タロ文庫の作品置き場
2025-12-17 11:24:24
3402文字
Public 作品
 

スペードの10

2022-11-17
WTWT ep2
合宿から帰ったウィンの些細な変化は結構あからさまだという話。ティームへのお見舞いに選んだご飯の話。
BU版でのテーブルの上がよく見えなかったので、原作の「ティームの好きな辛いカレーと野菜」の一文でメニューを捏造しました。
ウィンはお金持ちの子なので辛いタイ料理は苦手かなと、こちらも捏造です。

タイトルは切り札(スペードのエース)ほど強くはないが決して弱くもない、手元にあれば心強いカード…という意味です。

 コンドミニアムの駐車場でバイクを置くと、隣の建物との間にある裏路地へ足を運んだ。
 人が一人通れるくらいの細い小道をしばらく進めば徐々にスパイスと唐辛子の匂いが漂ってきて、ウィンは知らぬ間に口端を綻ばせる。小道の終わり、視界がひらけると共に目の前には幾つもの寸胴鍋から美味しい湯気を立ち上らせている屋台が現れた。ウィンが今の部屋に来た時から通っているタイカレーの専門屋台である。同じコンドミニアムに住む大学生にはあまり知られていない穴場だった。
 ピークを抜けた時間帯の店の前には客が一人も居なかったが、ウィンは足早に端っこの鍋をかき回している馴染みのおばさんの前に立った。
「あら、N’ウィン。こんな時間に珍しいじゃない」
「こんにちは、おばさん。今日のオススメのレッドカレーはどれですか?」
 軽くワイをして目の前の鍋を眺める。
 レッド、グリーン、イエローのカレーに様々な具材が煮込まれていて種類にして二十種類ほど。更にサラダやおかずが平皿に盛られて奥の方でひしめき合っている。色々な組み合わせが出来てどのパターンにもハズレがないと、連れてきたことのあるトゥンは一時期毎日のように通っていた。パターン表を作り、レビューまでしていた同級生を常に同じメニューを頼み続けるウィンは呆れて眺めていたものだ。
 だからウィンが言った言葉に、ウィンがいつも頼むイエローカレーの鍋のほうに向かおうとしたおばさんが驚いて、また「あら」と言ったのも無理はない。ウィンは自分の母親より上の女性のクリッとした目に見つめられ胸が少しくすぐったくなったが、これから言うことでもっと驚くのだろうなと思いながら早口でそれを告げた。
「それを二人分。あと豚肉と野菜の唐辛子ペースト炒め」
「あらあらあら。珍しいことが三つも起きたわ」
 丸くなっていた目が柔らかく細まって楽しそうに笑う声にウィンは表情には出さず近くの鍋に墨色の目を流す。
 視界の隅でおばさんがどれにしようかな、と顎に手を持っていき鍋の前を行ったり来たりするのに合わせて、ポケットの中に入れた指がマネークリップの縁を行ったり来たりとなぞった。
 経済学部に近い食堂に行った時にティームを見かけたことがある。子供みたいに顔中をくしゃくしゃにしながら笑う顔は片手にライスを、もう片手に野菜と鶏がゴロゴロと入ったレッドカレーのボウルを持っていた。座った場所はウィンから背を向けていたので食べている時の表情は見えなかったが、丸めた背中や後頭部が一口食べるたびに揺れていて、対面に座っている友達は呆れた後に笑っていた。
 一体どんな顔をして食べていたんだか。
「黄色いの、世話を焼きたい相手が出来たか?」
 その時、店の奥の暗がりから嗄れた低い声が新聞を捲る音と共に聞こえた。強い昼間の日差しの中でウィンは目をすがめてそちらに目線を動かす。
「何でそう思うんです?」
「それだけあからさまにやられちゃあな」
 食材が入ってるであろう段ボールの山の中で丸椅子に座った店主が新聞から顔を上げずにくくっと喉の奥で笑った。皺だらけだががっしりとした指がまた紙を捲る。ウィンは微かに眉を上げて、自分の〝あからさま〟を振り返った。
 平日のこの時間は午前の講義の真っ只中、ウィンが普段頼まない辛いものをチョイスして、それを二人分テイクアウト。この三年で一度もしたことがない。
「ただの後輩の見舞いですよ」
 口ではそう言ったものの、そのまま引き締められなかった。ほろほろと緩まる口元に、おばさんも店主の笑い声に自分のそれを重ねた。夫婦の和音は心地よくウィンの胸の裏側をくすぐった。
 おばさんは一番大きな鍋に入っていたレッドカレーを袋に入れて輪ゴムで口をきつく縛ると豚野菜炒めとライスと共にビニール袋にまとめて入れてくれた。選ばれたカレーはウィンとの会話で今日のオススメから店の定番メニューへと変わったようだ。一番人気で大きな鍋なのに必ず売り切れる。
 それを店の奥から横目でチラリと確認した店主がおばさんの名前を呼びかけた。
「トートマンクンを二つ入れてやってくれ。俺からのサービスだ」
「はーい。N’ウィン、大きいものを選んでおくわね」
 既にマネークリップを取り出して紙幣を差し出す用意をしていたウィンは、アーモンド型の目を見開いて大きな海老のすり身揚げが追加で袋に入れられていくのを眺めた。店主が若い常連客にサービスしたことなどこの三年で一度もない。
 ワイをしてから差し出された袋を受け取る。いつもすぐに離れるおばさんの手が袋を離さず、ウィンをじっと見つめるとニコリと笑った。
「好きになってくれると良いわね」
「っ、え?」
 ウィンの指が揺れてビニール袋ががさりと鳴った。おばさんはスッと手をひき、笑顔に茶目っ気を乗せて目を輝かせている。
「カレーの話よ」
 そう言うとウィンの思わず出てしまった大きな声にまた夫婦二人で笑い合う。
 揶揄われたというより微笑ましがられた。
 ウィンは眉間に皺を寄せてクリップから紙幣を引き抜くとおばさんの手にグイッと押し付けた。
 これ以上ここにいると夫婦のペースにハマッてしまいそうだ。ウィンは退散とばかりにくるりと背を向けようとした。
「黄色いの」
 半身回ったところで低く嗄れた声に呼び止められる。部屋の奥の店主が身体ごとこちらを向いてウィンを見ていた。
「お前が、その子との飯に俺のカレーを選んだのは正解だ。そのカレーはもともと食いしん坊が飯を奢ってくれるヤツにホイホイついていくのを食い止めるために俺が必死に作ったものだからな」
「誰が食いしん坊でホイホイよ」
「しっかり胃袋掴んでこい」
 この店の繁盛の為にもな、と片頬を上げて顎をしゃくる顔と、手前の腰に手を当ててわざと怒っているような顔を交互に見て、ウィンは「そういうのじゃない」と一言だけ返してから今度こそ手を振って踵を返した。
 自分がどういう顔をしていたというんだ。普通にカレーをオーダーしただけなのに、三年で一度もない対応をされた。他に客もいなかったから老人の暇潰しにでもされたか。
 受けた理不尽さに蹴り出すように歩いていた白いスニーカーの靴先はコンドミニアムの入口が見えてきた頃には違う意味で歩幅が大きくなった。
 ティームの顔が見たい。
 合宿帰りのバスの中、口を開けて爆睡しているか友人たちと普通に話をしていた。普通の後輩の顔をして皆に混じって解散していった。後輩の顔をしていたのに、副部長として皆の前で伝達事項を伝えた時に、つるりとした黒目は先輩を見る目をしていなかった。ウィンの何かを確かめてくるようなその色を、むしろウィンが確かめたかった。
 一夜にして変わった自分達の間にあるものをティームがどう捉えているか。これはそれを掴む為の手札だ。
 エントランスに入ったタイミングでエレベーターが開く。学生は学校へ、社会人は職場へと行っているこの時間は流石に他に乗り合う人はいない。足を止めることなくエレベーターに乗り、素早くボタンを押す。フロアを歩くルートは階層表示を見なければ自分の部屋へと帰るようで、同じ場所にある扉を絶妙な違和感でもってノックした。
「ちょっと待って」
 居るのが分かっている連続ノックに部屋の中から少し苛ついた声がする。指にかけたビニール袋がかさりと鳴って、中のカレーが微かにたゆたった。
 これは店主がカレーに込めた想いとは違う。掴まえていたくて、与えるものではない。ただティームが飢えているならば、満たしてやりたいとは思う。満たされた時のティームを知ってしまった以上は。
 一夜にして変わった自分達の間にあるものを自分がどう捉えているか。これはそれを掴む為の手札だ。
 ウィンとの言い合いで顰められていた顔が、スプーンを口に入れる度に緩まっていった。食事に集中し始めれば止まることのない手と口の動きの合間に、小さく「凄く美味しい」と呟いたことを逃さなかった。ウィンが持ってきたもので幸福度が上がる様子を見せたくないのか、こちらをチラチラと伺いながらもどんどん口に運ぶペースが上がる。
 胸にぽこりと湧いた温かさと一口食べるごとに揺れる丸い頭に手を添わせたいと思った衝動を、ウィンはカレーと共に奥歯でゆっくりと噛み締めた。