むかいえ
2025-12-17 13:24:00
5094文字
Public シャアム
 

勘違いの先の先で

Z軸のシャアム。口の中を深めに切ったアムロと、変な勘違いする周囲と、突然吹っ切れるクワトロの話。血が出てくる。

 その日、アムロは口の中を盛大に噛んだ。多分、ちょっと、抉れるくらいに。
 
 不慮の事故である。思い返しても情けないことに、何もないところで躓いたのだ。アウドムラの通路でのことだった。咄嗟に伸ばした手は近くにあった手摺を空振り、代わりに壁を支えにしたものの、すでにバランスを崩していた体を戻すだけの力はなく。空振った手摺に、ちょうど頬のあたりをがつんと強かに打ちつけた。
――ッ」
 その際、ガリッとしっかり頬の内側を噛んでしまったのである。
 痛みを感じるや否や、口の中にはみるみるうちに血の味が広がり、しかもどんどん血が溜まっていくので、「あ、これは結構深く傷付いたな」と自覚した。血の味はひたすら不快だが、流石に廊下に吐き出すわけにはいかないし、飲み込むのも嫌だ。アムロは痛みで生理的に滲んだ涙を拭って、とりあえず口を濯ぐために自分の部屋に戻ろうとした。
 しかし、部屋で血を洗い流して医務室で軟膏なりを貰って終わるような、些細で少しばかり恥ずかしいそんな事故は、とある男との遭遇で騒ぎに発展する。
 ――そう、アムロと因縁のあるクワトロ大尉もとい、シャアである。
 口の中の血が垂れないように手で口元を押さえ、足早に進んだ廊下の先。ばったり出会した金髪グラサン赤い衣服の男は「おや、アムロくん」と、どこか芝居掛かった口調で言った。
 地球で再会してからというもの、二人の間にはぎくしゃくした空気が横たわっている。穏やかに会話が続くこともなく、いつも気まずくなるためにアムロも積極的に話しかけることもなかったのだが、クワトロの方は何かと意味深な視線を向けてくる始末。距離感を測りかねている相手と、まさかここで会うとは思わなかったので驚く。咄嗟になにかしらの言葉を返しそうになって――慌てて口を引き結んだが、時すでに遅く。口の中に溜まっていた血がだらりと口角を伝った。
「ごふっ」
 しかも中途半端に口を開いたことで、喉の方にも流れて咽せた。じわじわと一口分くらいに血が溜まっていたのだ。
「!? アムロ!?」
 ちょっと垂れる程度なら誤魔化せただろうに、咽せたことで口を押さえていた手の隙間からも血が吹き出てしまった。
 鮮血が流れる。絵面は完全に喀血したアムロ・レイだった。シャアは血の色を見た途端、血相を変える。
「どうした!? 怪我は聞いていない。歩けているな? 鮮血なら肺からの出血か!? まさか何か病でも!」
「ん、ぐっ」
「とにかく医務室に行こう、抱えるぞ!」
 さすがジオンの赤い彗星、モビルスーツのみならず判断も早い。しかし、何故横抱きなのか。
 アムロは同じ男に横抱きされる屈辱を感じたものの、とりあえずこれ以上口から血が漏れないようにすることだけを考えるようにした。
 さて、騒ぎの発端はクワトロだったが、第二、第三の刺客が現れる。
 まずは、アムロとちょっといい雰囲気になってるベルトーチカ・イルマだった。アムロを抱えて駆け抜けるクワトロに目を剥いた後、その腕の中の彼の口元が血で汚れているのを見て「きゃああ! アムロ!?」と叫んだ。女性の高い声はよく通る。しかも悲鳴となれば、当然人は集まった。
 続いて第三の刺客が艦長たるハヤト・コバヤシ。ベルトーチカの悲鳴に集まった群衆の一人でもある。
「何を騒いで……クワトロ大尉アムロ!? ど、どうしたんだ、な、えっ、血!? 血を吐いたのか!?」
「艦長、我々はこのまま医務室に行く、皆を退かしてくれ!」
「アムロ、アムロ! 死なないで!!」
「あ、ああ! 皆、とりあえず持ち場に戻れ! ベルトーチカさんも落ち着いて! ……アムロ、どうしたんだまさか、昔の実験の後遺症とかなのか!?」
「実験だと!?」
 もちろんベルトーチカにもハヤトにも、悪気は全くない。
 突然口元を血で汚した男が現れたら悲鳴のひとつも上がるだろう。それが好意を抱いている者ならパニックにもなる。ハヤトはアウドムラの艦長にあたるので、早急な搬送のために集まった人々を散らす役目は最もだった。
 問題は、それこそ彼が『艦長』であることだ。アウドムラを仕切る彼の声はクルーの誰もが自然と拾う声であり、そんな彼が『実験』だの『後遺症』だのと、集まった人々のいるその場で言ってしまったことが、今回の騒動に火をつけてしまったのである。
 アムロは一年戦争の英雄だのと持て囃され、名前や栄光ばかりが独り歩きした有名人だ。アウドムラ内でも注目度は高い。噂はあっという間に広まった。
 ――アムロ・レイは連邦軍の実験で酷い目にあって、血を吐くような後遺症が残っている!
 諸々の処置が終わった後、どうしてそうなったのか、とアムロは天を仰ぐことになる。
 
 所変わって医務室。
 バタバタとアムロを抱えたクワトロが入室し、続いてハヤトとベルトーチカが入り込む。騒動に気付いたカツやカミーユも追いかけてきていたが、実験の後遺症によるものだけでなく、何かしらの病であったとしても繊細な内容になるため、二人は入り口で押し留められていた。
 アムロはとにかく口の中に溜まっていく血を吐き出したかった。医務室の洗面台が視界に入ったためそちらを指差せば、意を汲んだクワトロが彼を抱えたまま移動する。
「ん、げほっ! けほっ
「ヒッ!」
 入り口付近から短い悲鳴が上がる。カツだった。まだ扉が閉じられていなかったから見えてしまったのだろう。アムロを支えるクワトロも息を飲んでいた。
 だろうな、とアムロは諦めたように吐き出した血を流す。いつの間にか出血は口いっぱいになっていて、それだけの血を吐いたとなると、否応なく生命の危機を感じさせる。張本人であるアムロですら、「うわあ」と思うのだから、周りから見れば相当だろう。吐き出す際にえずいて咳き込んだのも拍車をかけたらしい。ちらりと横目に見たハヤトやベルトーチカの顔色は真っ青だ。こちらの方が病人のようだった。
 どう説明するかとアムロは未だ血の滲み続ける口腔内に顔を顰めつつ考える。
……ハヤト艦長、実験というのは?」
 ――と、アムロが何か言うよりも早く、クワトロが口を開いた。妙に低い声だった。
「はいや、私も詳しくはただ、ニュータイプの研究に協力しているというのは、昔、アムロから少し聞いていたので……
「実験って! もしかしてアムロさんが、ここは牢獄だって言ってたのって……
牢獄……
「連邦の腐敗なんて今更よ! ティターンズを見ればはっきりしてるじゃない! アムロに酷いことをしてたってことでしょう!?」
「人体実験ってことですか?」
「そのせいで、こんな……ずっと隠してきたのか、アムロ
 事実無根である。
 いや実際のところ実験やら研究やらには協力していたが。
 結局カツやカミーユも医務室に押し入って話に加わっていた。人数が増えたためか、変な方向へと話が転がっている。皆の豊かな想像力と勘違いのせいでアムロが悲劇の人みたいになってきている。連邦の腐敗はあながち間違いではないのでなんとも言えないけれど。
 どうしてそうなるんだ。そもそも口の中を深めに噛んだだけなんだぞ。アムロは訂正のために口出ししようとして――途端に切れた口内がビリッと痛んで咄嗟に口を閉じた。頬の動きでまた血が滲んで不快感が増す。
「喀血は重篤な病の症状に多い
 力無いクワトロの声が、一瞬の沈黙の合間に落ちる。騒いでいた四人が口を噤む。しんと静かな医務室でクワトロがアムロに向き直った。
「アムロ……死ぬのか」
「いや死ぬわけないだろ」
 そんなことより医務室担当者を呼んでほしい
 頓珍漢なクワトロの言葉にほとんど反射で返して、そう続けようとしたアムロだったが、目の前の男にぐっと両上腕を掴まれたことで声は途切れた。
 一体いつの間に外したのか、サングラスに遮られない青い瞳が真摯な光を讃えてアムロを見ている。
「アムロ。君は、損なわれてはならない人だ。エゥーゴにとっても、地球にとっても……私にとっても。病がどの程度なのかはわからない。それでも死ぬつもりはないと言い切るのならどうか、私と宇宙へ来てくれ」
 周りにはハヤトたちもいるのに、クワトロは取り繕うこともない。じわりと滲むような思惟を感じる。アムロを求める、真っ直ぐな思惟だった。
「アムロ私には君が必要だ。私を導いてくれ――私の隣に、いてくれ!」
 なんとも熱烈な告白だ。あのエレベーターでの、端的な選択肢の提示よりも、余程。
 彼の空気に呑まれるように、皆が息を潜めている。アムロだけがこの場で返答する許可が与えられているかの如きプレッシャーだった。最初の勧誘では突っぱねた、宇宙への返事。逃げを許さない青い眼差しがアムロを捉えている。
あのさ、」
 しかしアムロは宇宙云々よりもまず、この場の誤解を解きたかった。
「後遺症なんてないし、重い病気なんてないよ。この血はさ
 うろうろと視線を逸らして、込み上げる恥ずかしさを隠しながら、小さな声で続けた。
……その転けて、打ち付けて、……あの、ちょっと深めに口の中切っただけなんだよ……
……
「え」
?」
……つまり、ただの早とちり?」
 ウン、とアムロが頷く。一拍置いて誰ともなく、ハァ、と深く息を吐き出した。ベルトーチカに至っては命に別状がないことに安心したのか、その場にへたり込んでいる。
 ハヤトはぐりぐりと自身の眉間を押さえてから、キッとアムロを睨んだ。
「紛らわしいッ!! もっと早く言え!!」
「口の中に血が溜まってんだから言えるか!!」
 怒鳴られたので反射で怒鳴り返すと、傷口からまた血が滲んで痛んだ。
 
 騒動は徐々に収束した。
 最初はアムロの容態を聞いてきた者たちにハヤトから説明していたのだが、面倒になったのか、最終的には艦内放送でさっさと火消しされたのである。
「えーアムロ大尉のあれこれは皆も気になることもあると思うが。結論、ただ口の中を切っていただけの間抜けな話だった。ほか特に異常なし! 気にするだけ無駄なので、皆、速やかに各自業務に努めるように!」
 アウドムラ全体に間抜けさを放送されたアムロは、羞恥のあまりしばらく自室に籠っていた。
 切れた口内には分厚いガーゼを噛まされている。止血まで適宜交換するように医務官から言い渡されているのだ。ほんのり膨らんだ頬が、それこそ彼の間抜けさを裏付けるようでもあった。
 
 そんな経緯もあったのであまり部屋から出たくはなかったのだが、アムロはクワトロに、どうしても伝えなければならないことがある。
 しぶしぶと部屋から出て歩き出した足は、自然とモビルスーツ・デッキへ続く道のりを進んで行く。なんとなく、彼もそこにいるだろうという予感があった。
 やがて導かれるように、特徴的な赤い軍服の背が見えた。
 揺れる金髪の後ろ頭に、アムロは敢えて、「シャア」と呼びかけた。
 公然の秘密とは言え、振り返らなければいいものを、他ならぬアムロが呼びかけたから男は振り返る。
「考えては、みるよ。宇宙へ行くこと」
 前置きなしにそう告げた。サングラスに遮られて瞳は見えない。目元が見えないと表情がわかりにくいな、とアムロはなんとなく思った。それでも、小さく開いた薄い唇が、彼の驚きを表していることは察する。
 クワトロが――シャアが、呆然とアムロの名を呼んだ。しかしアムロは応えることなく、伝えることは伝えたので、さっさと踵を返して歩き出す。
「アムロ!」
 追い縋る声を振り払い、歩く速度を上げる。彼は振り返らない。今はまともに、シャアの顔を見れそうにないので。
 あんなに真剣に求められてしまえば、揺れてしまう。まるで愛の告白みたいに熱を孕んだ瞳を思い出して、頭の中から追い出すように首を振った。
 
 アムロはふと、通路の窓から外を見た。高い青空の向こうには、星々が煌めく宇宙があることを彼は知っている。無重力の不安定さも、暗い宙の果てしなさも、恐ろしさも。今は、まだ、踏ん切りがつかないけれど――シャアの言葉が少しだけ、迷うアムロの背を押したのは確かだった。
 いつか己の心が定まったら、あの空の向こうを駆けることが出来るだろうか。
 その時、彼が隣にいたらいいと思う。あの鮮烈な赤を、アムロはきっと、見失うことはないのだから。