みで、バンコクに上京した不純な動機まで一息に吐かされた。
 それから何度もヒーローにはしゃぐティームを見ていたのに、好きだから、憧れているから、の奥にウィンが踏み込んで来たのは初めてである。普段はミーハーだなんだと言ってくるくせに、昼の会話がティームの本心ではないことに気づいている。
 ティームは一度固く唇を引き結んでから、ひたりとウィンを見つめた。
 ウィンになら全てを話しても良い気もする。話したい気持ちはある。だがウィンがティームのことをそこまで受け止めたいと思ってくれているかが分からない以上は、怖い。
「お礼を言いたいんだ。いつも助けてくれてありがとうって。そんなの皆思ってると思うけど、おれは直接彼に言いたい。なんで言いたいかについてはまだ言えないんだけど」
 ウィンに嘘はつきたくない。今、ティームが言えるのはここまでだった。
 昼と違い、トーンの落ちた低い声は静かで幼い。
 どうか聡いウィンが巧みな話術でこれ以上引き出してきませんようにと反応を待てば、勿論聡いウィンは神妙に頷いて「分かった」とだけ呟いた。
 二人の間には冷めてもなお美味しそうなパッタイがまだ残っており、テーブルの横を行き来する店員がチラチラと見ていく。
 ウィンは大きく息をつくと徐に手を挙げて店員を呼ぶと揚げ春巻きを一皿、注文した。
「まだ食えるよな。サイドメニューも外れがないって、先輩が言ってたから」
「うん。ありがとう、ウィン先輩」
 ゆっくりと話すウィンの声に、ティームは会話の流れの外にある感謝も含ませて詰めていた息を吐き出した。待ってくれるウィンにいつも助けられている。
 運ばれてきた揚げ春巻きは注文を受けてから揚げているようで、皮はカリカリ、餡は熱々の状態だった。ティームは水泳選手として自慢の肺活量で適温に冷まし、ハフハフと食べ始める。時折熱い具に当たり口を鯉のように動かすティームを小さく笑って、ウィンもまた箸を持ち上げてパッタイを啜り始めた。
 ウィンの長い指はお手本そのままの綺麗な所作で箸を動かす。それを目で追いながら、ティームは『まだ言えないこと』を思い返した。
 上京して誰にも言ったことがない。パームやマナウにも。水泳部の入部書にはその後引っ越した実家の住所になっているからディーンや水泳部員達にも気づかれることはなかった。
 今から五年前。突如、闇色のモンスターが現れた東北地方の村に、ティームは生まれ住んでいた。
 闇は田んぼや溜池を枯らし、家屋を潰し、家畜を屠った。市場で警察や軍が応戦して人的被害が出た。軍事兵器の使用もあり、村の半分は壊滅した。ティームはそれを避難した丘の上から心を恐怖と悲しみでいっぱいにして見ていた。
 闇の進路が丘へと向かい始めた時、彼が現れた。闇の発生から二日後のことだ。為す術もない絶望の中にいた自分たちの目の前で、闇を消し去っていった。
 専門家の中には彼が守る為に闇を消しに来ているのかどうか分からないと言う人もいたが、ティームには守ってくれたという確信がある。あの時の闇は身体の一部を丘の上にいる自分たちへと伸ばしていた。彼はその伸びている部分を目がけて降りてきたのだ。まるで掴みかかろうとする腕を切り落とすように鋭く斬り込み、闇は蒸発した。
 彼は闇と自分たちの間に浮遊していたように見えた。こちらに背を向けて翼を目一杯広げて。そして周囲を見渡すように頭部が動いて、そのまま翼を羽ばたかせ飛んでいってしまった。
 ティームは目撃者のひとりなのだ。最初に現れた闇と、彼の。
 そして国に地図から消された村の住人となった。
 絶望の嵐が去った後、村に平和が訪れたかというと真逆だった。彼が闇を消し去った場所の土が闇と同じ色のまま地上の全てを拒絶してしまった。国は調査の為、その汚染区域を含めた村全体を立ち入り禁止とし、村民は方々へ移り住むこととなった。その際に闇の汚染が人体まで及んでいないか、身体調査をされている。結果、人体への影響は認められなかったのだが、世間には『闇が感染する』と考える者もいた。国は村民達の安全のために戸籍からもその村の名前を消した。
 次に闇が出現したのは南部のラノーン県にある村だったが、汚染はされなかった。それ以降どこにも闇の爪痕は残っていない。彼はティームの村の汚染を知ったかのように数時間から数分のうちに現れるようになった。
 ティームの生まれ故郷だけがこの国で黒く染まっている。
 彼に対して何故もっと早く来てくれなかったんだと嘆く村民もいる。ティームだって思わないわけじゃない。幸い両親も家も無事だったが、そうじゃない友達もいた。皆で通っていたスイミングスクールが瓦礫の山になるところを見ていた。痛みはある。それでもティームはそれを表には出したくなかった。太陽から一直線に降ってきた彼の強さと温かさに今も励まされている。冷えて止まりかけていた心臓が熱く高鳴る瞬間をティームは知った。ティームは彼によって生かされたのだ。
 この彼に対するお礼に含まれた苦しさと救いが綯い交ぜになった感情を、ティームはまだウィンには明け渡せそうに無かった。
「伝えられるといいな。いつか」
 パッタイの最後の一口を食べ終えて、ウィンの優しい呟きが聞こえた。思いやりを含んだ言葉にティームはまた心でありがとうと呟き、気持ちを切り替えるように最後の一口にするには大分大きな春巻きをむぎゅっと口の中に押し込んだ。随分と間抜けな顔になっているであろう。それでいい。その勢いに自分で背中を押して軽くおどけて見せた。
「その時は闇がいない、安全なところで言いたい。闇がいなくても彼は来てくれるかな」
「さぁ、どうだろうな。あいつは白血球みたいなものだ。侵入されて攻撃されてからじゃないと動けない」
「え? そうなの?」
 ティームの空気が緩んだからかウィンの口調も日常のものへと綻んだ。だがその口から出た言葉はまたティームを堪らない気持ちにさせた。謎多き彼のことをウィンは今完全に断言した。ウィンと彼の距離感がとても気になる。少ししまったという顔をしているウィンが気になる。ティームはロッカールームで一度逃したタイミングを今度こそ逃さないとばかりに少し身を乗り出した。
「先輩は彼のことをどう思ってるの?」
 ウィンはティームの問いに一度テーブルの上の空になった皿を眺めてから、小さく息をついてアーモンド型の目をティームに向けた。
「俺はあいつに少しムカついている」
 墨色はティームの様子を伺っている。野生の獣がこちらの動きを観察しているようで、下手に動くと逃げられそうだ。本能的にティームは自分のヒーローへの感情を抑えて、ウィンになるべくフラットな表情を向けた。あぁ、これはいつもウィンがしていることではないか。
「あいつは後出しだ。それしか出来ない。闇を消せるのに待ち伏せが出来ないんだ」
「それで嫌いなの?」
「いや、歯がゆいだけ」
 自分の気持ちをあまり言わない男がふっと息を吐いてペットボトルをあおるから、ティームも同じく緑茶を喉に流し込む。逸る気持ちもクールダウンしてほしい。
「あいつが出来ればいいんだけど、出来ないからしょうがないよな。だから後は人間が自衛しないといけない。調査や研究が進んで闇の出現を予測出来るようになれば、侵入を未然に防げる。そこまで出来なくても出現に備えて避難が出来れば、もっと被害は減るだろ? あの村に闇が残していった汚染だって、取り除けるはずだ」
 水分補給ではてんで役不足だった。逸る気持ちはそのままティームの動悸を大きく押し上げ、手足を痺れさせた。ウィンの口から自分の村が出てくるとは思わず、口から何か出そうになって強く唇を引き結んだ。
「俺はそれを実現させたい。あいつが出来ないなら、俺がやる」
「せんぱい」
「五年前からずっと変わらない。これが俺があいつに思ってることだ」
 想定外に、いや想像を絶する熱量がウィンから吐露されて、ティームは自分の顔に血が上ってきているのを感じた。
 そういえばこの人、学部で主席だった。量子力学の専攻で入学してからずっとトップを走り続けていると聞いている。
 親族そろって研究者だから仕方なく俺も、なんてのんびり言ってたくせに。仕方なくでトップ獲ってるって自慢かよ、なんて言った時には大きな口をぱっかり開けて笑っていたくせに。
 アーモンド型に縁どられた目の中の、墨色の黒目は太陽の黒点のように高温で揺れていた。全て本心だとティームに告げている。ティームはウィンの温度に触れて目の中の水分量が増えたのを感じ、咄嗟に下を向いた。さらりと乾いた黒髪の毛先が頬をくすぐって目元を少し覆う。
「お前があいつに直接お礼を言いたいなら、俺が安全なとことであいつに会わせてやる」
 安易なテーブルがぎしりと軋む音がして、ウィンが身を乗り出したのが分かった。長い指がティームの黒髪をこめかみにそっと流す。
 自分がヒーローにはしゃいでいる横でこんなことを考えていたなんて思わなった。小さく何度も頷きながら目の前の男に視線を戻せば、頬杖をついて柔らかく目を細めてこっちを見ている。慈愛をたっぷり含んだそれに遂に心が決壊しそうになり、ティームはなりふり構わず頭に浮かんだ言葉をそのまま大きな声で口から出した。
「だったら先輩もおれのヒーローだね!」
 この国だけでなく全世界で闇の研究が続いている。この五年間、彼に任せきりではない。沢山の人が闇と戦っている。それは紛れもなくヒーローだろう。ウィンはその一員になるという。
 ティームの声が少し湿っているのがわかっているのにウィンはあえて形のいい眉をふよりと動かして笑みの種類を切り替えた。日常でよく見る、揶揄うのが楽しいという音を立ててティームの顔を覗き込む。
「も、かよ」
「も、だよ!」
 唯一無二なんて烏滸がましい! とまた舌をべぇと出すと、思わず噴き出したウィンが大きく笑った。綺麗なアーモンド型の目を糸目になるくらい細めて、ぱっかり開けた大きな口からは高くて掠れた笑い声が甘く響く。それはいつもティームの中で高揚と安心を均してくれる。とても大好きだと思いながら感情がたいらになる時を待った。
 それなのに笑いが引きかけていた男の口からまろびでた言葉は、ティームを穏やかにさせてくれなかった。
「それでもいい。俺をお前のヒーローにしてくれよ」
 揶揄いでも何でもない、温かな本音だとウィンのふにゃりとした笑顔でわかる。ティームは吸い込んだ息がなかなか吐きだせなかった。そこにはきっとウィンを好きだと思う気持ちが全部乗ってしまうから。
 ウィン先輩。
 辛うじて呼べた名前はどんな色をしていただろう。ウィンが笑顔のまま小首をかしげて応えたように見えたのに認識できなかった。
 め り 。
 突然、座っているウィンの後ろにある寺の壁が斜めに大きく裂けた。違和感を感じてウィンの顔からそちらへ視線を流しているうちに、ティームの身体は大きな強い力を全身に受けて吹き飛ばされていった。
 
 
 
 意識が急激に浮上した。
 バクンと大きく脈打った心臓とともに息を吸い込めば、砂塵を吸い込みすぎて激しく噎せ返えった。肺から息を吐き出す度に全身が痛む。毛羽立つ喉が落ち着き恐る恐る身体を起き上がらせると、ティームはゆっくり辺りを見回そうとした。
「っ!」
 視界が水の中にいるようにぼやけている。大きく目が開けられない。砂塵が目の中にも入り込んだようで、滲む涙を細かく瞬きを繰り返して外に押し出した。痛みはないから傷はついていないと思うが全体的に薄暗くしか見えない。
 それでも分かる。辺り一面が瓦礫と化している。
 今夜は雲が多くて月が隠れてしまっているが、屋台を照らしていたライトがひしゃげながらも寺のあった場所を虚ろに照らしていた。起き上がった自分の視線の高さ以上のものが、何もない。
「ウィン先輩?」
 耳を覆っていた耳鳴りも遠のき、そこかしこから微かな呻き声が聞こえる。ティームは我に返り、嗄れた声で自分と一緒に居た男を探した。
 金髪の頭、白いシャツ、黒いスラックス。高めの掠れた声が柔らかく自分を呼ぶ音。
 目をこらし耳を澄ましても、馴染みあるウィンが返ってこない。
 次第にはっきりしてくる頭で、最後に見たウィンの背後に出来た裂け目を思い出した。どっと汗が噴き出た。
「先輩、どこ!? 返事して!! せんぱ、」
『ウィン! 聞こえてるのか? ウィン!』
 瞼を擦り、なんとか見えないだろうかと目をこらして痛む首をぐるりと巡らせた時、指に当たった何かから突然声がした。
 びくりと指を離してよく見れば、ディスプレイにひびが入ったスマートウォッチが緑のライトを点灯させて通話状態になっている。ティームにはとても見覚えがあるデバイスで、引っ込めた指で素早く拾い上げた。やはり、ウィンがいつも付けている時計型端末だ。
 至近距離で見ればディスプレイには歪な形で『ディーン』と表示されているように見える。ただそこから発せられる声はディーンとは思えないくらい切羽詰まった声だった。
『今どこにいる? メクがそっちに向かっている、お前は絶対に動くな』
「ディーン先輩!」
 ティームは縋り付くように叫んだ。ウィンの腕から外れている時計。バンドが千切れた理由を考えたくない。
『っ、ティームか? 無事なんだな。ウィンは一緒だな? 一緒にいるよな』
「いない。ディーン先輩、ウィン先輩が見当たらない。どこにも居ない!」
『くそ、あの馬鹿』
 悪態をつくディーンの声がするデバイスを両手で強く握りしめ、ティームはもう一度ウィンを呼ぼうと大きく息を吸い込んだ。
 その時、ふと屋台のライトが伸びているはずの眩しい光の道が不自然に遮られている事に気がついた。ティームから数メートルしか離れていない先に目線を上げれば、そこだけぽっかりと真っ暗だった。
 闇、が居る。
 闇はゆらりと上部を傾かせて、それがまるで最後に見たウィンの小首を傾げた姿を真似したように感じて、ティームは全身が凍り付いたように硬直した。見えない目を見開く。喉の奥から何かがこみ上げてくるのに吐き出せない苦しさを喘ぐことも出来ない。
 闇の一部が音も無く伸び、ティームの視界を覆い尽くそうとしていた。
 助けて。
 ティームが声なき声を上げた時、全身を熱風が舐めた。思わず瞑った目を開ければ、自分と闇の間に陽炎が揺らめいているのが見えた。いや、実際はティームは見えていなかったかもしれない。だが温かくて強い色がすぐそこに在る。ティームが知っている黒だった。
 ぶわりと広がった黒色は翼だろうか。ティームと闇を完全に遮断していた。
「アーティット」
 ティームの凍えた呼気から発せられた音は、翼の下で広げていたすらりと長い腕が下から上へ振り上げられた音によってかき消されて自分の耳にも入ってこなかった。
 闇が斜めに裂け、向こう側の大通りを照らす街灯や行き交う車のヘッドライトがティームに眩しさを伝えた。同時にジュワッと激しい水蒸気爆発が目の前で起きて、ティームの視界を覆っていた暗闇は跡形も無く消えさった。
 目の前に人間と同じ大きさの黒だけが佇んでいる。広げられた翼は一呼吸つくように大きく上下し、ばさりと軽く羽ばたく。ティームは持てる力の限りを振り絞って声帯を震わせた。
「待って! アーティット!!」
 行ってしまう。いやだ。
 太陽から降り注ぐようにやってくるヒーローは、この国では太陽そのものとして呼ばれていた。彼自身がそれを自分だと認識しているかなんて分からなかったが、ティームの渾身の叫び声に黒い人型は動きを止めて温風を纏いながらこちらを振り返った。ように見えた。ティームは必死に手の甲で瞼を擦り、あふれる涙を拭いながらなんとかその姿を捉えようとするが、砂塵にやられた視界は一向にクリアにならない。
(ティームは本当に彼が好きなんだね)
(じゃあ、ティームはもし彼と会えたら、どうしたいの?)
(お礼を言いたいんだ。いつも助けてくれてありがとうって。そんなの皆思ってると思うけど、おれは直接彼に言いたい)
(伝えられるといいな)
 アーティット。おれのヒーロー。
(それでもいい。俺をお前のヒーローにしてくれよ)
 先輩。ウィン先輩。ヒーローでも何でも無い、ただの、おれの。
「アーティット。ウィン先輩が、どこにもいないんだ」
 手の中のスマートウォッチを握りしめる。ディーンが何かを言い続けているが、自分の呼吸の荒さで聞こえなかった。持ち主から離れたそれが自分の想いと重なり、もう二度とウィンの元へ渡すことが出来ないかもしれないと思うだけで心が木っ端微塵に砕けそうになった。
 彼に声をかけることでなんとかつなぎ止めた。言っている事の善し悪しなど、構っていられなかった。
「さっきまでここに一緒に居た人を知らない? 金髪でサムライみたいに一つに括って耳にピアスがいっぱいくっついてて、背の高い大学生の男。いくら呼んでも応えてくれないんだ。おれ、いま目が見えなくて。あの人はどこに居るの? ウィン先輩、ちゃんと無事だよね?」
 今まで硬直していた身体は次第に震えが止まらなくなる。黒色の人を見上げる顔には涙があふれ、幾筋もの線になって首を伝っていった。カチカチと鳴る歯をそのままに喉の奥からは嗚咽を出していなければ、今まで見てきた沢山のウィンの表情が溢れだして消えていってしまいそうだった。
 なんでもっと早く来てくれなかったんだ。空間が裂けなければ、闇が姿を現さなければ、ウィンは。
「なぁ教えてくれよ! アーティット!!」
 この国のヒーローがティームは大好きだった。それを呆れた顔で優しく見守ってくれるウィンが大好きだった。その両方を今、失おうとしている。
 ティームの悲痛な叫び声に、突然目の前の黒色が視界を覆い尽くした。身体が温かい風に包まれる。
「ティーム」
 その風に乗って、耳に掠れ声が入ってきた。こつんと額に固いものが当たり、両頬を平たい掌で包まれた。指で耳の後ろを宥めるようにすりすりと撫でられる。
 馴染みのあるものたちに、ティームは大きくしゃくり上げた。
「ウィン、先輩?」
「あぁ、ウィンだ。何だよお前、くっちゃくちゃな顔して……怪我は?」
 合わせられた額からもウィンの声が柔らかく響く。何度も瞬きして涙を落として目をこらすと、肌色の輪郭が見えた。プールの中で潜水競争をした時にも見たぼやけたウィンの、飄々とした顔。頬を包む手はさらりと乾いていて、与えられる体温はティームより少し高くて、いつも安心と高揚をもたらしてくる。冷え切って止まりかけていた心臓がほどけてトクリトクリと脈打った。
 ティームはなりふり構わず腕を広げて目の前の身体に抱きついた。
「先輩、なんで、どこ行ってたんだよ! 先輩こそ怪我してない? どこも痛くない?」
「落ち着け。俺は無事だから、な?」
 顔や腕や胸に感じる身体の厚みや固さはウィンだった。じんわりと染みこんでくる体温も、抱き返してくる腕の強さも背中をあやす手のリズムもウィンだった。
 ティームは別の涙と嗚咽が溢れてきて、ウィンの首元に擦りつけるように顔を埋めた。とくとくと頸動脈の拍動を感じる。掌を背中に滑らすと、黒い翼のタトゥーが汗ばんでいた。ウィンは生きている。
 ずっと目にしていたのはこの翼だったのかと何度も撫で摩り、それでは見ていたはずのものはどうしたのだろうと、ぽんぽんと背中をあやされる手のリズムに落ち着いてきた声でウィンに投げかける。
「ねぇ、アーティットは? 闇は?」
「大丈夫、闇はあいつが消していったよ。もう安心していいから」
 ここはもうセーフゾーンだ、と。優しい声が全身を駆け巡る嵐を宥め、ティームを鎮める。吐息と共にしぃーと囁く声と背中を叩くリズムはウィンの部屋のウィンのベッドの中で微睡む時と同じだった。
「ん」
 極度の緊張を強いられたティームの心と身体は、覚えのある安全地帯に弛緩していった。沈む寸前、ウィンから離れたくなくて無意識に指がウィンの背中をゆるりと彷徨う。
「せんぱい」
「俺はずっとお前のそばにいる」
 こめかみに柔らかい唇が押し当てられ、もう一度ウィンに強く抱きしめられたところでティームはふつりと意識を手放した。
 
 
 
「ティ――――ーム!!」
 運転席のドアを閉めて振り返るより先に自分を呼ぶ声が聞こえた。凛としてとても通る声。女優の本領を発揮したマナウの腹式呼吸から繰り出される発声は、声の持ち主の身体ごと語尾の余韻をティームの背中にドスンとぶつけてきた。
「ぐぇ!」
 ティームの車が駐車するところが見えて走ってきたのだろう。出会い頭のハグというには勢いがつき過ぎているそれをティームは愛車とに挟まれながら受け止めた。
「マナウ……お前ぇ」
「あぁ、ティーム、良く顔を見せて。もうどこも痛くないの? 大丈夫? 闇と遭遇したって聞いて本当に気が気じゃなかったわ」
「大丈夫じゃなかったら今のマナウの突進で骨が折れてるよ」
「あら、もう全然大丈夫みたいね」
 振り返ってジト目で睨むティームの頬に手を添えて右に左に振ったマナウはティームの軽口に唇を突き出して、バシリと肩を叩いた。そこはちょうど打撲の痕がまだ少し残っているところだったのでティームは眉間に皺を寄せて低く呻いてしまった。もう一声マナウのお転婆に文句を言ってやろうと人差し指を彼女に向ければ、もう一人の親友が息を切らして走り寄ってきた。
「マナウ早いよ~」
「置いてけぼりにしちゃってごめんね」
「もー」
 膝に手を置いて息を整えたパームが顔を上げてにっこりと微笑む。
「ティーム、退院おめでとう」
 ほんわかと優しい気持ちが胸をいっぱいに満たして、ティームは長い腕で親友二人をぎゅうと抱きしめた。
「うん。ありがとう、二人とも」
 少し薬品臭いかもしれない。退院したのは金曜日で週末はコンドミニアムの部屋で過ごしたが、まだ肩と脇腹には湿布を貼らなければならず、今朝シャワーを浴びた後に貼り替えたのでまだまだ匂いがきついかもしれない。抱きしめた後に気づいて身じろいだティームをパームとマナウは同じ強さで抱きしめ返して、親友の無事の帰還を心から喜んでくれた。
 ティームが闇と遭遇した後、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
 砂塵が入り擦ってしまった目は少し炎症しており、身体のあちこちには打撲痕があった。だが幸いにも骨折はなく、出血を伴う傷も擦り傷程度だった。念のため頭の検査もしたが異常はなし。闇と遭遇した為に専門のカウンセリングを受けた。更にはあの村の出身ということで極秘に国の調査員もカウンセリングを施しにきた。
 身体だけだったらすぐに退院が出来るところ、立て続けのカウンセリングで思った以上に長い入院を余儀なくされた。その間に実家から両親が上京して、予期せぬ家族団欒の時間が出来たことはありがたかったが。
 退院時にはすっかり心も身体も元気な姿を見せたティームをコンドミニアムまで連れて戻ってから両親は実家へと帰っていった。
 久しぶりの自分のベッドにダイブすれば、父親が真新しいシーツに張り替えてくれていて、さらりとした肌触りが気持ちいい。新品の無臭に近いシーツの匂いを大きく吸い込んで、しかしティームはそれをため息に変えて吐き出した。
 見上げた天井の向こう側の住人はまだ帰ってきていない。
 ウィンはティームとは別の病院に入院していた。
 今回の闇の被害は小規模だったもののティームとウィンのいた屋台の客と寺にいた人々は全員が病院に運ばれることになり、複数の病院へ割り振られることになった。ティームは大学病院へ、ウィンは王立病院へ。
 目が回復した頃にセルフォンで連絡をしてみた。ティームがメッセージを打つ度にサイドテーブルに置いてあるウィンのスマートウォッチが振動するもののメッセージは一向に既読にならず、通話も同じく時計が震えるばかりでセルフォンの方からは何も音沙汰が無かった。そのうちスマートウォッチは充電が尽きて、ただのひびが入った四角形になってしまった。
 ウィンと連絡がつかない。夜も眠れないくらい心配した。そのうちディーンよりウィンのセルフォンが壊れて再起不能になっていたと連絡が入った。それをディーンから聞かされる事に多少心がモヤついたものの、後日知らない番号から着信がありウィンのしっかりとした声が聞けたことでティームの入院生活はようやく落ち着くことが出来た。ウィンは「俺も軽傷だ」と笑っていた。
 ただウィンのいる病院はバンコクから遠く、退院後コンドミニアムに戻るまでにはティームより数日を要していた。
 ちゃんと姿を見て無事を確認したい。早く会いたい。
 ティームは闇との遭遇現場からずっと持ち続けているウィンのスマートウォッチをポケットの中で撫でながら、部屋に戻ってきたときと同じようにため息をついた。
「ティーム、大丈夫?」
 親友達と学部棟へ向かう途中、いつもウィンのバイクで登校した際に降りていた場所を通り過ぎると知らず知らずに年上の人の事を考えてしまって視線が足下に落ちていた。ティームは心配そうに覗き込んでくる茶色いまんまるなパームの目をぱっと見返して、ポケットから手を出して両手を胸の前で振る。
「大丈夫大丈夫!」
「ウィン先輩は、まだ大学には来れないんだよね?」
 ティームのウィンへの感情に聡いパームは、自分が何を追っていたのかをやんわりと教えてくれた。落ち込みすぎないように眉をへにゃりと下げて、軽く頷いてみせる。口調からパームもディーンより情報を得ている事を感じつつ、何も知らないマナウにも説明するようにゆっくりと話した。
「もう退院はしていてコンドには帰ってくるんだけど、大学には来週から出るって」
「そうなのね。あぁ、早く元気なウィン先輩の姿も見たいわ。ディーン先輩も最近見なかったし、潤いが足りないのよね」
 あ、顔は怪我して無いわよね、なんて冗談が冗談とも思えないマナウの言葉にわざとじっとりと睨み付けてから、他の引っかかった言葉についてパームに顔を戻した。
「ディーン先輩も大学に来てなかったのか?」
「うん。お家の事で忙しくて……。でも先輩も今日から大学出てくるって言ってた」
 ふぅんと頷くと親友の口元がほろほろと綻んでいるのが見えて、ティームは揶揄うようにニヤリと笑うとパームのまろやかな首筋に腕を引っかけた。
「なーんだ、鬼の居ぬ間にパームを沢山独占してやろうと思ったのに。こっちが不在でもそっちの鬼が居たらすぐに奪われちゃうな。講義が終わったら迎えに来るんだろ? はーあ、ティームくんの復帰パーティーも先延ばしか」
 軽口を叩きながら潤い不足を違うもので補おうとしているマナウの撮影音を聞きつつ、ジタバタといつもよりも遠慮がちに暴れる優しいパームの小さな茶色い頭に鼻先を埋める。パームシュガーの柔らかい甘い匂いはウィンとはまた別の安心感をティームに与えた。
 それを思い切り吸い込みながら自分の揶揄いが図星だと照れるパームに満足していると、流石の類友はやられっぱなしでは無かった。
「そういうティームだって、講義が終わったらすぐにウィン先輩がいるコンドミニアムに帰るんだろ?」
「え、違うって! まだ部活には参加出来ないし、課題も溜まってるし、久しぶりの学校に疲れちゃうし、仕方ないからすぐ帰るだけだ」
「はいはい。そういう事にしてあげる。復帰パーティーはウィン先輩も一緒にやろう。ティームの好きなもの、いっぱい作ってあげるから」
「いっぱい? やったー!」
 大きな目がにんまり弧を描く様子に猫が尻尾を逆立てるような声を出せば、食べ物ですぐに手なずけられる。マナウと一緒にパームに何を作って貰うか言い合いながら、さりげなくウィンの好物も混じらせた。ウィンだってパームの手料理は大好きだ。早く一緒に食べたいね。大きな口をぱっかり開けて笑う顔を思い浮かべながらポケットの中でスマートウォッチのひび割れた表面を撫でた。
 そのまま幸せ気分でもう一人の甘い匂いのご主人様にすり寄って歩いていると背後から寒気を伴う圧と同時に低い咳払いが聞こえてきて、ティームは鬼の居ぬ間が自分が思っていたより短かったことをまざまざと思い知らされた。
 
 
 
 鬼、ことディーンからの言伝で、ティームはランチタイムもそこそこにコンドミニアムへ車をかっ飛ばした。運はティームに快気祝いとして午後の講義の休講を与え、信号機をほぼ青のままにしてくれた。
 ディーンはウィンをコンドミニアムに送ってから大学へ来たらしい。ウィンがもう戻っている。午前の講義中に何度も飛び出していきそうになる衝動を押さえるのが大変だった。
 ウィンは自分の部屋にいるのだろう。直接ウィンのフロアに向かいたいところだったが中層階用のエレベーターは上昇を始めたばかりで戻ってくるのを待っていられず一階に停まっていた低層階用のエレベーターの最上階ボタンを押した。その後は体育会系男子大学生の本気のスピードで階段を駆け上がり、自分の部屋の真上に到着した。
 ドッドッド、と忙しなくなる鼓動はここまで急いでやってきたからだけではない。ふーと意識して細長い呼気を吐き出せば、腹の奥にじわりと切ない緊張感を感じた。
 茶色い扉に一度ひたりと掌を当ててから、ティームはこれが日常だとばかりに遠慮無くノックを連打した。
 すぐさま開いた扉の向こうからすらりと長い腕がティームの身体を引っ張り込む。バタンと閉まる扉の内側で、ティームはぎゅうと強く抱きしめられた。
「おかえり、ティーム」
 耳に柔らかな掠れ声が入り、心に浸透する。先に言われてしまった言葉をティームもウィンの背に腕を回しながら突っかえないように必死に伝えた。
「先輩も、おかえりなさい」
 すぅと吸い込めば、自分より少し高いウィンの体温で温められて揮発した瑞々しい香水の匂いがする。鼻の奥で少し華やいで、堪らなくなったティームはもっととばかりに手に力を入れてウィンを引き寄せた。ティームの動きが分かったのだろう、ウィンもますますティームを抱き込んでティームのスニーカーのつま先はもう少しで地面から浮いてしまいそうだった。
「あ、わっ」
 このまま幸せに浸っていたかったのに胸と胸が強くくっ付くくらい密着すると、ウィンもまた深呼吸をしていることに気がついてしまった。全速力で駆けつけた身体は火照っていて、ウィンの部屋のエアコンの強さでもまだ汗が引きそうにない。ウィンのようにおしゃれな香水など付けていないので、そのまま体臭を差し出してしまっている。うっとり良い匂いに浸っている場合じゃない。ちょうどウィンがスンと鼻を啜った音も聞こえて、ティームの背中を違う汗がじわりと滲んだ。
「お前さ、」
「は、走ってきたんだからしょうが無いだろ。今日暑かったし。でも朝はシャワー浴びたからな」
「いや、そうじゃなくて」
「何が」
 ウィンの腕の中から出ようともぞもぞと身体を動かすと、待てとばかりに掌が背中と腰に付けられる。スンスンと嗅がれて、もうやめろと言おうとした矢先にウィンの呟きがぽつりと漏れた。
「お前はまだ怪我してるのか? 湿布の匂いがする」
 抱きしめる腕の力が弱められ、踵がぺたりとついた。その声があまりにも真面目で、少し離された身体の間、ゆるりと真正面からウィンの顔を見る。
 久しぶりに見たウィンはパッタイを食べた時から変わっていなかった。
 ティームを心配してか、表情は固かったが傷も無ければ顔色も悪くない。
 良かった。
 訊かれた自分の事をひとまず置いて、ウィンの様子に安心してしまう。じっと見つめる目に笑ってみせた。
「脇腹に青あざが出来てるだけ。飛び込みに失敗した時みたいなやつだよ。もうほとんど痛くないから大丈夫」
 本当はまだ痛かったがウィンと抱き合ってる間は全く痛みを感じず、感じないほどにウィンでいっぱいになってたのも恥ずかしくて、ティームは誤魔化す為にムンと両腕で力こぶを作るポーズを取った。墨色の目は後輩の子供じみた姿に鋭さが緩み、安心したように微笑むとするりと身体を離していった。
 簡易キッチンの方へ向かうウィンは金髪を下ろしていて、部屋のファブリックと似た色合いの部屋着を着ている。いつも通りだった。すらりと伸びる手足や首筋には傷を覆うような白いものは一つも無い。
「先輩は?」
 服に隠れて見えないだけでウィンもまだ怪我をしているかもしれないとティームが訊けば、冷蔵庫からペットボトルを取り出していたウィンがくるりと振り向きティームの心を読んだ。オーバーサイズのTシャツの裾をぺろりと捲り、自慢の腹筋を見せつける。
「この通り」
「ばっ! 別に見せなくていい! 口で言え」
 バタークリームの肌に、緩く穿いたスウェットのウェスト部分には黒い焔の先が見えた。ばっと勢いよく目をそらしたティームに、いつも部活で見てるだろとくつくつ笑うウィンは確かにいつも通りだった。元気そうで本当に良かったと鼻息で気持ちを落ち着かせて、自分の足元をよく見ればまだ靴を履いたままだったので慌てていつもの定位置に脱ぎ捨てる。ティームのちょっとした慌ただしさはウィンにとってもいつも通りだったのか、一連の動きを楽しそうに笑って見ていた。
 いつものウィンがいつもの部屋に居て、ティームがいつも使うグラスにティームが好きな蜂蜜入り緑茶が注がれる。いつも座るローテーブルにコトリと置かれて、ティームもいつも通りそこへ座る。
 やっと日常が戻ってきたみたいだ。
 ティームはグラスの中身を半分以上一気に飲み干すと、当たり前の顔で継ぎ足すウィンの手首を見てポケットから四角形のデバイスを取り出した。
 もうひとつ、ウィンに日常を返さなければ。
「先輩、これ」
 テーブルの上にそっと置くとウィンは一瞬だけ目を眇めてから、指先でつまみ上げた。
「お前が持ってたのか」
「ごめん。大事なものだったよね?」
 スマートウォッチを持ったウィンが少しだけ寂しそうな顔をするから、自分のお気に入りがこんな姿になってたらそれは嫌だろう、とティームも眉を顰めて口をもごつかせた。
 初めて会った時からウィンはいつもその時計をはめていた。防水加工が施されて健康管理機能もついている端末で、部活の時も寝る時もしていた。それがはめられていないウィンの手首を見た事があるが、それがどこだったかを思い出して、ティームは慌てて頭の隅の方へ押し込めた。
「ベ、ベルトは焼け焦げちゃって、気づいたらそれだけになっちゃってたんだ」
「そうか。予備があるから大丈夫だ。ティーム、預かってくれてありがとうな」
 日焼けが少ない骨張った手首からも目を逸らしているうちに、ウィンは徐に立ち上がってサイドテーブルの引き出しを開けた。中から小箱を取り出すといつもしていた黒いベルトが入っている。デバイスをぱちんと嵌め込んでそのまま手首に巻き付けた。ウィンの左手首が覆われて、ティームは逸らしていたはずの視線がいつの間にか釘付けになっていたことに気づき、動揺を飲み込むついでにコップの中身を全部飲み干した。
 でも、やっぱり自分の手の中にあった時より今の方が安心する。
 ウィンはティームの正面にゆったり座り直して、自分の手首に戻ってきた日常をくるくると色んな角度から眺めていた。
「充電、切れてるからしなよ。あと画面も修理しなきゃ」
「あぁ、そうだな」
「また何か電話とか架かってきたら大変でしょ」
「普通にセルフォンの方で取るから平気だ。こっちは緊急のものしか入ってこないようになってたけど、今はオフにしてある」
「あ、そう、なんだ」
 画面のひび割れを指で辿りながら何てこと無く言ったウィンに、ティームは訊こうとしていた言葉を咄嗟に飲み込む。闇と遭遇した時にディーンから通話が入っていた。切羽詰まった声は確かに緊急だったのだろう。それと同時に、入院時に自分が送ったメッセージがひび割れた画面にポップアップされた事も思い出して、何も言えなくなってしまった。自分がウィンに送るメッセージなんて、『今起きた』『お腹すいた』『駐車場ついた』が主なのに、緊急性の温度差にティームは鼻の奥がむずむずした。
「じゃ、じゃあまた修理したら設定し直さないと」
「そうだな。元の通り、ちゃんと見逃さないようにしておかないとな」
 ティームが何も知らない体で続ける会話を知ってか知らずか、ウィンの声は柔らかく、デバイスを包み込む掌はそっと大切なもののように扱っていた。危ない、勘違いするな。あの端末にはディーンの着信も入っていただろ。
 そう、闇と遭遇した時にあの端末は機能していた。ディーンがあの時何を言っていたかは覚えていないが、なんでこの人の親友は緊急事態だと知ったのだろう。
 ティームは当時の状況を思い返し、はたと疑問を思い出した。勢いよく顔を上げてウィンを見る。入院している間、ずっと考えていた。ウィンに会ったら絶対に確かめないとと思っていたのにいざ再会となったらそれどころじゃなかった。
 ウィンは屋台の時と同じように小首を傾げてティームを見返している。またミーハーだなんだと呆れられるかな? 不謹慎だと怒られるかな?
「ウィン先輩、あの時の話をしてもいい?」
 入院中にウィンもカウンセリングを受けたと聞いていたが、大概の人間にとって闇との遭遇時の話は精神的苦痛を伴うだろう。ティームは慎重に口を開いた。ウィンがティームの様子を察して、ゆっくりと頷く。うん、大丈夫そうだ。
「先輩はあの時、おれの近くには居なかったよね?」
 気付かないふりをしても良かった。ウィンと連絡が取れない不安な夜に、そんな事はどうでもいい、ウィンがそばに居てくれるだけで他は何だって構わないと思ったこともある。でもやっぱりウィンと再会して、ウィンとの日常に触れてみて、ウィンの口からはっきりと聞きたくなった。
「おれがいくら呼んでも返事してくれなかっただろ。先輩が俺を呼ぶ声も聞こえなかった。でもアーティットが闇を消してくれた後、おれが気絶する寸前はそばに居てくれた。そうだよね?」
……あぁ。そうだな」
 責めている訳では無いとちゃんと伝わるように努めてゆっくりと口調を和らげる。見つめる先のウィンはそれでも顔が強ばっていくのが分かって、咄嗟にテーブルの上のウィンの手を握った。自分より少し高い体温をぎゅっと掌で包み込む。
 自分の憶測が確信に変わりそうでドキドキする。
 これがもし本当なら、とても大変なことだ。
「それって、もしかしてさ、アーティットって、アーティットは」
「ティーム……
 ウィンが静かに声をかけてくれても、ティームは自分の胸億に生まれた動悸の速さに口の回転が追いつかない。転げていきそうになる気持ちをなんとか抑え込んで、ティームは祈るようにウィンにそれを伝えた。
「アーティットはウィン先輩を連れてきてくれたんだよね。おれが頼んだから」
 あの時、ティームは願ってやまないヒーローとの再会にも関わらず自分の身勝手さを彼にぶつけてしまった。自分の中の大切なものの順位を痛いほどに思い知った。口には出さなかったが、自分は絶対に思うまいと決めていた「どうしてもっと早く現れてくれなかったのか」が全身を支配したのを覚えている。そのことをティームは恥じて、入院中に海の底より深く深く反省していた。それと同時に、あの太陽が、闇を消すとすぐに帰って行ってしまうはずの太陽が、ティームの悲痛な叫びに応えてくれたのだ。多分。ウィンがうんと言ってくれたなら。
「先輩?」
 ティームの問いかけに強ばっていた表情はするりと抜け落ち、逆に見たこともないくらい呆けていたウィンは、握った手を揺さぶられてハッと大きく息を吸ってティームに焦点を合わせた。ティームはアーモンド型の目がくるみのようにまん丸くなっているのを期待を込めて見つめ返す。やがて形のいい唇が薄く開いて、ウィンが慎重に、でもはっきりとした口調で言葉を紡いだ。
「間違っては、いないな」
「やっぱり!!」
 うわぁ、と跳ね上がった気分のままウィンの手をぶんぶんと振ってしまい、表情が戻ってきたウィンに眉を顰められて手を払われてしまった。宙に浮いた手を自分の胸元に引き寄せ、ティームはくふふふと笑う口元を押さえられなかった。
「おれ、アーティットと意思疎通出来たんだ。すごい、すごいよね先輩」
……………………お前……いや、もう……いい……
 目頭を押さえて細長いため息をついているウィンを尻目に、ティームは視界と記憶がおぼろげな黒色のヒーローに思いを馳せる。
 謝らなければいけないことも増えた。感謝することは更に増えた。意思と言語が通じると分かってまた会いたくなった。
「あのアーティットがおれの言ったことに応えてくれたなんて夢みたいだ。あ、ほっぺた触んなよ。夢じゃ無いことくらい分かってるからな。先輩がおれに嘘つかないって知ってんだからな。アーティット……強いだけじゃなくて優しいんだぁ」
 いつも座っている定位置からくるりと窓に身体の向きを変え、今日も容赦なく差し込むこの国の午後の強めの太陽光にワイをする。親指を鼻先まで上げ人差し指の指先は眉間につけながら「ありがとう」と小さく言ったティームに対して、ウィンが「こら、こっち向け!」と指先でテーブルを高速連打した。鼻から大きく息をついて、ティームのグラスに注いでいたペットボトルを掴み取り中身を全て飲み干した。
「あ、おれのお茶」
「そりゃあな! あれだけ顔面ぐちゃぐちゃの鼻水ヨダレたれまくりで迷子の子供みたいに『せんぱい、どこぉ』ってピーピー泣いてたらな! あいつだって放ったらかしにして帰ったら後味悪いだろうが」
「なっ、なんだよそれ! おれそんな声出してない!」
 ぷはっとまるでビールの小瓶をラッパ飲みしたかのような飲みっぷりと、わざとティームの言ったところだけ子供ぽい舌ったらずな言い方に変えてきて、ティームは顔をボンと赤らめた。顔面の状態も言ったことも事実だったかもしれないけどそんな言い方しなくても良いじゃないか。大好きなヒーローの前だったのにめちゃくちゃかカッコ悪かった事くらいウィンに言われなくたって重々分かっている。
 一緒にいるうちに似てきてしまったのかじっとりと見てくるウィンの目は瞼が半分におりていて二重の幅が広い。口も山なりに曲がっていて、その表情はティームを呆れたり茶化したりしてるというよりは拗ねているように見える。なんでそんな顔をしているか不可解なティームは無意識にミラーリングしながら小首を傾げた。
 暫く謎の拮抗の末、徐に立ち上がって冷蔵庫から新たに出した緑茶をティームのグラスに注ぎながらウィンがぼそりと呟いた。
「卒業したら速攻で研究所に入ってやる。あいつの活躍なんて一つもないくらい闇の出現を未然に防いでやるからな」
「う、うん?」
 声色にいまだ剣呑さをちらつかせながらも言ってることはパッタイを食べながら聞いたウィンの本心と一緒だった。ティームのみならずこの国の人間は皆願ってもない事だ。
 だが何故だろう、高尚な志の表明というよりヒーローへの対抗心が燃えているように感じるのは。
「待ってろよ、ティーム」
 ウィンの墨色の目は窓から差し込むこの国の強い太陽の光をたっぷり含んで煌めいている。突きつけられた人差し指をむぎゅっと掴んで、ティームはヒーローの活躍を阻止したがるヒーローらしからぬ未来の自分のヒーローとの約束に「勿論」と快諾した。